「ファチマ 巡礼者へのしおり」ロメオ・マジョーニ・著 永田健二・訳









本書「ファチマ 巡礼者へのしおり」(2001年刊)より抜粋引用。





巡礼


巡礼はすべての民族の人間としての宗教的体験の一つです。世界の至る所に信者たちが赴く巡礼地があります。

彼らが巡礼に赴くのはしばしば、聖人たちの取次ぎによって、神様の御計らいや、肉体的なそして精神的な苦しみに

終わりをもたらす恵みを求めるためです。あるいは、自分自身また自分の身内の人たちが受けたお恵みや、御保護

のために感謝をささげるためでもあります。



キリスト教の歴史の中では、巡礼は3世紀から4世紀に始まりました。信者たちは聖地、イエスがこの地上で過ごされ

た場所を見るために、パレスチナに赴いていました。次いで、信者たちはキリストの証し人である殉教者たちの墓や

遺骨のある場所へ出かけました。巡礼者たちが好んで赴く場所の中には、当然のことですが、ローマがありました。

ローマには、使徒聖ペトロや聖パウロの墓があるからでした。このような信心から、中世時代には聖年を祝うという

ことが発展していました。聖年を祝うことは、1300年に初めて告示されました。そしてそのとき、永遠の都には、非常

に大勢の人が集まったのです。あまりに大勢の人のために、テベレ河に架けられていた橋の一つが崩れそうになり、

大騒ぎになったと語られています。中世時代に巡礼者たちが好んで選んだ巡礼地は、サンチャゴ・デ・コンポステラ

(スペイン)にある使徒聖ヤコボの墓と、イタリア南部のアーリアのガルガーノにある聖ミカエルの聖堂でした。中世

時代の巡礼者たちは徒歩で移動していました。幸運な人たちは馬車に乗って、あるいはロバに乗って行きました。

そのため、彼らには黙想し、祈る時間があり、長時間の準備の後で、聖なる地にたどり着いていました。わたしたちは

今では、非常に早く移動することができます。そのため、おとめマリアや聖人たちが、わたしたちに語りかけようとする

ことに耳を傾けることができるために、準備して巡礼の目的地に着くよう、内的沈黙をもって心がけることが大切です。





聖マリアの御出現と聖堂


「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」(ルカ1・48)と、自分をイエスの母としてお選びになられ

た神への感謝の賛歌の中で、おとめマリアはこう叫んでいます。聖マリアの預言は、教会の歴史の中で完全に実現

されています。20世紀にわたるキリスト教の歴史は、マリアへの栄光、ナザレの慎ましい少女を讃えることによって

記されてきました。その中で特に記すべき点をここに並べてみます。431年、エフェゾの公会議は神の母という称号を

マリアに与えました。その後、多くの教会がマリアにささげられ、その御生誕、お告げ、お潔め、御逝去、そして被昇天

を祝うために多くの祝日が制定されました。中世時代には、聖ベルナルドや聖ドミニコのような偉大な聖人たちが、

聖マリアへの信心を広めました。その当時始められた信心の中で、わたしたちの時代まで伝えられたものに、お告げ

の祈りとロザリオの祈りがあります。前者は朝・昼・晩に、お告げとマリアが母になったことを思い起こさせます。ロザ

リオの祈りは、マリアへの最高の祈りと言われる、聖母マリアへの祈りを50回唱えながら、キリスト教の信仰の主な

神秘を黙想するようにとの招きです。ロザリオの祈りを唱えるときに黙想する神秘とは、喜びと苦しみ、そして栄光の

神秘です。



わたしたちの時代になって、おとめマリアは神から、わたしたち信仰するものの生活の中に、苦しみの神秘への答え

を見いだすべきであるということを、わたしたちに思い出させる役目を仰せつかったように思われます。何世紀にも

わたってキリスト教信仰があるにもかかわらず、世界はいまだに神に対する憎しみ、無関心、そしてかたくなな心に

よって邪魔されています。そのため、おとめマリアは、人々の心をイエスのもとに導くため、また世界から戦争と憎しみ

を取り除くために、イエスと協力することが大切であることを思い出させるよう心がけておられます。ルルドで、ファチマ

で、そしてポンペイで聖母は悔い改めと祈りを行うよう呼びかけておられます。



それらの聖堂に病人たちや苦しんでいる人たちが赴くのは偶然ではありません。この人たちはおとめマリアに回復の

恵みを求めます。しかしそれ以上にキリストの尊いいけにえに、彼らの苦しみをささげようとしているのです。そのため、

聖マリアにささげられた聖堂は恵みの場所であり、神がおられることを一層生き生きと知らせる場所です。苦しみと祈り

が、焚かれる香のようにささげられて、世界を神のおぼしめしにかなうようにしている場所なのです。詩編作家は歌って

います。「天は神の栄光を語り、その御手による作品は天界を語ります。日は日にそのメッセージを託し、夜は夜に

その知らせを伝えます」。それは全宇宙の典礼です。その中にあってわたしたち一人ひとりは、わたしたちの神に賛美

をささげるために、祈りと苦しみ、そして喜びをもってそれに参加するよう招かれています。





序文 ファチマへの巡礼者たち


いずれの聖堂にもそれぞれの特徴があります。それぞれに聖母が特別のメッセージを残されたからです。これらの

場所の歴史はいわば、このメッセージの中に入るための門と言えます。



ファチマについてもまず第一になすべきことは、御出現の歴史、聖母が残された御言葉、御出現の後に、そのメッセー

ジを自分たちの身をもって証した、3人の羊飼いたちの生活を知ることです。ファチマで聖母があの素朴な3人の子ども

たちを通して世界にお与えになられた普遍のメッセージを受け取るには、恐らく歴史的文化的背景以外により一層の

努力が要求されます。この場合も、聖書と同じように神のメッセージは、そのときの状況とそれを伝える人(連絡者)の

メンタリティーの中に秘められています。したがって、このような背景のもとで、連絡者が言いたいことを突きとめる必要

があります。そして、これこそが神のメッセージなのです。



まず知らなければならない第一の背景は、「言葉」です。すべての神の啓示に見られるように、聖母もその話し相手に

御自分を合わせられます。ファチマの場合は、3人の子どもを相手になさいました。そのため、彼らの言葉をお使いに

なられました。神も御自分の啓示にあたっては同じようになされます。神と人との関係はいつも個人的なものであり、

丁寧なものです。聖杯を持った天使、血の滴り落ちるホスチア、あるいは火の中の地獄絵などは、連絡者側の理解を

助けるためにメッセージを劇化したものです。



大人のようにもっと理論的な知性をもっている人にとっては、このような言葉の使い方や、劇化したような方法は不快

かもしれません。しかし忘れてならないことは、メッセージの連絡に立ったのは、字の読めない子どもたちなのです。



苦行、犠牲、禁欲、悔い改め、さらに苦行用の細い荒縄の使用まで、神のメッセージに対する彼らの対応は、驚くべき

ことであったと言えます。自発的で、決して教えられてする行いではありません(この点についいての、御出現の時期に

おける司祭との関係はあまり意味をなしません)。また彼らの反応が、当時の教会や社会にあった文化的制約からの

ものでないことははっきりしています。「犠牲」と「修復」は、確かに普遍の価値をもったキリスト教のメッセージです。これ

こそ、成聖の姿となるまでに際立って強調されたものです。すでに修道女になっていたルチアが、1930年代から40年代

に、観想修道会的色彩の強い、購いの精神をもって綴った御出現の実際についての手記もおろそかにしてはなりま

せん。



上記を考慮に入れて、現代の人々へのファチマのメッセージが何であるか問いただしましょう。具体的に、わたしたちは

ファチマへの巡礼に何を期待しなければならないのでしょうか。



メッセージは確かに聖母の御言葉の中にあり、時に2つのことが目立って強調されています。それはまた、、聖母が

御出現のたびに繰り返し述べられていることです。「ロザリオを持って祈りなさい」、そしてイエスとマリアの御心を苦しめ

る世界の罪を「償いなさい」ということです。



「償い」のテーマは、したがって、独自のメッセージです。その意味は聖母の直接の御言葉からはっきり分かります。

「すべての苦しみを神にささげてください。神はそれを、ご自身を傷つけた罪の償いのためにお受けになりたいと望んで

おられます。また罪人の回心のためにささげてください」と。また修道女ルチアが記した手記のコメントからもそれが

わかります。「この言葉はわたしたちに深い印象を与えました。それは、あたかもだれが神であられるか、いかに神が

わたしたちを愛しておられるか、また、わたしたちから愛されることをお望みかを知らせてくれる光のようでした。また、

犠牲の価値をわたしたちに教えて、それがいかに神に召されるか、また、その犠牲に基づき、罪人の回心の恵みを

お与えになられるかを教えてくれる光のようでした」。償いとはまず、神の愛を理解することです。神の救いの御業が

決定的なものであることを喜び、賛美と感謝で表し、愛をもってその御業に応えることです。それは償いを共にするもの

としてその十字架にあずかることを意味します。わたしたちの苦しみがあたかもキリストの、世界の罪の「償い」となる

ように、キリストの苦しみに一致させることを意味します。それこそ、幼い羊飼いたちがすぐに理解し、イエスとマリアの

御心への、目に見える形での愛の行いとして、彼らなりに実行したテーマなのです。ファチマのメッセージの核心を把握

し、それを各自の生活の中で実行していくためには、彼らの素朴さの中に入る必要があるのかもしれません。



ファチマから他のことを期待してはなりません。昔からの住民たちの家が立ち並ぶアリュストレールは、とても素朴な

ままに残されています。この素朴な環境の中で、ヴァリーニョスからカベサオまでの、十字架の道行がいまだに行われ

ています。そのときが天使の場所、ファチマに生きる、一番平和なひとときです。



ファチマの中心は、今では現代的な屋根に覆われ、保護されている「小聖堂」であることに間違いありません。おとめ

マリアの白い小さな聖像は、特に大勢の人々の心からの信心に取り囲まれているのを見れば、魅力と感動を呼び起こ

してくれます。人々は月の13日と日曜日に集まります。その他の日は、とても静かで、沈黙に満ち、深い瞑想に入ること

ができます。ここファチマで、この内的平和に身をゆだねることは、とても意義あることです。荘厳な典礼祭儀は、とても

良く配慮されています。小さな聖像が移動するとき、聖歌を歌う人々の姿と、「さようなら、また会いましょう」と哀愁に

満ちた、ハンカチを振る姿が、ファチマの思い出として感動的に残ることでしょう。


 


本書 「ファチマ 巡礼者のしおり」 より抜粋引用。


ファチマのメッセージ


イコン、つまりファチマのメッセージを要約するイメージは、聖マリアの汚れなき御心です。ルチアは今なお生きていま

すが、この信心のために全生涯をささげているのです。「心」は聖マリアの、また神の、人々に対する愛とご配慮を表現

しています。「汚れない」という形容詞は、「恩恵に満ちておられること」、をいい表しています。それはわたしたちの

運命、キリストの購いの賜物としての超自然的な天運の前兆であり、モデルなのです。茨(いばら)の冠をかぶった

汚れなき御心とは、つまり、神の救いのご配慮に対する人々の無理解、裏切り、不忠を示しているのです。そのため、

すべての自分の子らが、神の家族というただ一つの家族の中に集まるのを見られない、母親の心の苦しみなのです。



聖母は神の愛をもう一度提案するために、そして、福音のメッセージの基本である、悔い改めをもってその愛に応える

ことを願うためにお現れになられたのです。神から離れることと罪によって引き起こされる悪、戦争そして人的災害を

目の当たりにすることから、いかに悔い改めが緊急に必要なのかを特に強調されています。かかる歴史的つながり

こそ御出現の特徴です。第一次世界大戦というヨーロッパの状況、ポルトガルに広がっていた反聖職者と非キリスト

教化の気運、ボルシェヴィスム革命の勃発とロシアの、そして世界における共産主義の始まり、それらがその背景に

あるのです。これらの事件は神の刑罰として、また警告として、さらに人類の失敗の体験として読まれるべきであり、

その結果、神への接近と帰還へのバネと見なされるべきです。ここですぐに思い出されるのは放蕩息子のことです。

悲惨な生活の中にあって初めて、彼の心の中に父親の家に帰ろうという気持ちが生まれてきたのです。



ここに、世界の平和、教皇様の苦しみ、ロシアの回心、無原罪の聖母の御心への全世界の奉献、第二次世界大戦の

予言などのメッセージ、一言で言えば、「秘密」のテーマが織りなしています。しかし実際には、このような現実的歴史的

事件はもっと全般的に、心の回心、祈り、あがない、人々の救いを呼び求めることへのしるしでしかありません。それ

は、国家の運命ではなく、全般的な悪にかき回されている個人個人の運命です。このメッセージの将来は特に子ども

たちに向けられているのです。



この意味で、子どもたち、特にヤシンタを非常に驚かせた、あの「地獄をかいま見たヴィジョン」や罪人たちのヴィジョン

は象徴的です。そして、このテーマこそ、おとめマリアの言葉と目撃者たちの会話の中に一番出てくる言葉の一つ、

罪人が地獄に行かないようにと願う「彼らの回心」なのです。



次いで、間違って知らされたために、非常に辱められたお二人の御心を「慰める」意味での償いの必要性がでてき

ます。神の御心を慰めるということは、神のすべての御業とご配慮を讃えることであり、心と命のすべてをもってそれに

お応えすることを意味しています。これが御出現の後にあるあの羊飼いたちの生活をもってささげた、たくさんの小さな

犠牲なのです。彼らは、断食や欲しいものを我慢すること、苦しみを我慢すること、細縄、精神的な苦悩、肉体的な

苦しみ、病気さえも目に見える形で愛の印として神にささげたのです。



結論として言えることは、ファチマのメッセージの中には、今世紀の歴史への神の喚起があるということです。教皇

ヨハネ・パウロ2世が「病的イデオロギーの世紀」と指摘した20世紀は特にヨーロッパを墓で埋め尽くしました。神を拒否

することは人間を破壊することです。教皇様はその回勅「レールム・ノヴァルム)発布百周年に際して」の中で、ファチマ

で預言された大災難にふれて、今世紀についての厳粛な分析をなさいました。



しかし、もっとわるい悪は戦争は苦しみではなく、罪です。そして地獄に行ってしまう罪人たちです。倫理性の低下と

信仰の欠如、これが今世紀の本当の悪なのです。そして、多くの人たちの破滅なのです。このためにこそ、回心、祈り、

そして清く生きるための生活への招きがあるのです。



したがって、このメッセージは善良な人々へも向けられています。善良な人々がまず最初に神の愛の重要性を感じ、

他の人々のためにもそれに応えるように(これこそ償いと言えることですが)ということです。その背景には罪人と彼らの

救済があります。ここに、このために祈る必要性があるのです。罪人の回心のために祈りなさい。そして犠牲をささげな

さい、というこの点こそファチマのメッセージが一番強調している点です。



もう一つの補充的なテーマですが、同時に非常に強調されているテーマがあります。それは、マリアのお取り次ぎ、

すべての人の救いのためのご配慮、世界がささげられることになったその汚れなき御心、わたしたちの生活と歴史に

おいて、聖マリアがそのすべての力をもって取り計らってくださるということです。教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年5月

13日の、自分に対する暗殺未遂事件の祈りに、自分のためになされた取り計らいに対し、聖マリアに感謝するために

ファチマに赴きました。それはまた、聖マリアが今世紀のさまざまな事件においてなされた、決定的な御働きに感謝

するためでもありました。



小さな羊飼いたちへの御出現のたびに、彼らは毎日ロザリオの祈りを唱えることを、聖マリアの汚れなき御心への信心

を培うようにと招かれました。そのため、ファチマから聖母の御保護のもとに取り次ぎと信頼を求めて、聖母への大きな

信心が生まれたと言えましょう。公会議は聖マリアへの信心を信仰のお手本と強調しました。ファチマは彼女が教会の

母、世界の母、お恵みの確実な取り次ぎ人であることをわたしたちに思い起こさせてくれます。



ファチマへは聖母への信心のために赴きます。しかし、聖マリアはキリスト信者の最終目的ではありません。聖母ご

自身がイエスへの信心、罪によって非常に辱められているその御心への信心を求められました。そのため、おとめ

マリアへの信心をそれだけ孤立させるのではなく、むしろ、典礼とお恵みを中心とした、キリスト教的生活全体の中に

組み入れる必要があります。



「太陽の奇跡」 ファティマの聖母と「第三の秘密」 を参照されたし。


聖母子への祈り







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