「いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる」

柳澤桂子 著 小学館






本書 帯文 より引用



傑作『
生きて死ぬ智慧』に結集した体験と思索のすべてがここにあります。
(黒田杏子・俳人)


絶え間ない病苦と孤独のなかでついには“尊厳死”を決意した。


そのとき、私はあまりに理不尽で容赦のない運命の前に立ちすくみ、家族
にも語るすべのない惨めな思いで、死と向かい合っていたのだろうか・・・。
私といういのちが宇宙の塵に還る。生じたということもなく、なくなるというこ
ともない。すでに般若心経の「空」に浸りきっていた私のこころは、まったく
恐怖におののくことはなかった。(本文十六章より)



柳澤桂子さんのホームページ 「柳澤桂子 いのちの窓」


 


本書より抜粋引用


宗教というのは、どれも一元的な世界にもどることを説いている。それは、生命の歴史の中で、

私たちがまだ幸せだった時代にもどることである。



それは、進化の過程でいつ頃のことであろうか。魚類には自我があるのだろうか。爬虫類(ワニ

など)になると、すでに自己意識のあることは外から見ていてあきらかだろう。



いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識は、自我の確立とともに

人格神(一神教)の認識に進化する。そこでは、人格神にひれ伏して絶対的教えに帰依したり、

その人格神の超人的能力を仮想することで、ひたすら救済を乞い願う信仰スタイルをとる。



しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して、“神なき神の時代”に入る

ことができると、私は考える。つまり、私たちのこころに「野の花のように生きられる」リアリティーを

取り戻すために、必ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。もはや何かに頼らなければ生き

られない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に頼らずに、神の前に、神ととも

に生きるのである。



宗教学では、このように信仰が進化するとう考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的

に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない

信仰の形がありうると信じている。


(以下略)



 


本書より抜粋引用


神の不在。それは、ボンヘッファーにとって、大悟と呼ぶに等しい冷徹なまでの発見だった。しかし、

「神なしに生きる」と宣言してなお、ボンヘッファーのこころは「神の前に立って」「神とともに」ある。この

神とは、いったいどんあイメージのものなのか? 背教の徒となじられる覚悟で、決然と「神なし」と言

い切ったときの神。そのうえで、あらためて自らの信仰の揺るぎなさを確信して「神の前で」「神ととも

に」と表白するときの神とは何なのか。



私たちは、そのちがいをじっくりと考え抜いてみなければならない。再奪還されたボンヘッファーの内な

る神は、苛烈な運命に翻弄される我が身の無力さを許し、不運につきまとう嘆き、呪い、絶望から救っ

てくれたにちがいない。内なる神からの癒し・救済によって、罪悪感と悔恨に満ちた自分を認め、許すす

べを身につけること。そして得られる、病や老いや死などの運命と向かい合い、穏やかに折り合いをつ

けて生きていくための、こころの成熟。



それは限りあるいのちを生きるものにとって、最善の知恵なのかもしれない。絶対神に依存しないで、お

のれのこころの中に、自分を救い、自分を許し、いのちの再生を果たしてくれる存在を見出した偉大なる

思索。ボンヘッファーの逆説を、私はそういうふうに理解したい。



私たちは、何か大きな力、畏敬の念を抱かせる存在を感じる神経回路を遺伝的にもっているのではない

か。このことは大脳生理学のエックルスも述べている。おそらく進化の過程でそのような神経回路が発生

して、保たれ続けているのではなかろうか。か弱い一個の生物として、はかない生の拠りどころとなる大い

なる存在である自然に畏敬の念を抱くのは科学的にも肯けることであり、そのような記憶が脳に刻まれた

としても不思議ではない。



私たち小さい弱い人間にとって、自然はそのような偉大な存在である。そのことを私たちの脳は、遺伝的

記憶として自ずと感得しているのではなかろうか。それが、ボンヘッファーがイエスを滅してもなおこころに

残った神だったのではなかろうか。ボンヘッファーならずとも、私たちも、そのような偉大なものの力を感じ

る。卑小すぎる自己に対して悠久にして無窮なる大自然。人生のはかなさ、さだめの常ならんこの世、そ

の移ろい転ぶ速さに対し、数かぎりなくいのちを産み出し続ける途方もない時間と空間。この大きな宇宙の

中にあって、それだけがまさに真実であり、神と呼ばれるものにふさわしい。



 
 



命と原子力共存できぬ

~ 3・11からの再生 ~生命科学者 柳澤桂子

Aloe*Wing 命と原子力共存できぬ ~ 3・11からの再生 ~ 生命科学者 柳澤桂子 から引用しました。



これまで命や環境に関する本を50冊余り出しました。そろそろ執筆がつらくなり、人生最後の本のつもりで、

地球温暖化と原子力発電の恐ろしさについて書きました。その原稿を仕上げて整理をしていた3月11日、

福島第一原発事故が起きてしまいました。



最初に強調したいのは、わたしたち生物と原子力は、共存できないということです。生物は40億年前に誕生

し、DNAを子どもに受け渡しながら進化してきました。



DNAは細胞の中にある細い糸のような分子で、生物の体を作る情報が書かれています。わたしたちヒトの

細胞は、DNAを通じて40億年分の情報を受け継いでいます。DNAは通常、規則正しくぐるぐる巻.きになって

短くなり、染色体という状態になっています。



生物の生存は誕生以来、宇宙から降り注ぐ放射線と紫外線との闘いでした。放射線も紫外線もDNAを切っ

たり傷をつけたりして、体を作る情報を乱してしまうからです。



一方、細胞にはDNAについた傷を治す「修復酵素」が備わっています。ヒトの修復酵素は機械のように複雑

な働きをします。しかし、大量の放射線にさらされると、酵素でも傷を修復できず、死に至ることがあります。



ヒトが短時間に全身に放射能を浴びたときの致死量は6シーベルトとされ、短時間に1シーベルト以上浴びると、

吐き気、だるさ、血液の異常などの症状が表れます。こうした放射線障害を急性障箸といいます。しかし0.25

シーベルト以下だと、目に見える変化は表れず、血液の急性の変化も見られません。



ところが、そうした場合でも細胞を顕微鏡で調べてみると、染色体が切れたり、異常にくっついたりしている

ことがあります。また、顕微鏡で見ても分からないような傷がつき、その結果、細胞が分裂停止命令を無視

して、分裂が止まらなくなることがあります。



それが細胞のがん化です。がんは、急性障害がなくても、ずっと低い線量で発症する可能性があるのです。

しかも、がんは、進行して見えるようにならないと検出できませんから、発見まで5年、10年と長い時問がか

かります。いま日本人の2人に1人ががんにかかり、3人に1人ががんで亡くなります。なぜこんなに多いのか。



わたしは、アメリカの核実験やチェルノブイリ原発事故などで飛散した放射性物質が一因ではないかと疑っ

ていますが、本当にそうなのかそうでないかは、分かりません。この分からないということが怖いのです。さら

に、放射線の影響は、細胞が分裂している時ほど受けやすいことも指摘しておかなければなりません。



ぐるぐる巻きになっているDNAは、細胞分裂の時にほどけて、正確なコピーを作ります。糸を切る場合、ぐる

ぐる巻きの糸より、ほどげた細い糸の方が切れやすいでしょう?胎児や子どもにとって放射能が怖いのは、

大人よりも細胞分裂がずっと活発で、DNAが糸の状態になっている時間が長いためです。



わたしは研究者時代、先天性異常を研究し、放射線をマウスにあてて異常個体をつくっていたので、放射能

の危険性はよく知っていました。1986年、チェルノブイリ原発事故が起きた時、わたしはいったい誰が悪いの

だろうと考えました。原子力を発見した科学者か。原子力発電所を考案した人か。それを使おうとした電力

会社か。それを許可した国なのか。



いろいろ考えて、実はわたしが一番悪いのだと気付きました。放射能の怖さを知っていたのに、何もしてい

なかった。



そこで88年、生物にとって放射能がいかに恐ろしいかを訴えるため、「いのちと放射能」(ちくま文塵)を書き

ました。原発がなせダメなのか。第一に、事故の起こらない原発はないからです。安全性をもっと高めれば

よいという人がいますが、日本の原発も絶対に事故は起こらないといわれていました。福島の事故で身に

しみたはずです。



第二に、高レベル放射性廃棄物を子孫に押しつけているからです。処理方法も分からない放射能のごみを

残して、この世を去る。とても恥ずかしいことです。10年もしたら、みんな福島のことを忘れてしまうのではな

いかと心配です。



原発がないと困る人はたくさんいます。政治家は電力会社から献金を受け、テレビ局や新聞社は電力会社

の広告を流しています。原発は地元の町や村に雇用を生み、交付金などで自治体財政を潤します。それら

は生産すること、お金をもうけることです。いくらもうけても、原発事故で日本に住めなぐなったら何にもなら

ない。どうして政治家が気付かないのか不思議です。わたし一人の力は小さく、原発はなくなりません。



「福島のために何かしたい」とおっしゃる方はたくさんいます。ただ、福島産の物を買ってあげるとか、そうい

うことでしょうか。「自分」というものを考えてみる。生命とは何かをしっかり考えてみる。



そういう、根本的なことが大事な気がしています。それが福島のためであり、子孫のためになると思います。

繰り返します。生物と原子力は共存できません。原発は絶対にやめるべきです。



(聞き手 細川智子 道新11.8.29.)




美に共鳴しあう生命





柳澤桂子 | 話題の本 | 書籍案内 | 草思社 より画像引用


「生きて死ぬ智慧 心訳 般若心経」文・柳澤桂子 画・堀文子 英訳・リービ英雄 小学館

「愛蔵版DVD BOOK 生きて死ぬ智慧」文・柳澤桂子 画・堀文子 小学館

「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」柳澤桂子著 草思社

「柳澤桂子 いのちのことば」柳澤桂子著 集英社

「永遠のなかに生きる」柳澤桂子著 集英社

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社


柳澤桂子さんのホームページ 「柳澤桂子 いのちの窓」

心に響く言葉(2011年7月3日)・柳澤桂子(生命科学者)の言葉






2014年5月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



独り言なのでコメントは不要です。



科学者、教壇で教える立場の学者、彼らに「地球に生きる全ての生命に思いを馳せる」資質が欠けているなら、

決して彼らを人々の上に立たせてはいけない。



原子力に限らず、他の学問(政治・経済・医学・哲学など)に対しても言えることだと思いますが、たとえそれに

よって人類の進歩が遅くなっても、後に生み出される多くの災難に比べると小さなことではないでしょうか。



頭が切れる、知能指数が高いのは優れている、その判断基準がまかり通った結果が現代の世界かも知れま

せんね。




 


2014年5月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。


表現の自由(問題となっている漫画のことではなく、以前から感じていることを書きます)



私にはとても出来そうにはありませんが、真剣に真実を追究する心構えがあるのなら、先入観を捨て相反

する立場の意見も真剣に聴く。



それでも「真実は違う」と確信したら、たとえ身のの危険が迫っても追求の手をやめない。



平衡感覚と覚悟、それが欠如している人間が「表現の自由」を盾に正当化すること、それは「表現の自由」

の姿をおとしめ、逆に言論統制へと突き進む扉を開くようなものです。



「表現の自由」とは関係ありませんが、社会福祉研究の第一人者であった故・一番ケ瀬康子さんの言葉が

心に残っています。



「熱き心と、冷めた頭の2つが必要不可欠」



最後に「表現の質」に関してですが、どんな情報にしろ先ず疑うように心がけています。



全てを疑うことなど人間不信に陥りそうで出来ませんが、偏向報道を見るにつけ、その心構えだけは心の

片隅に持っていたいものだと思います。





美に共鳴しあう生命







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