
「夜と霧」をこえて
ポーランド・強制収容所の生還者たち
大石芳野著 日本放送出版協会 より引用

クオジンスキの言葉(本書より抜粋)
「すべての囚人がそうだと思いますが、いまだに完全な開放感はない。
収容所の恐怖感を引きずりながら、現在の生活と比較して考えてしま
う。そのあまりにも違うギャップに苦しい気持ちになる。収容所で受け
た苦しみによる障害者ということです。いつも何かに脅えたりこだわっ
たり。自らの内側と外側の葛藤に悩んでいる」
「私には生きる喜びがない。常に収容所時代のことがあり、日常的な
生活が普通の人のようにできにくい。私もかなりの変人です。私たち元
囚人が集まると皆同じ感じ方をしている。そして、いつもそのことが問題
になる。元囚人同士の理解と、一般の人の理解とは違う。それが皆いち
ようの感じ方です」
「人生そのものの真実を見つけること。真実を述べること。健康な生活
をすること。そして苦しみについて別の価値観をもつこと。多くの苦しみ
は一時的なものでいつか過ぎ去ってしまうものです。頭痛も苦しみに値
しない。多くの人が病気に対する忍耐をもっていない。世界の正しい
見方を心得てもいない。これは今日までに私を育てた考え方です。個人
的な人生体験からのもので、他の囚人だった人がどう思っているかでは
ありません」
「私の息子にも孫にも、私が収容所にいたことによる弊害が認められる
のです。神経過敏、不安、恐怖感、集中力の低下、周囲の環境に順応
できない。絶え間ない自己分裂といったものがある。こうした弊害が原因
でしょうか。息子は離婚しました。心臓外科医なのだが進むべき方へ
向かわないで軌道から離れてしまう。孫は少しの物音にも異常な反応を
示す。どれも皆私のせいなのです。1941年8月から私はこの病気にか
かり始め、そして49年に生まれた息子に影響を及ぼし、さらに73年、
76年生まれの二人の孫にまで影響を引きずったのです」
![]()

強制収容所に捕らわれた人によって書かれた絵画
「子どもの命はすぐに奪われた」
(画像は本書より引用)
アウシュビッツ収容所でも、SS医局部長のヨーゼフ・メンゲレ博士が、主に
双生児を対象に実験を重ねた。子どものバラックは合わせて16棟あり、そ
のうち7棟が子どもばかりで、残りは成人と半々の同居だった。双子だけを
一棟のバラックに入れ、また幼稚園と呼んだバラックが2棟もあった。いず
れの棟にいた子どもたちも、メンゲレの生体実験の材料になるか、餓死、
病死、そしてガス室が子どもたちの命を奪った。解放のとき、生き残ってい
たのはわずか200人でしかなかった。第二収容所であるビルケナウの一画
にある一棟のバラック16号室には、大勢の子どもがいたが、人体実験、ドイ
ツ化、殺害、餓死、病死にさらされた。さらに1943年7月、ポトリツェ収容所
に542人が移動させられ、その運命はわからない(38項ガドムスカの項参
照)。一つのバラックに成人500−1200人くらいが入れられていたが、
子どもの人数はそれよりはるかに多かった。1944年8月1日のワルシャワ
蜂起で、18歳未満の子どもが約1400人もアウシュビッツへ送られてきた。
6−8歳のいたいけな少年を、成人としてかり出す扱いをした。もっとも女子
は14歳まで子どもとみなされた。収容所に送られた子どもたちの大半が、
着くなりガス室送りだった。例えば、1944年、ハンガリーから何万人もの
子どもが貨車で連れてこられたが、全員がその日のうちにガス室へ送られ
た。さらにポーランド東部のザモヒチからの貨車の大勢の子どもたちも、そ
のほとんどが餓死とガス室送りとなって、生き残れたのはごくわずかだった。
もちろん、こうした子どもたちは登録さえされていない。どの収容所でも病気
になった子どもの命はほとんどなかったし、1943年以前の新生児や妊婦も
同様だった。妊婦ばかりが大勢集めて殺されたこともあった。トレブリンカ
収容所では赤ん坊を抱いた大勢の母親たちが、全裸でガス室に送られる
写真が残っている。子どもを抱いた母親は、たとえ健康でも母子ともに殺さ
れた。祖母が孫を抱いていると、母親は労働に回され、祖母は子どもととも
に殺された。労働力になり得ない子どもは、病人、老人と同様に、ナチスに
とってはまったっく無用の存在だったのである。(本書より引用)
