「ミサの前に読む聖人伝」

C.バリョヌェボ著 中央出版社







本書 「まえがき」 より抜粋引用


1 この本の起源



聖人の記念日にごミサが献げられる時、そのごミサに与る信者の多くは、しばしば聖人のことを

あまりよく知りません。もしそうならば、聖人の記念を行なうことは意味があるだろうか? という

疑問に悩み、他にも私と同じように悩む司祭や信者がいるだろうと思いました。



というのは、司祭が記念の聖人に関わりなく福音書について話すならば、「集会祈願」で記念の

聖人の模範に倣う恵みを願う意味が希薄になると思うからです。ミサ典書総則の第41によれば、

固有式文について説教してもよいのだから、「集会祈願」で言及した聖人の伝記を話したらよいと

いう人があるかもしれませんが、伝記的に話すよりも、「集会祈願」を受けて、聖人の模範を重点

的に話すほうがよいと思いました。



それで、ごミサの始まる前に、日本語で書かれている聖人伝を読むようにしましたが、あるものは

長すぎ、またあるものは西洋の歴史、地理などをよく知っている人にはたいへんよいのですが、あ

まり知らない一般の人には分かりにくいものです。そこで、ごミサの前に予備的に聞かせることが

できるように、一般の信者にわかりやすい短い『聖人伝』を少しずつ書き留めてきましたが、それ

がようやく揃いましたので、一冊の本にまとめた次第です。



2 この本の特徴



前記のことから、次のようなこの本の特長が生まれました。



@ごミサの前のほんの4〜5分で聞かせることができる『短い聖人伝』です。ある聖人の場合、短く

まとめることは想像以上に難しいことでしたので、書きたい多くの点を割愛しなければなりません

でした。



A 「聞いて分かりやすい」ということを心掛けました。読んで聞かせる聖人ですので、字を見なく

ても聞くだけでわかりやすい表現をするように心がけました。また、日本の人たちにわかりやすい

ように、外国の聖人伝の翻訳のようではなく、日本の立場で書くように努めました。わかりにくい

昔の地名は、現代の所在地名を併記しました。同じように、西暦も『奈良時代』とか『島原の乱の

頃』といった具合に、日本の同時代の見当がつくように配慮しました。風俗習慣なども、日本の

それに当てはまる言葉を探しましたし、適当なものがない時は簡単に説明しました。



B 歴史的正確性を大切にしました。確実なことを書くように努めましたが、確かでないことも、書

くほうがよいと思われることは、それと断って書きました。聖人の模範に倣い、聖人に近づこうとす

ることへの励ましになると思い、聖人が遠く及ばない雲上人ではなく、私たちと同じように、現実の

社会に生きたこと、あれこれと欠点があったことも書きました。



C 聖人伝によるミニ教会史として使えます。聖人は現実社会のあらゆる状況の中で福音を生か

したのですから、ある人が言ったように、『聖人伝は5番目の福音書』ということができますが、また

同時に、聖人は教会の真の代表者ですから『聖人伝は教会史』であるということもできますので、

教会史的に読みたい人のために、時代順の目録を加えました。



原則として『記念』の聖人を扱いましたが、イエズス会のすべての聖人と福者、それに『任意』の

聖人(特に、日本で活躍している会の創始者)も何人か載せました。



3 この本の用い方



@ごミサの前に『朝の祈り』などをしているならば、その折に読むとよいと思います。



A ごミサが始まるギリギリでないと会衆が集まってこないようでしたら、ミサ開始の時に読み、

それが終わってから入堂します。ミサ終了が少し遅れるでしょうが、聖人についての予備知識は

必要ですし、聖人伝を聞くことは魅力的ですから、喜ばれるのではないでしょうか。


 

 


本書より引用


テレジアは、明治6年、フランスの西北で生まれました。父は時計技師、母はレースで有名な町でレース編みを

する婦人でした。両親とも修道生活を望みましたが、入会できず結婚し、9人の子どもに恵まれました。司祭に

なる子どもが与えられることを望みましたが、5人の娘だけが成長しました。テレジアはその末娘でした。両親は

真面目に働き、彼女が生まれた時には蓄えもでき、裕福な生活でした。家族の人びとは信仰と愛徳にすぐれ、

まれに見る温かい家族で、自尊心の強い頑固なテレジアを甘やかすことなく、正しく育てました。母親は彼女が

4歳の時他界し、姉たちに育てられました。2人の姉はカルメル会に入会し、テレジアも小さい時から同じ道を歩

もうと望んでいました。15歳にならないうちに、入会したいと教皇に願い出ましたが許されず、15歳になって、

やっと姉たちと同じカルメル会に入ることができました。



修道生活は、わずか9年ちょっとでしたが、この期間、21人以下の小さなグループの中で、外面的には隠れた

生活を行ないました。食堂の掃除や準備、香部屋係、また修練女の教育の手伝いなど、地味な生活でした。

しかし、テレジアは、何々をすることよりも、どのような心をもって毎日の生活を行なうかが大切であるということ

を見せました。テレジアは、そのあらゆることを、神に対する熱心な愛をもって行ないました。彼女が言うように、

「宣教師になりたいし、殉教者にもなりたいし、教会で博士のような仕事もしたい。これを同時にすることはでき

ないということがわかりました。だから、そのいろいろな活動をする教会の神秘体の中で、自分の居場所を見つ

けました。それは教会の心、その活動の泉である愛の場所であったことがわかりました」。



神を愛することによって、宣教師たち、特に司祭の力になるということが彼女の使命でした。テレジアが言って

いるように、カルメル会に入った目的は、罪人を救うことと、司祭のために祈るということでした。それは小さな

行いによって実行されました。彼女は、強いデリケートな感受性をおさえ、気の合わないシスターに好きである

と思わせるほど近づいたり、祈りの最中にうるさく音をたてるシスターにも我慢したり、洗濯の時にきたない水を

かけるシスターにも文句を言わず、感情をおさえました。また、寝られないほどの夜の寒さにも耐えました。こう

したことは死の前まで、だれにも言いませんでした。



テレジアのすばらしい愛の秘訣は、神に対する絶対的信頼でした。神は自分の父であり、『母親が自分の子ども

を慰めるように、私はあなた方を慰める』(イザヤ66・13)という聖書のことばは、テレジアの心を貫いて、自分に

おちどがあっても失望するどころか、神の慈悲に信頼して、新しい力をもって歩むための励ましとなりました。そ

れを、テレジアの「小さな道」、または「霊的幼児の道」と名づけました。こうしてこの道を歩みはじめ、8年で完徳

に達したのでしょうか、テレジアは聖木曜日の夜、かっ血しました。そうした中で彼女は、神はいない、永遠の

幸福もないい、迫ってくる死は無の暗い淵に落ち込むことであると感じる、恐ろしい誘惑と試練に閉じ込められ

ました。この暗闇の中でテレジアは、「主は慈悲深く、いかに優しい方であるかを悟りました」と言い、「この試練

に会わせてくださった時は、その試練を耐え忍ぶ力を持つ時だったからです」と話しました。それからテレジアは、

その恐ろしい思いが浮かんでくるたびに、「天国があるということを証明するために、最後の血の一滴まで流す

覚悟を持っています」と、キリストに向かって叫びました。また「主よ、あなたがなさることは、何でも私を喜びで

満たします。あなたの愛のために苦しむことよりも大きな喜びがあるでしょうか」とも言っています。



1年半の苦しい病気は、テレジアを死の門まで追いやりますが、ある日、シスターから「死がこんなに近いと、あな

たは死を恐れるでしょう」と聞かれると、「いいえ、毎日だんだんと恐れなくなります」と答えました。神に対する信頼

がなおも深まり、今までは忍耐が足りなかったのでは思った時には、「私は不完全なものですから、死ぬ時には、

神の慈悲が私には必要なのです。何とうれしいことでしょう」と言えるほどでした。2日間、最後の病気の苦しみに

もだえましたが、9月30日の夕方、「神よ、あなたを愛します」と、たえだえにやっと唱え終わると、今まで病気に

やつれていた顔は、元気な時の若々しさを取り戻し、生き生きと輝き、こうこつとした姿をちょっとの間見せて目を

閉じ、息を引き取りました。その時に写した写真が、喜びの表情を明らかに示しています。



テレジアは、院長たちの命令で自叙伝を書かされ、最後の部分を書く時は病気の最中でした。彼女の死後に印刷

されましたが、名もないテレジアの自叙伝などはだれも買わないだろうと思われていたのが、20世紀のベストセラー

になり、テレジアの名は、全世界にまたたくまに広がりました。テレジアがいた修道院にあてられた手紙は、まもな

く毎日200通を越え、やがて500通、千通にものぼるようになりました。この全世界からの便りは、テレジアの取り次

ぎを願うものであったり、テレジアの取り次ぎによって願いがかなえられたという報告であったり、さまざまです。例

のないほどの早さで列福され、そして列聖されました。祈りをもって宣教した聖テレジアは、教皇により、聖フランシ

スコ・ザビエルと同じように、宣教の保護者となりました。神への愛と信頼、布教のために祈ること、毎日の生活の

中で与えられる自分の持ち場といったものが、神のみ前にいかに大切であるかを、聖テレジアの姿を見て理解する

ことができるよう祈りましょう。








 


 本書より引用


イエズスの聖テレジア(記念)




日本では戦国時代に当たる頃、テレジアは、スペイン中部のアビラで、12人兄弟の中の一人と

して生まれました。父親は服地を商う、信仰熱心な人でした。彼女は、幼い頃から、心が広く、

利発な、人気のある子どもでした。ある時、殉教者についての朗読を聞いて感激し、回教徒の

国に行って殉教したいと望み、兄をつれていっしょに家を出ましたが、幸か不幸か叔父と出会

い、連れ戻されました。また夜、ベッドで「天国の幸福はいつまでも終わることはない。地獄の

不幸も終わりがない」と自分に言い聞かせ、永遠なるものの重大さを悟ったといわれています。



少女時代には小説を読み、世間的な望むにかられたり、信仰の本を読んだり、シスターの姿を

見て修道女にあこがれたり、心は常に動揺しつづけました。20歳になった時、身体が砕けるよう

な反発を乗り越えて、やっとカルメル会に入会しました。その後、長い病のために入会時の熱も

さめ、「祈りをあまりせず、一日中おしゃべりで過ごし、霊的には冷淡な18年を過ごした」と彼女

は言っています。



けれでも神は、聖徳の道をより高く進むように力強く呼びかけ、聴罪司祭を通して導き、彼女は

再び熱心な信仰生活に戻りました。ある日、鞭打たれたキリストのご像を偶然見つけ、心臓が凍

りつくような痛みを感じ、その日からキリストへの忠誠を誓い、聖人への道を歩みはじめました。



彼女の神の特別な恵みは、その目でキリストをたびたび見るだけでなく、キリストの声を常に聞

き、神秘的な神との深く高い永続的な交わりを味わうということでした。その恵みによって、カル

メル会の改革の使命を、彼女の中に神は準備されたのでした。その使命とは、長い間にゆるん

だ規律を元に戻し、昔のように、非常に貧しく、厳しい祈りと苦行を中心とした姿に返って、跣足

カルメル会を創るということでした。



「多くの人が教会から離れたしまう時代ですから、キリストの少ない友だちである私たちは、真の

友だちでなければなりません」と彼女は言っています。このことばこそ、その改革の中心でした。

すなわち、この跣足カルメル会のシスターたちが、教会を守る人びとを祈りによって助けるという

ことが、彼女の望みでした。彼女はたくさんの困難、反対、迫害を乗り越えなければなりません

でしたが、20年の間に、スペインのあらゆる地方に17もの新しい修道院を造っていきました。そ

の一つの修道院にシスターが入居した時、どうしたことか食べ物がまったくありませんでした。そ

れでも彼女たちは落胆するどころか、夜中、空腹のまま笑って過ごしたことがありました。「悲し

い聖人は、つまらない聖人です」という彼女の考え方が、よくあらわれている話だと思います。



ところで、まもなく、カルメル会の改革は全世界へと広がっていきます。女子だけの小さな修道会

は、十字架の聖ヨハネを通して男子カルメル会の改革をも行ない、跣足カルメル会を生み、社会

に対して考えられないほどの影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック改革のひとつの原動力とも

なりました。そして今も、「鳩の家」と呼ばれる聖テレジアの修道院は全世界に広がり、1万5千人

のシスターが、熱心な信仰と愛の泉としての存在を確固たるものとしています。そのほかにも、

彼女の精神をもって宣教活動をする多くのシスターと、在俗会などがあります。



聖テレジアの生涯は、外部からの困難、苦労、犠牲、謙遜による十字架の道でしたが、勇敢に

これを克服し、神秘的体験を重ねていきました。「神を持っている人にとっては、他のものはいら

ない。神だけを持っていれば十分です」ということばが、彼女をよくあらわしていいます。彼女の

ように、神への熱心な愛を持つことができるよう祈りましょう。










公開されていないバチカン宮殿奥の芸術

沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

天空の果実


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