Vasari's Biography of Michelangelo より引用

エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像



Saint Mary Lake at Sunrise Glacier National Park Montana



「悪とはたんなる何かの欠如ではありません。現実に力を持つ生きた霊的存在
 であり、異常で邪悪なものです。恐るべき現実です。つかみどころがなく、怖ろし
 いものです。このような現実の存在を否定したり、ほかの生き物とは違って神と
 は無関係な存在だと見なしたり、原因のわからない災厄を擬人化した想像上の
 存在にすぎないと考えるのは、聖書や教会の教えとはまったく正反対のことな
 のです。」

 1972年、第二バチカン公会議の後半を監督した教皇パウロ六世の言葉




「悪魔との戦いは・・・・現在でもまだつづいています。悪魔はまだ生きており、
 この世界で活動しているのです。現代のわれわれを取り巻く悪や、社会に蔓延
 する混乱、人間の不調和と衰弱は、すべてが原罪ゆえのものではなく、サタン
 がのさばって暗い行ないをしている結果でもあるのです」

 1987年、聖ミカエルの聖所を訪れたヨハネ・パウロ二世の言葉で、教皇在任中
 に少なくとも三回の悪魔祓いを執り行なったと伝えられている。


上の言葉は「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウィルキンソン著より引用

 




『ローマ典礼儀礼書』における悪魔祓いの正式な規則

○エクソシストはどんな場合でも、自分のところにやってきた信者がほんとう
に悪魔に憑かれているのか、それともたんに妄想をいだいているだけなのか
を見極めなければならない。それぞれのケースについて、その者が病気でな
いか、とくに精神性の疾患でないかを注意深く検討しなければならない。

○任務を引き受ける司祭は、清廉潔白な生活を送っており、知的で、勇気が
あり、謙虚であるべきだ。とくに重要なのは祈祷と断食である。

○悪魔祓いは、教会の規定に則って行なわなければならない。迷信じみた儀
式はどんなものも避けるべきである。

○憑依された者にその能力がある場合には、祈祷、断食、告解、聖体拝領に
よる悪魔祓いをしたいという気持ちにさせなければならない。

○悪魔祓いは、礼拝堂、教会、もしくは教会内の礼拝用の小部屋で、できるな
らば少人数で行なわれるべきである。十字架、マリア像を備える。両親、友
人、その信者を精神的に導いている者が儀式に参加することは、エクソシス
トが力を得るうえで重要だ。

○儀式は聖水の散布によってはじまる。悪魔に憑かれた者は苦しみだす。エク
ソシストは、苦しむその者に十字架を掲げる。悪魔の排除が一度で達成され
ない場合、必要ならば儀式を何度かくりかえし行なわなければならない。

○エクソシストはカソック、サープリス、紫色の頸垂帯を着用する。


「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウィルキンソン著より引用
 



アッシジの聖フランシスコ

「フランシスコは仲間と、その塔の中に引きこもった。夜のとばりが降り、彼が
寝ようとしていると、悪魔たちがやって来て、彼を棒で殴打した。フランシスコ
は仲間を呼んで言った、『兄弟、悪魔たちがわたしをひどく叩きました。一人
でいるのが怖いので、傍に居てください』。兄弟たちは、その夜はずっと、まる
で熱に浮かされたように体を震わせているフランシスコの傍に残り、夜通し
眠らず過ごした」。

ラ・ヴェルナに滞在中にも同様のことが起こっています。『ペルージャ伝』から
引用しましょう。

「この小部屋で彼は、多くの喜びを享受していたが、この同じ仲間に彼が語っ
たように、夜になると悪魔たちが、彼を非常に悩ませていた。ある時、彼は、
『悪魔たちが、どれほどの苦しみをわたしに与えているか兄弟たちが知った
ら、彼らはみんな、わたしを哀れに思い、すごく同情するでしょう』、と彼に打
ち明けたのである」。

フランシスコの歩みに立ちはだかる執拗で精気に満ちた悪魔の存在を認める
ことは、フランシスコにとって特別なことではありませんでした。なぜならフラン
シスコは悪魔の存在を現実のものと信じていたからです。しかし同時に、悪魔
の襲来に遭遇した時には(その結果としてでしょうか)神から見放された時に
感じる以上のひどい苦しみに打ちひしがれたのでした。何日も何日も、山のよ
うに分厚い鉛の壁の間に閉じ込められたようになっていました。祈ってもその
牢獄の戸を突破できなかったのです。


「聖フランシスコとその時代」ベラルド・ロッシ著より引用





ピオ神父

ピオ神父の死の直前まで、悪魔の攻撃は続いた。八十歳の時、神父はひどく
衰弱し、寝返りを打つことさえできなかった。起き上がる時も、肘掛椅子に座
る時も、手助けが必要であった。しかしいつものようにロザリオの祈りをしな
がら椅子に座っていると、突然椅子からはねとばされて、床の上に投げ出さ
れるのだった。同僚は述懐する、「或朝、オノラト神父と私がコーヒーを飲み
に一階へ降りて行きました。ピオ神父は肘掛け椅子に座って居たし、その肘
掛けにはブザーがついていました。助けを呼ぶために、神父はブザーを押す
だけで良かったのです。すべて順調でした。五分後に、オノラト神父が戻って
行くと、ピオ神父が、『助けて! 助けて!』と声高に哀願しているのが聞こえ
て来ました。オノラト神父は部屋に走って行くと、ピオ神父は、なぐられ、あざ
だらけになって、床の上でもがいていました。」

「ピオ神父の生涯」より引用




ピオ神父が悪魔たちに攻撃された後、現れた天使が語った言葉

「ゴルゴダの険しい上り坂に従って行くために選ばれたことを、イエズスに
感謝しなさい。イエズスが命じて、私に世話をさせている霊魂よ、あなたに
対するイエズスの態度を喜びと深い感動で見つめています。あなたがこの
ように(悪魔により)いじめらるのを見ないで私が幸せになれると、あなたに
は考えられますか? 聖なる愛徳においてあなたの福祉を心から願う私
は、このような状態にあるあなたを見て、もっともっと喜びます。イエズスが
悪魔のこの攻撃を許されたのは、イエズスの同情があなたをもっと親愛な
者とし、荒野、ゲッセマネの庭や十字架上で拷問された御自身に似る者に
したいと思われるからです」


「ピオ神父と守護の天使」より引用

 





Padre Pio(1887〜1968)







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「あくまとのインタビュー」 
    ドミニコ・モンドローネ神父 世のひかり社

決してなかったといってもいいほどです。わたしの体のなかに入って
きたあいつが、
みんな自分でやっていたんです。たしかに、そうです、
わたしに無理にそのことをさせ
ていたんです。その間、わたしはひじょ
うに苦しんでいました。誰かが、わたしの骨を
砕こうとでもするみたいで
したし、そうかと思うと、わたしを窒息させようとし、あるとき
は、わたし
の中から火がもえ出すような感じでした。こんなふうに、あいつはわたし
中であばれまわったのです。あの神父さまが祈りつかれて、止める
か、あるいは、聖
水を使わないで出かけていくときだけ、わたしはおち
つきました。わたしとしては、わ
たしの中にいるあいつが、わたしの大敵
だと分かっているのに、“あくまばらい”のあ
の神父さまが家に来るのを
望んでいなかったのです。それでわたしは、大声をあげ
て、“そいつを
入れるな、入れるな、決して入れてはならない”とくりかえしていたので

す。あいつはまた、わたしの中で、かれのことを豚といい、“あの豚が
帰った最後、わ
たしはおまえを殺して、連れて行くぞ”とおどしていまし
た。大学の同級生のひとり
が、この“あくまばらい”に何回も立ちあって
いました。かの女は、あとで、そのときの
ことをこう話してくれたのです。
“あのときのあなたの顔の恐ろしかったこと! まる
で野獣みたいでし
た。あなたは、もうれつに体をくぬらせ、暗い目をしていましたよ、
そし
て何をみているのか分からないほど空をさまよい、白い目をむいて、と
ても恐
かったわ”と。あのときに、わたしがはいた言葉ほど、ひどい言葉
はなかったといい
ます。それに、わたしは、釘や鉄の破片、かみの毛の
からんだ塊のようなもの、
割れたガラスの破片まで、吐き出し、不思議
にも口は傷つかず血を流すことがな
かったといいます。ある日、あの
神父さんが、この野獣に命令をくだしました。
“なぜわたしをみただけで、
それに祈りをとなえるのを聞いただけで、そんなにあば
れるのか、さあ
答えろ” そのときの返答を、わたしもよく聞くことができました。
“わたし
は、この人のなかに、自分の家にいるかのようにしていたいからだ。わ
しは、ここに、かくれていたいんだよ、それなのに、あなたは、わたし
をあかるみ
に出そうとするではないか。まさにわたしのしたくないことだ。
わたしは、知られた
くないんだ、あなたの命令なんか従いたくないよ、も
う、いいかげん出てうせろ、
豚め! いつか復讐をするぞ、かならずする
からな”と。ほんとうに、あの神父様
は、あれからまもなく、もう少しで奇妙
な自動車事故にあるところでしたが、やっと
のことで九死に一生を得たそ
うです。ああ、なんと苦しみにみちた三年間だった
ことでしょう。あの神父
様は、ついにわたしを救うのに成功しました。あのときの
ことを、わたしは
何一つおぼえてはいませんでした。ただ感じていたのは、たい
へんな疲れ
だけでした」。
(本書より引用)

 
 
 

「エクソシストとの対話」 
    島村菜津著 小学館 
    21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作

はたしてエクソシストとは何者なのか? エクソシズムは、日本人の私
が密かに思い
描いてきたような、悲愴で病的な印象を与えるものではな
かった。それはむしろ、驚く
ほど厳格な形式を持った宗教儀式だった。
もし、誰かに、"悪魔憑き”というのは、やっ
ぱり今でいう精神病なんでしょ
うねと聞かれたならば、いまの私は即座にちがうと答え
るだろう。彼らの
多くは、エクソシズムという儀式のもとでだけ別人のように変貌し、後

何とか日常生活をこなしているからだ。ヴァティカンが公式エクソシストの
活動を認知
するのは、そこに、天からの聖なる力が、司祭を媒介として、
地上の悪に苛まれる人間
の身体と魂を癒すという信仰に基づいている。
一方、イタリアの心理学者は、長い年月
をかけて練り上げられてきたエク
ソシズムの形式には、科学ではまだよく解明されてい
ない、病と心が癒さ
れるプロセスの謎が隠されているのだと目を輝かせた。エクソシズム

儀式の核になっているのは、一つには、司祭による"憑依した者”の尋問
である。この
やりとりは、悪魔という名の人生に襲いかかる不条理な悪と
個人とのドラマを紡ぎ出して
ゆく作業だともいえる。そして二つめの特徴
は、エクソシズム中にトランス状態に入った
相談者たちが吠え、唸り、身
を捩じって、獣めくことだ。中には、"憑いた者”が語り出さ
ないケースも、
対話など成立しないケースもある。だが、そんな場合でも大なり小なり

共通しているのは、この相談者の変化である。その動きは、見ようによっ
ては、だだを
こねる乳児のようでもある。言語を超えた身体表現とでもい
おうか、その奇妙な動き自
体がカタルシスをもたらし、精神活動に何らか
の影響を及ぼす。それは理性の目には
異様に映るが、現代社会の中で
ぎこちない反復的な動きを強いられている人間という
動物には、案外、
本質的な変容なのかもしれないと、いまの私にはそう思える。イタリアの
心理学者たちは、このエクソシズム中の"悪魔憑き”たちのトランス状態
を、世界中のシャーマンのそれに喩えた。エクソシストは、ラテン語で唱え
られる祈りの反復する単調なリズム、額への按手というスキンシップ、
聖水や十字架というアニミステックな装置を使って、彼らをトランス状態へ
と導いてゆく。すると、"悪魔憑き”たちは、トランス状態に入り、別世界
を旅するシャーマンのごとく、地獄行きを決行する。口を広げた恐怖の
淵、混沌の底に身を浸し、そこから這い上がってくる。90年代に脚光を
浴びているのは、このいわば「癒しとしてのエクソシズム」である。通って
くる人々の中にも、精神科や心理カウンセラーや内科を訪れても、思わ
しくない結果が得られない、原因も名称も曖昧な、現代病を抱える人が
増えている。ならば、エクソシストたちが世に問い続ける悪魔や悪霊と呼
ばれる「目に見えない存在」に、私はどれだけ近づくことができたのか。
残念ながら数年の取材では、何らかの答えを出せるには至らなかった。
カンディド神父は、それをどう考えていたのだろう。アモルス神父の本に
寄せた前書きで、神父はこう訴えている。「なぜ知性を有する目に見え
ない外的存在が、我々に影響を及ぼしうるかもしれないということを研究
する人は少ないのだろう」 一人のエクソシストがこつこつと40年間の
歳月をかけて行き着いた地平は、私にはまだまだ遠かった。私は、一人
のエクソシストの秘められた生涯のほんの断片を垣間見たに過ぎない。
だが、その断片の輝きは、数々の癒しやミステリアスな現象にもまして、
厳しい信仰と清貧を貫き、他者のために自らを消耗し尽くしたひとりの
宗教者の精神力に支えられていた。(本書 エピローグ より引用)

 
 
 

 「バチカン・エクソシスト」
    LAタイムズ ローマ支局長 トレイシー・ウィルキンソン著 
    矢口誠 訳 文芸春秋


ローマ・カトリック教会のお膝元であるイタリアで悪魔憑きが急増? 
しかも、あの
バチカンエクソシストを育成している? これはよくある
「闇に隠されたバチカンの秘密」などといった
タイプの陰謀説めいな話
ではない。一般にも公開されているまぎれもない事実だ。それでい
て、
わたしたちは現代における悪魔祓いの実態などはほとんどなにも知ら
ない。下手をすれ
ばカトリック教会のイメージダウンにもつながりかね
ない前時代的ともいえる儀式を、なぜバ
チカンは公認しているのか? 
そんな疑問に答えてくれるのが、本書『バチカン・エクソシスト』
である。

本書の著者トレイシー・ウィルキンソンはUPI通信記者を経て《ロサンゼ
ルス・タイムズ》の記者
となり、現在では同紙イタリア支局の支局長を務
めている。もともとはユーゴスラビア紛争関連
の記事をおもにあつかって
いた人で、ボスニアやコソボでの優れた活動が認められ、ジャーナ
リズ
ム界で権威があるとされるポルク賞を受賞しているという。このウィルキ
ンソンも、2005年
に教皇庁立レジーナ・アポストロール大学でエクソシスト
講座が開かれたニュースに興味を持っ
たひとりだったらしい。彼女は
実際にイタリアに住んでいるというメリットを生かし、長年にわたっ
て築き
あげてきた人脈と旺盛な取材力を駆使して、ジャーナリスティックな視点
から本書を書き
あげた。

しかし、なんといっても本書の最大の読みどころは、著者が実際に取材
したエクソシストや悪魔
憑きの犠牲者たちのエピソードが語られる部分
にある。ひとことでエクソシストといっても、その
活動ぶりはじつにさまざ
まだ。なかにはなかばいやいや使命を果たしている者もいるし、カルト

宗教すれすれの活動を行なっている者もいる。これとおなじことは、
悪魔憑きの犠牲者にもいえ
る。驚くのは、犠牲者のなかに現代科学を
信奉している現役の医師までもがいることだ。著者の
ウィルキンソンは
そうした人々に密着取材を行ない、彼らの偽らざる本音を引きだすと
同時に、
心の奥に隠された闇を解き明かしていく。その過程はじつに
スリリングであり、実話ならではの
迫力に満ちている。

(本書より抜粋引用)

 









「エミリー・ローズ」 DVD 



1976年、西ドイツ(バイエルン)で起きた事件を元にした映画。左下の
写真が
Anneliese Michel(アンネリーゼ・ミシェル)で1976年7月1日に
他界する。死因
は餓死寸前の栄養失調状態。彼女は1952年生まれだ
が、68年に原因不明
の震えや悪魔と思われる幻聴が始まる。両親と
司祭により2回教会に悪魔祓い
の要請をするが、証拠がないため却下
される。1975年、ようやく教会も許可を
だし、2名の司祭による悪魔祓い
が行われる。その結果、複数の悪魔に憑かれ
ており、その一人は外国
語訛りで話、自分をヒトラーを呼び、この声は録音され
裁判で証拠として
使われたそうです。映画は実際のものとは少し違いますが、
自分を犠牲
にして苦しみに耐えた崇高な魂がそこにはありました。
(K.K)


1976年にドイツで発生した保護責任者遺棄致死事件を題材に製作さ
れた。この事件は、ドイツ人のアンネリーゼ・ミシェルが病気と診断され、
長年治療していたが改善する気配無く、その後の異常行動からカトリッ
ク教会教区より正式に「悪魔憑き」と判断され、悪魔祓い(エクソシズム)
を実施中に栄養失調等で彼女が死亡したため、裁判となった事件であ
る。悪魔祓いの様子が写真や録音で詳に残っていたこと、その後、神父
が法廷で裁かれ、悪霊の仕業であるか、精神病であったのか(医療ミス
の可能性も内包)が、法廷の論争となった事。さらに、悪魔祓いの様子
が一部(海外)TV番組や、インターネットなどで公開された事。さらに、
この少女が美人で敬虔なるクリスチャンであった事などから、世間の
注目を浴びた。なお、Annelise Michelは、ドイツ語読みだと「アンネリーゼ
 ミヒャエル」だが英語読みだと「エミリーローズ ミッシェル」である。
日本での『エミリー・ローズ』の宣伝CMを見て、多くの人々が『エクソシス
ト』系のオカルトホラー映画だと認識させられたが、大半の場面は法廷
劇である。

ウィキペディアより引用)


下の映像は、実際のAnneliese Michel(アンネリーゼ・ミシェル)の写真
 と声を記録編集したものです。






聖ミカエルに対する祈り

レオ十三世の作


大天使聖ミカエルよ、

戦いにおいて、わたしたちを守り、

悪魔の凶悪なはかりごとに勝たせてください。

神がかれに命じてくださいますよう、伏してお願いします。

ああ、天軍の総師よ、

霊魂をそこなおうとして、

この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、

神のおん力によって地獄にとじこめてください。

アーメン。








アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

美に共鳴しあう生命

ホピの預言(予言)

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天空の果実

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