
「シモーヌ・ヴェーユ最後の日々」
ジャック・カボー著 山崎庸一郎訳 みすず書房 より引用
シモーヌ・ヴェーユは、『神を待ちのぞむ』のなかにもはっきり言明しているように、その
生涯を通じて真理のみ追究した。しかし彼女のいう真理は、「厳密な意味では知性の領域
である」と同時に、「真理がわれわれのところにくるとすれば、それは外部からだけくる。そ
れはいつでも神からくる」ものとしてとらえられている。すなわち、不可知論ないしは仮定
的不信仰という前提から出発した彼女は、一方においては、真理にたいする知性の関係
をきわめて重視し、アプリオリなもの、暗示的なもの、感覚的なもののすべてを拒否し、あ
らゆる知的可能性の探求に誠実さを賭けたのであるが、他方においては、神から直接に
くだってくる真理にかんしては、願望、注意、服従の効力を信じ、この効力は、[知的]真理
の領域では無効であると考えていた。そして、この個人的立場から打ち樹てられた準則
は、知性と心情との双方の自律性を保障し、前者にたいしては饒舌にいたるほどの旺盛
な発言を許し、後者にたいしては沈黙と待機を強制したのであるが、このような厳格な二
分法の是非はともかくとして、彼女にかんするかぎり、心情の秩序への啓示、すなわち、
パスカルのそれにも比較すべきキリスト経験へと通じていることは事実である。しかし、
彼女においては、その体験以後も、強力な知性の働きは、しばしば矛盾に突き当たりな
がらも、それを突き抜けようとして、その活動をやめることがなかったし、このユダヤ女性
の固いうなじは、信仰さえあらゆる矛盾に踏み迷う領域、なかんずく、教会の権威、教義、
秘跡、救霊をめぐる問題にかんして、けっして頭をたれようとはしなかったのである。ところ
で、このような最後の心戦がおこなわれてゆく時期は、マルセイユからニューヨーク、さら
にロンドンと場所を移しながら、シモーヌ・ヴェーユが心身を擦りへらし、死に向かって一直
線にすすみつつあった時期でもある。大戦を通じて、神の退去の結果として重力のみが
支配することになった世界(パスカルなら逆に、原罪による神なき悲惨さの世界と言うで
あろう)は、愛と正義とは無縁の力のメカニスムによって、ますますその残忍さを顕在化
しつつあった。かつて、ローマ帝国の犯罪的暴力のすべてがキリストに突きあたり、そ
の十字架において純粋な苦しみと化したように、シモーヌ・ヴェーユもまた、力の抑圧に
苦しむ人びとの不幸と同一化しようとしてフランス本国派遣を執拗に嘆願し、それが拒否
されると、食思欠損と病いとによって一挙に死のなかに落ちこんでゆくのである。この死
をまえにした最後の時期、彼女の言辞に如実にうかがわれるように、彼女の知的自我
の習慣的メカニスムは、若干の逸脱とも呼ぶべきものを伴いながら、ときには解決不可
能な神学的問題をめぐる非現実的な雰囲気のなかで、いぜんとして運動していたかも知
れない。だがその反面で、彼女が実践した「愛の狂気」は、衰えてゆく肉体のなかで自我
の発言を徐々に封じてゆき、彼女の心情は意識せずして神に満たされていなかったとだ
れに断言しうるであろうか。真に内的な劇は立ち入る権利はないという意見も原著者は
はっきり表明しているが、われわれは本書のなかに、以上の線に沿った解釈の方向を
うかがうことができるし、この方向は、ヴェーユの包括的理解にも重要な因子となりうる
ものと考えられる。この点は、貴重な新資料と提出とならんで、本書の忘れてはならぬ
価値であろう。
(本書 訳者あとがき より引用)
