「はるかなるオクラホマ」

ネイティブ・アメリカン・カイオワ族の物語と生活

高橋順一 はる書房 より引用








沈黙の儀式


インディアンの文化では、初対面の者に対する沈黙は、相手に対する無関心や

敵意の表れだとは考えられていない。また、その場にまずい雰囲気を作り出して

しまうこともない。初対面同士は言葉を控えることがむしろ礼儀なのである。しか

し共通の友人がその場にいる場合は、事情がやや異なる。初対面同士は口を

きかなくとも共通の友人とは自由に話せるので、その場の会話はこの友人の

仲介で滑らかに進行し得るのである。ただし、その間も初対面の二人は直接言葉

を交わすことを控える。このような沈黙は、数時間から数回の出会いを重ねる間

も維持される。沈黙を極端に嫌い初対面の時から親しく言葉を交わすことになれ

ているアメリカ人にとって、このインディアンの沈黙は全く耐え難いことだろう。ほ

とんどの白人が、これを冷酷な性格と異民族に対する敵意の表れだと解釈する。

不幸な誤解である。インディアンの文化では、初対面の者に対してあまりにじょう

舌で親しげな態度をとるのは、傲慢さの表れであると解釈される。初対面の場面

で進んで自己紹介をし、相手の手を握ったり肩をたたいたりするアグレッシブな

態度は、「白人のようだ」と批判と軽蔑を伴って評される。そのような態度は、何

か良からぬ魂胆を持っている証拠だとみなされるのである。「インディアンは、

知り合うのに時間がかかるが、一度知り合ったら本当の友人になる」のであり、

「白人はたくさんしゃべるが、インディアンは真っ直ぐに(正直に)しゃべる」という

のが、インディアンたちの見方である。したがって、初対面の際には、沈黙を守

ることが相手に敬意を払い自らの誠実さを示す最善の方法なのである。沈黙と

いう行為が必ずしもコミュニケーションの拒否や敵意を意味するのではないとい

うことは、私もそれまでの人生経験からある程度分かっているつもりであった。

しかし、それが初対面の人に対する挨拶までも控えるという形で表れるのは、

私の予想をはるかに越えていた。私は、自分が異文化の世界に足を踏み入れ

たことを強く感じた。







飲酒の伝統のないインディアン文化


煙草をはじめとする多くの常習性の喫飲植物がアメリカ大陸に原産するもので

あり、古くから先住民によって利用されてきたという事実はよく知られている。

今日でも、煙草やペヨテ(強い幻覚作用を持つサボテンの実)は、彼らの文化

の中に深く根を下ろしている。たとえば、彼らはひとつのパイプに詰めた煙草

をみなで回し飲みするという儀式によって、平和の意志と信頼を確認し合って

きた。赤い石を掘って作る火皿と長い木製の柄からなるいわゆる「平和のパ

イプ」は、今日でもインディアンの団結と指導者の威信を示す重要な政治的

象徴の道具となっている。また干したペヨテをかじることによって生じる幻視

体験は、「ペヨテの道」と呼ばれるネイティブ・アメリカン・チャーチの信仰に

とって、必要不可欠な地位を占めている。それらは決して乱用されることは

ない。ところがインディアンには飲酒の伝統がなかった。このことが彼らに

致命的な打撃を与えることになった。土着の煙草やペヨテの利用に関して

は統御できる文化が、外来の酒に関しては全く無力で無抵抗だったのであ

る。そこで白人商人が持ってきた「火の水」は、まさに草原を焼き尽くす野火

のように、際限なくインディアンたちを飲み込んでいった。


飲酒の文化があるとはどういうことだろうか。それは酒が手なずけられ社会

化されているということである。ちょうど平和のパイプの交換やペヨテ儀礼が

そうであるように、飲酒も多くの微妙な規則に支配された社会的な行為と

なってしかるべきなのである。ところが、インディアンの飲酒には、そのよう

な洗練された文化的規則の存在はほとんど見られない。彼らは、ただアル

コール消費するために酒を飲む。そこには、酒宴の楽しさも、華やかさもな

い。飲酒の持つ、社会的、社交的、文化的側面が、完全に欠落しているの

である。それは実に悲惨な光景である。目の前に幾箱も積み重ねられた

缶ビールを、次々と喉に流し込んでいく。喜びもなく、笑いもなく、連帯感も

友情も湧くことはない。ただひたすら、目前のアルコールを消費するだけな

のである。酔いが回るにつれ、必ずといっていいほど人々の感情は荒れ、

人間の持つ愚かさと残酷さばかりが表に表れる。それは実に陰惨な光景

である。







インディアンの精神文化を伝える文献に戻る