「アメリカ・インディアン」

奪われた大地

フィリップ・ジャカン著 富田虎男 監修 創元社







インディアンが白人によって、どれほどの血と涙を流したか、その歴史を記す。

本書には、多くの挿し絵や写真が使われているが、インディアンに魅せられた

画家のジョージ・カトリンの当時の様子を正確にスケッチした絵や各部族の

酋長の写真が数多く掲載されている。また現代のインディアンの置かれている

状況についても言及している。視覚的にも読みやすく工夫された書籍である。

(K.K)





 本書より引用


1824年、アメリカ合衆国の静かな町フィラデルフィアは、ときならぬ出来事で

上から下への大騒ぎとなった。インディアンの族長たちの代表団がやってきた

からである。フィラデルフィアの人々は「平原の戦士たち」を見て肝をつぶした。

しかし、この一団を見て、文字通り魅了されてしまった男がいた。画家のジョー

ジ・カトリンである。それから6年後の1830年、カトリンはついに、インディアン

の国を目指して旅に出た。インディアンの地で、彼はくる日も来る日もスケッチ

をした。インディアンたちの儀式、日々の生活、狩りなど、そのどれもがカトリン

の目には魅力あふれるものとして映った。画家は同時に優れたレポーターとな

り、歴史家となり、民俗学者となった。彼が残した作品は、単なる過ぎ去った

時代と文化についての証言ではない。それは永遠の美にみごとに再現された、

インディアンの本質なのである。


 
 


日本語版監修者序文 富田虎男 本書より引用



1992年はコロンブスがアメリカのバハマ諸島の1つに到着した1492年から500年目

にあたる。コロンブスを探検航海に送り出したスペインは、この500年目を記念してセビ

リアでは万国博覧会を、バルセロナではオリンピックを開催する。これによって長い停滞

から抜け出してECで有力な地歩を占めつつあるスペインが、他国にさきがけてアメリカ

を「発見」し、黄金時代を築いた過去の栄光を今によみがえらせようとしているかに見え

る。それは1世紀前の1893年にシカゴで開催された世界コロンビア博覧会(シカゴ万

博)を想い起こさせる。このとき新興国アメリカは、地理的には「発見」された側であった

にもかかわらず、「発見」したヨーロッパ側に立って、コロンブスの「到着」ではなく、「発

見」400年を大々的に祝った。これによって、米国は自国が達成しつつある「文明」の

進歩と産業の躍進を誇示し、世界の列強の仲間入りを果たそうとしたのであった。


それから100年の間に世界の諸勢力の関係は大きく変わった。シカゴ万博の場合、

アメリカ・インディアンは、アフリカや南太平洋などの欧米植民地に住む「未開」ないし

「野蛮」と蔑視された諸民族とともに、会場の片隅に珍奇な見世物風に「展示」され、

いみじくも「白い都市」と名づけられた中心会場に展示された白人「文明」の進歩の

成果に一層の光彩をそえる陰の役割を担わされていた。「優勝劣敗」「白人優位」の

思想が当然のように会場全体を支配していた。


しかし今日のセビリアでは、そのような差別的な思想や展示が大手をふってまかり

通ることはもはや許されない状況にある。すでに北米と中南米とを問わず先住民イン

ディアンをはじめ多数の人びとは、スペインや自国におけるヨーロッパ中心主義的な

コロンブス発見500年記念行事に強く反対し独自の運動を展開しているからである。


一方インディアン側から見ると、1492年のコロンブスの「到着」は別な意味で重要な

出来事であった。それは長年培ってきたインディアン固有の多様な文化と社会が、

壊滅的な破壊と殺りくを被る画期となったからである。この年をもって、インディアン

の歴史は、固有の文化発展の時代と、その文化と社会が征服され破壊される時代

そしてそれに抗して生きのびるための戦いの時代とに2分できる。この意味では、

1492年は祝福されるべき年ではなく、むしろ呪われるべき年にほかならない。


インディアン固有の文化というとき、それはマヤ文明やインカ文明などの高度の都市

文明だけを指すのではない。むしろアメリカ大陸で、それぞれの自然環境に適応して

長い時間をかけて築き上げられた諸文化の総体を指している。はるか1万年ほど昔に

は、マンモスや大型野牛などを狩る大動物狩猟民の文化があったことが確認されて

いる。その後気温の上昇など自然環境の変化に適応して、狩猟から採集へ、さらに

初期農耕へと生産活動の移行が見られ、紀元前2000年には、メキシコ中央高原に

トウモロコシ栽培を中心とする定住農耕村落が出現した。その影響は四方に広がり

現合衆国領ではアリゾナなどの南西部地方とミシシッピ川とその支流の農耕文化が

花咲くにいたった。前者では彩色土器、編籠、日干し煉瓦造りの住宅建築を特色と

するプエブロ文化が栄え、後者では巨大なマウンド(塚)と多様な工芸品を特色とす

るマウンド文化が創り出された。


こうした独自の文化を担ったインディアンのコロンブスの到着時の人口推定値は学者

によって大きく異なっている。従来は北米に約100万人、中南米に約1500万人とさ

れていたが、最近では、北米に200万から500万、中南米に3700万から5400万

と見積もられ、最も多い場合には北米に980万から1800万、中南米に8000万か

ら1億という推定値があげられている。このような推定値の激増は、主にヨーロッパ人

から感染した伝染病による死亡者の驚異的な数が加算されていることによる。いずれ

にせよ、コロンブス到着以降、酷使や戦争や病気によるインディアン人口の激減ぶり

には眼をおおわしめるものがある。これにより生じた労働力不足を補うため、別の大陸

アフリカの住民=黒人が奴隷として輸入され、鉱山や農地で酷使され始めたのは、わ

ずか20年後の1510年代のことであった。


1607年にヴァージニアのジェームズタウンでインディアンとイギリス植民者が初めて

出会ってから、今日までの400年近い現米国本土におけるインディアン・白人関係の

歴史は、1890年ころを境に2つの時代に分けられる。それまでの300年間は、移住

か戦争かの択一を迫る武力征服と、これに対するインディアン側の武力抵抗か忍従

の時代で、1870年代における米国軍と大平原諸部族の壮絶な戦いをもって、それ

は最高潮に達し、1890年のウーンデッド・ニーの虐殺をもって最終局面を迎える。


1890年以降今日までの100年間は、広大な領地を奪われて狭い保留地に閉じこめ

られたインディアンが、個人所有地を割当てられて農民になることを強いられ、部族

共同体に基ずくインディアン文化の根底を掘りくずされて、教育などを通じて白人文明

への同化を強制された文化征服の時代であり、これに対するインディアンの文化抵抗

の時代である。1930年代のニューディール政策によって、一応この強制的同化政策

に歯止めがかけられたが、インディアンの基本的人権と民族自決権は、まだ確立され

たとはいえない。現在、そのためにインディアンは戦っている。


 


目次

第一章 赤い人と鉄の人

第二章 銃と弾薬によって

第三章 インディアン文明の崩壊

第四章 涙の旅路

第五章 西部の征服

第六章 インディアンの帰還


資料編 生活と抵抗の記録

1 インディアン保留地

2 インディアンと「弾薬の種」

3 インディアンの養女

4 日々の生活

5 族長たちのことば

6 平原インディアンの戦士たち

7 スー族族長の思い出

8 大族長ジェロニモ

9 矢筒と羽と矢

10 保留地の闇の中で

11 現代のインディアン

12 スクリーンのインディアン


アメリカ・インディアン年表

INDEX

出典(図版)

参考文献





真実のポカホンタス



本書より引用


最初のうち、インディアンは植民者に対して好意的な感情をもっていた。ジェームズタウン

のあるヴァージニアには族長のワハンソナコクがいて、ポーハタンとよばれる諸部族の連合

体を率いていた。彼の娘のポカホンタスが、捕虜となったイギリス植民地指導者ジョン・スミス

の助命を懇願したという話が作り出されるほど、ポーハタンはイギリス人と平和裡に、しかも

相互に尊重しあいながら、平等な関係の下で生活することを望んでいた。しかし、彼らの希望

は空しかった。


新大陸にきた当座は、植民者にとっても状況はまだ微妙で危ういものだった。というのも、

彼らは数にしてほんのひとにぎりの人数で、圧倒的なインディアンの中では、どうかすると、

紛れて消えてしまいそうな存在だったからである。それでも植民者にとって、インディアンが

もっていた狩りの獲物やトウモロコシは、なんとしても手に入れたいものだった。彼らは躊躇

することなくインディアンの村を襲い、食べ物を略奪した。


1610年、植民地の住民2人がインディアンに殺されると、事態は一発触発の状況を迎えた。

イギリス人は報復手段としてインディアンの村を2つ焼き打ちにし、女や子供たちを虐殺した。

不当な略奪に苛立ち、絶望的な気持ちに追い込まれたインディアンは、ついに猛反撃にでた。

1622年3月、ポーハタン族は突如植民地を襲撃して347人のイギリス人を殺害した。イギリス側

の報復も時を移さず行われ、この時以来、白人はインディアンを殺すためには、いかなる手段

をもってしても許されると考えるようになった。使者は襲われ、交渉のために出向いた者は、毒

の入った酒を飲まされて殺された。女や子供までも皆殺しにされた。


白人たちの容赦のない攻撃を受けて、さすがに弱体化しはじめた部族連合は1646年、ついに

領土の一部割譲を承認する条約の署名に追い込まれた。


 







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