未来をまもる子どもたちへ


小林有方「許しあういのち」

「生きるに値するいのち」ユニヴァーサル文庫 1960年発行 より引用


   
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小林有方さんのこの「許しあういのち」に出てくるカンドー神父は「世界のうらおもて」

という本を出しておられます。私自身この本の中で紹介された実話、第一次世界大戦

で実際にあった出来事に感銘を受け、散文詩「星夜の調べ」の中に入れさせていただ

きました。この「二つのクリスマス」というカンドウ神父ご自身の体験を下に記します。



「二つのクリスマス」

わたしが今までに出会った最も殺伐なしかも平和なクリスマスの思い出話をしたのは、

最も寂しいしかも賑やかなクリスマスの晩のことであった。それは先の戦傷後、スイスの

病院で腰骨入れ換えの大手術を受けて間もないころであった。全身ギブスに生き埋めの

形で、教会のクリスマスを偲んでいるわたしをあわれんで、手術した6人の医師が病床

を囲んで晩餐会を催してくれたのであった。降誕祭の夜食と言えば、日本での元旦の

雑煮にように、家族そろって祝う楽しい行事である。それをこの医師たちは犠牲にして、

うそ寒い病室に集まってきた。レマン湖の鯉の上等料理を取り寄せ、シャンペンを抜き、

Aドクトルがわたしの首にナプキンをかければ、Bドクトルはフォークを口に運び、大きな

巣雛のように総がかりで食べさせる。それから夜の2時過ぎまで、且つ飲み且つ歌い、

果ては次々と変わったクリスマスの思い出を語り合った。そこでわたしも持ち出したの

が次の話であった。


第一次世界大戦の塹壕の中で迎えた降誕祭のことである。我々は夜になっても続く烈し

い戦闘と厳しい寒さに疲れきっていた。凍傷で足を切断するようになるのを恐れて、めい

めいがサージンの空缶に炭火を入れ、靴に縛りつけていた。靴の底が焼けてジリジリいっ

ても構わず、ただもうがむしゃらに、数十メートル先の敵の塹壕を目掛けて、ヘトヘトにな

りながら手榴弾を投げ合っていた。そしてだれもが心ひそかに故郷のクリスマスのことを

思っていた。


そのうちとうとう一人が「ああ、今ごろはみんな教会で賛美歌を歌っているんだろうな」と

つぶやくと、そばのが 「どうだ、我々も一つ歌おうじゃないか」といきなり、“天に栄光、

地には平安”を歌い出した。そにつられてあちこちから歌声が上がり、たちまち塹壕中は

大合唱になってしまった。と、向こうのドイツ軍の塹壕がなんとなくひっそりしたと思うと、

とたんに張りのある美しい何部合唱かで、我々のコーラスに加わってきた。こちらが気勢

を上げて声を高めると、向こうも歯切れのよいドイツ語でますます調子をつける。負けじ

劣らじと歌ううち、相手の合唱に代わる代わる耳を傾けるようになり、聞きながら次の歌

を用意して、あちらがすむと、さあこれはどうだ、とばかり歌い出す。そうして思い出す限

りの聖歌を、敵も味方もわれを忘れて、天にとどろけ地にも響けと、思うさま歌い抜いた。


やがてさすがに息が切れ歌合戦の歌の種も尽きたとき、どちらももう手榴弾のことなど

すっかり忘れ、いい気持ちでそのまま朝までぐうぐう寝てしまった。実に何年ぶりかの

平和な眠りだった。相手の寝込みを襲おうなどという考えの夢にも浮かぶはずのない

ことを双方とも確信していた。それこそ一家族伝来の祭りを共に喜び祝った兄弟のよ

うに、同じ歌の余韻に包まれて、安らかに眠ったのであった。



S.カンドウ(Sauveur Candau)

1897年、南フランス・バスク地方に生まれる。第1次世界大戦に参戦し負傷。

療養地ブルターニュ地方の深い信仰に感動し、聖職者を志す。1925年、パリ

外国宣教会の司祭として来日。1929年、東京大神学校の初代校長に選ばれ、

日本人司祭の育成にあたる。終戦後は、日仏学院主席教授、あけの星社会

事業団の指導者をつとめる。日本語の著書に「思想の旅」、「永遠の傑作」、

「バスクの星」など多数がある。1955年9月28日死去。


 







「生きるに値するいのち」小林有方

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