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沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの



私自身、キリストの教会から離れたものである。そんな私にはアッシジの聖フランシスコについて

書く資格などないのだろう。たとえ心の片隅にキリスト教の三位一体の互いを与え尽くす姿に畏敬

を感じていても、インディアンに代表される先住民族の聖なる輪に魅せられている自分を認めざる

をえないからである。彼らのつねに七世代先の子供たちを想い、今を如何に考えそして行動して

きた視点に、大宇宙を創られた創造主の慈愛に満ちた姿を思い浮かべてしまうのだ。この遥か

太古から受け継がれてきた贈りもの、それは創造主からの贈りものであり、彼ら先住民は日々の

営みの中に創造主の息吹を感じてきた。そんな彼らにとってキリスト教の言う「罪」という概念を理

解することは出来なかった。創造主、並びにその想いを守り続けてきた祖先の想いがあってこそ

今の自分が大地に立てるのである。その感謝と喜び、そして次の世代へ受け継ぐ責任。この聖なる

輪の中にはキリスト教の言う「罪」の意識はなく、感謝と喜びと祈りの光が彼らを包み込んでいた。

おそらく彼ら先住民こそ自分自身が「生かされている」ことを、知性ではなく体の一つ一つの細胞

を通して魂に刻んできた人々であろう。人間以外の生命からの「与えつくし」によって初めて人間

は生きることが出来る。生命を与えてくれた全てのものに対しての感謝と祈りがあるからこそ、

生きていることへの深い喜びがある。しかし、キリスト教徒がもたらしたものの多くは、破壊と分裂

と暴力でしかない。そのようなキリスト教に私は何故も惹かれているのだろうか。それはきっと

十字架上のイエスの「与えつくし」の中に、創造主の深い慈愛を感じているからなのだろう。全く

狂気としか言いようのない慈愛の原形をそこに見ているのかも知れない。悲しいことに歴史は、

その原形とは全く正反対の悲劇を創り出してきたことを記している。キリスト教徒は徹底的にこれ

ら先住民の創造主の慈愛に満ちた目を奪い滅ぼしてきた。キリスト教徒が彼ら先住民族に立つ

創造主の姿、与え尽くす創造主を憎み滅ぼそうとしたことは何と皮肉なことだろう。自分たちが

体現できなかった至高の光を、野蛮人と言われる人の中に見出した時の困惑と自らの余りにも

おぞましい姿に戦慄した時、彼らキリスト教徒はそのすべてを映し出す鏡を滅ぼし尽くす。それは

まるでイエスを憎み十字架にかけたそのものの姿に他ならない。果たして先住民族の魂に流れる

流れる源流とキリスト教の源流が合い交わり続けている聖なる泉があるのだろうか。それともそれ

らは合い交わることのない全く異質なものなのだろうか。私にはわからない。ただ「与えつくす」

創造主の姿が、どちらの川にも映し出されているのを感じられてならないのだ。正直言って私は

この「与えつくす」生き方をしているとは言えない。そんな私にとって、この問いさえ滑稽であり、

ましてこの聖なる泉について語る資格さえもない。幾度となく自らの欲望に引っ張られ、荒れ狂う

大河に幾度も呑み込まれてしまう。このような濁流の中において、何が出来るというのだろう。

ただ私はその沈黙の中においても、創造主がその手を降ろしてくれることを待ちのぞみたい。

1999.7.9


これから以下に紹介する聖なるものは、知性からではなく、沈黙の中から祈りへと向かった魂で

す。これらの魂はあるべき人間の姿、原始のキリスト教の姿を垣間見させ、何かを訴えかけてい

ると感じています。また先住民の魂については「アメリカ・インディアン」を参照していただけたらと

思います。皆さまの中に多くの内なる出会いが産まれますように。


 










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古本においては、Amazonが一番充実しているかも知れません。
 

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長崎の天主堂 五島・黒島をはじめとする隠れキリシタンの祈りが満ちた天主堂
モーリス・ズンデル神父 沈黙を通して語られる神の現存、三位一体の与え尽くす神の姿 
ラマナ・マハリシ 精神の至高に座した最もインド的な師が語る「私は誰か」
イエス・キリスト封印の聖書 霊的巨星サンダー・シングが語り教える神・人・宗教の真実
チベット永遠の書 50年間、大英博物館に眠っていた衝撃的なチベットの光と闇
契約の櫃 モーゼの十戒の石版を収めたアークが2500年の沈黙を破る

各文献のを押すと表紙並びに文献の言葉が出ます。





 「長崎の天主堂」

 長崎・五島列島の天主堂  


 
「長崎の天主堂 五島列島の教会堂」T・U・V DVD
「天主堂物語」
「西海の天主堂」「天主堂巡礼」
「切支丹の里 沈黙とオラショとサンタマリアと
「祈りの海 キリシタンの里」
「海郷の五島」
 


長崎・佐世保で生まれた私は3歳のときに奄美に引っ越したため、長崎での記憶は

殆ど残っていない。自分が生まれた故郷・長崎はどんな所だろうという想いと共に、

アッシジの聖フランシスコへを通してカトリックにひかれていった当時の私は独身時

代、約一週間かけて長崎の天主堂を見て回ったことがある。殆ど行き当たりばった

りの旅で、時には寝る場所もなく天主堂の前で一晩明かしたこともあったが、この

旅は私にとって貴重な思い出に満ち溢れている。私の心に一番強く残った所は、

佐世保にある黒島という島で、迫害を逃れ多くのキリスト教徒が五島列島などに逃

れてきたが、黒島もその中の一つだ。宿を早朝出て天主堂に向かったが、丁度学校

の登校時間で小・中学生が道を歩いていた。自分は何ものであるのか、という問い

が感動と共に発したのはこの時だった。すれ違った小・中学生の全てが見ず知らず

の旅人である私に「おはようございます」と笑顔で挨拶をしたのだ。迫害に耐えた人

たちの子孫にも受け継がれていたキリスト教の美徳。この時、何を思ったのか私は

もし私が生涯の伴侶を見出した時、絶対二人でこの島に来ようと固く誓ったものだっ

た。そして遠くから見る堂々たる天主堂、ミサの時教会に入りきれないほど多くの信

者。この時からこの黒島の教会は私にとって特別な存在になった。数年後、私は好

きな人とこの黒島に降り立っていた。この時の思いは散文詩「見果てぬ夢」に書い

ています。彼女と結婚する一ヶ月前、私は横浜・山手教会で洗礼を受けた。霊名は

「アッシジの聖フランシスコ」。新婚旅行で行った所はイタリアで、当時バチカンの

法王ヨハネ・パウロ2世に日本語を教えていた西山神父さんの案内でバチカンの

中を案内してもらった。法王様の祈りの部屋の近くにガラスケースがあり、顔半分

ひどい拷問の跡が刻まれた首があり、それは最初の殉教者聖ステファノのものだ

った。2000年近く前の遺体が腐敗することなく目の前に置かれている。一般の

観光客が入れないところまで、西山神父さんは案内してくれた。スイス衛兵に守ら

れた入り口で、背後に感じた多くの観光客の視線に、後ろめたい申し訳ない気持

ちと、このような光栄に恵まれたという複雑な心境で私たちは歩いた。前述した法王

様の祈りの部屋や殉教者聖ステファノの遺体も公開されてはいない場所にある。そ

の中で一番心が揺り動かされたものは、40畳もある大きな部屋の天井に描かれた

壁画だった。それは盲人の方が描いたもので、妻の助けを借りて完成させたというこ

とを聞かされた時、そして製作中の夫婦の姿を壁画の中に見出した時、信仰と愛情の

煌く美しさに心を奪われていた。アッシジでも修道院にいた日本人神父の案内で聖

フランシスコのゆかりの地を案内してもらった。聖ステファノと同じく700年たった今で

も黒く変色しミイラ化しているものの腐敗していない聖クララの遺体。聖フランシスコが

生まれた家、彼が洗礼を受けた時に使った洗礼盤、そして聖フランシスコの語りかけた

十字架板絵、修道会発足の豚小屋、シモーヌ・ヴェイユが生まれて初めてひざまずい

て祈った小さなポルチウンクラ教会。全ての思い出がまるで昨日のように感じられて

しまう。黒島・バチカン・アッシジ、何かに導かれたかのような旅をしてきたが、その行

き着く先が何処なのか今の私にはわからない。何度も書くが、キリスト教と先住民が

会い交わる場を探しているのかも知れない。私の旅はまだ終わりを迎えられないでい

るが、その出発点となったのは長崎・佐世保ということだけは確かなのだと思う。

(K.K)






この文献の詳細ページへ 「沈黙を聴く」

 現代の神秘家モーリス・ズンデルの人と霊性 

福岡カルメル会 編訳 女子パウロ会




私とキリスト教との最初の出会いは奄美大島にいたときのことである。当時家の近くに

カトリック系の幼稚園があり、ロジャース神父さんやシスター達が運営していた。そこで

の体験はあまり思い浮かべることは出来ないが、卒園式の日にいただいた聖母マリア

の像の何とも言えない高貴な、そしてすべてを包み込んでくれるようなその祈りの姿に、

私の心はひきつけられ魅せられていたことだけは鮮明に思い出すことが出来る。海上

保安庁に勤めていた父の仕事の都合で各地を転々とするが、高校時代を過ごした宮崎

の日南で、カトリックの良寛様と言われた小林有方神父さんの「生きるに値する命」とい

う衝撃的な本に出会う。私の両親はキリスト教ではないのに何故この本が家に置いて

あったのか今でも不思議であるが、当時灰色の青春時代を送っていた私にとって、こ

の本は人間の、そして生きることの素晴らしさを垣間見させてくれたものだった。このよ

うな出会いがあったにも関わらず、私は教会に行くことはなかった。詳しいことは散文詩

に書いているが、その後シモーヌ・ヴェイユに魅せられ、ある神父さんの部屋でアッシジ

の聖フランシスコを描いた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」に触れ、カトリックの

信仰に強くひかれていった。そして単純素朴なカトリックの信仰を持つ妻との結婚を前

に横浜の教会で洗礼を受ける。このモーリス・ズンデル神父との出会いは、それから暫

く経ってからのものである。キリスト教の奥義、三位一体の互いを与え尽くす姿、父と子

と聖霊がそれぞれに自らを与え尽くし、そして私たち被造物に対しても、ひざまずき苦し

んでおられる神の姿を心に映し出してくれた。このモーリス・ズンデル神父は現代の聖

フランシスコと呼ばれ、貧しさの中に生き苦しむ人と共に歩んだ人であったが、彼の思

想は当時異端扱いにされ様々な教区を転々とさせられる。彼の数少ない理解者で、特

に彼を愛した教皇パウロ6世によってヴァチカンの黙想指導に招かれたのは彼が死ぬ

3年前のことであり、生涯の大半は疑いの目で見られ疎んじられていた。彼が私たち

に遺したものは25年経った今でも、人々の心に三位一体の神の姿を鮮やかな色彩と

芳香をもって映し出し、沈黙を通して語られた神の現存は、私たち一人一人が追体験

することなしには、魂にその根を降ろすことはないだろう。まさに彼はすべての存在の

背後にある創造主の息吹に触れることができた純度の高い鏡そのものであり、その

鏡に反射された希望と喜びは私たちの魂の奥深くまで貫いているのかも知れない。

(K.K)


モーリス・ズンデル神父(1897−1975)が書いた文献として「日常を神とともに」

「内なる福音」があり、それぞれ女子パウロ会から出版されているが、どれも胸を

打たずにはいられないものである。


 
 


2011年12月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

写真省略

「ケンブルの滝」と呼ばれる星の並びです。

この滝はペルセウス座とカシオペア座の近くにある「きりん座」の中に位置しています。写真では
左下から右上にかけて直線状に伸びているのがわかると思いますが、この写真は他のサイトか
ら引用させていただきました。

皆さんは、「望遠鏡だとこんなに美しく見えるんだ」と思うかも知れません。でも実はこのケンブル
の滝は双眼鏡でしか全体像を見ることができないんです。何故ならこの滝の長さは満月5個分に
相当する長さなので、望遠鏡では滝の一部しか視界に入らなくなってしまうからです。

この滝の存在は、フランシスコ会の修道士で、アマチュアの天文学者でもあったケンブル神父
父が小さな双眼鏡(口径3.5cm、倍率7倍)で見つけたものです。「え?、そんなに小さな双眼鏡で
星が見えるの?」と思われるかも知れませんが、夜空には望遠鏡よりも双眼鏡の方が適してい
る天体もあるんですよ。

「私たちはこの社会の多忙さにより、小さな美さえ気づかないでいる。」ケンブル神父

もう直ぐクリスマスですね。

少し話がそれますが、私が感銘を受けた本「沈黙を聴く」の中で紹介されたモーリス・ズンデル神
父はそのユニークな思想のため教区を追われ、各地を転々とさせられます。ようやくズンデル神
父の価値が認められたのは彼が亡くなる3年前(1972年)のことで、時の教皇パウロ6世により
ヴァチカンの黙想指導に招かれています。

このズンデル神父の言葉を紹介しようと思います。「キリスト教の話なんて聴きたくないよ」と思わ
れる方もいるかも知れませんが、クリスマスということで許してください。

「キリストを愛するとは、すべてを愛することである。
彼とともにすべてを愛するのでなければ、イエス・キリストを愛しているとは言え
ない。私たちはブッダを愛する。この人の誠実さはキリスト教的だから。マホメット
もまたしかり。いのちと愛の足跡を見いだすところなら、どこにおいても人は安ら
ぎを感じるだろう。なぜなら、そこで神に出会うからだ。」

ケンブルの滝、20個以上集まるこの滝の先端に散開星団「NGC1502」(写真では左端やや下
に映っています)があります。この星団までの距離は2680光年。つまり2680年前船出したこの
星団の光がやっと今、地球に到達しているんですね。この地球で2680年前頃というと「ソロン、
釈迦、孔子」が誕生しています。

こんな昔のことを思い浮かべながら夜空の星を見上げるのもいいかも知れませんね。
皆さん、いいクリスマスを。


(K.K)


 





 この文献の詳細ページへ 「ラマナ・マハリシの教え」 

ラマナ・マハリシ著

山尾三省訳 めるくまーる社




私たちが一般的に使うところの知性を通して、ラマナ・マハリシの言葉やその奥に秘め

られた深遠な次元を真に理解することが出来ないだろう。「沈黙」を通して初めて真の

「知」は産まれ、それは決して思弁的な知性をまとうことはない。インドに限らずインディ

アン(先住民)、キリスト教の偉大な人々はこの「沈黙」から自らの存在の礎石を築いて

きた。ラマナ・マハリシにとってそれは「“私は在る”という感覚だけがあり、想いはない。

“私は在る”という経験は、静かであること」なのである。この余りにも騒々しい現代文明

に慣れてしまった私たちが遥か彼方に忘れてしまったもの。それは一体なんだろう。

(K.K)


 
 


鳥獣からも慕われ、アシジの聖フランシスコに比されるラマナ・マハリシは、しかし最も

インド的な師(グル)であった。17歳にして死との葛藤を超克、精神の至高の座に再生し

た彼は、南インドのティルヴァンナマライにあって、数年間の沈黙ののち、平易な言葉で

深い真理を語り始めた。没後30余年、彼が瞑坐したアルナチャラの赤い山からは、今

なお一筋の白い光がわれわれを射る --- 「私は誰か」。 (本書帯文より)


 


シュリ・ラマナはインドの大地の真の息子である。彼は誠実でありながら、どこかまったく

常ならぬものを持っている。インドにあって彼は、白い空間の内なる最も白い一点である。

われわれがシュリ・ラマナの生涯と教えの内に発見するものは、最も純粋なインドである。

インドの解き放たれた世界および人間開放の呼吸は、ひとつの千年至福の聖歌である。

そのメロディは、ただひとつの大いなるモティーフに添って奏でられており、千もの彩りの

反射を伴って、インド精神の内につねにそれ自らを若返らせてきたのだが、その最後の

化身が、シュリ・ラマナ・マハリシその人である。自己と神を同一視することは、ヨーロッパ

人にとっては、ひとつのショックとして響くであろう。このことは、シュリ・ラマナの言葉の内

に示されているように、特別にオリエンタルな「自己実現」であると言える。心理学は、この

ような自己実現の問題を提示する分野からは遥か隔たっているという見地の他には、何

ひとつこの問題に貢献することはできない。しかしながらインド人にとっては、精神の源と

しての自己は、神と異なるものではないということは明瞭であり、人が彼の自己の内に

在るかぎりは、彼は単に神の内に含まれて在るだけでなく、神御自身でもあるということ

が明瞭である。シュリ・ラマナは完全に、明らかにこの見地にある。(中略) それゆえに

東洋の智慧と神秘主義は、彼らが自身の固有の言葉で語るならば、われわれ西洋の

人間に伝えるべき非常に多くのことを持っている。それらはわれわれに、われわれもかつ

ては自身の文化において同様のものを持っていたが、すでに忘れ去ってしまっていること

を思い出させてくれるし、われわれが重要ではないものとして払いのけてしまったもの、

すなわち、われわれの内なる人間の運命として払いのけてしまったものへと、われわれ

の注意を引き戻してくれる。シュリ・ラマナの生涯と教えは、インド人にとって大切なもの

であると同時に、西洋人にとっても大切なものである。これは、人間の最大の関心事に

ついての記録であるばかりでなく、無意識の混沌と自己制御の欠如の中で自分自身を

喪失する恐れのある人間性にとって、ひとつの警告のメッセージでもある。(ユング)






 この文献の詳細ページへ 「イエス・キリスト 封印の聖書」 

蘇る原始の教え サンダー・シング

林陽 編・訳 徳間書店




この深い至福の感覚は何処からくるのだろう。本書を読み終わって私はその甘美な世界に

しばらく浸っていた。死を前にしてのキリストとの劇的な出会い、その臨在という光を前に

して語られる言葉の多くに圧倒されていた。そしてそこにキリスト教の原形を見たように感

じられてならなかった。十字架に見られる神の深い慈愛を改めて垣間見させてくれる本書

は、宗教を超えて万人の心に、失われてしまった至福感を呼び覚ましてくれるものだろう。

(K.K)


 
 


本書はキリストを具現化したような聖サンダー・シングの霊的生涯の物語である。生きる

ことに疲れ、心の平和を求めているアナタ、ぜひこの書を手にとり、どのページか開いて

みてください。そこにはきっとアナタに今一番必要な言葉が待っているでしょう。それは神

が天から降ろした御言葉。本書は道に迷ってしまった現代人に真理への道案内をする

もう一冊の「聖書」である。(今井美沙子 カトリックのノンフィクション作家 本書・帯文)


 


近代インドの聖者サードゥー・サンダー・シングは、全世界が危機的状況に置かれていた

大戦の激動期に、わずか十五歳にして、平和の与え手である神を求める祈りに生死を駆け

た。しかし、彼の前に現れ、永遠の平和で魂を包んでくれたのは、インドの神々ではなく、自

分が敵視してきたイエス・キリストであった。このときの衝動的な出会いを通して、聖パウロ

にも比較できる劇的回心を辿った彼は、全世界に魂の平和を伝道するキリストの使徒とし

て生まれ変わった。それまで閉ざされていた霊眼が開かれて、天上界で行われている見え

ざる事象の数々を目の当たりにし、生きながらにして天界と地上界の間のかけ橋になった。

彼の行くところ、どこにおいても不思議な奇蹟がついて回り、誰もが彼の聖なる姿に、イエス・

キリストの面影を見た。この平和と愛の使徒は、東洋ばかりか、西洋においても非常な感動

をもって迎えられ、「東洋のフランシス」、「第二の聖パウロ」と呼ばれ、愛された。 (中略)

サンダー・シングの生きた言葉は、心の平和を求めながらも見出せずにいる現代人に、霊

の渇きを潤す泉のような作用をする。彼は、釈迦やキリストと同じように、東洋人独特の深

い情感に訴える。美しくわかりやすい例話によって、神と霊魂についての深遠な問いを説き

明かす。千ページ読んでもわからなかった神についての素朴な問いが、たった一つの例話

で直感的に解される心地良さがある。彼の教えには、宗教を超えた不思議な、神秘な魅力

がある。それは、あらゆる宗教、宗派を超えて霊魂そのものに働きかける救いの水、生け

るキリストの実証なのである。先に上梓した「インド永遠の書」と並び、本書が、真理探究を

する人々の道を照らす一条の光となれば幸いである。(1998年3月 林 陽 本書より)


サンダー・シングとカイラスの大聖との対話「天国と死後世界」

年雪に閉ざされた大ヒマラヤの霊峰カイラスの洞窟に住む、年齢三一八歳という聖人

との対話録です。日本では未発表のもので、訳者の林陽さんからいただきました。






 この文献の詳細ページへ 「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」 

テオドール・イリオン著

林陽訳 徳間書店




チベットの闇の世界、それは死体を蘇らせ自らの僕として使う地底の暗黒の王国

であり、その黒魔術的な魔法はアドルフ・ヒットラーにも多大な影響を与えた。この

暗黒の地底王国に君臨する「光の君」は著者によれば堕天使(神のようにならん

と欲し、そのために自らの栄光を失った天使たち)そのものだった。イリオンとい

う類い希な探検家、神秘思想の持ち主でしか為し得なかった驚くべき体験記録。

しかし本書の真の価値は、この暗黒の世界と対峙するチベット賢人の慈愛に満

ちた魂に立っている。イリオンが言うように、この「目もくらむばかりの頂とおぞま

しい奈落の底」を選ぶのは私たち一人一人の自由意志である。この光と闇の世

界の分かれ道に、これらチベットの賢人の祈りは私たちをあるべき道へと導き、

あるべき道を指し示す道標として立ち続けているのだろう。

(K.K)


 
 


不老不死の聖人たちと出会うまでの体験。中央アジアに存在するといわれる伝説の地下

都市に招かれ、闇の秘密結社で三日間生活を共にしたのち奇跡的生還を果たすまでの、

戦慄を呼ぶ恐怖の体験手記。この中央アジアの地底世界に実際に参入し、そこでの体験

を詳細に報告できた探検家はテオドール・イリオン唯一人であろう。「チベット死者の書」と

並び、一部のチベット研究家の間で秘蔵書とされてきたイリオン氏の著作をわが国の読者

に広く提供できることは、大きな喜びである。「死者の書」が“表”のチベット研究書とすれば、

本書はまさに“裏”のチベット研究書といえよう。 (本書・緒言より)


 


「目もくらむばかりの頂とおぞましい奈落の底とを選ぶことができる」 これはチベットの賢人

の一人が語った言葉である。この言葉はただ個人にばかりか、人類全体の運命にもいえる

こただ。ときのしるしは新たなる時代を逃している。それはすぐそばにまできているのだ。新

たなる時代、それはよりよきものとなるだろうか。それとも今以上に悪しき時代となるのだろ

うか? 頂から数センチのところに絶壁はある。多かれ少なかれ、われわれの誰もが世界の

動きに加担している。自らの責任を自覚しようではないか。チベットの賢人たちは世の出来

事を見つめはするが、彼らもいうように、道標としての役目を果たしているにすぎない。彼ら

は他人の自由意志に決して干渉しない。光の道をとるか闇の道をとるかは、人間の自由な

のである。そこにこそ人間の栄光がある。われわれは霊的に学べば学ぶほどに責任も大き

く増してくる。われわれの心の奥底には、非利己的な愛の火花が隠されている。われわれを

太霊、真実の自己と調和させているものがそれだ。この太霊がわれわれを導くとき、霊的な

利益をいっさい顧みない「愛」がわれわれの生活の指導原理になり、増してくる知識と力の

一つ一つは、相応して増してくる責任と謙虚さの気持ちによって、自動的にバランスがはか

れるようになる。このことが、わたしがチベットの精神生活を研究する過程で学びとった最大

の教えだった。( テオドール・イリオン 本書より )






この文献の詳細ページへ 「契約の櫃」

聖書預言の最終シナリオ

 ジョナサン・グレイ著 林陽訳 徳間書店 




アメリカ人の考古学者ロン・ワイアット氏は、聖書に関する史跡発掘で世界的にその名を

知られ、映画「レイダース/失われたアーク(聖櫃)」のモデルにもなったと言われている。

しかし、本書の真実性は世界的に有名な考古学者ということから判断するのではなく、彼

の熱く素朴な信仰から出た言葉から判断しなければならない性質のものである。旧約聖書

から新約聖書を貫く神の救いの計画は十字架のイエスを通り、この「契約の箱」発見にお

いて完結する。この宗教界をも揺るがす発見に人類は何を見出すのであろうか。

(K.K)


 


紀元前14世紀、モーゼが「十戒の石版」奉納のため、神からの啓示に基づき制作したと

いわれる契約の櫃。しかし紀元前587年、アークは突如歴史の表舞台からその姿を消すこ

とになる。以後、神の臨在をしるし、世界支配の魔力を宿すといわれた<失われたアーク>

をめぐって、バビロニア、ローマ帝国、さらにヒットラー、ムッソリーニに到るまで、時の権力

者たちは執拗にその行方を追い続けてきた。本書は、1982年1月に発掘されていた史上

最大の秘宝アーク発見までの経緯と、宗教界、国際情勢に大変動をもたらす事実が明らか

になったことで「機密扱い」にせざるをえなかったイスラエル政府の衝撃と苦悩を綴った壮絶

なるドキュメントである。・・・・・・・櫃の洞窟にはとんでもない発見が待ち構えていた。聖櫃の

蓋にかかっていたミステリアスな黒い物質である。科学研究所での分析により、それが男の

人間の血、それも母の染色体しか持たぬ、いわゆる「半数体」の血であることが判明したの

である。ロンは、この血を、二千年前に十字架で槍に刺されたイエス・キリストの血そのもの

であると結論づける。(本書より)


 


本書は、このような複雑な情勢により、10年以上も秘密にされてきた世紀の大発見の物語を、

使用が許される限りの写真材料をもとに再現、初めて公表するものだ。ある意味では著者の

命を懸けた本である。提供されている証拠は全体の一部にすぎず、多くは、いまだに公表の

段階には至っていない。本当に、このようなことがあったのだろうか。話ができすぎていやしな

いか、と思う読者もいるかもしれない。著者自身、最初はワイアットを疑い、彼の主張を反証す

るために、独自にチームを編成、調査を開始するのだが、皮肉にも、ロンの発掘の真実性を

実証する結果になったのである。私自身、これだけの証拠が提供されているにもかかわらず、

やはり最初は疑った。しかし、この本とはまったく無関係な情報源から、ロン・ワイアットの発掘

を真実と確信せざるを得なくなった。それは十九世紀初頭に生きたドイツの修道女、尊者カタリ

ナ・エンメリック --- 現在列聖調査中 --- の記録であった。エンメリックは、際立った幻の賜物

をもっていたが、病弱なため、修道院からは一歩も外に出ることはなかった。幻は、天地創造

からイエス・キリストまでの歴史、終末の預言までを含む壮大なものである。幻の正確さは立証

されている。当時誰も知らなかった聖母マリアの隠居所の跡が、彼女の述べた通りの場所(トル

コのイズミール)で、100年後に発掘されたのだ。彼女はまた、イエスが磔にされたカルバリー

の地点を、定説(聖墳墓教会)とは異なる、ダマスコ門の外の丘に特定していた。「園の墓」の

発掘により、イギリスのゴードン大佐がここを真のカルバリーの丘と定める、実に50年も前の

ことだった。だが、もっとも驚くべきは、この十字架の地点から一直線上の地下に、人祖アダム

の遺骨を納める契約の櫃が眠っていることまでを、幻に見ていたことである。ロンは、アダムの

遺骨のことまでは、明らかにしていないが、この驚くべき一致に、私は鳥肌が立つ思いがした。

彼女によると、カルバリー(どくろ)の名は、アダムの頭骨がここに葬られたことに由来する。

そして、アダムの骨と契約の櫃、イエスの十字架が直線で結ばれるこの地点は、「地の中心」

であるという。エンメリックは、契約の櫃の歴史について詳しく物語った後で、「これらすべての

ことは、終わりの日に明らかにされるであろう」と預言した。今は、まさしくその時代なのだろう。

ヨハネ黙示録には、契約の櫃が姿を見せる場面が預言されている(十一19)。それに続いて、

ハルマゲドンへと続く終末に起こる最後の大艱難の時が預言されている。契約の櫃の発見は、

聖書に預言された終末の時と、密接にリンクするように思われるのである。本書は、歴史、

宗教、考古学のミステリーに関心をよせる人にとっても、今後の世界の動きに真面目な関心

をよせる人にとっても、大きな啓示の書となるだろう。(1998年9月25日 林 陽)








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