天国と死後世界
サンダー・シングとカイラスの大聖との対話
アルフレッド・ザヒル著 林陽訳
序文
私は、この小著において、北インドの高名なキリスト教の僧、サドゥー・サンダー・シングが、万年雪に閉ざされた大ヒマラヤの霊峰、カイラスにおいて二度出会った、老聖人の話を明らかにしようと思う。
本書の各ページに収録されたものは、私、アルフレッド・ザヒル自らが、サンダー・シング自身の口から聞き、筆記した資料を英訳したものである。
天国とその住民に関する聖人の談は、多くの人々にとっては、大いに霊感をそそられる啓示になると思うが、他方、この話に今まで経験したことのないほどの戸惑いを覚え、聖人の主張に絶対の信頼を置くことに、困難を覚える人々も出てくるであろう。
だが、これは、まったく私的見解と信仰の問題であり、誰もが自分の選ぶ通りに考える自由をもっている。そこで、私たちは本書に記録された話をどう判断するかは、もっぱら読者に委ね、話の真偽を問うことは控えたいと思う。とはいえ、聖人の話は多くの人々にとって、真実霊的な助けの元になり、彼らの信仰を強めてきた。今後もそうあり続けるであろう。
年齢三一八歳という聖人の存在を証明することはまた、別な問題である。この問題は、彼の住む場所に巡礼する者によってのみ解決できる。
多くの人々が、この聖人についてのサンダーの証言を批判する用意ができているにもかかわらず、ヒマラヤの険しい崖と岩場を超えて、七〇〇キロの道のりを旅し、聖人の存在を決定的に証明あるいは反証する用意のできている人がほとんどいないのは遺憾である。
聖人の存在を擁護するために一言だけ言えば、サンダーは主に捧げられた僕、人生を神への奉仕のために投げ捨てた真の神の人であり、猜疑心を懐かれるような人物ではまったくないということである。
読者は、ここに収録された話に性急な判断を下さぬよう、注意していただきたいのである。このなかには、霊魂にとっての真実の糧と、神学書の山によっても、注釈書全巻をもってしても、解決も説明もできない、深刻なる問題の数々を解く鍵があるからである。
この小著が成功し、そこに記録された驚異的なことがらを読むことによって信仰をかきたてられ、助けられるキリスト者がいたとすれば、それは人生を取り巻く神秘を明らかにしてくれた聖人のお蔭である。
これらのページを読むことを通して読者の心が感動に触れ、神の光にいっそう近づけられれば、著者のこの仕事も祝福されたことになる。
アルフレッド・ザヒル
目次

ああ、あなたに私の生命が捧げられ、
あなたのために私の歳月が費やされますように!
世の足かせはみな断ち切られます。
苦しみは歓びに変わります。
あなたは私のために身を捧げてくださいました。
私はあなたのために我が身を捧げます。
サンダー・シングは、国内のほとんどすべてを巡ってきたが、常に思いが寄せられていたのは、ほとんど文盲の人々ばかりが住み、権力者がキリスト教の影響とプロパガンダを敵視している北インドの丘陵地帯であった。『十字架を愛する者』をお読みになれば、これらの地域を旅する人々を待ち構える、災いと危険のほどが十分お分かりいただけると思う。(訳注:『十字架を愛する者』はザヒル氏が書いたサンダー・シングの伝記です)。
一九一二年の夏、サンダー・シングは、テーリ・ガルワルとガンゴトリを含む幾つかの丘陵地帯を伝道しながら、カイラスへ向かっていた。カイラスは、インド人にとって非常に聖なる場所であり、さまざまなインドのリシ(訳注:インドで聖仙と呼ばれる人々)や見神者の故郷とされている山である。サンダー・シングは、この旅の途中で、不意に、石造りの十字架を固定するある岩にぶつかった。インドの神々の里として有名なこのような場所に十字架があるのを見て、彼は非常に驚かされるとともに、さらなるキリスト教の痕跡を発見するべく、近隣の探索を開始した。だが、周辺地域を苦労して何キロも探索するうちに、元の道を見失った。
数日間当てもなく放浪してから、サンダーは探索を止めて平原に引き返さざるをえなくなった。こうして、カイラスから引き返す途中、斜面を降っていたある日、太陽の強い陽射しが目を打ち、幻惑されるあまり、自分がどこを歩いているのかも分からなくなった。そのようにして放浪しているあいだに、不意に氷に足を取られてバランスを失い、斜面を滑り落ち、数メートル下に落下した。転落のショックで気を失い、数分間茫然として身動きできずにいたが、われに返って目を見開くと、大きな洞窟の前に自分が落ちたことを知った。その洞窟の入口に、見るも恐ろしい姿の、全身毛に覆われた老人が座っていた。サンダーはこの光景に驚くあまり、覚めたばかりの気絶状態に逆戻りしそうになった。
だが、前にいる人をさらに仔細に観察してみて、全身が長い毛髪に覆われているため野の獣のように見えたものの、間違いなく、自分が人間を見ていることを知った。以下は、この老人についてサンダーが語ったものである。
「彼の毛髪と髭は地表にふれるほど長く、眉毛は顔を遮っていた。掘る目的に使っていると思われるその爪は、数インチ(訳注:一インチは二・五センチ)もの長さに伸びていた。彼は衣類をまとってはいなかったが、長い毛髪が、体のほとんどの部分を覆っていた」
この周辺では、インド人リシの存在が伝えられていたため、サンダーは彼もインドの行者に違いないと考えた。その間、サンダーは口を開くことができなかったが、ついに意を決っして、土地の言葉で男に話しかけた。初め、彼はサンダーの言葉を気にもとめず、相変わらず瞑目したまま無言で座っていた。だが、サンダーが言葉をかけて一、二分ほどすると、目を見開いた。サンダーはこう語る。
「目には非常な輝きがあり、私の心の奥底を見通し、思いを見透かしているかのような鋭さがあった」
老人は目を見開くと、こう述べた。
「話し始める前に、祈りの言葉を捧げましょう」
このように言うと、彼は大きな巻物の聖書を開き、マタイ福音書の第五章から聖句を読み上げた。読み上げると、祈るために跪き、主イエズスの御名で終わる、非常に熱心かつ厳粛な祈りを捧げた。
このような荒涼たる地域に熱心なキリスト者と祈りの人を見出せるとは予想もしていなかったため、サンダーにとって、これは非常な驚きとなった。初めは、欺かれているのだろうかとも考えたが、その後に続いた話を通して、これはすべて神のお計らいによるものであり、神は霊的なことがらについての知識を増し、より強い信仰をもったしもべとなるために、自分をここに導かれたのであると確信した。
ここで、サンダーは老人に過去の履歴と、このような場所に導かれるに至った経緯を話してくれるよう求めた。以下は、老人自らがサンダーに語った、簡単な生い立ちである。
老聖人自らが綴るその生い立ち
「私は彼らに永遠の命を与える。彼らはけっして滅びることなく、私の手から彼らを奪い去る者は誰一人いない」(ヨハネ十28)
今よりおよそ三一八年前、エジプト、アレクサンドリアのイスラム教徒の家に、私は生まれた。終夜祈祷と日々の黙想を通して神の奥義に通じ、霊的な事象についてより完全なる知識を得ようと、三〇歳にして世を捨て、隠者になった。だが、自分の目的を達し、落ち着かぬ魂に安らぎを与えるべく苦闘したにもかかわらず、この目標に向けて自分を助けてくれるものは何一つないように思えた。そればかりか、月日が経つにつれ、魂はますます落ち着かなくなり、私は内的な闘争の力を静め、歓びのない心に平和と安らぎを与えてくれるものを求め始めた。
このようにして、霊的な苦しみの最中にあったある日、キリスト教の聖者がインドから来たことを知らされた。彼は罪人を救い、疲れた者を休ませる力をもつという救い主について説教をしていた。これを聞いたときに、私も彼に会い、私を苦しみから救う力が彼にあるかどうかを知りたくなった。
その聖者との出会いを考えていたある日、驚いたことに、その人自ら、私を訪問してくださった。その人は、私が悲しみにひしがれているのを見て、沈んだ心を元気にし、安らぎとなる言葉をかけてくださった。話を交わす中で、イエズス・キリストについて多くのことを語ってくれた。主が地上で過ごされた、聖なる模範的な人生、罪人を救うその力、倒れた、身寄りなき者に向けられたその愛と気遣い。この神の人の愛と情け、そして、イエズスについて彼が話してくれた幾つかのことがらが、私の心に不思議な感化を及ぼした。そして、私は自分の試練の時期が今や終わり、長いこと求めながらも得られずにいた、あの心の平和と霊魂の幸せを得るべきときが来たと、内に確信するようになった。
このキリスト教の聖者は、最初の訪問以来、何度も私を訪ねて来られ、イエズス・キリストとその救いの力についてさらに多くの話をしてくださった。救い主について聞けば聞くほど、学べば学ぶほどに、ますます、私の心は主に奪われた。ついに、イエズスが、主お一人が私の乱れた魂を静まらせ、内なる平和と歓びを与えてくださることに、一抹の疑いも挟まなくなったときに、私は師から洗礼を受けてキリスト者になった。直ちに新しい歓びが魂に入り、外に出て魂の救い主について人々に話したいという衝動に駆り立てられた。それで、もっと多くを学び、強い信仰を持てるために、国内伝道旅行に随行することを許してくれるよう、師に願い出た。幸いにもこの願いは認められ、私は聖者と共に旅をすることになった。
東洋で働いたイエズス会伝道師の中でもっとも優れた存在と思われる、かの有名なフランシスコ・ザビエルの甥、イェルナスが、わが敬愛する教師の名である。このイェルナスは、ほぼ全世界を行き巡り、インドでも数年間を過ごし、中でも皇帝アクバル、その他の著名人と宗教指導者たちに洗礼を授けた。
(訳注:イエルナスはラテン語のヒエロニムス、英語のジェロームに対応するアラビア語。
この人は、ザビエルの甥でインド伝道に大きな役割を果たした、ジェローム・ザビエルかもしれません。ムガール王朝時代のインド絵画に、アクバル王と共にしばしば描かれています)
この新約聖書の巻物もまた、わが師イエルナスから賜ったものであり、私にとってはかけがえのない宝物である。それは、コンスタンティヌス皇帝の時代に写経された新約聖書の数少ない写本の一つなのだ。フランシスコ・ザビエルが数年間それを所持していた。彼が死んでから、わが師である甥の手に渡った。
共に数年を過ごしてから、師は私を一人にされ、導かれるどこにでも赴いて神のみ言葉を伝えるようお命じになった。彼の命令に従い、私はまる七五年間、すなわち一〇五歳になるまで、ほとんど世界全域を行き巡り、町から町へ、国から国へ神のみ言葉を伝えて歩いた。かくまで多くの国々を巡った結果、私は二一ヶ国語に通じるようになった。
一〇五歳になり、体力と精神力に衰えが見え出し、活発な仕事に持ちこたえられなくなったと感じてから、私は、完全な隠居の中で余生を過ごし、たえざる祈りと黙想と、活発な伝道に励んでいる主のしもべたちの執り成しの中で生涯を終えることを決意した。
このような意図を持って、私はかつて旅をしたことのあるインドのこの場所に来たのである。私が選んだ地点は、人の集落からはほど遠く、どんな人間からもこの静寂な生活をかき乱される危険はない。まわりに広がっているのは、たくさんの果実と薬草だらけの自然の庭園である。それを食べて私は生きている。その中には、特定の病に有効なものもあれば、毒を含むものもあり、生命の液そのものを含むものもある。これらを食用にすることによって、私は自分の中に今もある力を得ているのだ。
夜昼なく雪の降る冬場には、野生の熊たちもこの洞窟に入ってくるので、われわれは共に寝て、互いを暖め合う。この洞窟でしばらく過ごしてから、私は、この仮の宿を離れて天の故郷に帰るときが来たと考えた。だが、これほどの歳月が経過したにもかかわらず、私は一向に、肉体にも精神にも衰えを感じないのだ。ある日、私は座って瞑想しつつ神に祈り、それが御心であるならば、私を天の故郷に戻していただきたいと神にお願いしたが、突然、洞窟の中に不思議な振動音が聞こえてきた。何百匹もの鳥が中で飛び立っているようにも感じられた。だが、上を見ても、下を見ても、何も目に入らなかった。
音がし始めてからしばらく経ったが、やはり何も見ることができない。そこで、私は姿勢を正してこう祈った。
「ああ、神様、もしこのことに何かの秘密が隠されているのであれば、どうかしもべにそれを明らかにし、御心を知らしめてください」
祈り終わらぬうちに、何者かに瞼を触られているかのような感触を覚えた。それが起こるが早いか、霊眼が開かれ、何百人もの御使いが洞窟を埋め尽しているほか、それ以上の天軍が神を褒め称える賛美歌を歌いつつ、天から舞い降りてくる光景を見た。この天軍以外に、彼らの王であられる、イエズス・キリストさえ天から降り、私のほうに降りてこられる光景を見た。それを見て、私は地に顔を埋めて主を仰いだ。
だが、まもなく、主は手をとって私を起こされ、このようなお言葉をかけられたのである。
「わが忠実なるしもべよ。決して死なず、近づくわが再臨のときまで体の中で生きているよう、私はあなたに永遠の生命を授ける。これ以後、あなたは、私の教会のために執り成しの祈りを捧げるために、時を過ごすのである」
主がこのお言葉を話されてから、私は新しい心、罪と穢れから清められた心を与えられ、自分が新しく生まれ変わったように感じた。それから、主と聖なる御使いの大いなる軍勢が天に向かって離れるのを見た。
彼らがみな離れると、何人かの聖人が私に近づき、与えられた新生と大いなる特権を喜ぶよう促された。彼らは、地上で人生を終え、今や永遠の安息に入り、栄光の冠を得た人々であった。そのとき以来、この聖人たちの誰かが常に共におられ、私が神から託された仕事を全うできるよう助けてくださっている。今や、私の唯一の仕事は、全世界に広がるさまざまな派のキリスト教会のために、執り成しの祈りをすることにある。私は、神への賛美と詠唱を歌い、聖句を読み、それに黙想しながら、祈りと執り成しの時間をもつことで一日を開始する。
神が私にお委ねになった特権は他にもある。それは、霊において全世界の各所を訪れるということである。彼らの特別な必要と弱さを知ることなくして、どうしてさまざまな教会のために執り成しの祈りができようか。こうして、体を洞窟の中に置いたまま、霊においてさまざまな人と場所を訪れることに、一日の何時間かを費やしている。
ああ、神の道よ、
悲しみと戦いを通して、
私たちを父のみ顔に近づけてください。
ああ、天上の真理よ、
ああ、いとも尊き生よ、
いつの日か、
いつの日か、
私たちはあなたの中に安らぎます。

地上の聖人たちよ、
栄光へ去った聖人達と
一つになって歌いたまえ。
われらが王のしもべはみな、
天地にあって一つなり。
体を離れ霊において自由に動くという大いなる特権のほかに、聖人との絶えざる交わりもまた、私にとって大きな助けと力の源になっている。使徒信条の中に「諸聖人の交わりを信じる」と謳われているが、私は信じているだけではない、毎日、毎時間、霊の眼を通してこの驚くべき交わりを目の当たりにしているのである。
あなたが来るほんの少し前に、アッシシの聖フランシス、ポリカルプ、リヌスが、霊において私と共にいた。
(訳注:ポリカルプは小アジアの教父で、一五五年にスミルナで殉教。聖イレナウスの書簡によれば、彼は使徒ヨハネの友人でもありました。アンティオケのイグナチオ書簡にも彼のことが書かれています。リヌスは聖ペトロの最初の後継者で、第二代教皇。一世紀末没。Uテモテ四21にその名が記載されています)
このリヌスは、「キリストに倣いて」の真の著者である。だが、よくある間違いによって、この本はトマス・ア・ケンピスの作品とみなされている。
とはいえ、リヌス自身はこのミスを何とも思ってはいない。作品の目的は、それを通して主の御名がたたえられることにあり、その目的は十分に果たされたからである。彼は言っている。
「いずれにせよ、誰のお陰で、これほど深いことがらを書くことができたのであろうか。自分にこれが書けたのも、ひとえに主の霊感のお陰である。栄光は主に!」
体と魂の相互関係
対話の中で、リシは、彼の霊に許されているのは、地上での旅だけではなく、天に近づくこともままあると述べている。サンダーは、この話を聞いて非常に驚き、どのようにして霊が体を離れて旅し、また体に戻るのかを尋ねた。
リシはこの質問に、次のように答えている。
「体と霊とのあいだの精妙なつながりは、人間界の言語をもってしては述べることはできず、また人間の精神が理解できるものでもない。霊魂を体から完全かつ最終的に解き放つには、この“精妙な”つながりを断ち切ることが不可欠である。次の聖書の各節は、私の話していることを裏づけ、また、霊魂が体を一時留守にすることが、不可能ではないことを教えてくれるであろう。聖書もそれを証言しているのだ。次の部分を注意して読みなさい。
1、伝道の書十二6――「こうして、ついに銀の紐は切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばで壊される。塵はもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」
2、Uコリント十二2‐4――使徒パウロはこのように言っている。
「私は、キリストにある一人の人を知っている。この人は十四年前に―体においてのことかどうかは分からない。肉体を離れてのことかどうかも分からない―彼がパラダイスに上げられ、人間に語ることが許されていない、言葉にならぬ言葉を聞いたことを神は御存知である」
3、Tコリント五3−4――使徒パウロの言葉。
「私は、まことに、体はいなくとも、霊においていたのであり、自分がそこにいるかのように裁いた…」
4、コロサイU5――やはり使徒パウロの言葉。
「私は、肉においてはあなた方と共にいなくとも、霊においては共にいて、あなた方の秩序とキリストへの揺るぎなき信仰を見て、歓んでいる」
5、U列王記五26――ナーマンに追随したしもべゲハジに対するエリシャの言。
「その人があなたに会おうと戦車からふたたび降りて来たときに、私の心もそこに行っていたではないか」
これらの聖句は、体を離れて霊において旅をするという聖人の主張が、理性にも神の言葉にも反するものではないことを証明するに十分である。そればかりか、リシは、幾つかの事例において、カイラスから何百キロも離れた場所で、サンダー自身の身の上に起こったことをずばり正確に述べ立てた。
例えば、彼はサンダーがとある洞窟で豹と一夜を共にしたこと、子羊を連れた素朴な村人に出会ったときのこと、カイラスに来る途中でサンダーの身の上に起こった出来事、彼が転倒して足の親指の爪を剥いだときのことについても、詳細に述べ立てた。また、数日前からサンダーが来ることを知っていて、彼の到着する時間まで知っていたとも話した。
「そうでなければ、私はここにいなかった。あなたが来た時間には、私はいつもこの洞窟を留守にしているからだ」
リシの名前
「私が父におり、あなた方が私におり、私があなた方におることが、あなた方に分かります」(ヨハネ十四20)
真の神の僕でなければ語れぬ、このような驚嘆すべきことがらを聞き、サンダーは、この老人が偉大なる幻視者であり、深い霊性の持ち主であることを確信するに至った。そこで、さらに調べを進め、このような見解の正しさを確認するため、サンダーは聖人に幾つか質問をしたが、そのすべてに彼は驚くほど的確な答えを出した。だが、自分の名前についての説明ほど驚かされるものもない。
名前を明かしてくださいとのサンダーの質問に答えて、リシはこうお答えになった。
「自分が世の人々と同様な人間であったときには、自分にもこの世の名前があった。だが、他の人々と同じ存在ではなくなった今、“キリスト者”が私の名前である。私の過去の状態であった“罪”(SIN)という言葉を見よ。そのときの私は、他の人間と同様、罪深い性質をもっていた。だが、今や、私すなわち“我”は除かれ、“我”の代わりに、始まりも終わりもない、限りなき存在が中にお入りになっている。過去の状態である“罪”(SIN)の代わりに、今や、“御子”(SON)が、始めなく終わりなき、昨日も今日も、永久であられる主イエズスが、わが内にお住まいになっているのだ。私は、今や、主のみ恵みにより、罪に対して死んでいるが、救い主イエズス・キリストの中に生きている。その御方に、今も、永久に、賛美と栄光があらんことを!アーメン」

名前について短い説明を施したあとで、リシは、彼が霊において行った色々な観察に話を移す。聖人自身の言葉で、この時の話の一部を再現する。
征服する者とされる者
多くの者は、密かに行っている行為は自分以外の誰にも知られることはない、と考えているようにみえる。だが、聖パウロの言葉と、主自らがおはなしになった言葉を思い起こすがよい。
「覆われているもので明らかにされぬものはなく、隠されているもので知られずい済むものはない」(聖マタイ福音書]26)
私は、主と聖パウロがこのようにお話しになったことを、この目で確認した。霊において、リバプールに住むある男を見たときのことを思い出す。このときに、生前非常に神を恐れる人たちであった、彼の兄と祖母の霊も共にいた。彼らと共に御使いの一群もいた。この男が恐ろしい罪を犯しているのを見て、男の肉親の霊は、ひどく心を痛め、悲しみの涙を流した。私自身、この悲しむべき光景を見て非常に心を動かされた。このときに、御使いの一人がこのように言った。「今この男がしていることは、死後に心に呼び覚まされる。そのときになって後悔し、許しを願うであろうが、それが認められることはない。」
また、ピッツバーグに住むある男を見たときのことを思い出す。彼は罪への非常に強い誘惑の力にさいなまれたが、欲望の奴隷になるよりも跪いて祈り、悪しき衝動に打ち勝てるよう、神の助けを願うことのほうを選んだ。それは恐ろしいほどの苦闘であり、何人かの肉親の霊も、はらはらしながら光景を見守った。最後に、彼は祈りによって誘惑を克服した。それを見て、肉親の霊も、共に目撃証人になった御使いたちも、大いに喜び、罪に陥ることから霊魂を救出してくださった神を賛美しながら天に昇った。
ひとり児の死
移りゆく世を去った肉親や愛する人の霊は、人として生きるわれわれの人生を、大いなる関心をもって見守っている。彼らは、われわれの喜びも、悲しみも、苦しみも共にし、ごく身近に訪れることもしばしばだが、肉眼をもってしては、彼らを見ることはできないのだ。
あるとき、私は、深く心打たれる光景を目にした。マドラスのキリスト者の未亡人にひとりごがいた。その子は重い病に倒れ、数週間後に死んだ。哀れな母は、子に先立たれたことに非常なショックを覚え、長いこと嘆き悲しんでいた。ある日、彼女は椅子に腰掛け、いつものように、愛するわが子を思って泣きはらしていた。私も、霊においてその場に立ち会った。そのときに、彼女の子が母の膝に座り、こんな慰めの言葉をかけるのを見た。
「お母さん、なぜそのように、僕のために泣かれるのです。僕が永遠の安らぎに入り、この世ではもてなかったほどの幸せにあるのを見てください。僕はもういないのですから、そんなに泣かないでください。もうしばらくすれば、僕たちは一緒になれるのです」
この話は、死んだ肉親たちがいかに私たちの思いと行いを観察しているかを示すものである。リシはこう言われる。
「彼らはできれば肉体をとってわれわれの前に姿を現わし、悪い人間の企みを警告し、私たちを救いの道に導きたいと願っているが、それが許されることは滅多にない。神は、このような願いに対しては、常にこの御言葉をもってお答えになる。“地上にはわが僕が今も多くいる。彼らの生き方と教えに学ばせよ”」
読者は、ルカ福音書(十六19‐28)に類似の記述があることを思い起こされることと思う。
金持ちと、その門前で残飯を投げ与えられていた貧乏人ラザロが共に死んだ。金持ちは「ハデス」で火に焼かれ、苦しみながら目を上げるが、そこに映じたのは、貧乏人ラザロが「アブラハムの懐」で幸せにしている姿であった。金持ちは、「どうか私の兄弟までがここに来ることのないよう、ラザロを家族に遣わしてください」と願うが、「モーゼと預言者の教えに聞き従わせよ」がアブラハムの答えであった。
守護天使
マハリシはこう語る。
「主の忠実なしもべたちはみな、神が御指名になった守護天使によって助けられる。弱さと絶望に直面したときに、彼を強め、支えるために、彼らは常に共にいてくださる。神の愛に深く浸り、その霊眼が部分的に開かれて、霊界の片鱗を垣間見、諸聖人の交わりの奥義を理解し始めたわずかな数の者以外、この御使いたちを見ることのできる人はいない。
特定の集団を別として、ほとんどすべての霊は、地上のどんな場所も訪れる、完全な自由を楽しんでいる。善霊が人に現れるという話は滅多に聞かない。それは、神が善霊の行動を制限しているからでは決してない、彼らの罪なき天上の性質が、罪に染まった人間の性質にそぐわぬからなのだ。それが唯一の理由である。いわば、罪の悪臭そのものが、彼らの天上の性質に非常な悪寒を与えるがため、人間から呼び出しをうけることは、彼らにとって不愉快この上ないことなのだ。
他方、悪霊は、人間のやることにいつでも参加する用意ができている。彼らは、罪が自らの性質そのものになっているため、その罪深い性質を満たそうとの欲求に燃えるが、人間の体を取ることは不可能であるため、人間が罪を犯すときに、彼らの罪深い欲望はある程度満たされるのである。
さらに、彼らは審判の日の後にどんな運命が自分たちに待ち構えているかを知っているがため、絶望的な気持ちに追い込まれている。地獄の責苦に定められる日が来るのを知っている彼らは、人間を邪悪な行為に駆り立て、同じ運命に道連れすることに、喜びを感じているのだ。どの霊も、地上でした行為の結果を刈り取るが、最終的運命に責任がないような場合もある。
たとえば、イギリスのある少女の死を見たことがある。両親は少女の世話を焼かず、悪い生き方の中で放任しっ放しだった。死んで霊界に入ると、少女は、自分がどのような結果になるかを教えられた。少女はこのことに憤慨し、自分の悪い生活習慣を矯正せず、それが後々どんな結果になるかを教えてくれなかった両親を非難し始めた。
また、宗教的両親によって、非常に丁寧に育てられた少年が死ぬのを見たことがある。死に臨んで、永遠の喜びと平和を継ぐことを知ったときに、この少年は、永遠の喜びの道に導いてくれた良い父母に深く感謝した。

霊界について話を進める中で、聖人は、神の存在を否定する者たちの行く末について、次のような心動かされる出来事を述べた。
ジュネーブの科学者
サットンという名のあるジュネーブの科学者は、神の存在を否定していた。彼は、命と魂は同一なので、死後の命のようなものは存在しないと信じていたのである。
ところが、不思議なことに、この人の妻は大変に敬虔な宗教者で、母の感化を受けて育った子供たちもまた、母同様に宗教的で、神を恐れる性格だった。妻と子供たちは、よく家族会議を開いては、夫に神の存在を信じさせようとしたが、サットン一人が彼らの話を笑い飛ばし、迷信深い愚か者よ、とみなを蔑んでいた。
さて、サットンの妻と子供たちはみな、一人一人死んでいった。二、三年後に、サットンにも死期が迫った。彼の信じているところによれば、死後の生命は存在しない。そこで、臨終が近づくと、最後の息を引き取れば自分は存在しなくなると彼は考えた。
だが、この世を去るや否や、住んでいた体は確かに後に残したが、自分自身はもう一つの世界に移行したことを知って驚いた。このときに、生前、死後に天国があるのだとしきりに自分に説得していた、妻と子供たちのことを考えた。
妻子のことを思うが早いか、眼前に全員の姿が現れた。だが、自分と彼らとの間に大きな淵があり、両者は互いにはっきり見たり、聞いたりできるにもかかわらず、この巨大な淵を超えて行き来できないことを知り、非常な失望を覚えた。
輝かしく、幸せそうな状態にある妻と子供たちを見、それを不愉快で汚れた自分自身の状態と較べるにつれ、涙がこみ上げ、彼は激しく泣き出した。そのとき、妻のサットンが声をかけた。
「ああ、愛するあなた、あなたは私の死を悲しみ、何日も嘆いていました。でも、ベッドの上で申し上げなかったでしょうか。私はもう一つの生に移るだけで、いつかまた会うのですと。しかし、あなたは私の言葉を信じず、ご自分の考えに固執されたのです。今、私たちは永遠に別れてしまいました。あの別れは一時のものでしたが、この別離は永遠なのです」
愛する妻の唇からこの言葉を聞いて、サットンは自分の場所から飛び出し、妻のところに至ろうとした。だが、私は、妻に近づこうとすればするほど、彼がいっそう深く下に沈み、その一方で、妻子は悲しげに彼に背を向け、もと来た天へと歩き出すのを見た。
罪深い肉親が地獄の苦しみにあえぐのを見れば、天国にいる神のしもべは非常に悲しく惨めな気持ちになるのではないかと、考える人もいるであろう。だが、そうではないことを理解できるよう、サットンと、彼の妻子についてさらに話を続けよう。妻と子供たちは、もと来た天への道を引き返すにつれ、サットンの運命にひどく胸を痛めた。そこで、天国の門をかいくぐる前に、このように神に訴えた。
「ああ、神様。私の夫が地獄の苦しみと処罰に定められているというのに、天国でどんな歓びがもてるというのでしょうか」
悲しみの訴えに何も答えが返されぬまま、彼らは天の住まいに静かに導かれた。だが、天国に入るや否や、彼らは肉親のことをすべて忘れ、悲しみに出会ったことが一度もないかのように、歓びに浸り始めた。天国の大気そのものが、苦しみと悲しみから除かれているのである。
サタンの子らは、神の子らに何の関わりももたない。前者は、苦しみと永遠の死以外、何ものももってはいない。一方、後者はどんな悲しみも問題ももたず、天の自由の中で歓びに浸るからである。
悪霊の訪問
諸聖人とは別に、悪霊が私に寄って来ることもままある。あるとき、私はパンジャブの町、ロータクに住む、無神論者の霊から訪問を受けた。この霊は、ひどく惨めで落ち着かぬ様子に見え、自分は地上にいたときに宗教を蔑視し、神の存在さえ完全に否定し、極めて好色かつ邪悪な生涯を送ったのだと話した。
「それは、自分が死後に生命が存続することを、まったく信じてはいなかったからなのだ。だが、自分がこの世を去ってから、別な生に自分がいるのを知った。今では、他の魂と同じように、思う存分自由を楽しみ、どこに行くも自由だが、この自由というのが牢獄よりもつらいのだ。自分に用意されていることを思うと心がえぐられ、悲しみと絶望に苛まれる。自分は楽になりたいが、楽になれない。死を求めるが、死ぬことができないのだ」
私は、この惨めな霊が悲劇にがんじがらめになっていると知り、非常に心動かされた。そして、こう尋ねた。
「それにしても、なぜあなたは悔い改めないのか。悔い改めの機会をもう一度願うべきではないのか」
善霊と御使いの到来
問いかけの言葉を言い終らぬうちに、もう一人の善霊がこちらに近づいてくるのを見た。ニューヨークの善良な男の霊である。私の問いかけに答えて、悪霊はこう答えた。
「そんなことをしても無駄だ。もう、機会は失っているのだ」
私は、これを聞いて、彼のために何かしてやれることはないかと考え、彼に代わって神に祈りを捧げた。その祈りを聞きつけた一人の御使いが天から降りてきた。彼はこう語った。
「この“存在”にはもはや希望はありません。地上生で形作られた性格を変える可能性はないのです」
だが、この哀れな霊のために、私は何かをしていただきたいと願い続けた。その結果、御使いは彼を神のみもとに連れて行った。神は彼の状態をご存知だったため、非常に薄い光の中でご出現になったが、その光でさえこの闇の子には眩しすぎ、彼はうつぶせに倒れた。
そのとき、今まで何も言わずに立っていたニューヨークの善霊が、この驚くべき光景の意味を説明してくれた。
「土器がまだ濡れているうちは、叩いてその形を整えることは可能である。だが、炉で焼いた後でそのようなことをすれば、器を壊すことになる。そのように、死は生の完成であり、死後にその性質を変えることはできない。黙示録の言葉の意味はここにある。
“不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行なえ。正しい者は、いよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なる者とされよ”(二十二11)
誰の生命も、死後にその形を変えることはできない。邪悪な生命は、いかなる方法によっても善い生命に調和することはなく、地獄の生命が天使的生命に調和することもない。それは、どの霊も、頭の天辺から足のつま先まで彼の愛の通りに、生命の通りになっているからである。
この生命を正反対のものに変えることは、霊そのものを完全に壊すことである。人は生前に生きた通りの状態を死後にも続けるのである。霊界では、自分の情欲に抵抗できる者はいない。情欲は愛に属し、愛は意志に属し、意志は性質に属し、誰もがその性質にしたがって行動するからだ」
人は、死ぬときに体を後に残すが、生命である自分の性質は保ち、霊界に携える。このため、自分の性質を破壊することは、存在そのものの破壊を意味するのである。

天上のエルサレム、
祝福されし都、
平和と愛の慕わしい幻よ、
上なる天の高みに、
活ける石にて建てられるものは誰ぞ
マルガリータ(訳注:以後マギーの略称を使います)の死の光景とその後のこと
霊界について話を進めながら、リシはもう一つの興味深い、霊感をそそる出来事を物語った。
ある日、私がフランスのために祈る番が来た。祈っているうちに、突然、パリの都に向かって、一群の御使いが急ぎ降りる光景を見た。
この意味を問うと、ちょうどその日に一人の霊がこの世を離れようとしていること、御使いはその霊を出迎えて天上に導こうとしていることを告げられた。それを聞いた私は、霊たちがいかにして天に迎え入れられるかを確認するため、御使いに随行することを願い出た。
願いは聞かれ、私は御使いたちの後に続き、一人の貧しい女性の家を訪れた。そして、泣きはらす親兄弟に囲まれて、二一歳の娘が死の床に横たわっている姿を見た。
臨終まであと十五分という時になって、御使いの一人がマギーの両目に手を触れた。その途端、彼女の霊眼(訳注:Spiritual
Eyesと複数形になっているので左右の肉眼に重なって霊眼が存在するのかもしれません)は開かれ、御使いの大群が自分を招くために訪れていること、先祖の何人かもそこに加わっているのを知った。
視線を上に向けると、天に届く黄金色の階段と、聖歌と詠唱を歌いながらもう一つのケルビムの大群がそこを下りてくる光景が目に入った。黄金の階段の一番下に壮大な入口があり、その上には、次の言葉が、輝く金色の文字で書かれていた。
「私は道であり、真理であり、生命である」(訳注:ヨハネ福音書十四6にこの言葉が見えます)
それを読むや否や、主イエズス・キリスト自らがお話しになった言葉であることを思い出した。それを思うか思わないかのうちに、輝かしい光に御顔を包まれた主御自身が入口にお立ちになっているのを見た。これを見て、マギーの心は歓喜にあふれ、嘆き悲しむ肉親に言葉をかけた。
「どうか私のために泣かないでください。私は今、すばらしい安息と喜びの場所に入ろうとしているのですから。何百人という御使いが私を迎えに来てくださっているのです。そればかりか、主ご自身さえ、入口で私を待ってくださっているのです。泣くのではなく、どうか喜んでください。私は、悲しみの生を脱ぎ捨てて、永遠の安らぎと歓びの世界へ、もうすぐ入るのですから」
だが、この言葉は嘆き悲しむ肉親の耳には入らなかった。彼らは、昏睡状態の中で娘がうわごとを言っているのだろうと考えた。臨終の瞬間が来ると、マギーは「主よ、私の魂を御手に委ねます!」と叫び、最後の息を引き取った。
霊魂が地上の幕屋(訳注:肉体のことです)を離れるや否や、愛する母が自分の亡骸を抱き締めながら、大声で泣き、他の家族も同じように激しく泣く姿を見た。この光景を見て、マギーも深い悲しみにとらわれ、愛する人々を慰めようと明るく声をかけたが、誰にもこの声が聞こえないことを知り、非常に驚いた。それから、体に触れて自分の存在を確かめようとしたが、驚いたことには、それが触れることも感じることもできないものであることを知った。こうして、自分の生涯が終わり、もはや地上にいられないことを彼女は知ったのだ。
今や、御使いは彼女を天国へ導いた。進む道の両側には、果てしなく、御使いが列をなし、進むごとに、天上の音楽に合わせて聖歌と詩篇を口ずさむ御使いの軍勢に出会った。天国の門に至ると、主天使の何人かに出迎えを受けたが、主ご自身がここにおられ、尊い御手を差し出すとマギーを御腕に抱かれ、天国にお招きになった。
マギーは、主が彼女にしてくださったこのような大いなる名誉を思って歓涙に浸り、何度もたずねた。
「主よ、このような招待にあずかるに相応しい何かを、私はしたでしょうか。私は罪人に過ぎないのではないでしょうか」
生前、彼女は、神の道を歩もうと常につとめ、小さな愛の行ないを幾つかしたのだが、自分では気にも留めていなかったのである。彼女はこのように言われた。
「この名誉はみな、あなたが地上で神のためにしたことへの、当然の報いなのです。人のするどんな悪業も神は見逃されません。それと同じように、地上で行なった小さな善行の一つ一つに対して、人は当然の報いを受けるのです」
天上の住まい
私はまだ一度も天に入ったことがなかったため、少しでもそれを知ろうと、マギーとその一行に随行する許しを願った。願いは認められ、私は彼女の後について天国に入った。そこで見たことを話そう。
天国に入るや否や、私ははるか遠方の至るところに、気高くも壮大な住まいがあるのを見たが、これらは煉瓦造りでもなければ、土や漆喰でできたものでも、ガラス、水晶、その他どんな物質で造られているものでもなかった。地上のいかなる物質とも異なり、それは触れられるような材質ではなかったからである。それは、限りあるものでも限りないものでもなく、それでいて存在し、幾千もの建物を素通しして見れるほど透き通っていた。簡単に言えば、人間の言葉に言い表すことも、想像することも敵わないほどの住まいであった。
この麗しく壮大な住まいの数々を見たときに、マギーは大きな驚きに包まれ、誰がこのような場所に住んでいるのですかと御使いに尋ねた。
御使いはこう答えた。
「これらは地上で戦って勝利した聖人たちの住まいであり、彼らは世界にいるあいだに準備されていた天上の住みかに、今や入ったのです」
さらに行くと、御使いはもう一つの壮麗な住まいの前で立ち止まった。その素晴らしさに息を呑み、これはどのような王様のお住まいですかとマギーは尋ねた。
御使いはこのように答えた。
「いいえ、ここでは王と乞食の別はなく、誰もが等しい扱いを受けるのです。家々の荘厳さは、神のしもべの善徳を反映しているのです。ここはあなたのお住まいです。今日完成したばかりなのですよ」
この永遠の歓びと平和の住まいに入るや、閃光を放つ四つの宝石のはめ込まれた冠が目に留まった。
「この冠は誰のものですか、はまっている宝石には、どんな意味があるのでしょう」
御使いは答えた。
「その冠はあなたのものです。そこにはめ込まれている輝く四つの宝石は、あなたの聖書の教えによって救われた四人の霊魂です」
マギーは、この言葉を聞くと歓びに胸を募らせ、主の御名を称える聖歌を歌いながら、永遠の歓びと平和の支配する住まいへ足を踏み入れた。

祝されし者たちの住まいにいる
群集の数は数え切れない
人は贖われた者たちのもつ
永遠の歓びを噛み締める
もはや地上をさすらうことはない
彼らは安息の家を得ている
聖人の三つの段階
御使いたちは、マギーを天上の住まいに連れて行くと、これらの住まいについてさらに説明を施した。それらを指差しながら、黄金の冠を被る聖徒が座る、一つの住まいを指し示した。
「地上で神を信仰し恐れる中で生き、一生涯善を行なってきた聖徒です」
それから、輝く宝石とルビーがはまった冠を被る聖人の住まいを示した。
「正しい生き方をしたばかりか、何人かの霊魂をも救いに導いた聖人です。宝石の数は、彼が救った霊魂の数を表わしています。これらは冠の中で星のように、永遠に輝き続け、彼が地上で行なったことをいつまでも証言するものです。預言者ダニエルの言葉を思い出しなさい。
『多くの者を義とした者は、世々、限りなく、星のようになる』(ダニエル十二3)」
それから、私は、輝く星に全身を覆われた聖徒の住まいを示された。
「こちらは、キリストのために迫害と殉教を忍んだ聖徒たちの一人です。そのとき身に受けた傷が、今や、彼らの天上の体の上で、星のように輝いているのです」
これらの住まいを眺めた後で、その中には、人の住まないものもあれば、半ばできかけたものもあり、また基礎工事だけが済んでいるものもあることに、私は気がついた。その理由を聞くと、これらの住まいは神のお選びになったしもべにだけあてがわれたものであるため、建設の進度は、しもべたちの霊的進度に全くかかっているのであるとの答を得た。御使いはまた、このように言われた。
「主のしもべたちが良い働きを展開し続け、生命を増すにつれ、彼らの天上の住まいもまた、より完全なものとされるのです。あなたがここに見る不完全な住まいは、地上で戦っている主のしもべたちに属するもので、彼らは天に入る前に、さらなる艱難辛苦を通る必要があるのです」
それから、私は、誰も住んでいない住まいを指差し、なぜ無人のままになっているのかと聞いた。一人の天使がこう答えた。
「その所有者は、今日、地上での働きを終え、これから入るところです。
その天使が話し終わらないうちに、私は一群の天使がひとりの聖徒をその住まいに案内してくる光景を見た。
ああ、何という栄光であろう。主に忠実なるすべての者が、やがて限りあるこの世を去り、天上の住処を与えられる日が来る。聖パウロがいうように。
「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」(Uコリント五1)

イエズス、わが羊飼い、
あなたが私の魂を愛してくださったのです
あなたがその血で私を洗い清めてくださったのです
あなたが私を完全にしてくださったのです
ナインの寡婦の子供
天についてこの目で見たこととは別に、霊たちが時に応じて話してくれたことがらが幾つかある。あるとき、私は、主が死から甦らせた、ナインの寡婦の一人息子(訳注:ナインの寡婦についてはルカ福音書七11以下に記載されています)の霊から訪問を受けた。次に述べるのは、彼自身が話した言葉である。
「この世での仕事が終わり霊的な世界に踏み込んだときに、私はとても惨めで不安な思いに駆られました。生きていたときに主について多くを聞きながらも、それほど注意を払っていなかったからです。ここにきて、イエスなくして誰一人救われないことを知ったときに、私は大変に失望し、もう一度機会を与えてください、そうすればもと来た世界に帰って、人生のすべてを主に捧げ、天国を継ぐ者となりましょう、と神に泣いて訴えました。
このようなことは天の法にまったく反することです。しかし、私が命を吹き返すことによってキリストがたたえられるために、嘆願は聞き届けられ、私は元の世界へ戻ることを許されました。世界へ戻ると、天で見た同じ主が、枕辺に立っておいでになるのを知り、非常に驚きました。
あまりに驚異的な体験であったため、私は、ことの一部始終を母に話して聞かせましたが、おまえは夢を見たのだと笑うだけで、誰も取り合ってはくれません。天国とそこで観察したことを、誰も信じてはくれないので、私はこのことを心の奥にしまっておくことにしました。私は死から甦ってから、人生のすべてを主に捧げ、主が福音宣教のために全世界へ二人一組で派遣された、七〇人弟子の一人になりました」
それから、彼は、天国とその住民、天の住まいについて話したが、それは私がこの目で見たものと正確に一致するもので、主の次なる言葉の意味を十分に物語るものであった。
「私の父の家には多くの住まいがある。そうでなければ、私はあなた方にそのように言っていたはずである」(ヨハネ十四2)
アテネの有名な哲学者との対談
あるとき、アテネの著名な哲学者の霊が私の元を訪れて、自分の救済についてこのように話した。
「学問に慣れ親しんでいた私は、目に見えない世界について知り、霊魂が実在するものなのか、それとも人間の想像の所産に過ぎないのかを知りたいと、強く願っていた。各所から情報を集める中で、イエスによって死人から起こされたというナインの息子の話を聞かされた。私は彼を訪ね、天で見たことを話してくれるよう求めた。天についての彼の話とキリストの全能について聞かされるに及んで、私は深く感銘し、すぐにイエスを人類の救世主、まことの神のみ子として受け入れた。地上にいる間にイエスを知ることができるよう、神がこのような尊い機会をお与えくださったことに心から感謝している。主の御名に栄光がありますように。私は本当に幸せです」
ローマの哲学者の霊との対談
ピネアスという名のこの人は、かつてキリストご自身が世におられたときに、哲学者であった。彼はキリストと、その奇跡のみ業について多くの話を聞いていたため、どうしても主と直接お会いしたくなった。次は、ピネアス自らが話してくれたことである。
「カナンの地に入ると、私はキリストを探して歩きまわったが、会う誰からも、キリストに直接お目にかかることはできないといわれた。キリストのおられるところは、常に黒山の人だかりになるからだ。これには失望させられたが、キリストがおられるという場所の近くに来ると、寝台を担いで歩く男に出会った。
どこから来たのかと尋ねると、イエスがおられる場所からと答えた。これに勇気付けられて、いったいどのようにしてイエスに近づくことができたのかと尋ねた。これを聞くと、彼は笑い出して、こう言ったのだ。
『それは、まったく難しいことではありません。三四の善意をもって主に会いに行く人は、失望して帰ることは決してありません。私を見なさい。シロアムの池で四一年間寝たきりだったのです。自分を助けてくれる人がいなかったので、水が動いても、そこに飛び込むチャンスもなかった。ところが、ある日、主が通られたときに、私の姿を遠くからご覧になり、“床を取り上げて行きなさい”と言われたのです。その瞬間にわは飛び起きて、こうして神のいと聖なる御名をほめたたえながら歩けるようになったのです。恐れることはありません。会えずにいる人々に対しても、主は名指しで声をお掛けになり、訴えをお聞きになりますから。主は、人の心の中をご存知です。呼びかけるだけで多くの人々を癒され、御衣の端をつかんだだけでも癒された人は何百人となくいるのです』
この話にますます勇気付けられて、私は歓びに胸を膨らませながら、歩いていった。さて、イエス様のおられるところにくると、大群衆が周りを取り囲んでいるのを見た。話はその中を掻き分けて、イエス様のお顔が見え、声の聞こえるところまで近づいた。主のみ顔がはっきりしてくると、私の目は釘づけになった。その美しいみ顔と、目に現れている謙遜と柔和さに、すっかり心を奪われた。主は、憐れみに満ちた表情で、群集をご覧になっていた。
み顔を拝しているうちに、群集の何人かが主に近づくのを見た。手の萎えた男がそこにいた。健康にしてくださいと彼が言うと、主は、こうお答えになった。
『行きなさい。あなたの罪は許されました』
男の手はすっかり治っていた。あとで聞かされたことだが、この男は神殿の金庫番で、大金を着服していた。その罪によって、手が動かなくなってしまったのだ。だが、罪そのものが彼の天性になってしまっていたために、彼は自分の手が萎えたことが、不法の結果であることにさえ気づかなかった。しかし、「行きなさい。あなたの罪は許された」とイエス様から言われた今、彼は罪が自分の悲惨な境遇の原因になっていること、それが除かれたがため、手が即座に癒されたことを知るに至ったのである。私は、主が癒しのほとんどの場合に、『あなたの罪は許された』としかお話しにならないのを見てきた。それによって、主は罪が病の根源にあること、罪を打ち崩すことによって、病が自然に崩されることを証明されたのである。
私は、これ以外にも多くの奇跡を見た。私はさらに主に接近してみた。心では話しかけたいと思っていたが、目を直視することができなかった。私の心の思いを読み取られて、自らお声をかけられた。お声を聞いて主のみもとに近づいたが、私はみ足元にひれ伏した。すると、主は自ら私を起こされ、罪の許しを与えられ、聖なるみ手で祝福してくださった。新しい命に歓び、私は郷里に戻った。当時、主の御名を告白することは死を意味したが、それでも、私は恐れることなく、イエスのみが人類の救い主であることを、公然と告白した。
死と死後について
聖人は、さまざまな死の現実に立ち会ってきたため、天については非常に多くのことを知っている。死後に何が起こるかについて、聖人は、次のように話されている。
人間は、死んで二、三分は自分に違いを認めることがほとんどないが、自分が変化していることを御使いから知らされると、自分が現に存在しているにもかかわらず、もはや肉体ではないことを知って非常に驚く。これが最初の段階である。
第二段階では、霊は、異なる道が二つ前途に広がっていることを知る。一つは眩しく輝く道であり、もう一つは暗い道である。善霊は自然に光の道に引き寄せられるが、悪霊は光に耐えられないため、光から身を隠そうと自然と闇の中に駈け込む。
第三段階において、霊は自分の未来について知らされる。善霊は天に導かれて、住まいをあてがわれ、冠を与えられ、さまざまな特権について説明を受ける。これに対して、悪霊は自分の霊体を見て、地上で犯してきた罪のために、それが汚れと腫物だらけであることを知る。彼らは暗闇の子であるために、自然に闇の道へと走る。
『悪事を働く者は光を憎み、行いが明るみに出されることを恐れて光の方に来ない』(聖ヨハネ三2)
それから、彼らは、審判の日の後で地獄に落ちることを告げられ、次にどこでも好きなところを廻る自由を与えられる。世を離れるときに、御使いが善霊を迎えに来るのと同じように、邪悪な天使が悪霊を出迎えに来る。唯一の違いは、正しい者たちは天に入る希望を喜ぶが、邪悪な者たちは、悪魔的な天使の恐ろしい形相を見て恐怖に震えあがり、本能的に自分の末路を理解するということである。
霊的領域に入るときに、悪霊は悔い改めの機会を探すが、神のみ言葉にはこのように書かれてはいないだろうか。
「もし、私たちが真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のための生贄はもはや残されてはいません。ただ、裁きと逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つより他ないのです」(ヘブル十26、27)
一方、善霊が持ち運ぶ僅かな罪は―結局、罪がすべての人間の性質である―直ちに子羊の血によって洗い清められ、染み一つない状態に変えられる。
天に入った霊にはもうすることがないと考えている者たちがいるが、それは真実ではない。祈り、神を称え、賛美することの他に、神のしもべたちが良い働きを続け、生涯主にお仕えできるよう、彼らを激励し、力強い者にすることが彼らの務めである。
神の光と力の遍在
神の栄光は言語を絶するものである。主はその輝かしいみ座に着かれているだけではない。み顔の輝きは、主がすべての聖徒の胸(Heart)の中央に座しておられるように見えるほど、天とそこにある住まいの隅々まで照らし出している。そればかりか、主の輝かしいお体のすべての部分から放たれている、天の燦然たる光線と力の波は、天地の果てまで広がり、地にあっては、主のお選びになったしもべたちの胸に入り、その光を反射する。主のみ顔がそこにある。これら天上の光と力の波が、すべての主の聖徒の心を聖化しているのである。

霊の四区分
これまでの章で、ほとんどすべての霊が天あるいは地上のどこをも訪れる、完全な自由を享受していること、罪とのつながりが自分の性質そのものに反するため、善霊が地上を訪れることは極めて稀であることを説明してきた。だが、明らかな善霊あるいは悪霊のほかにも、天をも地上をも自由に巡ることを許されていない、霊の第三区分がある。彼らは天のある部分に保たれ、そこでイエズス・キリストについて教示を受ける。これらの霊たちは、教示の段階が終了するまでは、この場所から離れることはない。この区分には、次の四種の人々が入る。
1、乳幼児:天と地の奥義を理解できる以前に死んだ人。
2、精神病と知恵遅れの人:イエズス・キリストについて聞いたことがあったとしても、理解する力をもたなかった人。
3、目、耳、口の不自由な人:神のことがらを知り、理解するだけの身体的条件を持たない人。
4、イエズス・キリストの名を聞いたことのなかった人、またはイエズスの時代以前に生まれた人:十字架上でイエズスを信じた罪人に、主がおかけになった御言葉を思い出してほしい。主は「あなたは今日、私と共に天国にいる」とは言われず、「今日、私と共にパラダイスにいる」と言われた。パラダイスは、十字架上での死の直後に主が赴き、教えを説かれた場所である。パラダイスにいた霊たちは、キリストが彼らの中で教えを説かれるのを長いこと待望し、待ちきれなくなって、主が十字架上で死なれた瞬間に、大挙して主の霊を出迎えたのであった。
(訳注:ここでいうパラダイスは、聖人が死後直行する第三天ではなく、そこに至る準備段階としての天です。天には、上から下まで、さまざまな段階があるように思われます。「アブラハムの懐」もそのひとつ)
マタイ福音書にこう書かれている。
「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返り…聖都に入って多くの人々に現れた」(二七52、53)
悪霊はみな、審判の日の後に地獄の火に定められるが、善霊はみな、大いなる日を楽しく期待して生きる。その日の後に、彼らは大いなる主権をもって治め、永久の歓びと幸せの中で生きるからである。
定めの日に関する聖人の見解
「民族は民族に、国家は国家に敵対して立ちあがり、方々に飢饉と、疫病と、地震が起こるであろう。これらはみな、生みの苦しみの始まりである」(マタイ福音書二十四7‐8)
われらが聖書の中に読む大いなる審判の日は、そこまで来ている。私以外にも、忍耐強くそれを待ち望んでいる主のしもべたちが何人もいる。彼らは、雲の中に取り上げられ、主と一つになる人々だ。死すべき体は天上のそれに変えられ、彼らは王に従って御座に就き、そこで、主とともにいつまでも世界を治め、永遠の生命を楽しむ。この大いなる日から一千年のあいだ、主は地上をお治めになる。そして、十字架にお掛かりになった地点そのものが、主の御座になるであろう。
この一千年間、悪魔とこれに与する者たちは牢につながれ、この長い時代の後、三年半のあいだ悪魔とその軍勢は解かれるであろう。この短い期間が終わると、主イエズスを否定し、あるいは軽んじてきた者たちは全員審判を受け、審判後に、頭領の悪魔と共に、全員地獄の火の池に投じられ、そこで泣いて歯ぎしりすることになるのだ。
世界戦争の意味
現在の国々の大紛争についての所見を求められ、聖人は、このようにお話しになった。
「古代の預言が今や成就しようとしているのだ。“民族は民族に、国は国に敵対する”という主のお言葉を思い起こすがよい。人間は知識と学問を誇るあまり、多くの者が神の御存在そのものさえ否定している。だが、今や、その知識によって命が滅ぼされようとしているのだ。世の終わりは近い。主の大いなる到来は近づいている。終わりの日にラッパを吹き鳴らす御使いは、最近、門に配置されたばかりである。主が御手をお上げになれば、すぐにもラッパを吹く態勢であるが、その日が近づいているにもかかわらず、主の民は備えを遅らせているのだ。主は、人類への憐れみから到来の日を先延ばしにされ、被造物が準備するのを忍耐してお待ちになっている。だが、長く待たれることはなかろう。主の日はまもなく来るであろう」
老聖人は、今の時代でさえ、主イエズス・キリストは人の姿を取ってお現われになるが、主は貧しく謙虚な人の姿をとって現れるため、それをキリストと考える人はいないとも話している。
聖人は、主が気づかれずにこの世界に来られた事例を幾つか紹介している。
1、ある日、イギリスのとある教会に、普通の市民に見える男性が現れ、日曜日に説教をさせてもらいたいと申し出た。最初、司祭は、見知らぬ人の素性が分からなかったので、この申し出を快く思わなかったが、話を交わすうちに、彼が謙虚で、誠実で、神を恐れる人であることを確信し、翌朝に説教できるよう準備を整えた。
翌日の説教は人々に深い感動を与えた。その人は、権威を持つ人のように、霊的な力をもって話し、その戒めは深い印象を人々の胸に残した。集会ののち、この驚くべき人を囲んで懇談会を開くことを即決したが、教会のドアに近づいたとたん、説教師は視界から消え去った。
これを目撃した人々は、驚きに包まれ、天使だったに相違ないと誰もが考えた。だが、老聖人によれば、それは人の姿を取った主ご自身であった。
2、イギリスの大都市のある大聖堂で、礼拝が始まる直前に、貧しい身なりをした男性が現れ、金持ちが予約した正面の椅子に着座した。これを見た司祭は彼を追い出した。貧しい男は慎ましくこれに従い、聖堂の最後部の席に腰を下ろした。礼拝が終わると、誰もが外に出て、仲間と話し始めたが、この貧しい男性は一人っきりで、その存在に気付く者さえいなかった。だが、ある少女が彼をしばらく見つめてから、母親に言った。
「ねえ、お母さん、来て、この人に話しかけて、何かしてあげられることがあるかどうかお聞きになってください」
近づいて話しかけて見ると、その人の物腰と話すことに深い感動を覚えたため、家に来てくれるように願った。到着してまもなく夕食会になり、みなが席に着くと、男性は立ち上がり、親切にしてくれた少女の席に近づいて、頭に両手を置いて祝福した。その間に彼は視界から消え、誰もが驚いて互いを見合った。この人も、主キリストご自身だったと聖人は話している。

ああ、主よ、私たちの狭い心を広げ、
あなたのなさった御業を知らしめてください。
私たちのもつれた舌を解きほぐし、
あなたの量り難き、大いなる愛を語らせてください。
ある日、聖人は、思いがけず、バプテスマのヨハネの霊に出会った。そのときの興味深い対談を、このように話された。
ある日、私は霊界のバプテスマのヨハネに出会った。彼は、地上でお仕事をされていたときに経験したことの幾つかを話してくれた。だが、イエス・キリストとの対話が、何よりも美しく、有益である。聖使徒はこのようにお話しになった。
「私は、聖なる神が、御子より先に私を遣わされたことを、よく承知していた。主のために道を整え、全力を尽くしてその仕事を果たせるためである。
私は、神への恐れと神の導きの中、心と魂の両方を尽くして仕事に身を捧げ、放浪の旅をしながら、民衆に罪の悔い改めを呼びかけた。だが、時満ちて、愛する主自らがおいでになり、私の手から洗礼をお受けになったときに、自分の仕事を今や終えなければならないのだろうかと、心の内に思った。
私自らが説き、世に知らしめてきたその人が来られたのである。したがって、その方が独自の働きをなされ、最後までそれを続けられるに相違ない。
そこで、洗礼を授けてしばらく経った頃に、私は主を訪ね歩き、お会いして、自分のするべき仕事が他にあるかどうかをお聞きしたいと考えた。数日間、私は主を訪ね歩いたが、見出せず、最後にひと一人いない荒涼たる場所に来た。ここが、サタンが主を試されてから去ったといわれる場所なのであろうか。
愛する主は、一つの岩の上に腰を下ろされていた。その回りに、主の上にも下にも、大群衆がいた。これを見た私は、少し離れた木の背後に身を隠し、主の邪魔にならぬよう、ことの成行を見守った。
王の王、神の神なるこの方がもたれた、この大いなる“接見”の話に耳を傾けよ。ケルビムとセラフィムが詩篇と神への賛美を歌いながら天から降りていた。主の周りには、みなあらゆる種類の楽器を手にし、感極まり、喜びと賛美と、感謝の声を上げる、聖なる御使いの群れが空中にたたずみ、キリストの栄光はあたり一面を照らしていた。
御使いと天の軍勢以外に、古代のあらゆる預言者と聖人たちから成る、もう一つの群れがいた。モーゼ、エリヤ、エリシャ、サムエルなど。アダムさえそこにいた。全員、恭しくへりくだって主の御前に立ち、信仰と祈りに浸っていた。それ以外にも、あらゆる野の獣、小動物や鳥たちが、主に付き従うように御足下に集まっていた。みな、彼らの主に近づこうと、聖なる御足に群れを成して詰め掛けているように見えた。
だが、主は他のことを思っておいでであった。主は生涯のお仕事に取り掛かる準備を進められ、計画を整えておいでであったのだ。その計画のいかなるものかを知ったときに、御使いと預言者たちは大いに驚き、深い悲しみと嘆きに打ちひしがれた。ついに、御使いの軍勢の一人が、耐えられずに、主にこのような言葉をかけた。
「ああ、主よ、私たちは全員、何時いかなるときにも、お仕えする用意ができております。あなたにお仕えすることが私たちの命です。どうか、あなたの身代わりになって命を投げ捨てる者を、私たちの中からお選びください。ああ、天と霊界の、よろずのものの主よ、何ゆえ、あなた様自らが、かような苦しみを身に受け、十字架に付けらねばならないのでしょう」
これをお聞きになった主は、微笑んでこのようにお答えになった。
「あなたには、この奥義が分からないのです。それを窺い知ることさえ、許されてはいないのです。父から託されたその仕事を、私は果たさなければなりません。あなた方の死によっては、罪人はけっして救われません。私自身が苦しみ、殺されなければならないのはそのためです。それは、すべての者がサタンの鎖から解き放たれ、全被造物が贖われるためなのです」
この答によって御使いたちは満ち足りたが、彼らは互いに言い合った。
「私たちは、神の愛が広大で、終わりがなく、計り知れぬほど知識を越えていることは十分承知していました。しかし、これほどまでに、ご自身の御子を捧げても惜しくないと思われるほどに、世を愛されているとは知りませんでした。すべては、世への神の大いなる御愛を示されるためなのです。ああ、全能の主よ、あなたに栄えあらんことを!アーメン!ハレルヤ!世々に至るまで」
このように御使いたちが互いに話し合っているあいだ、預言者と聖人たちの群れに加わっていた、アダムが話し始めた。
「ああ、愛する主よ、罪は私によるものです。ですから、私もまた世界全体の罪を背負うべきなのです。行って自分に相応しい処罰を受けられるよう、私をお遣わしください」
主は、こうお答えになった。
「いいえ、あなたは自分のためにしか死ぬことはできません。他の者のために死ぬことはできないのです。そのように、あなたの死には、たった一人の霊魂さえ救う力はありません。全世界を贖う生贄となるために、私が死ぬ必要があるのです。」
この話を聞いて、アダムも口を閉ざした。
それから、モーゼ、エリヤ、その他の預言者たちが叫んだ。「主よ、私たちがあなたの代わりに行くことは、相応しくはないでしょうか」しかし、主は彼らに対してもこうお答えになった。「いいえ、あなた方はみな、自分の務めを終え、天命を全うしたのです。また、あなた方は二度世界に生まれることはできません。この大いなる贖いの仕事に十分な力を持つ者は、神の御子以外存在しません。御子の血の注ぎかけなくして、世の救いは全うされないのです」
主がお話を終えられると、三つの軍勢(預言者、聖人、御使い)は視界から消え、動物たちだけがあとに残った。すると、彼らは舌が与えられているのを知り、地上と正義の主に向かってこう訴えた。
「ああ、主よ、罪を犯したのはアダムです。罪がないのであれば、なぜ私たちが殺されなければならないのでしょうか」
主はこうお答えになった。
「まず、あなた方には咎がないわけではありません。なぜなら、あなた方もまた互いに殺し合い、食べ合い、世界に大きな害を与えているからです。第二に、アダムが罪を犯したときに、彼は大いなる名誉の中で創造され、その手に権威が与えられていたがため、残る被造物のすべては、彼の処罰を身に受けなければならなかったのです」
動物たちが彼らの主のお言葉に従ったときに、すべてを見守っていた私ヨハネは、自分も進み出て、主を拝したいとの思いに駆られたが、人間は私だけだったため、これら野獣に恐れを感じた。
だが、主は私の恐怖心にお気づきになり、名指しで私をお呼びになった。私は、これに大きな力を得て、主のみ前に進み出た。するとどうであろう。恐れを感じていた獣たちは退き、私のために道をつくってくれたのだ。そして、私が進み出て、主のみ足下に額くと、彼らはみな視界から消え去った。主を拝してから、私はこのように申し上げた。
「ああ、愛する主よ、私の仕事は今や終わりました。しもべがするべき仕事はまだありますでしょうか。どうかお命じになってください。しもべは従う用意ができています。私が世から退き、備えられた場所に行き、あなたがおいでになるのをそこで待つべきであるのなら、お示しになってください」
だが、主はこのようにお答えになったのである。
「いいえ、ヨハネ、あなたの時はまだ来てはいません。あなたは、かけがえのない殉教者の冠を勝ち取らなければならないのです。行って、私の時が近づくまで、あなたの仕事を続けなさい。あなたは、私以前にこの仕事に着手し、道を整えておくよう選ばれました。そのように、私以前に霊界に行き、私の到来のために霊を準備することが、あなたの仕事になるでしょう」
主の言われた通りのことが私に起こった。しばらくして殉教を遂げた私は、死すべき世を去り、天上の世界に入り、霊たちにイエス・キリストの福音を伝え、きたるべき出来事に備えさせた。そして、愛する主が生命を渡される日が到来すると、これら多くの霊たちは喜びの中で地上に降り、主を拝した。マタイ福音書にこのように書かれてはいないだろうか。
「また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちの体が生き返った。そして、イエスの復活ののちに墓から出てきて、聖都に入って多くの人々に姿を現わした」(52‐53)
この天命を受けたときに、私は歓喜に満たされて、主にどれほど感謝したか分からない。このように予め道を整えるという大いなる栄誉を、二度も私にお与えくださったからである。私は御前に額き、主を礼拝し崇めた。そして、顔を上げると、主が荘厳な御座にお座りになり、その両側に幾百万とも知れぬ数の、輝かしい御使いの群れが集っているのを見た。このように書かれている。
「誰も天に上った者はいない。しかし、天から下ってきた者はいます。すなわち“天におられる”人の子です」(ヨハネ福音書三13)
私はまた、主のみ座の周りに多くの座があるのを見た。主の聖者たちが、まばゆい冠を被ってそこに座った。これらの座に目を奪われていたときに、私の目は空席になっている一つの座に引きつけられた。そこに座る者は一人もいなかった。これは何を意味するのだろうかと考えていたときに、一人の御使いがその意味を教えてくれた。この座は、天の王に対して反逆ののろしを上げた、あの誇り高き御使いに属するものであり、彼の謀反行為と『サタン』の名は良く知られているところであると。御使いはこうも言った。
“世の終わりに至って、この座は、地上の生涯でもっとも謙り、もっとも優しかった人に与えられるのです”
私は、しばし、このような主の量り難い御業に思いを寄せ、歓喜に満ちた主の栄光に見入っていた。
しばらくして、この幻は消えた。私はふたたび主を礼拝し、ほめたたえ、その清き御前を離れた。
「あなたは来られます!
あなたは来られます!
私たちは途中であなたにお会いしましょう!
私たちはあなたを見、あなたを知りましょう!
私たちはあなたをほめたたえ、あなたを知らしめましょう!
