「対訳 亀の島(Turtle Island)

ゲーリー・スナイダー著

ナナオ サカキ訳 山口書店 より







「亀の島」とは北米大陸のことであり、多くのインディアン部族はこの大陸を亀の背に

乗っている島だと考えていた。この「亀の島」に関する神話・伝説は数多く存在して

いるが、本書のゲーリー・スナイダーはこのインディアン並びにに共通して横た

わっている視点を取り戻すことこそ未来を創造できるかどうかの試金石だと語る。

日本で禅の修業をし、環境問題と先住民問題には密接に関わってきた著者が世に

問うた本書には、詩と説話が収められているが、その中の多くは実に美しい響きを

奏でており、インディアンなど先住民に共通する魂が著者にも宿っていると感じられ

てならない。1975年のピューリッツア賞(詩部門)受賞作品。

(K.K)


 




詩が語るのは“場”であり、生命をつなぐエネルギーの道筋。それぞれの生命はこの

流れに浮かぶ渦巻き、形なす乱流、一つの歌。この詩集の作品は、ヨーロッパ、アフ

リカ、ラテンアメリカ、アジアなどから来たアメリカ人の“亀の島”の未来の可能性に捧

げられている。彼らがこの“亀の島”の大地を、場を愛し、学ぶ日がくるように望みなが

ら。たとえ合衆国がその土地をだめにし、古代からの森を切り倒し、水圏を毒まみれ

にしたとしても、私たちとその子孫がきたるべき数千年の未来にわたって、この土地に

住み続けたいと望むのは当然のこと。これは日本、東南アジアまたブラジルにも妥当す

る。私たちは住み続ける。その私たちが、なぜ未来をだめにしつつあるのか。その原因

の一部は、政治的経済的絵空事にすぎない短命な国家を、合衆国や日本を永久のもの

と見なすからだ。真実の相は、“亀の島”であり“ヤポネシア”。今こそ最も古い伝統に戻

るべき時。アフリカ、アジア、ヨーロッパそれぞれの“根の国”からこの大地と場を敬愛す

るよう学ぶ時。そうすれば“亀の島”で、また宝石の島々つながる日本で、この惑星地球

に共に生きることになる。(本書・日本版“亀の島”への序文 ゲーリー・スナイダーより)


 
 


宇宙家族の祈り モホーク・インディアンの祈りから



有難き 母なる地球

昼も夜も漕ぎゆく 母なる地球

優しく 尊く 豊かな

おお 大地よ さあれ 我らが心も



有難き 草よ 樹よ

雨にも風にも負けず 立ち

根っこは 見事な毛をひろげ

葉っぱは 陽の光 命に変え

踊るは 流れうずまく 種子の中

おお 草よ 樹よ さあれ 我らが心も



有難き 大気よ

その胸のいだくは 天がけるアマツバメ

また 夜明けに静まるフクロウ

我らの歌は息吹く さわやかな心の微風

おお 大気よ さあれ 我らが心も



有難き 野のけだものよ

秘密と自由と道教え 我らと乳わかち合う兄弟

満ち足りて 雄々しく 心冴えわたる

おお 獣よ さあれ 我らが心も



有難き 水よ

とどまり また流れ

雲 湖 川 氷河と変わりゆく水よ

我らの生身を流れるは 塩の海

おお 水よ さあれ 我らが心も



有難き 太陽よ

もやを 樹の幹をつらぬく まぶしい光の鼓動

熊眠り 蛇眠る穴をあたため

我らを眼ざます

おお 太陽よ さあれ 我らが心も



有難き 天よ

数十億の星をいだき さらに彼方へ

すべての力と 思いをこえて

しかも 我らの内にひろがる

祖父なる天

心は その妻

おお 偉大な天よ



さ あれかし




この「宇宙家族の祈り」は「対訳 亀の島(Turtle Island)」の著者で詩人のゲーリー・

スナイダーが「モホーク・インディアンの祈り」を少し書き加えたものかも知れません。


 


野生とは



私は、詩人。私の師は、他の詩人たち、アメリカ・インディアン、それに日本の佛教の

僧侶たち。私の本来の選挙区である野生からの声を伝えようと、ここにやってきた。

学会でも政界でも、一般には代表権を認められていない領域を、私は代表したい。


数年前、最高に晴れ渡った日に、ワシントン州カスケード山脈のグレィシャー・ピーク

に登った。頂に立つと、カナダのセルカーク山脈まで見通すことができ、南はコロンビ

ア河を越えて、フッドやジェファーソンの山々が望めた。アダムス川や、レイニエ山は

もちろんのこと。ピュゼット湾の向こうには、オリンピック山群。一緒に登った詩人が

呟く ---- “はて、これらの山々全部を代表する上院議員はいるのかね?”


残念ながら、そんな議員はいない。そこで私は、人間以外の存在を含み、すべての

領域からの代表を受け入れる新しいヒューマニズム、新しいデモクラシーの定義を

考えたい。これこそが私にとって、生態学的自覚を意味する。


西洋文化を、私は好きになれない。なぜか? この文化には、何か持ちまえの悪が

潜んでいて、それが環境危機の根源にあると思われるから。この環境危機もその根

は古く、特に過去1000年の間、積み重なってきたもの。この西洋文化に素晴らしい

ものが多いことは、認めよう。だがその文化は、存在の基盤すなわち外なる野生(あ

りのままの自然すなわち野生、自己充足し自律的な生態系)と、いまひとつ内なる野

生とから、己を疎外してきたのだ。このような文化は、きわめて破壊的にふるまいが

ちであり、ついには自滅への道を辿りかねないだろう。


(中略)


詩人は、このような事柄に首を突っこむべきではないと、諸君は考えるかもしれない。

だが詩人なる私に語りかけてくるあの声は、西欧の人々がミューズと呼びならわし、古

き世の詩人たちからは“偉大な女神”、または“大いなる母”と呼ばれてきた自然そのも

のなのだ。彼女の呼び声は、ありありと私に実在する。私たちの文明を狂わせている

問題の根に横たわるのは --- 自然は真実以下の対象であり、人間のような生気も英

知もなく、いわば“死せるもの”、また動物は知性と感覚の次元が低いのだから、彼ら

の感情など無視していい --- などの誤った信念ではないのか。



原始的な人びとと文明人の間には、ひょっとしたら境界線が引かれている。原始的な

人びとの世界像には、私たちが参考とし、また学ぶべきひとつの知恵がある、と私は

考えている。もし私たちが文明解体の瀬戸際に立っているとしたら、次のステップとし

て、この原始的世界像に心を配るべきだ。というのは、伝統と知恵に従う彼らは、自

然のさまざまな力と交感するつながりを開き、またそのつながりを維持しつづけてきた

のだから。実験室に閉じこもるだけで、自然のさまざまな力と十分に交流できるだろう

か。問題のひとつは、原始的な人びととその文化について、私たちが無知すぎること

だ。自然に内在する真実と知性が、もっと敏感な視力を人間に要求していると仮定し

よう。ここから、次の一歩を踏み出せよう。この場合、自然の“知性”とはぴったりの

言葉ではないかもしれない。生態学者のユージン・オダムはそれを“バイオマス”と呼

んでいる。



生命のバイオマスとは、彼によれば、蓄えられている情報のことであり、生物体とは

細胞と遺伝子の中に蓄積されている情報を意味する。人類の図書館全体をあわせ

たものよりはるかに洗練され、はるかに複雑な夥しい情報が、わずか数平方メートル

の森に蓄えられている --- と彼は信じる。もちろん、それは次元を異にした情報で

ある。その中で私たちが生きている宇宙の情報であり、それは永い歳月を通じて流

れ続けている。この情報全体からの展望では、人間は必ずしも最高の、あるいは、

最も魅力的な作品ではないかもしれない。



進化の道すじをこのように考えるなら、進化の最前線で演じられている実験のうち、

最も興味深いのは私たち人類ではなく、ますます豊かな可能性に向かって展開する

生物界の、高度の多様性と洗練ぶりではないだろうか。植物はすべての食物連鎖の

根底にあり、基本的なエネルギー変換を受けもち、他の生物全体を支えている。古代

人が“偉大な女神”と呼んでいたのは、おそらく植物のこのような働きだった。植物は、

他のさまざまな形の生命体を養うことによって、ひとつの土地の住民となる。そして土

地ないし地方というのは、水、空気、土壌、基盤となる地層、上の方はたぶん成層圏

までのすべての気流変化 --- 風が集まって微気候と大気候を作り、これらすべての

要素が相互に干渉し合い、全領域の生命存在を可能にする範囲、ここでの住民とは

動物、人類そして多様な野生の全体を指す。



ここで私たちは、人間以外の生けるすべてのものが国政に参加する方法を、探さねば

ならない。 --- スー・インディアンは、昔からの彼らのことを這う人間、立つ人間、飛ぶ

人間、泳ぐ人間と呼んできた。 --- 案ずるより生むが易いもの。もしこれを実現しないな

ら、人間以外の生命は人類に反抗するだろう。彼らはすでに大気から、水から、土壌か

ら、のっぴきならぬクレームを受けているのだ。








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