1997.3.30

野生の鹿と出会って
先日、神奈川の自然が残されている東丹沢に出かけた。野生の鹿が山から降りてきて、
ある施設が食物をあげるようになっている所だ。純粋な野生動物とは言えないかもしれな
いが、人間が彼らの生活空間を奪ってきており、益々彼らの生きていくための糧を見つけ
ることは厳しい状況にあるのではないかと思う。私は親子連れの鹿のその眼に、なんとも
言えない心の安らぎを感じてならなかった。慈しみに満ちた目もあれば、警戒の目を向け
る雄鹿もいる。動物園という隔離された世界のなんともいえない無気力な目とは何かが違
って見えた。人間はなんという愚かな動物なのだろうか。鹿に限らず、鳥だって、魚だって
自由に大空を、大地を、海中を駆け抜けたいのだ。まるで牢獄とでも表現しようのない世
界の中で、彼らの目はうつろになってゆく。野生の鹿の目をじっと見つめると、彼らも私と
同じようにこの大地と共に生きている、共に生命の神秘を宿している兄弟達のような気が
してならなかった。アメリカ・インディアン達は樹々と話をした。それは幻想などでは決し
てなく、逆に現実の生活の中から自然と生まれてきたものなのだ。それだけ彼らの目は
存在そのものを、そのものとして受け止める力を持っていたのだ。人間優位という災いに
満ちた目を決して持とうとはしなかった。もし私にもこのような力があったら、そしてこの
ような純粋な澄んだ目を持っていたら、あの野生の鹿とも語り合うことも出来たであろう。
エスキモーの伝説に次のような言葉がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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「エスキモーの伝説」
はじまりのとき、
人間と動物のあいだには、
ちがいはなかった。
その頃はあらゆる生き物が地上に生活していた。
人間は動物に変身したいと思えばできたし、
動物が人間になることもむずかしくはなかった。
たいしたちがいはなかったのだ。
生き物は、ときには動物であったし、
ときには人間であった。
みんなが同じことばを話していた。
その頃は、ことばは魔術であり、
霊は神秘な力を持っていた。
でまかせに発せられたことばが
霊妙な結果を生むことさえあった。
ことばがたちまちにして生命を得て、
願いを実現するのだった。
願いをことばにするだけでよかったのだ。
しかし、説明したらだめになる。
昔は万事がそんな風だった。
「インディアンの言葉」ピクマル編 カーティス写真 中沢新一訳 紀伊国屋書店より引用
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この言葉は、アメリカ・インディアンのスー・フンパパ族の酋長、シッティング・ブル(1875)
の「一粒一粒の種が目覚め、一匹一匹の動物が産声をあげる。この神秘な力のおかげ
で、わしらもまた、生きていくことができるのだ。だからこそ、わしらは隣人たちや、近くに
住む動物たちが、わしらとまったく同じ権利を持っていて、この大地に住むことを認めて
きた。」というところに源を発している。私たちは多くの植物・動物の犠牲により生かされ
ているという現実から目を背けることは許されない。だからこそ、アメリカ・インディアンに
しろ、エスキモーにしろ、モンゴルの遊牧民にしろ、捕った獲物を絶対無駄にはしない。
人間が自らの命を保つには、多くの他の生命の犠牲の上に立っている。だから決して神
・大地への赦しと感謝の祈りを忘れることはない。まして毛皮を取るだけの為に殺戮を
繰り返すことなど、どうして出来ようか。アッシジの聖フランシスコはよく鳥に話しかけ、
沢山の鳥が彼の近くに降り立ち、彼の話に耳を傾けたと言われている。聖フランシスコ
が唄った歌には、共に生きる他の生命への深い感謝と祈りが込められている。・・
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「太陽の歌」
神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。
わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。
わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。
わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。
わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水はわたしたちを清め、力づけます。
わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。
わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。
大地は草や木を育て、みのらせます。
神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、
病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜いく者は、あなたから永遠の冠を受けます。
わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。
大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。
神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。
第二の死は、かれを損なうことはありません。
神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、
感謝します。
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私自身を含めて、いつから人間は「傲慢」になってしまったのだろう。自分の生命維持
の為の権利ばかり、主張し表裏一体である義務をないがしろにしてしまった。人間と他の
の生命の垣根の杭は底が見えないほど、大地に深く突き刺さる。しかし、人間とこの同じ
地球の上に生きているものとの絆を取り戻し、いつしかこの垣根の杭を引き抜かなければ
ならないのだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
野生の鹿と出会った後も、彼らの目が浮かんでくる。生まれたばかりの子供の目のように
きらきらと輝いており、大地に根をおろして生きることの大切さを思わずにはいられなかっ
た。すべてのものが新しく新鮮で、喜びに満ちた世界を、私たち大人も再び取り戻さなけ
ばならない。ただこの私にそんなことが出来るものなのか。エスキモーの人は教える。
「 遊び方を知る者は、いかなる障害をも、飛び越える 。歌うことと、笑うことを知る者は、
いかなる困難にも、挫けない」。チベットのある賢者が言う。「人生は素晴らしい。人生は
輝かしいものだ。目まいを起こすほどの高みとおぞましい奈落の底との間を人は常に選べ
る。何事も相対的であり、確定したものは何もない。これを悟るなら、あなたは少年のよう
な心で生きることができるだろう。子どものような心を持って生きるときのみ、人は生きるに
値するものとなるのだ。そうすれば、多くの事柄を知っても優越感を感じなくなる。わたしは
自分が例外的な人間だとは思ってはいないのだよ。人類にただ仕えているにすぎないの
だ。わたしは生き、愛している。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・