謎のチェス指し人形「ターク

トム・スタンデージ著 服部桂・訳 NTT出版 より引用









1770年、ウィーンで常軌を逸した発明がベールを脱いだ。通称「ターク(トルコ人)」というロボットは、

世界第一級のチェスの指し手だった! 本書は、チェスチャンピオンを打ち負かし、ナポレオン

エカテリーナ女帝をも驚かせたこのロボットのたどった歴史を追う。そして、ロボットの正体が明らか

になる!





“知能”とは何か? この謎に取り憑かれた者はみな、18世紀の機械仕掛けのトルコ人を夢見る。

驚嘆するほどチェスは強く、腕を動かし駒を掴み、ときには会話さえしてみせた。ことば、身体、そして

ゲーム。彼こそ人工知能・ロボット学のルーツであり、ミステリーとSFの源泉である。イリュージョンこそ

真の知能なのか・・・きびきびとしてサスペンスフルな筆致が心地よい。本書の刺激は、必ずや未来に

新たな魔人を産み出すだろう。


瀬谷秀明(作家) 本書・帯文より引用






本書より引用


ともかく、1769年にケンペレンがチェスを指し会話を行うという奇術を行ったことは、その2つの行いが

知能を最も代表するものだったということだ。約200年経った、20世紀のコンピュータ科学者もこれとまっ

たく同じ結論に至った。皮肉なことにチューリング・テストは、機械が人間のように動こうとし、人々が機械

のように動くという、隠蔽と騙しに依存している。ケンペレンが見たら、彼が機械仕掛けのタークを披露し

てから何もほとんど変っていないことに、ある意味驚くに違いない。彼はオートマトンをただの楽しみ用と

考え、他のもっと真面目な自分の業績と同列に扱おうとはしなかった。しかしケンペレンの先駆的な洞察

を、技術とトリック、知性とイリュージョンの奇妙な関係に当てはめるなら、タークこそは彼の最大にして

最も先見性のある創造物だったと言える。最後に笑ったのは、結局この狡猾なオートマトンだったのだ。






 「猫を抱いて象と泳ぐ」 伝説のチェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンの密やかな奇跡 小川洋子著

は、このトルコ人のチェス指し人形「ターク」を題材とした小説です。


 チェス漫画「クロノ・モノクローム」磯見仁月 全5巻 も参照されたし。



 




本書 訳者解説 より抜粋引用



アマゾンはなぜその名前をつけたかについて、18世紀に作られ欧米各地で公開された、機械仕掛けのトルコ人

の格好をしたチェス指し人形から取ったと説明する。この有名な人形は、チェスを指すという知的な作業をなん

なくこなし、ほとんどの対戦者に勝利した。



それは現代でいえば、コンピューターを使った人工知能そのものだ。IBMのチェスプログラムを装備したスーパー

コンピューター「ディープ・ブルー」がやっと1997年に世界チャンピオンのガルリ・カスパロフに勝利したというニュー

ス(邦訳では『人間対機械』)を聞いたわれわれには、240年も前にただの機械が人間を相手に連戦連勝したとは

到底信じられない。それは完全な機械仕掛けのからくり人形、つまり自動人形(オートマトン)であるという触れ込

みだったが、やはり当時の人々も、チェスの上手な人間が中に入るなり、外から誰かが操作するなりしているの

ではないかと疑った。



スパコンでしか人間に対抗できないようなやっかいなチェスを指す作業は、人間に任せてしまえば楽だと思ったの

か、アマゾンがコンピュータの不得意な作業を人間に任せるサービスにこの名前を借用したことは、なんとも皮肉

な話に聞こえる。



本書「謎のチェス指し人形『ターク』」はまさに、その摩訶不思議なチェス人形の波乱に満ちた物語だ。オーストリア

=ハンガリー帝国のマリア・テレジア女帝の命によって、1769年にフォン・ケンペレンが製作したこの人形は、まさ

にターバンを巻いたエキゾチックなトルコ人の姿をしており、チェス盤を置いた机の前に座って長いパイプを持ち、

器用にチェスの駒を操った。相手が指し方を誤ると訂正し、王手をかけると頷き、王手を意味する「チェック」や

「エシェック」と声を発しさえしたとされる。事前に机の中は公開されるが機械類しか見えず、人形の背中にもドア

が付いており、人は入っていないように見えた。そしてこのからくり人形が目をぐるぐる回し、手を器用に動かして

チェスを指す姿は、どうみても完全な機械仕掛けでしかなかった。



時代はヨーロッパで産業革命が進行している真最中で、蒸気機関の発明でそれまで人間や家畜が行っていた

仕事が強力な機械動力によって代替され、人々は機械の力に圧倒されていた。時計などの精密機械を応用した

からくり人形には、すでに動物そっくりの動きをするものや楽器を演奏するものもあり、そのうちに機械がもっと

難しい動きをこなす時代が来ると世間の期待は高まっていたのかもしれない。しかし、チェスという、人間にも簡単

とはいえない知的な作業を機械がこなし、さらに人に勝るとは・・・・。



この謎に満ちた人形は宮廷の王族や貴族、ベンジャミン・フランクリンやナポレオンなどの有名人も驚かせたば

かりか、欧米を旅して興行を行うことで、一般大衆も魅了し混乱に陥れた。トリックだと考えた人々が、どうにかし

て秘密を暴こうと試みた。その中の1人にエドガー・アラン・ポーという米国の雑誌記者がおり、彼が1836年に書い

た「メルツェルのチェスプレーヤー」というエッセイの謎解きの手法が、現在のミステリー小説の原型となったと言わ

れれば、何とも興味引かれる話ではにあか。



その謎の答えは明らかなようで、明らかではなく、著者は刑事コロンボよろしく、その謎のベールを徐々に一枚一

枚と剥いでいく。本書は歴史書でありながらミステリー小説を読むような興奮を覚える展開で一気に読ませる。こ

の人形を題材にした小説や演劇も多く作られたことが知られており、このミステリーが人々の好奇心や想像力を

いかにかき立てたかが偲ばれる。



しかし、話は機械人形のトリックの謎解きに終わらない。ロンドンでこれを見たある少年は、機械が本当にチェス

を指せるはずだと信じ込み、成人してから歯車を組み合わせて計算する機械を組み立てた。彼こそが現代のコン

ピュータに先駆ける階差機関や解析機関を発想したチャールズ・バベッジだということになれば、この話はコンピ

ュータにチェスのような知的な動作を行わせようとする人工知能に受け継がれ、一気に現代のIT社会へと連結さ

れる。そもそもコンピュータは、ただの単純な機械ではなく、人間の知的な活動を模倣するための機械を作りたい

という夢から創造されたものだと解釈するならば、このタークこそがその本当のルーツだと言えるのかもしれない。



 


現存している「ターク」が指した棋譜(ナポレオンとの試合も含む)

1770年から1827年までの7試合

Your browser is completely ignoring the <APPLET> tag!

棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、
「Google Chrome」では出来ません。
またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。
Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定

Turk_All.pgn へのリンク
(チェス棋譜再現ソフトをご用意ください)


 
 



本書より抜粋引用



1761年にフランスの作家ドゥニ・ディドロは「世界中でパリこそ、そしてパリのカフェ・ド・ラ・レジャンスこそ、最高

のゲームが行われる場所だった」と書いている。カフェ・ド・ラ・レジャンスは1680年に設立されたコーヒーハウスで、

1740年代にはパリで最もチェス愛好家が頻繁に訪れる場所になっていた。



このカフェの長年の常連客のインテリアの中には、哲学者のヴォルテールやジャン=ジャック・ルソー、アメリカの

議員で科学者でもあったベンジャミン・フランクリン、それに若い頃のナポレオン・ボナパルトさえ含まれていた。こ

のカフェで最もチェスが強かった1人レガル・ド・ケルムールルトは「痩せて顔色の悪い紳士で、長年いつも同じ席

に同じ緑色のコートを着て座っていた」とある人が伝えている。しかし、最高位にいたのはレガルの生徒のフランソ

ワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール
で、おそらく当時の最も才能あるチェスプレーヤーで、パリで最も強かったこと

は間違いない。



(中略)



フィリドールがタークと対戦することに同意したことは、ケンペレンにとって大成功だったが、彼はチェスの巨匠を

やっつけることにもっと価値があるとわかっていた。フィリドールの長男アンドレが、ちょっと信じがたい話を伝えて

いる。ケンペレンが試合の前日にフィリドールのところにやって来て、「私は貴殿もご存知のとおり奇術師ではない

し、オートマトンは私より強くはありません」と変な提案をしたというのだ。「それは現在の私の生活を支える唯一の

手段です。オートマトンがあなたを打ち負かしたことを発表してそれが新聞に載るということが、私にとってどんなに

意味があることかを察してください」と言うつもりだったのだろう。フィリドールはうぬぼれた男ではないので、その

機械が勝利に値するほど上手にチェスを指せるなら負けてもかまわない、と表面上は同意した。しかし相手が強い

指し手でないのなら、容赦なく叩きのめすとも言った。



明らかにタークはフィリドールを打ち負かすには、程強い強さでしかなく、フィリドールはやすやすと勝った。しかし

後になって彼は、人間との勝負でもあんなに疲れたことはいまだなかったと告白している。フィリドールはどうも

タークは正真正銘の機械であると信じており、チェスを指す機械というアイデアに恐怖を感じていたらしい。パリの

人々もそれを真のオートマトンと信じていたことから、彼がそう感じたのは1783年の夏の知的な気分を反映した

ものだったのだろう。6月5日にはモンゴルフィエ兄弟が南フランスのアイネーで熱気球を初めて一般公開したと

いうニュースが伝わっており、パリは熱気に包まれていた。空を飛ぶ機械ができるなら、チェスを指す考える機械

があってもいいではないかという雰囲気だったのだ。




 チェス棋士・フィリドール(Francois-Andre Danican Philidor) を参照されたし。





1809年5月にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはウィーンに入り、シェーンブルン宮殿に総司令部を

作った。当時のナポレオンはヨーロッパで最も力のある人物だった。彼の帝国はフランスからイタリア

北部、オランダ周辺からオーストリアとハンガリーを含むヨーロッパ中央にまで広がっていた。しかし

1809年2月に、ナポレオンがスペイン攻略に邁進しているのに乗じて、オーストリア軍が反乱を起こし

た。ナポレオンはオーストリアに舞い戻り、7月になってオーストリア軍をヴァグラムで猛攻撃し、たった

の2日で制圧してしまった。そして彼は平和条約が行われている夏場をシェーンブルン宮殿で過した。



その期間中、コンサート、バレエ、劇、花火とありとあらゆる余興が催されたが、8月には皇帝の誕生日

を祝う盛大な催しがあった。夏季の多くの催しには芸術家や科学者も動員されたが、その中にはヨハン・

ネポムク・メルツェルという発明家が含まれていた。彼は戦争で手足を失った兵士のために、多くの義肢

を展示していた。ナポレオンはこれを見て感心し、メルツェルに戦場から負傷した兵士を運べる、現在の

救急隊が使っている折りたたみ式の担架によく似た、折りたたみ式の台車を作るように提案した。メル

ツェルはその提案を受け、そこで偶然、皇帝が喜ぶのではないかと思い、チェスを指す機械の話をした。



(中略)



メルツェルはナポレオンが最も信頼している将軍の1人ヌフシャテル王子の館にタークを据えつけた。

「皇帝はそこに向かい、われわれも他の何人かとついていった」とコンスタン(彼の通り名)は1830年に

出した回想録で書いている。ナポレオンとタークの対戦について書かれたものはたくさんあり、中には

より信頼できるものもある。コンスタンの回想録はゴーストライターの書いたもので、かなり怪しい話も

入っているが、この対戦の話はそのまま書いた短いものだ。他のもっと派手な話はこのコンスタンの話

を基にしていると思われ、いろいろな方向に脱線していくが、そのせいで互いに矛盾しているのだろう。



「オートマトンは試合用にあつらえられた、チェス盤が乗ったテーブルの前に座っていた」とコンスタンは

書いている。「皇帝閣下は椅子を取り、オートマトンの反対側に座って、笑われながら“さあかかってこい。

われら2人で勝負だ”とおっしゃると、オートマトンは会釈して皇帝に向かって先に始めるよう手で促した。

試合が始まり、皇帝は2,3回駒を動かされたがが、わざと間違った進め方をされた。するとオートマトン

はお辞儀をして、その駒を元の位置に戻した。皇帝がまた嘘の動きを仕掛けると、オートマトンはまた

お辞儀して、今度はその駒を取り去った。皇帝は“そのとおり”と言われてまがごまかされると、オートマ

トンは頭を振って、チェス盤の上に手を伸ばして、すべての駒を倒した。皇帝はその機械技師をえらく

褒められた」。






バベッジはチェスにも興味を持っており、1819年3月6日にはスプリング・ガーデンで展示されているターク

を見にいった。すでに1783年にフランス語で出版されたウィンディッシュの手紙の初版を入手していたバベ

ッジは、当然のことながらタークに興味をそそられていた。しかし彼はこのオートマトンがチェスプレーヤーで

あることはいいにせよ、機械としてはあまり面白くないと思った。「その腕の動きは、メルランの作った多くの

人形ほど良くなく優雅でもなかった」とバベッジは紙片に書き、この本の中にはさんでおいた。それはまた

「内部は男の子が入るには十分な広さがあり緑の羅紗で装飾されていた。展示をしている男は、キャビネット

のこちら側やあちら側へと移動した。そのオートマトンはオープニングで非常に優れた試合を展開した。彼は

“フィリドールの遺産”を使ってチェックメイトをかけた」と続く。



バベッジは次の年の2月12日にも、ジェームズ通りに展示されていたタークを見にいき、試合に挑んだ。「オ

ートマトンを試合をしてみた」と彼は書いている。「彼はポーンと先手をとられながら指した。オートマトンは約

1時間後に勝った。彼は非常に用心深く指していたが、部屋のちょうど人形の後ろの床に隠し扉があるのは

明らかだった」。バベッジはこのオートマトンは純粋な機械ではなく、人間が操っていると確信したが、どう

やっているのかはわからなかった。しかし彼は、チェスを指せる本物の機械が可能なのかと思いをめぐらす

ようになった。



1821年にバベッジは友人の天文学者ジョン・ハーシェルと、別々に計算された2つの天文表を比較していた。

この2人がやっていた退屈な作業は、両方の表を比較してこれらが同じなら正確であると確認するためのも

のだった。しかし実際にはそれらは一致しなかった。「われわれは骨の折れる確認作業を始めた」とバベッジ

は回想する。「少しすると、不一致な点が多々見つかり、ある時点でその数があまりに膨大なものになってし

まい、私は“神よ、こうした計算を蒸気機関で行わせたまえ!”と叫び声を上げた」。彼はそれを実行すること

に決めた。夜に時間ができると彼は、足し算を繰り返すことだけで数学的演算を行う計算機械の概要計画を

作成した。バベッジはすぐに、簡単な部品で構成された機械装置が複雑な計算をこなせない理由はないとい

う結論に達した。彼はその考えを抱くとあまりに興奮してしまい病気になってしまった。彼の医者はもうそんな

ことは考えずに休暇を取って休むよう指示したので、彼はウィンザーの近くのハーシェルの家に逗留すること

にした。彼はその後、天文表を含むあらゆる数表を自動的に計算してくれる機械のデザインに関する科学

論文を構想することになる。これこそバベッジが構想した最初の機械式コンピューターである「階差機関」の

誕生だった。




 



目次



第1章 クイーンズ・ギャンビット・アクセプテッド

第2章 タークのオープニング

第3章 最も魅惑的な仕掛け

第4章 独創的な装置と見えない力

第5章 言葉と理性の夢

第6章 想像力の冒険

第7章 皇帝と王子

第8章 知能の領域

第9章 アメリカの木の戦士

第10章 終盤戦(エンドゲーム)

第11章 タークの秘密

第12章 ターク対ディープ・ブルー




 




以下、チェス漫画「クロノ・モノクローム」磯見仁月 全5巻 より抜粋引用


仁月の甲羅書き雑学6


ボンジュール!仁月です。今回はうんちく増量です。だってカフェについて語らいでか!!



今回出てきたカフェ・ド・ラ・レジャンス。当時のフランスに本当にあったカフェで、2世紀に渡りチェスの聖地として活躍しま

した。1688年カフェ・プラス・ド・パレ・ロワイヤルとして開業し(諸説あり)、次第にフランスカフェの黄金期の代表として頭角を

現しました。1718年レジャンスに改名、シャンデリアや鏡、彫刻などで彩られた豪華なカフェへ改装し、20以上の大理石の

テーブルとチェス盤が並ぶ中、コーヒーと対局を楽しむゲーム喫茶として、18世紀の爆発的なチェスブームの一端を担いま

した。場所はフランス王弟オルレアン公の宮殿パレ・ロワイヤルの前の広場という一等地。1784年にはショッピングセンター

も完成し、パリ最大の人気スポットに成長しました。



顧客は王侯貴族に有名人ばかり。1770年時点ではヴォルテールやルソーの他、後世、ヨーゼフ2世やナポレオンも訪れて

います。棋士ではレガル、フィリドール、マイヨが訪れ、特にフィリドールは世界最強としてレジャンスの象徴となり、彼が来る

と静けさと緊張が支配した事からレジャンスを「沈黙の神殿」と評した作家もいました。



非常に居心地がいいと太鼓判のレジャンスでしたが、ここ以外でも有名なカフェが沢山ありました。レジャンスと並ぶ老舗

名店とされたカフェ・プロコップはいわゆる「談論カフェ」。百科全書派など知識人が熱く語り合う場所でした。他にもフランス

革命で活躍する過激派のたまり場で、地元民にはアイスクリームが人気だったカフェ・ドゥ・フワ。店内に給仕がおらず、

昇降機で注文品が運ばれる仕組みで大繁盛したカフェ・メカニックと個性的なものばかり。ケンペレンが第26局で飲んで

いた怪しげな店は、カフェ・デ・ザヴーグル(盲人カフェ)をモデルにしています。カフェ・イタリアンの地下にあり、店名の通り

盲人の楽隊が演奏する中、客と娼婦が入り乱れるというパリの中でも最低の代物でした。目が見えなければ客の振る舞い

を気にせず演奏できるという理由で生まれた、現代では考えられない店ですが、ここに行かなければ何も見なかった事と

同じと言われるほど、裏の名店として名を馳せました。



因みに1770年、パリの人口は65万。内、娼婦の数は2万もいたとされ、パリはプロの娼婦のサンクチュアリだったのです。

当時の絵画を探すと、パレ・ロワイヤルの庭園で熱く政治について議論する男性と、その中から客を物色する老婆と女性達

が出てきます。まさに光の都。



光が強くなれば影も濃くなるように、18世紀最大の大都会だからこその明暗なのでしょう。




Ajeeb the Wonderful, a chess-playing “automaton”... ? Houghton Library







麗しき女性チェス棋士の肖像

チェス盤に産みだされた芸術

毒舌風チェス(Chess)上達法

神を待ちのぞむ(トップページ)

チェス(CHESS)

天空の果実