真実のポカホンタス

一番上の画像は1616年のSimon van de Passeによる銅板画で、唯一残る

生前のポカホンタスの肖像である。下段には「マトアカ、またはレベッカ、

ポウハタンの万能の王子にしてバ−ジニア皇帝、アッタノウコモウクの娘、

キリスト教に改宗し洗礼を受けた、ジョー・ロルフ氏(Mr. Joh Rolfe)の妻」と

標題がつけられている。この画像からは「斜視」の特徴が見られ、頬もこけ

ているのがわかる。下の画像は19世紀のもので白人化されてきている。

(ウィキメディア『ポカホンタス』より引用)




「真実のポカホンタス」に関しての私の見解


まだ10歳か12歳かのポカホンタスがジョン・スミス処刑の場面で身を投げ出して彼の助命を乞うた出来事の真偽に

関して、多くの論争が沸き起こりました。この出来事で不可解なのは、それが当時でもまた後の時代においても、

それを証言した人物がジョン・スミスただ一人だけであったという事実です。



文字を持たないインディアンだからそれを書き記すことなど出来ないことだという主張は当てはまりません。インディ

アンにとってポカホンタスが取った行為の善悪はともかく、何らかの形でその行為が口承されていくのが彼らインディ

アンの昔からのやり方でした。また植民者側にとって考えた場合、仮にこの出来事が真実であったとするなら、ジョン・

スミスは当時の植民者誰一人に対してもこの事実を公表しなかったことになります。



多くの植民者はイギリスなど家族や友人に向けて書簡を書いていますが、その書簡の何処にもこのような出来事が

書かれていなかったからです。ジョン・スミスがこの出来事を何らかの理由で隠したか、或いは作り話に過ぎなかった

のか。



仮にこの出来事が真実であるとすれば、ジョン・スミスが隠し通した理由は沢山あります。それは青柳氏が指摘されて

いるように「インディアン=野蛮人」という図式が壊されることは植民地政策にとって好ましくないことなどが挙げられ

ます。ただそこで問題なのはジョン・スミスの人間性だと思います。



この出来事が真実であった場合、彼は野蛮なインディアンというレッテルを張り続けるために、ポカホンタスの勇敢な

人間愛に満ちた行為を無視することを選んだのです。当時無邪気な少女だったポカホンタスは植民地で子どもと良く

遊んでいたとの記録が残されています。恐らくポカホンタスはインディアンも白人も同じ人間(美しい心を持った人間)

だと直感的に感じ取っていたのでしょう。それが故に植民者が食糧不足で困っているときは助けたのだと思います。



しかし、彼女に待っていたのは、白人からの恩返しではなく誘拐や脅迫だったのです。ポカホンタスが洗礼を受け、

ジョン・ロルフと結婚を選んだのも、部族と白人の平和的な共存を強く願ったからではないでしょうか。自分の身を

犠牲にして平和のための架け橋になろうとしたと思います。彼女には首長の娘としてのやらなければならない自覚が

芽生えていたのではと思います。



ポカホンタスはイギリスを訪れジョン・スミスと再会しますが、彼女は非常に怒り狂い、顔を隠して立ち去り、数時間の

間一人でいたと記録されています。二回目のジョン・スミスとの遭遇では、彼女はスミスを「嘘つき!」と呼び、彼を

追い出したと書かれています。



この件に関して、ポカホンタス直系の子孫であるスーザン・ドネル女史はその著書の中で、「私は、二人は愛し合って

いたと強く信じている。というのも、何年か離ればなれになったあとにイギリスでスミスと再会したとき、ポカホンタスは

感情を抑えきれずにうろたえた」と解釈していますが、植民者が困窮しているときに助けたのに、指導者であったスミス

は逆に近隣の首長を人質に取りました。そしてその1年後にポウハタン族とバージニアの植民者との間で全面的な

戦争へと突き進むのです。



このような裏切りの中でたとえ愛が芽生ていたとしても、深まることは決してありえません。ポカホンタスが激怒したの

は、恋愛への裏切りではなく、人として人間として許すことができない裏切りだったのでしょう。それは、ポカホンタスが

如何にインディアンと白人との平和的共存を強く願い、意に反した洗礼や結婚など自己犠牲をしてまでも、それを築き

たかったことを現しているのではないでしょうか。



男女の恋愛という次元にポカホンタスは立っているのではなく、深い人間愛に根ざした崇高な美の次元に彼女は立ち、

生涯を通してその実現のために身を捧げて行動したと感じられてなりません。


ここの述べたことは、素人の浅はかな推論でしかありません。しかしポカホンタスの心

の中に人間愛と自己犠牲という崇高な魂を見つけることが出来たように感じています。

(2010年10月21日 K.K)


 
 

「アメリカ・インディアン 奪われた大地」フィリップ・ジャカン著 より引用




ジェームス・タウンに建てられた銅像(1922年完成)
ポカホンタス - Wikipedia より引用




真実のポカホンタス 


ポカホンタスの肖像ではありませんが、私が抱くポカホンタスのイメージそのものです。

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


最後の野生インディアン「イシ」

傑出した英雄「テクムセ」


 



 

ポカホンタスの生涯

(ウィキメディア
『ポカホンタス』より引用)

ポカホンタスはタイドウォーター・ヴァージニア(バージニア州の東部海岸の低地帯、当時はテナコマカ Tenakomakah
と呼ばれた)一帯すべてを統治する強大なインディアン部族の酋長ポウハタン(本名はワフンスナコク Wahunsunacock
またはワフンセナカウ Wahunsenacawh)の娘であった。彼女は読み書きができなかったので、現在彼女について知られ
ていることはすべて後の世代に他人の口を通して語られたものであり、歴史上の人物としての彼女の考え、感情、動機
などは分からないところが多い。それゆえ彼女の物語はロマンティックな誇張のもととしては完璧であり、死後何百年も
悲劇の主人公であり続けている。(たとえば、ディズニーの映画化した『ポカホンタス』など。)


なおアメリカ現地における彼女の名の発音は「ポカハンタス」に近い。


ポカホンタスは1607年、テナコマカに建設されたヴァージニア植民地に初めて入植したイギリス人ジョン・スミスを父ポウ
ハタンが処刑しようとしたのを止めたと言われている。ジョン・スミスはもと兵士で船乗りであり、ヴァージニア会社に参加
してヴァージニア初の入植地ジェームズタウンを建設しその後リーダーになったが、川を遡る探検の途中にインディアン
に捕まり処刑されようとしていた。彼によれば、その時酋長の娘が彼の前に身を投げ出したおかげで助かり無事戻るこ
とができたのだという。


空想に基づいて描かれた「スミスの命を救うポカホンタス」。インディアンたちはわけのわからない服装をし、なぜか背景
にポウハタンの文化にないティーピーが描かれている(1870年画)この逸話は物語の筋書きの定型である可能性の高い
もので、読者にジョン・スミスを部族の「友人」として受容させるための象徴的なエピソードとして使われた。事実かどうか
は証明されてはいない。当時ポカホンタスはわずか11歳であり、しかもジョン・スミスはその年イングランドから到達した
ばかりであり、古くからの仲ではなかった。またスミスもその時ポウハタン語を理解せず、何が起こっていたか誤解した
可能性もある。彼が「インディアンの娘に助けられた」と主張し始めるのはポカホンタス死後のことで、それまでの20年の
間、イギリスに帰還したあとで出版し続けた北米植民地に関する雑多な論文のどれにもこの逸話が書かれていないため、
スミスの主張は「作り話」とみなされている。


スミス以前に、1539年にアメリカ南東部を探検したスペイン人のエルナンド・デ・ソトは、フロリダで出会ったスペイン人捕
虜のフアン・オルティスから「インディアンのヒッリヒグア酋長に生きたまま火焙りにされかけたが、酋長の娘の頼みで命
を救われた」という非常によく似た真偽不明の話を聞かされており、このオルティスの逸話がスミスの武勇伝の「元ネタ」
になった可能性は非常に高い。


いずれにせよ、インディアンとスミスやその他のジェームズタウン入植者との友好関係が築かれ、ポカホンタスはしばし
ば入植地を訪れ子供たちと遊ぶようになった。1608年冬ジェームズタウンが炎上した厳しい時期も、ポカホンタスは食料
を届け、入植地を全滅の危機から救った。


「拉致されるポカホンタス」ヨハン・T・デ・ブライ画(1618年)1612年、ポウハタン族に捕らわれたジェームズタウン入植者
の身代わりとするため、ポカホンタスは誘拐され、ジェームズタウンで捕虜となった。彼女の解放条件として提示された
のは、捕虜となっていたイギリス人の解放、盗まれた武器の返還、トウモロコシによる多額の賠償の支払いという過大な
条件であった。この時期、彼女は英語を教わり、ジェームズタウンの宗教指導者で二つの教会を作ったアレクサンダー・
ウィテカーより洗礼を受けた。(一説には、捕まる前に彼女には一族の中に婚約者がいたというものもあるが定かではな
い。)洗礼を受けた後、1614年4月5日に彼女はヴァージニアにタバコ栽培を確立したジョン・ロルフと結婚し、名を「レベッ
カ・ロルフ」と変えられた。


美化されて描かれた「ポカホンタスの洗礼」(1840年、ジョン・ギャズビー・チャップマン画)彼らはジェームズ川のヘンリカ
ス(Henricus) 入植地の対岸にあるロルフのプランテーション「ヴァリナ農場」で生活した。彼らの結婚生活は捕虜になった
入植者を取り返すことにつながらなかったが、それでもジェームズタウンとポウハタン族の間に数年間平和な雰囲気を作
り出した。


ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンにイングランド本国からこれ以上新しい入植者を誘い出すのも、
このような冒険的な事業に対する投資家を探すのも困難になったことを悟った。そこでポカホンタスを「マーケティングの
エサ」にして、「新世界の原住民が文明に馴らされたため、もはや植民地は安全になった」、とヨーロッパの住人を納得
させようとした。


「聖ジョージ教会」に建てられた銅像1616年、彼女と夫ロルフはイングランドに連れられ、1617年までの間ブレントフォード
に住み、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見した。彼女はそこで「インディアンの姫」と紹介され、イングランドにセンセー
ションを巻き起こし、新世界アメリカの最初の国際的有名人となり、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民地にも
たらす試みは大成功に終わった。


ロルフはヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを熱望したが、アメリカへ帰る旅の途中、ケント州グレーブゼンドで
ポカホンタスは病気になり(天然痘、肺炎、または結核など、資料により異なる)、23歳前後で死去した。彼女の葬式は
グレーブゼンドの「聖ジョージ教会」で1617年3月21日に行われた。のちに教会が改装される際に彼女の墓は壊され、
現存していない。現在、同教会の敷地には、彼女の銅像が設置されている。



ウィキペディアの次の項目を参照されたし

ポカホンタス

ポカホンタス(映画)

ジョン・スミス (探検家)

 


 「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

小説でありながらも、過去の歴史的事実に、「多助」という架空の日本人を織り込むことによって、現代に新たな命

を吹き込んだ傑作であり、400年前のインディアンの魂の叫びを聴き取った第一級の作品
です。以下、本書より引用。



チカディーはさらに別の折り、こんなことも言った。
「私は王女ではないのよ。ポカホンタスは私の姉で、私がトーマスの面倒を見ているから、白人は乳母とか侍女とか呼ぶ
けど、ついてきているのはみなひとつの家族の、血のつながった兄弟姉妹ばかりよ。お父様は大族長に違いないけど、
他の部族と連合国家を作って、その推薦でいちばん上の最高戦士ということになっているだけ。

お父様の影で本当に采配をふるって、戦争でも儀式でも、そして食料の配分でも、孤児や未亡人の世話など、大事なこと
を決めるのは七人の族母集団です。その承諾がなければ、お父様はなにも出来ないのよ。でも白人はお父様がみんなの
代表だと思って国王だなどといっている。本人もそんなこと思ってはいないし、族母集団だって認めていないわ」

だが国には王というかしらがいなければ困るだろう。その後ろに顧問や補佐がいるとしても、誰かが頂点に座っていなけ
れば形が整わないだろう。生まれが全てを決める国から来た多助には、彼女の説明はあまりよくわからなかった。さらに
女性がまつりごとにそれほどまでに力を発揮するということも、まったく途方もない話だった。チカディーはさらに続ける。

「私たちのなかでいちばん尊敬されるのはひとのために尽くし、犠牲を払う人間なの。氏素性じゃないのよ。自分のことだけ
しか考えないでものを溜め込んだり、困っている人を助けないような人間も確かにいるけど、そういうひとは誰からも一人前
の扱いは受けないし、行ないをあらためなければ町から追放されるのよ」

(中略)

「私は受ける資格はないわ、でもお姉さまはべつ。白人と結婚してキリスト教徒になったので王女ということになっているけど、
白人だって、だからといってお姉さまを心から尊敬しているわけじゃないわ。お姉さまは白人の神と私たちの神はもともとは
同じだと信じているから、白人の教えを受け入れることに決めたの。でも白人が無断で私たちの土地をどんどん取り上げる
から、若い戦士団が怒って、戦いをしかけるのは無理もないのよ。でも族母集団やお父様の言うことを聞かずに攻撃すれば、
和平が乱される。お姉さまは自分が白人と部族の仲立ちになって、平和にことが解決するようにと深く願っています。お父様
だって、白人が義が高ければ、少しくらい土地をわけてあげても良いと考えておいでなのよ。そしてお姉さまに和平の使いと
なってくれといったの。だからこんな遠い国まで苦労して旅して来たのよ。お姉さまこそ自己犠牲の固まりよ、本当に尊敬に
値する方なのよ。白人は馬鹿だから、そんなこと少しもわかっちゃいないんだわ。ヴァージニアの町にとうもろこしを運んで、
飢えから救ったのはお姉さま、ものの育て方をなにも知らない白人たちに、とうもろこしや豆の植え方育ち方を教え、タバコ
の栽培のしかたを教えたのもお姉さまよ。そしてお姉さまを助けた部族の女性たちなの。白人たちは食べ物がなくて飢えて
いましたから。でも白人はその恩を仇で返して、誘拐して監禁して、お姉さまはどんなに辛く寂しい思いをしたかわからない。
それと戦士のココウムと結婚していたのに、そんなことお構いなしに無理やり引き離されているんだわ。でも決して白人を
悪く言ったり、愚痴をこぼしたりなどしない。そんな言葉、私たちはお姉さまの口から聞いたこともないわ。」


 
ジョン・スミス救出(愛を含む)に批判的な文献 ジョン・スミス救出(愛を含む)に好意的な文献 
「アメリカ・インディアンの歴史」第3版
富田虎男著 より引用


「キャプテン・スミス殿。あなたがこの地に来たことについて、私は
疑問をもっている。私は親切にしてあげたいのだが、この疑問があ
るのでそれほど親切に救いの手をさしのべるわけにはいかないの
だ。というのは、あなたがこの土地に来たのは、交易のためでなく、
私の人民を侵し、私の国をとってしまうためだ、と多くの人が言って
いるからだ。この人たちがあなたにトウモロコシをもって来ないのは、
あなたがこの通り部下に武装させているのを見ているからだ。この
恐怖をとり払ってわれわれを元気づけるよう、武器を船においてい
らっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだ
から・・・・」
これは、ヴァジニア植民地の建設が始まった1607年から2年経った
1609年のある日、食糧徴発に来たイギリス人指導者キャプテン・
ジョン・スミスに対し、ポーハタン部族連合の首長ポーハタンが述べ
た言葉の一節である。
「トウモロコシを船に積め! さもないとお前らの死体を積むぞ!」 
これはスミスが、ポーハタンの弟(従弟ともいわれる)オペチャンカ
ナウの髪をつかんで叫んだ言葉である。
(本書より引用)


しかし、事実はどうであったか。実は、ポカホンタスは、結婚の前
年の1613年に植民地指導者のキャプテン・アーゴールによって誘拐
され、植民地側に人質にとられていたのである。父ポーハタンにつ
きつけられた人質解放の条件は、イギリス人捕虜と大量の武器の
引き渡し、大量のトウモロコシによる支払い、という、一部はのめて
も全部はのむことのできない過酷な条件であった。またジョン・ロル
フが述べた彼女との結婚の動機そのものも「この植民地の利益の
ため、わが国の名誉のため、神の栄光のため、私自身の救済のた
め、ポカホンタスなる不信心者を神とキリスト教の心の知識に改宗
させるため」という政略的な部分を含んでいた。


このような状況のなかで、どうしてポカホンタスにロルフへの愛が
めざめえようか。この結婚もまた、「愛からではなく恐怖から」そし
て「剣によって」もたらされたものではなかったか。したがって「結
婚の平和」も、真の和解からほど遠く、まだ力が十分でない植民
地側が、族長の娘を人質にとってつくり上げた卑劣な戦略であ
り、恐怖の上になり立つ偽りの平和にすぎなかったと思われる。
だからその平和は、植民者の数がふえて力のバランスが植民
地側に傾き、一方インディアン側の恐怖も絶頂に達するとき、た
ちまち崩れ去る態のものでしかなかった。
(本書より引用)






「ポカホンタス」
スーザン・ドネル著 より引用

史実として見たとき、ポカホンタスとジョン・スミスが恋人だった
のかどうかについては見解が二つに分かれる。私は、二人は愛
し合っていたと強く信じている。というのも、何年か離ればなれに
なったあとにイギリスでスミスと再会したとき、ポカホンタスが感
情を抑えきれずにうろたえたことは、厳然たる歴史的事実だから
だ。そして何より、もしこの二人が惹かれあっていなかったとした
ら、スミスや、あかの他人である仲間の冒険家たちの命を何度も
救った、ポカホンタス自身の命をかけてまでの勇気ある救出劇は
なかっただろう。
(本書 著者まえがき より抜粋引用)


ロルフはタバコの改良を続け、のちには植民地の最大の輸出
品目に育て上げた。彼はエドウィン卿と数多くの手紙をやりとりし、
エドウィン卿は何百人もの新世界への移住者を送り出した。4年
も経たないうちにオピチャパンから王位を譲られたオペチャンカ
ナウは、パウアタン大王のように賢い王ではなかった。イギリス
人とパウアタン族の緊張が高まり、ついに1622年、血なまぐさい
戦闘と虐殺へと発展した。この虐殺事件で300人の入植者が殺さ
れた。その中にジョン・ロルフも含まれていた。
(本書 著者あとがき より抜粋引用)


本書でも物語の大きな軸となっている、アメリカでは小学生が
歴史の時間に学ぶというポカホンタスの逸話がある。植民地建
設のためにやってきたイギリス人探検家ジョン・スミスが、白人
が何としても追い払おうとするポカホンタスの父パウアタン大首
長にとらえられ、処刑されようとしたまさにその瞬間、ポカホンタ
スが身を投げだしてスミスを救ったという話である。このポカホン
タスの勇気に心を動かされた大首長は、それ以降、白人を攻撃
することもなく、飢えに苦しむ白人たちとの食糧と武器の取引に
も積極的に応じるようになったという。このことからポカホンタス
は、その後のバージニア植民地の発展、あるいはアメリカ合衆国
の成立の最大の功労者と言われている。
(本書 訳者あとがき より抜粋引用)

本書の著者スーザン・ドネルは、ポカホンタス直系の子孫であ
る。子孫が書いたからといって、数あるポカホンタス物語の中で
本書こそが真実の姿であるとは断言できないことは承知してい
る。それでも、ポカホンタスの純粋で偏見のない美しい心と、愛
のためにはときには残酷な行為も辞さなかった彼女の暗黒面と
の両面を、これほどリアルに見事に描ききった作品はなかった
のではないか。これまで、ともすれば過剰に美化されて伝えられ
きたポカホンタス。それを考えると、私は、本書こそが「もっとも
真実に近い」ポカホンタス物語なのではないかと確信している。
(本書 訳者あとがき より抜粋引用)

 
「ネイティブ・アメリカンの世界」
歴史を糧に未来を拓くアメリカ・インディアン
青柳清孝著 より引用

では、『バージニア史概説』に突如現れるポカホンタスのスミス命
乞いは、どのように理解すればよいであろうか。この命乞い物語の
真偽については、かなり古くから議論があったらしい。1860年には、
ニューイングランドの歴史家ディーンが、スミスの二つの著書『真実
の物語』と『バージニア史概説』の記述の違いを根拠に、ポカホンタ
スのスミス命乞いの話が疑わしいことを公にした。アダムスも歴史
家パーフレィの勧めに従って、1867年1月「北アメリカ・レビュー」に
命乞いを否定する論文を発表し、ディーン、パーフレィ、アダムスと
いった人々がスミス論争に火をつけた。一方、この論争において命
乞いの話が真実であると主張したのは、南部出身者であった
(Tilton 173-175)。南北戦争の前後に当たるこの時期、バージニア
を擁する南部にとって、ポカホンタスはあくまでも彼らに都合のよい
英雄でなければならなかったのである。
(本書より引用)


スミスに対するポカホンタスの命乞い物語の真偽は、実は私自身
にとっては、それほど重要ではない。むしろ私が興味をもっているの
は、この物語が多くのアメリカ人にとって、真実の美しい恋物語として
受け取られ、実像とは異なるかもしれないポカホンタスが作り上げら
れていったという事実である。この命乞いの物語の素晴らしいロマン
スの種を感じ取ったのは、1800年にアメリカを旅行していた、ジョン・
デービスというイギリス青年であった。彼は、スミスに対するポカホン
タスの愛に焦点を当てた物語を、『アメリカ合衆国の4年半の旅』
(1803年)のなかで作り上げ、次いで『キャプテン・スミスと王女ポカホ
ンタス』(1805年)と『バージニアの最初の入植者たち』(1806年)のな
かでさらに飾りつけをした。以降、この物語をロマンチックに仕上げる
おびただしい本が、出版されるようになったそうである(Tilton 32-33)。
(中略)
年譜によれば、彼女がスミスを救ったのは、12歳の頃で、それからわ
ずか10年ほどで生涯を閉じたことになる。その間キリスト教徒となり、
イギリス人と結婚し、イギリスを訪問する。やがて彼女は故郷に帰る
ことを希望し、船旅に出る。しかし、途中で病気になり英国に引き返
し、異郷の地で死亡した。死因は天然痘か肺炎のためと憶測されて
いるが、「失意のうちに」死んだという話を聞くことはあっても、彼女の
死の原因は何か、またそれを人々がどう感じたかについて聞くことは
まずない。息子のトマスは後にアメリカに渡り、インディアン掃討の
軍事行動の指揮をとったという(Kilpatrick 152)。
(本書より引用)








「白い羽の王女 ポカホンタス」
マリ・ヘインズ作 いのちのことば社 より引用

ウォルト・ディズニーの映画「ポカホンタス」には、この若い少女
について今まで知られていたのとちがう魅力がふんだんに盛り込
まれています。けれども、脚色するまでもなく、実際の話のほうが
はるかに冒険と勇気にあふれ、意味深いものです。若くこの世を
去ったポカホンタスの冒険の物語は多くの本に残されています。
ジェームズタウンに行ったこと、イギリスへ旅したことなども記録さ
れています。この本では、ポカホンタスのそうした旅の中でもっと
も大きな意味をもつ、心の旅に重点をおいています。
(本書 はじめに より抜粋引用)

イギリス人の船長ジョン・スミスを殺そうとした部族の手から救
ったのは、まだほんの10歳くらいの時だった。また後に、移住し
たイギリス人が、ジェームズタウンを訪れたポカホンタスが側転
をしている姿をよく見かけたという記録もある。ポカホンタスは愛
らしく、小柄で、動きは敏しょうだった。

部族民たちは、戦いの神オケワスを拝んでいた。年寄りのキヨ
ウコサック(この本ではキヨウ)は、オケワスに仕える祭司で、生
きているヘビをイヤリングにしており、ポカホンタスとは意見がぶ
つかることが多かった。オケワスにいけにえとしてささげられた人
の数は何百人にもおよんだという。(注)

死の床にあったイギリスのグレイブセンドの町での(信仰の告
白)も残っている。死を前にしてこの言葉は、復活をはっきりと
確信したものである。また、幼いトマスが、イギリスで父方の両親
に育てられることを望むとも言い残した。そうすることによって、
トマスが、訓練された信仰の人として、いつの日かチェサピーク
地域にもどり、アルゴンキン族にもイギリス人にも祝福をもたらす
ことになるだろうとの願いを託したのである。
(本書 歴史的記録 より抜粋引用)



(注)「神を待ちのぞむ」作者から
   「生きている蛇をイヤリング」「いけにえとしてささげられた
   人の数は何百人」と書かれておりますが、この部族に限ら
   ず他のインディアンの部族でもこのような慣習があった所
   は、私が読んだ文献の中には存在しません。話はそれま
   すが、「生贄(いけにえ)」に関しては、有名なマヤ文明
   おいては、それは退廃した第5段階(現在は第7段階)の
   時代での出来事だと言われています。「生きている蛇をイ
   ヤリング」に関してですが、蛇を使った儀式ではホピ族
   有名ですが、儀式において蛇は神聖なもとして丁重に扱わ
   れ、儀式終了後は生きたまま野に返されます。悲しいこと
   ですが、過去に行われていたキリスト教徒による意図的な
   インディアン=野蛮人というレッテル張りが現代でも行われ
   ていることに言葉を失ってしまいます。「創世記」に見られる
   蛇=呪われた存在というイメージをインディアンに結び付け、
   インディアンの宗教や習慣を否定する姿勢は、悪意に満ち
   たものと言われても仕方ないと思います。「いのちのことば
   社」は恐らくプロテスタント系だと思うのですが、ポカホンタス
   の信仰告白を記述した箇所においても、それは捏造された
   ものであると見たほうが自然かも知れません。他の幾つか
   の文献では「失意のうちに亡くなった」と書かれております。

 
「アメリカ・インディアン」奪われた大地
フィリップ・ジャカン著 より引用

最初のうち、インディアンは植民者に対して好意的な感情をもっ
ていた。ジェームズタウンのあるヴァージニアには族長のワハンソ
ナコクがいて、ポーハタンとよばれる諸部族の連合体を率いてい
た。彼の娘のポカホンタスが、捕虜となったイギリス植民地指導者
ジョン・スミスの助命を懇願したという話が作り出されるほど、ポー
ハタンはイギリス人と平和裡に、しかも相互に尊重しあいながら、
平等な関係の下で生活することを望んでいた。しかし、彼らの希望
は空しかった。


新大陸にきた当座は、植民者にとっても状況はまだ微妙で危うい
ものだった。というのも、彼らは数にしてほんのひとにぎりの人数で、
圧倒的なインディアンの中では、どうかすると、紛れて消えてしまい
そうな存在だったからである。それでも植民者にとって、インディア
ンがもっていた狩りの獲物やトウモロコシは、なんとしても手に入れ
たいものだった。彼らは躊躇することなくインディアンの村を襲い、
食べ物を略奪した。


1610年、植民地の住民2人がインディアンに殺されると、事態は一
発触発の状況を迎えた。イギリス人は報復手段としてインディアン
の村を2つ焼き打ちにし、女や子供たちを虐殺した。不当な略奪に
苛立ち、絶望的な気持ちに追い込まれたインディアンは、ついに猛
反撃にでた。1622年3月、ポーハタン族は突如植民地を襲撃して347
人のイギリス人を殺害した。イギリス側の報復も時を移さず行われ、
この時以来、白人はインディアンを殺すためには、いかなる手段を
もってしても許されると考えるようになった。使者は襲われ、交渉の
ために出向いた者は、毒の入った酒を飲まされて殺された。女や
子供までも皆殺しにされた。


白人たちの容赦のない攻撃を受けて、さすがに弱体化しはじめた
部族連合は1646年、ついに領土の一部割譲を承認する条約の
署名に追い込まれた。
(本書より引用)


イギリス人たちは、部族連合の族長ワハンソナコクに、一臣民と
してイギリス本国に服従するよう勧めたが、族長は初めからはっき
りと拒絶の態度をとった。ジェームズ1世から贈られた銅製の王冠
も受け取ることを拒否し、植民地に対し自分たちの統治権を主張し
た。1608年12月、ジョン・スミスがインディアンに捕らえられ、首に
縄をかけられて族長の前に連れてこられたとき、12歳になる族長の
娘のポカホンタスが進み出て、父親にスミスの助命を懇願した、と
後年スミスは書いているが、どうやらこれは作り話のようである。
その後、ポカホンタスはジョン・ロルフと結婚し、ロンドンで王室の
歓待をうけたが、帰路21才か22才で病死した。
(本書より引用)

「ポカホンタス」
和栗隆史著 より引用

反目しあうパウアタン族と白人たち。その渦中スミスが囚われ
の身となる。娘との交渉を許さない族長は死刑を宣告。絶体絶
命の彼を救ったのは勇気ある愛だった。

飢餓に苦しむジェイムズタウン、スミスは助けを求めてパウア
タンを訪ねるが交渉は決裂し、彼の命も狙われる。だがポカホン
タスの密告により彼は一命を取りとめる。

スミス死亡との誤報を聞き落胆するポカホンタス。その時白人
ロルフよりの求婚がある。悩みながら結婚を選んだ彼女は洗礼
を受け名前もレベッカとなる。

渡英したレベッカは王妃に気に入られ、国中の人気者となる。
しかし健康悪化により病床に。息を引きとる寸前にスミスとの再
会を果たすが、ついに死を迎える。
(本書 目次 より抜粋引用)

自分たちが吸う分だけのタバコを作っていたパウアタンの人々
は、はじめロルフのことを無駄なことをする人だと笑っていたが、
しまいには彼らはそのロルフによってパウアタンの森から追い払
われることになってしまったのだ。レベッカを思いレベッカのため
にタバコ畑に力を注いだロルフは、気がつくといつの間にか彼女
の故郷パウアタンの森を荒らしていた。さらに彼はアメリカ大陸
で最初に黒人奴隷を使った農園主として名を残すことになった。
広がる一方のタバコ農園は常に人手不足に悩まされていたのだ
が、1619年8月20日、オランダの商船から黒人20人を購入し奴隷
労働者とした。それがアメリカにおける黒人奴隷の始まりである。

ジョン・スミスは、ヴァージニアとポカホンタスの記憶を『ヴァー
ジニアに起きた注目すべき出来事』『ヴァージニア総史』といった
著作にまとめた。アメリカに関する最初の記録文学ともいえる彼
の一連の著作が、イギリスの新大陸への関心をさらに高め、歴
史的な植民船メイフラワー号を送り出すことになった。1631年6
月、ジョン・スミスは生涯独身のままポカホンタスの思い出を抱い
てこの世を去った。
(本書 追記 ヴァージニア後日譚 より引用)












 
「アメリカ・インディアン悲史」
藤永茂著 より引用

ジェイムス・タウンにあっても、プリマスと同じく、発足当初の食糧
欠乏をはじめとする苦難は筆舌につくし難いものがあった。1607年
から三年間に、ここに上陸した入植者の数は900人に上ったが、
1610年の生存者はわずか150人、と記録されている。強奪、窃盗、
脅迫などの強引な手段にうったえて、インディアンから食糧を得よ
うとしたジョン・スミスに、ポワターンは「あなた方は、愛によって我々
から得られるものを、どうして力ずくで取ろうとするのか」といったと
伝えられる。


ロマンテックな伝説が示すように、インディアン側には、素朴な情
緒的要素があったかもしれぬ。しかし、白人の側には一片の感傷
もなく、ただそこには、バージニア植民地経営の冷たい計算があっ
た。彼等は、ロンドンから銅製の王冠をとり寄せ、“キング”ポワタ
ーンの戴冠式を行うという茶番劇まで用意した。その空々しい滑稽
さは、あくまでも誇り高い老ポワターンが海賊まがいのジョン・スミス
の前にひざまずき、頭を下げて冠をいただくことをためらったとき、
極まった。










































 
「ポカホンタスの秘密」
ポカホンタス研究会(和栗隆史) より引用

「一生に一度の恋をしたことがありますか」
「風の色が見えたとき、二人の愛が始まった」
というキャッチコピーと共にディズニーの長編アニメーション大作
『ポカホンタス』が公開された。『美女と野獣』『アラジン』そして
『ライオン・キング』と、ここ数年立て続けに記録的な超ヒット作品
を送り続けているディズニーならではの最上級のラブ・ロマンス
『ポカホンタス』には、ただただもう涙を流すばかりだ。「ディズニ
ーさん、いつもありがとう」である。ところがこの『ポカホンタス』は、
これまでのディズニー作品とは違って単なる想像上のおとぎ話で
はなく、アメリカ人なら誰もが知っている有名な歴史的実話に基
づいているという。ポカホンタスは、ジャンヌ・ダルクやナイチン
ゲールにも匹敵する、いやそれ以上の歴史的ヒロインなので
ある。


スミスはイギリス・リンカンシャーのウィロビーで農家の長男とし
て生まれたが、20歳の時に自分の力を試そうと武者修行の旅に
出た。ヨーロッパに渡ったスミスは各国の傭兵として戦い、いくつ
もの手柄を上げ、キャプテン(大尉)の階級を得るまでになった。
のちにヴァージニアへ渡った彼が、キャプテン・ジョン・スミスと呼
ばれたのは、これが元だと言われている。そう「キャプテン」は
「船長」ではなく、「大尉」なのだ。さてそのスミスは割りと小柄だっ
たようだが、腕っぷしは強かった。こんなエピソードがある。
スミスがトランシルヴァニア軍(ドラキュラで有名なあのトランシル
ヴァニア)に参加していた時のこと、敵方トルコ軍から一騎打ちを
挑まれ、スミスが軍を代表して戦うことになった。スミスは一人目
の挑戦者の首をはね、二人目はピストルで倒し、三人目は剣で
とどめを差した。これで一気にスミスの名が知れ渡った。ところが
それからしばらくして、彼は同じトルコ軍との戦いで捕虜になって
しまい、こともあろうか奴隷として売られてしまうのだ。実はここで
もロマンスがあった、と彼は書き残している。彼に恋した王妃
トラビガンザの計らいで窮地を抜け出したというのだ。(中略)
その後ふたたび捕われて奴隷となり、今度は主人を殺して逃亡
して、27歳の時にようやくイギリスに帰ることになる。そしてその
年に、ヴァージニアへの植民団に参加して海を渡ったのだ。
(本書より引用)


一方そうした“スミス嘘つき派”に対して“スミス擁護派”は、さま
ざまな反論を試してきた。その一つに、「最初の報告にポカホン
タスのエピソードを書かなかったのは、植民地の指導者たる者が
先住民に捕われて処刑寸前にまでなったなんていうことは口が
裂けても言えなかったことなのだ。なぜなら、そんなことをしたら、
誰もそんな危険な植民地経営に投資しなくなってしまったに違い
ないからだ。ヴァージニアは、あくまでも黄金に包まれた別天地
でなければならなかったのだ」(中略) さらには、「未開人と言わ
れていた先住民の娘と個人的な関係が生じたなどとは、敬虔な
クリスチャンであるスミスは、なかなか言い出せなかったのだ」
といったような主張もある。(中略) ジョン・ロルフがポカホンタス
との結婚に踏み切る前に躊躇していたのも同じ理由だった。
(中略) 「ポカホンタスは本当にスミスを救ったのか?」の著者
リーメイは、問題のエピソードに関するあらゆる文献や証言を
チェックして、一つの結論に達した。それは、「もしスミスが嘘つき
だという証拠があれば、私はそれを認めるにやぶさかではない。
だがしかしあらゆる調査を行った現時点において、彼の証言が
デタラメであるということを示す根拠は見当たらない。したがって
私は結論する。ポカホンタスは間違いなくスミスを救ったのだ」と。
ポカホンタスが本当にスミスを救ったのかどうかという問題に関
して、ハッキリとして結論は恐らく出ないだろう。だがどうやら、そ
れが何を意味していたのかは別にして、そうした処刑シーンが
実際にあったことまで否定できまい。ポカホンタスはスミスを救っ
たのだ。
(本書より引用)

 
この文献の詳細ページへNHKカルチャーラジオ 歴史再発見
「アメリカ先住民から学ぶ―その歴史と思想」

阿部珠理 著 NHK出版 より引用


この劇的な救命劇が、その後の歴史に広く流布して、ディズニー
のアニメ映画にも登場し、それからのスミスとポカホンタスの恋愛
物語に発展し定着した。スミス本人が記すとおりに実際に処刑され
つつあったかどうかは、当時のポーハタンが敵を処刑する一般的
方法が、長い時間をかけた拷問か、槍での刺殺であったことを考え
ると疑わしい。また当時のポーハタン族の習俗に、ハスケナウという
通過儀礼があった。少年が一人前の部族員となるために、象徴的
な死の儀式を行うものだ。スミスがこの後ポーハタンの養子となる
史実を考慮すれば、彼がポーハタン族として受け入れられるため、
一度死ぬための儀式が執り行われたと考える方が自然だろう。
実際、スミスを助けたとされる時、ポカホンタスはまだ、12歳にも
満たない子どもであった。彼女がいかに早熟であったとしても、30
近いスミスとの恋は想定しにくい。だがその後も現在まで、スミス
救出劇と二人の恋物語は、小説、芝居、映画と時代のメディアで
取り上げられ、西欧の読者に広く受容された。


ポカホンタスの容姿や態度が、他のポーハタン族の民からぬきん
でているばかりでなく、彼女の機知と精神は比類がないとスミスは
描写しているが、実際美しく、賢い少女であったのだろう。ポカホン
タスがジェームズ・タウンで英語を学んだのも、キリスト教に改宗し
たのも、また白人と結婚したのも、彼女の意思が全く入っていな
かったとは言い切れない。また彼女が逃亡を企てたという記録も
残っていない。賢明であるがゆえに、二つの人種間の仲介役として
の自分の責任を認識していたのかもしれない。


 
 
 「アメリカ先住民を知るための62章」
阿部珠理・編著 明石書店

(本書より引用)
彼女にはあまりにも有名な「美談」がある。彼女は十代の最初の
ころ、ジョン・スミスという植民地のリーダーがポーハタン族につかま
り、族長に棍棒で頭を打ち砕かれそうになったのを見て、身を挺して
彼の命乞いをしたという。しかし、それが初めて詳しく語られのが17年
後に出されたスミスの旅行記(Generall Historie)においてであり、そこ
には美女に命を助けられるという体験談が他にいくつも挿入されて
いることから、話そのものの信憑性は低い。それ以後もポカホンタス
のこの美談は語り継がれ、19世紀になると肖像画に描かれる彼女の
服装や容姿にはロマンチックな脚色が施され、彼女は白人のイメージ
に近づけられる。
(辻祥子)

好戦的な先住民男性のイメージの対極におかれるのが、白人男性
に尽くす、性的な欲望の対象としての先住民女性像だ。ディズニー
映画の主人公となったポカホンタスは特に有名だ。ポーハタン族の
「酋長」の娘が、ヴァージニア植民地の建設に関わったジョン・スミス
と恋に落ち、彼の命を救ったという美談は、先住民史においては
まったくのつくり話とされる。それでも献身的な先住民のプリンセスの
人気は高く、毎年ハロウィーンの季節には全米各地で、ジョン・スミス
とポカホンタスの衣装に身を包んだ男女が闊歩する。白人男性の
欲望を満たす先住民女性のイメージは、彼女たちが深刻な性暴力の
被害を受けてきた歴史と共振関係にある。この状況はいまも改善さ
れておらず、2007年にアムネスティ・インターナショナルが発表した
報告書によれば、アメリカ先住民女性の実に3人に1人がレイプの
被害にあっているという。先住民の女性が受けてきた暴力と、彼女た
ちが現在も抱える悲しみを理解しているならば、白人侵略者とポカホ
ンタスの格好でハロウィーン・パーティに出かけることはできないだろ
う。先住民族に関する一般認識が、いかに現実離れしているかが
うかがえる。
(鎌田遵)

 
 



 



 



ポーラ・ガン・アレン作

「ポカホンタスからイギリス人の夫のジョン・ロルフへ」

「ネイティブ・アメリカン詩集」アメリカ先住民の現代詩 より引用



もしわたしが腕の中でやさしく守ってあげなかったら

おお 不実な人よ

あなたは死んでしまったでしょう

それから荒野で死にそうになっていたあなたを

わたしの世界を

目が見えぬ者のようにつまずきながら歩いていた

あなたを

わたしは何度救ってあげたでしょうか

もしわたしがあなたに困難な仕事を頼まなかったなら

海の向こう側にいるあなたの雇い主は

あなたを見捨ててしまったでしょう

何度も何度も

あなたを見捨てたのです

丁度たわわに実った嘘を収穫させようと

あなたをここに残したように

それでもあなたは生き残った おお わたしの白い肌の夫よ

それからあなたは

わたしが栽培するようにすすめた植物から得た黄金を

彼らにもたらした タバコだ

この葉のために

あなたの子孫が死んでしまうのはなんという皮肉でしょうか

なぜならあなたの認識を超えた力が

すべてのものに働いているのです

ほんとうにわたしはあなたを救ってあげた

一度だけでなく何千回にもわたって

そしてあなたはわたしの腕の中で眠った 愚かな子どもよ

わたしが見守る中 あなたは遊んだ

名前さえ知らない神さまについて

たわごとを言った もちろん

わたしの沈黙にあなたは驚いた そして言い放ったのです

わたしは無知な気まぐれ女 粗野な娘

獣が父親で あなたという夫にふさわしいルールのもとで

その断固とした導きによって気品を身につけはしたが

泥だらけの街で裸で横とんぼ返りして廻った

肌の黒い娘だと

まったくその通り

わたしはほとんど口を利かなかった あなたはそう言った

そしてあなたは何も聞いてくれなかった

ただあなたは大げさな夢をもてあそんだだけ

それから祖国の王さまのご機嫌を取ろうと思いたって

それゆえに仰々しい書状を送りつけたのです

わたしはあなたをじっくり観察した

あなたの策略を理解し

それでもあなたを守った

あなたに従って死んでしまうほどでした 無駄死に

キリスト教徒の死を腐敗させたのです そしてあなたは

裏切り者 白人 わたしの息子の父親

生き残り わたしがあなたに教えたことを利用して

わたしが骨になるまで利用して

夢に描いていた以上の富を手に入れたのです







A Koskimo house

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


ワタリガラスの伝説

「森と氷河と鯨」星野道夫 文・写真 世界文化社 より引用。


今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。だから、しっかりと

聞くのだ。たましいのことを語るのを決してためらってはならない。ずっと昔の

話だ。どのようにわたしたちがたましいを得たか。ワタリガラスがこの世界に森

をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。人々は森の

中に座り、どうしていいのかわからなかった。木は生長せず、動物たちも魚た

ちもじっと動くことはなかったのだ。ワタリガラスが浜辺を歩いていると海の中

から大きな火の玉が上がってきた。ワタリガラスはじっと見つめていた。すると

一人の若者が浜辺の向こうからやって来た。彼の嘴は素晴らしく長く、それは

一羽のタカだった。タカは実に速く飛ぶ。「力を貸してくれ」 通り過ぎてゆく

タカにワタリガラスは聞いた。あの火の玉が消えぬうちにその炎を手に入れ

なければならなかった。「力を貸してくれ」 三度目にワタリガラスが聞いた

時、タカはやっと振り向いた。「何をしたらいいの」 「あの炎をとってきて欲し

いのだ」 「どうやって?」 ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくる

と、それをタカの自慢の嘴に結びつけた。「あの火の玉に近づいたなら、

頭を傾けて、枝の先を炎の中に突っ込むのだ」 若者は地上を離れ、ワタ

リガラスに言われた通りに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続け

た。炎が嘴を焼き、すでに顔まで迫っていて、若者はその熱さに泣き叫

んでいたのだ。ワタリガラスは言った。「人々のために苦しむのだ。この世

を救うために炎を持ち帰るのだ」 やがて若者の顔は炎に包まれ始めた

が、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れ

た。その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動き

だし、森の木々も伸びていった。それがわたしがおまえたちに残したい

物語だ。木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを

見つめている。そのことを忘れるな。これからの時代が大きく変わってゆ

くだろう。だが、森だけは守ってゆかなければならない。森はわたしたち

にあらゆることを教えてくれるからだ。わたしがこの世を去る日がもうすぐ

やって来る、だからしっかり聞いておくのだ。これはわたしたちにとって

とても大切な物語なのだから。


(クリンギットインディアンの古老、オースティン・ハモンドが1989年、死ぬ

数日前に、クリンギット族の物語を伝承してゆくボブをはじめとする何人

かの若者たちに託した神話だった。この古老の最後の声を、ボブはテー

プレコーダーに記録したのだ。








アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

ホピの預言(予言)

オオカミの肖像

天空の果実


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