「聖母マリアの奇蹟 メジュゴリエ ファチマ ルルド」 菅井日人・著 グラフィック社 1992年刊











ルルドの泉(本書より引用)





本書「聖母マリアの奇蹟」(1992年刊)より抜粋引用。





 メジュゴリエ


メジュゴリエはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国にあります。この共和国の首都サラエボから南へ100キロ、スプリット

またはドブロブニクからですと共に約150キロ、車で約2時間、大変辺境なところです。



ルルドの聖母出現は朝、ファチマは昼、そしてメジュゴリエの最初の出現は、1981年6月24日の夕方でした。詳しい

地図に名前すらのっていないメジュゴリエの村のポットブルドーという山のふもとに始まりました。6人の普通の若者

たち(内11歳の少年1名)に聖母マリアのメッセージが毎日のように伝えられました。そのうわさは世界中にセンセー

ションを巻き起こしました。その後も数年間、再三にわたって若者たちにマリアの出現がくり返されています。この

事実に触れるため、若者たちに直接面会し、聖母の話を聞くために、多くの巡礼が始まったのです。


(中略)


クロアチアのカトリックは14〜19世紀後半までトルコのイスラム教徒に支配され、迫害で数千人が殉教しました。

また、500年間に多くのクロアチアやセルビア人たちはイスラム教に改宗しました。まさしく、旅する教会はユーゴス

ラビアにおいても殉教の歴史です。



20世紀、ユーゴスラビアが誕生し、同時に複雑な宗教的民族的戦いが再発、セルビア人は1930年代にクロアチア

の村々を焼き払い、1940年には立場が逆になり、クロアチア人がセルビアの村々を焼き払いました。それはクロア

チアから東方教会(ギリシャ正教)の人々を追い払おうとするもので、多くの東方教会の人々が殺されたのです。



現在のユーゴスラビアの宗教は世界でもまれに見る多種多様です。



ギリシャ正教1370万人、ローマ・カトリック580万人、イスラム240万人、プロテスタント22万人、その他ユダヤ教など

さまざまです。無宗教100万人、無神論130万人。以上が1984年の統計です。



民族、宗教の戦いの中で、苦悩に満ちた地での聖母出現は、人類の妬み、憎悪、闘争、暴力、あらゆる悪の縮図

を改めるためといっても過言ではありません。


(中略)


聖母マリアのメッセージを要約すると、それは心の平和、信頼、希望、愛です。カトリック信者なら誰もわかる永遠の

の救いです。我々人間が苦しみ、迷っている時など、さまざまの試練を与えられる時こそ、この言葉が力強くよみが

えってくるのです。



最初の出現の時、小さな村のメジュゴリエも共産主義の翼下で暗い社会でしたが、聖母マリアのメッセージは人々

の心を明るくしたに違いありません。さらにポッドブルドーの丘と、後に説明するクローゼワッシュの山の空にかかる

ように、MIR(クロアチア語で平和という意味)の文字が現れました。大勢の村人たちはその大きな字を見て、聖母

マリアのメッセージに耳をかたむけたのです。



「平和と繁栄の中で、物質的なものを心配しすぎ、この世のことばかり考え、望んでいると、全てを失う恐れがあり

ます」



メッセージは常に、神の存在、天国と地獄を明らかに前提としています。そして改心し、祈り、断食によって、特に

平和と和解を呼びかけているのです。


(中略)


聖母出現は公的な教会の立場ではなかなかやっかいな問題です。ルルドやファチマでもマリアを見たのは幼い田舎

の子供たちでした。メジュゴリエでは11歳の男の子を除き、5名の高校生です。前者と違うところは、ほぼ大人になる

物ごとの判断のつく年頃の若者たちですから、数年間にわたって出現が続いているので、教会も困ってしまいます。

マリア出現の話が広まり、世界中から大挙して集まってくる人々は、イエズスを誰よりも愛していた「小さな人々」です。


(中略)


私は、ブロー夫妻の紹介で、主任司祭トミスラブ神父から幸運にも若者たちの撮影を許されました。聖母を迎える

場所はどうやら、今は聖堂二階の聖歌隊の部屋なのです。



午後6時少し前、ごく限られた十数名の人々と二階へ上り、彼らを待ちました。6時、今日も教会を埋めつくした人々の

ロザリオの祈りが始まっています。6時45分、いよいよ若者たちが二階へ現れます。ここで聖母の出現が続いている

のでしょうか。壁にかかっているマリアのタペストリーの前で、ヤコブ、イワン、マリアの3人が十字を切り、祈りを始め

ました。彼らの表情は次第に恍惚状態に変わってきました。私は大変緊張して、息もつかずシャッターを切っていま

した。



二度目の撮影は、ブロー夫妻とJ神父がローマに発った後でした。4月25日、この日は必ず聖母のメッセージがあると

いわれていて、私一人残ったのです。



6時45分、今度はイワンとマリアが来て、熱心に祈り始めました。彼らはタペストリーのマリアの上部を見上げ、まばた

き一つせず一点を見つめ動きません。ロザリオを唱えながら聖母を迎えるのでしょうか。口もとは多少つぶやいている

ように動いています。全く々姿勢で跪きながら、彼らの表情は次第に恍惚状態になります。熱心に何かを見ているよう

ですし、話を聞いているようにも思います。今回も15分ほどの短い時間で一部始終がもとに戻り、十字を切り静かに

部屋から出て行きました。



この不思議な若者たちの光景は、最初の頃に写真に撮られた聖母出現の表情と全く同じだったではありませんか。


(中略)



マリアを見る若者たち



VICKA (ビッカ)

彼女の家で取材中も笑顔が絶えない。彼女はマリアに会った喜びをストレートに伝えてくれ、6人の中でも最も外交的

で茶目っ気たっぷり。



IVAN (イワン)

教会を手伝っていて極めて紳士。私と目で合図を送る。少々控え目で慎重な性格。規則正しく毎日のミサにあずかり、

修道士か司祭をめざしている。



JACOB (ヤコブ)

当時最年少の11歳。1981年6月25日、二度目の出現の時からで、幼くして父母を亡くし、一人で住んでいる。外交的

ではないが、やんちゃ坊主だったことがうかがえる。「聖母マリアと話ができることが幸せです」と笑った。



MARIJA (マリア)

ヤコブと同様、二度目の出現時からで、当時16歳。ずっとメジュゴリエに住んでいる。



IVANKA (イワンカ)

現在結婚して、二人の子供の母親。夫と共に、少々離れた静かな村の中に新しい家を新築中。快く取材に応じて

くれた。



MIRJANA (ミリアナ)

1982年12月25日、彼女は出現を見送った。現在サラエボに住んでいて、会うことができなかった。



JELENA (エレナ)

教会から南へ徒歩で15分ほどの山のふもと、スタンコの民宿の隣にエレナは住んでいた。彼女はマリアーナ

(MARIJANA)と共に、聖母は見ていませんが、祈りの中で聖母の霊感を受けました。



ヨゾ・ゾウコ神父

ヨゾ・ゾウコ神父は当時、主任司祭でした。聖母を見る若者たちのおかげで、教会には人があふれるようになり、

ゾウコ神父はマリアの出現後、毎日ミサを捧げることを決め、人々の信仰は高まり、告解と改心が驚くほど増しました。

1981年、ユーゴスラビア共産主義40周年を迎える年、神父はミサの説教の中で若者たちをかばったことを、共産主義

に反する行為とされ、この年の8月逮捕されて、懲役3年半の宣告後に投獄されました。しかし隣国イタリアの人々が、

ユーゴスラビア大統領に抗議文を送り、その結果1年半に減刑されました。現在はティハラニアというメジュゴリエから

約25キロほどの教会の主任司祭です。世界各地からここにも巡礼団が訪れていました。私も直接このゾウコ神父を

訪ね、話を聞くことができました。神父の表情は霊感にあふれ、恵みに満たされ、その熱意に感動しました。聖堂内に

は、世にも美しいマリア像が、心持ち悲しげな不思議な輝きを放っていました。ゾウコ神父は、以前のメジュゴリエは

どんなに働いても貧しい生活が続くだけだったのが、聖母マリアが現れたと知ると村人たちは生き返ったようだったと

証言しています。




ユーゴスラビア紛争 - Wikipedia より、以下引用。


1990年近くになると、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に

代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を

廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国では

スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア)やフラニョ・トゥジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めて

いた。ユーゴの中心・セルビア共和国では大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア

系住民の多いコソボ社会主義自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっか

けにユーゴスラビア国内は内戦状態となった。



1991年6月に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(十日間戦争)、次いでマケドニア

共和国が独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した(クロアチア紛争)。

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した

(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争と

なった(コソボ紛争)。その後、マケドニア国内に大量のコソボ地域のアルバニア系住民が難民として押し寄せてたことから、

マケドニアにも飛び火した(マケドニア紛争)。



紛争はNATOや国際連合の介入により収束した。




メジュゴリエの聖母 - Wikipedia より以下、抜粋引用。


カトリック教会の対処


1987年、ユーゴ司教協議会会長のクハリック枢機卿と現地モスタル教区のジャニッチ司教は、「メジュゴリエに対する超自然的

性格に動機付けられた巡礼やその他の表明行為を組織することは、許可しない」とする、禁止声明を発表した。また、1987年

同じくジャニッチ司教は、調査の結果、超自然的なものは何もなかった、と発表し、1990年には調査の結果を細かく説明した。

1991年にはユーゴスラビア司教団が同じく、出現を否定し、ジャニッチの後を受けて、モスタル教区の司教となったラトゥコ・

ペリッチも、1998年と2004年、その真実性をあらゆる角度から否定する、という声明を出し、合わせて信徒にこの運動との関係

を持つことを禁止した。また、ローマ教皇庁は、この運動への対応として、教理省秘書タルチジオ・ベルトーネ大司教が、フラン

ス・ランジュのレオン・タヴェデル司教からの質問に答える形で、1996年、現地司教区の声明を引用し、巡礼等は許可されて

いない、とする発表を行った。



1984年3月、「教皇ヨハネ・パウロ2世は自分の図書室に訪問者(パヴォル・ヒニリカ司教)を案内した。彼はローランタン神父の

一冊の本(「メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現」)を取り上げ、聖母のいくつかのメッセージを読み、こう言った。『パヴォル、

メジュゴリエはファチマの継続であり、実現なのです。』」(数年後、教皇は彼にこう言った。『今日、世界は超自然的なものへの

感覚を失った。世界は祈り、断食、ゆるしの秘跡を通して、メジュゴリエにおいてその感覚を再び見出している。』)以来、司教は

メジュゴリエの支持者となり、教皇は定期的に彼にこう尋ねている。『メジュゴリエの新たな情報は何ですか?』



1994年3月25日、ヒニリカ司教は奉献の10周年記念日を祝うためにメジュゴリエに来た。教皇ヨハネ・パウロ2世は、1981年5月

13日に暗殺の犠牲者となりかけた時、彼を死から守られたのはファチマの聖母であったと司教に打ち明けた(40日後、聖母は

メジュゴリエにおいて御出現を始められた)。



『メジュゴリエの証言者たち』p.139には、「ヨハネ・パウロ二世(中央)はミリアーナ(左側)とフラニッチ大司教(右側)を含む

クロアチアのグループを接見される。ミリアナは教皇と20分間の私的な会話をした。教皇は『もし私が教皇でなかったら、私は

すでにメジュゴリエに行っていたでしょう』と彼女に言った。」との解説と共に写真が掲載されている。また、p.402には「教皇

ヨハネ・パウロ2世はメジュゴリエからの聖母のメッセージを広める宣教のためにシスター・エマヌエルを三度祝福される」

(1996年11月15日)との解説と共に写真が掲載されている。



このようにメジュゴリエ運動の支持者達は、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの出現を支持した、または巡礼した、などと宣伝

することがあるが、こうした風説に対して、教理省長官ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、1998年7月

22日、「私と教皇の言葉を引用したとされている文章は、想像の産物に過ぎない」とそれらを全否定する発言をしている。



2010年3月教皇庁教理省が、枢機卿の指導のもと、司教、神学者、その他専門家によるメジュゴリエの聖母調査委員会を

組織した。



カルト的側面


こうした「聖母出現」に関わる騒ぎが起こる前から、管理権問題をめぐって、現地の司教区とフランシスコ会とは係争状態に

あった。その為、一部のフランシスコ会士たちの数名は、上述した司教区からの禁止命令に対して、強く反発し、たびたび

司教は聖母に背いていると非難、司教を暗に悪魔と呼び、「悪魔が聖母の計画をぶち壊そうとしています。」等攻撃的な姿勢

を採った。しかし、司教の対応は上述のように代々変わらず、ばかりかフランシスコ会は現地からの総撤退命令(1999年2月

21日)を受け、現地小教区の管轄権は、同会から司教区に移管された。現地のフランシスコ会士の一部は、巡礼者の落とす

観光収入を当て込んで、現地に銀行を設立、6名の幻視者を自称する者たちも、その収入によって、高級車を買い、豪華な

邸宅をそれぞれ建立してそこに起居した。





フランシスコ法王 「メジュゴリエの聖母出現」に疑念 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News より、以下引用。


フランシスコ法王 「メジュゴリエの聖母出現」に疑念


【2017年5月14日 AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王は13日、聖母マリアの出現地として年に100万人

ものキリスト教信者が訪れるボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエ(Medjugorje)について、その信ぴょう性には深刻な疑念

があると語った。



1981年6月、当時はユーゴスラビアだったボスニア南部のメジュゴリエで6人の子どもたちが聖母マリアが現れたと証言して

以来、同地には毎日のように聖母マリアが現れるとされている。



しかしフランシスコ法王は、訪問先のポルトガルからバチカンに戻る機内で、メジュゴリエでの聖母マリアの出現については、

現在進行中のローマ・カトリック教会の調査によって疑念が生じていると述べ、「子どもたちが見た女性は聖母マリアではない」

と述べた。さらに自身の個人的な見解として「明日、この時刻にここへ来ればメッセージを伝えるなどと、聖母マリアが言うわけ

がないのは明らかだ」と語った。



 フランシスコ法王は、100年前にポルトガルのファティマ(Fatima)で聖母マリアの出現を目撃したとされる2人の列聖式で

同国を訪れていた。



フランシスコ法王は2013年にも、「聖母マリアは、毎日メッセージを届ける郵便局長ではない」と述べ、メジュゴリエの聖母

マリア出現に疑問を呈していた。(c)AFP




「聖母マリアは、なぜ、「出現」したのか」 いま、キリスト教に起きている超奇跡
S・フィナテリ神父 徳間書店 より以下抜粋引用





メジュゴルユェの「聖母出現」は、1981年いらいこんにちまで(少なくとも1984年まで)つづいている。



「出現」のさい、太陽の輝きが増し、そのふしぎな光の現象が、少なからず人々によって目撃されているというのは、ファティマの

場合と同じである。



1981年8月2日から4日にかけて、太陽の輝きが平生とちがっていたことは、多くの人々によって確認されている。また、同年10月

28日、「出現」の丘の上に、火が燃え上がっているのが見えた。消防車が駆けつけたが、何事もなかったという。



巡礼者の中で、病気の治癒という奇跡も起きているらしい。1984年現在で、少なくとも56のケースが記録されている。回復したの

は、目、耳の障害、リューマチス、神経痛などである。



これらの「事実」に対して、否定する意見が各方面から出ていることは当然である。無神論のマルキストの反対はさておき、教会

内部でも、次の諸点をあげて否定する人が少なくない。



@ 「出現」の回数が多すぎる。2年も3年もそれもほとんど毎日つづいて、すでに千回になろうとしている。これは逆に信憑性を

疑わせる。ルルドの出現は18回にすぎなかった。



A 聖母の語りかけが多すぎる。ルルドではわずか12回程度の表現にとどまっている。



B 聖母のメッセージの中に、矛盾した言い方がみとめられる。たとえば、6人の若者のうち、ある者は「神の罰は避けられない。

祈りによってただ軽減するのみ」と告げられたと言い、他の者は「祈りと回心によって、神の罰は完全に回避される」という聖母の

言葉を伝えている。



しかし、これは神父の質問に答えて証言したさいの、6人それぞれの記憶のちがい、または理解のちがいによるものと解すること

もできるだろう。むしろ、私がひっかかるとすれば、聖母が軽々しく「神の罰」をうんぬんされるだろうかということである。「罰」という

表現は、イエズス・キリストが示した愛の神のイメージにふさわしくないからである。



C太陽の異常な輝きなどの現象というのが、逆に疑惑を深める。そのような「しるし」は「今の時代にはけっして与えられない」と

イエズスは福音書で言っているのである(マルコ福音書8章12節)。



要するに、6人の少年少女の、善意と敬虔のあまりの幻想ではないかというのが、批判の骨子なのだ。


(中略)


もちろん、教会当局としては、ただ頭から否定と反対だけではすませられるわけではない。モスタルの司教は調査委員会を設け、

調査に当たらせている。これはこの種の問題に対する教会の通例のやり方である。



調査委員会は、ユーゴ人神学者20人の委員からなり、各委員は6人の目撃者に面接して談話を集め、また、彼らの書いた記録、

心身の健康状態などを詳細に調べている。いっぽうでは、奇跡の「事実」の確認という作業がある。



ユーゴの司教団は、調査委員会の最終結論が出るまで、メジュゴルユェへの巡礼をひかえるように呼びかけているが、ききめは

ほとんどないようだ。むしろ、抑えても抑えきれない巡礼の熱心さが、「出現」の事実性の一つの証として、調査委員会を動かす

こともありえないことではない。



宗教はつねに一つの運動なのである。少なくとも運動に始まるものである。メジュゴルユェの「出現」から起きた宗教運動は、平和

への危機感と激しい渇望、そして、それをかちえるための「回心」・・・人間の変革という大きなうねりとなりつつあるといえる。



イエズスも「木はその実によってわかる」(マタイ福音書12章33節)と言う。いまは「出現」を肯定するか否定するかよりも、その「実」

を見守っていくことが大切だと思う。


 


本書「聖母マリアの奇蹟」(1992年刊)より抜粋引用。





 ファチマ


ポルトガルのファチマも、首都リスボンから北へ約150キロ、少々不便なところに位置し、出現の村は、ファチマという国鉄の駅から

バスで約20キロの地点です。いくつかの小村落を抜け、険しい道を約40分ほど、標高800メートルの丘の上にあります。



古くからこの地方に聖母マリアの地として、富める者も、貧しい者も、聖母に対しロザリオを唱え、巡礼する習慣がありました。



1917年5月(大正6年)、当時第一次世界大戦のさなか、3人の牧童に聖母が6回現れ、急速に有名になりました。毎年5月13日、

“出現の日”から10月までの各13日には、幾多の巡礼者が聖母への祈願をたてにやって来ます。この素朴な聖母信仰の地は

現在ますます盛んになり、断続的に巡礼が続いています。



リスボンのセレイエイラ枢機卿の言葉を借りれば、「ファチマは世界の祭壇であり、信徒たちが信頼し、愛するすべての希望は、

この場所にかけられている。全世界のために、ベトレヘムの新しい星がのぼったのはここである」・・・。


(中略)


天使の出現 1916年、聖母の出現のちょうど1年前のことです。まず3人の小さな牧童に現れます。



3人の牧童の名前はヤシンタ(7歳)、フランシスコ(9歳)、二人は兄弟です。そしてルチアは10歳で最年長ですが、みな読み書き

を知らない田舎の子供でした。



天使の現れた場所は、牧童たちが住む村はずれのカベソの丘で、大きな光の中から14、5歳の美しい若者が現れ、驚いている

子供たちのそばにきて、優しく語りかけました。



「私は“平和の天使”です。怖がらないで、私と一緒に祈りをして下さい。」



子供たちは自らの意志とは関係なく、平伏して天使と一緒に3回ずつ祈りを唱えました。「我が主よ。私は主を信じ礼拝し希望し、

愛します」



3人が住んでいたアリュストレール村は、漆喰の農家が十数軒あるだけの小さなおとぎ話に出てくるような村で、ヤシンタとフランシ

スコの家は目と鼻の先です。



ルチアの家の井戸陰に天使が再び現れました。遊んでいた子供たちに、「祈りなさい。たくさん祈りなさい。イエズス様とマリア様の

御心は、あなたたちに対して、あわれみのご計画をもっておられます」と告げました。



3回目は最初の出現と同じカベソの丘で、羊に草を食べさせていた子供たちは、天使と一緒にミサを捧げ、三位一体(父と子と

聖霊)の神秘的聖体拝領をしました。こうして子供たちの魂は聖母のもとへ導かれたのです。


(中略)


聖母出現の日 1917年5月13日、よく晴れた美しい日のお昼頃、村から3キロほどのコーヴァ・ダ・イリアの小さな柊(ヒイラギ)の

この上に美しい貴婦人が立っていました。牧童3人は年の頃18歳位の美しい母親のように温かな方に、毎月13日の同じ時刻に

ここに来るように告げられました。このコーヴァ・ダ・イリアの出現の地には現在、記念の白いチャペルが建てられています。



2度目の出現の時には60名たらずの村人が集まって来ていましたが、3人の子供たちにだけ聖母が見えました。貴婦人は、

「勉強し改心するように、またルチアはシスターになるように、他の二人は天国へ連れて行くようにします」と告げられます。



3度目の出現には群集が近くの村や町からやって来て、4000〜5000人になり、子供たちは柊のあるその場所に到着するまで

人々をかき分けて進みました。ルチアによると、コーヴァ・デ・イリアに行くのをためらっていましたが、子供たちは不思議な力に

おされ、向かいましたと言っています。群集と共にロザリオを唱えると、聖母マリアが同じ場所に現れました。この時にマリアの

大警告があったのだそうです。第一には人々が苦しむ地獄の光景を現し、第二には世界戦争(第二次世界大戦)の予言でした。

第三は当時、重大な秘密になっていましたが、聖母の出現の目的は将来の予告と同時に私たちを救うことにあるようです。結局、

第三の秘密も主の御心にかなうよう、私たちが悔い改め、祈りをしないと世界が破滅するようなことが起きるでしょう、という内容

のようです。



その後の出現 1910年に国王マヌエルを追放した革命の後、秘密結社のグループがカトリックの国ポルトガルを支配し、すべての

面でカトリックを迫害していました。ファチマ村の群長は、ちょうどこのような反宗教の代表人物であり、聖堂の外でのいかなる宗教

的な行いをも禁じました。その中でのファチマの3人の牧童の出来事には、心静かではいられなかったし、群集が日一日と増えて

いくこともたいへんな脅威でした。そこで8月13日の出現の日には、子供たちをコーヴァに行かせまいと、11日に逮捕投獄して、

あらゆる詰問をはじめたのです。



しかし群集はこのやり方に大いなる抗議を示してきました。やずをえず15日には家に帰しました。したがって8月13日には御出現

はなく、8月19日にウス・ヴァリニュという場所に聖母は現れ、10月までの間、13日にはコーヴァに行きロザリオを唱えることを、

そして最後の日に私はすべての人が私を信じるように奇蹟を行うでしょうと言われました。



9月13日には5回目の出現があり、祈りの中で希望を見いだすことを告げました。



10月13日、降りしきる雨の中、人々は待ちました。しばらくして貴婦人が現れ、「あなたはどなたですか。お望みはなんですか」と

ルチアがたずねると、貴婦人は、次のようなメッセージをお話になりました。



「私はロザリオの母マリアです。ここに私の栄誉のため、聖堂を建てて欲しいのです。私が参りましたのは、人々の生活を改め、

自分たちの罪を痛改し、主の御心を悲しませないようにしてほしいからです。ロザリオの祈りを唱え、償いを果たさなければいけ

ないことを教え諭すためです。戦争は近く終わるでしょう」 そして手を広げ、太陽の彼方へと昇っていきました。



太陽の奇蹟 子供たちに別れの挨拶を告げ、両手を広げて聖母マリアが消えていった時、それまでどしゃ降りの雨で太陽が

少しも見えなかったのが、突然陽が輝き、急激な動きを示しました。群集は感動してこの光景を見ていました。火の塊にように

回転しながら、四方八方へ大きな無数の光線を照射し、10分間くらい、光の束はさまざまな色に変化して現れていました。その

うち、太陽は群集の頭上近くまで落ちそうになったり、熱さを感じさせるぐらいに近づいてぐるぐると飛びまわり、その場に居あわ

せた人々がすべてがこれを目撃しました。不思議なことにずぶぬれで泥まみれだった人々の服は、きれいにすっかり乾いていた

ということです。



後に教会がこの太陽の奇蹟の調査をした時、この丘を中心に半径5キロ四方にいた者が、何の暗示や錯覚にもとらわれず、

太陽の不思議な回転を見たと証言しました。ルチアは、太陽のそばにはっきりと聖家族を見たとも言っています。


(中略)


出現の記念日、5月13日 朝7時、大聖堂広場は人で埋めつくされました。ブルーアーミー(平和の兵士)が持つマリアの旗を

先頭に、300名を超える司祭、司教団が聖体をかかげ、広場に入場し、正面祭壇に向かいます。



正午、出現の地コーヴァ・ダ・イリアのチャペルから聖母マリアの御像が運び出されます。TV、ラジオも前夜から生中継をして

います。現地の朝刊は50万人と報道しました。祭壇の右手には数100名の車椅子の病人たちに聖体が配られ、医療班が整然と

助けています。



ミサの後、祭壇にかかげられた聖母マリア像がふたたび群集に向かって下りてきます。大群衆は花を投げ、白いハンカチを手に

手に振りながら、感激の別れの涙を流します。ついに広場には白いハンカチの海となり、その中を聖母マリアの御像がゆらゆらと

進みます。人々は感激で満たされ、やがて静かに家路へとつくのです。なんたる熱狂の終焉でしょうか。私も今だかつて見たこと

もない感動にとらわれていました。


 「太陽の奇跡」 ファティマの聖母マリアと「第三の秘密」 を参照されたし。



 


本書「聖母マリアの奇蹟」(1992年刊)より抜粋引用。





 ルルド


流れのほとり 最初どんなことが起こったのか。ベルナデッタの手記には次のように書かれています。



「私は友だちと妹と3人で薪集めに皮へ行きました。二人は冷たい川を渡ってしまいましたが、まだ私は浅瀬を探していました。

グロットー(洞窟)の前の流れを渡ろうと、靴と靴下をぬいでいると、どこからともなく突風の音が聞こえてきました。再びその音が

聞こえてきました。再びその音が聞こえたので、音のするグロットーを見上げました。私はバラの茂みの上に黄色に輝く光と、

そこに白いものをまとった若く美しい女性の姿を見ました」



ベルナデッタはロザリオの祈りを唱えていました。昔からこの地方にマリア信仰があり、ロザリオの祈りが常となっていたからです。

ルルドの近郊の村や町に、ガレソンの聖母、ポエイラの聖母、エアスの聖母、ピエタの聖母の地名があり、ルルドで起きたことは

この地方の住民にとって珍しいことではなく、ルルドの出現の出来事は受け入れやすかったのです。



ルルドの宗教的儀式は巧みに演出され、聖母崇敬の巡礼地として最もよい条件がそろっています。他の聖母出現の地と比較し

て、最高の人気を得ている理由は次のとおりです。



一つは現代医学で見通しがちな精神的欲求を満たしてくれる。ルルドの巡礼の患者にとって病気の治癒は実にまれであり、奇蹟

の回復は少ないのですが、必ず病人は以前より気分がよくなっている。次に、宗教的に聖母崇敬の儀式が一日中、病気の人を

中心に行われ、「隣人を自分のごとく愛せよ」という聖書の中の言葉を身をもって体験できます。



ルルド滞在中、互いの愛の行動によって心が洗い清められ、病気の人の暗い心は、希望の光に変り、生きる力をよみがえらせ、

喜びを与えられます。静かなる川の流れのように、人間一人一人が持っている最もよい部分が現れ、流れ出しているようです。


(中略)


ルルドのマリアは、1858年2月11日から7月16日の間に18回にわたって、グロットーでベルナデッタに出現しました。マリアは

ピレネーの方言で「ケ・イソ・エラ・インマクラーダ・コンセプション」 「私は無原罪の宿りです」とベルナデッタにあかしました。

ベルナデッタはその言葉の意味を知らなかったので、教会の司祭に告げ、司祭は非常に驚きました。実は、聖母マリアが

無原罪の宿りとして正式に教会の教義に定められたのは、ルルドの出現の4年前のことであったからです。



グロットー、つまりマッサビエルの洞窟の広場には、一日中、数千人の人々の祈りが絶えません。不思議なほど静かで、早朝から

深夜まで、ミサもひっきりなしで、巡礼者はわずかのミサの合間にグロットーに入ります。多くの人の触れた手でつるつるになった

岩が光っています。人々は岩にさわりながら、聖母出現のこのグロットーの中を願いを込めてお参りします。ベルナデッタの掘った

泉は、グロットーの中の祭壇左手奥に、現在もこんこんと水が湧き出ているのを見ることができます。



1858年2月25日、9度目の出現の時、マリアの示すグロットーの下を掘ってみると、洞窟内に泉が湧き出たのです。最初、ベルナ

デッタがマリアの言われるまま、泥まみれの水を飲み、顔を洗って草を食べました。人々はこの少女が狂ったと思い、その場を

去りますが、その後、泥水は次第に美しい澄んだ水になってゆきます。



「泉の水を飲みなさい。そして顔を洗いなさい」



この奇蹟の泉から湧き出た水で、病を治される村人が出てきたのです。100年以上たった今日も、この泉の水を求め、不治の病

で苦しむ多くの病人が集まってきます。医者から見離され、現代医学でも全くお手上げの重病人ばかりで、そういう不治の病や

難病の病人が、突然、不思議な奇蹟によって健康をとりもどすのです。



軌跡の泉の水を科学的に分析してみると、良質の水には変りありませんが、ただの水にすぎません。20世紀も終わろうとして

いる、急速に発展した今日、身体障害や癌など、さまざまな不治の病が、このただの水を効力として治されることがあるのです。

数は非常にまれですが、医学的に見ても完全に治っていることは、奇蹟としかいいようがないのです。



水は生命の印であり、水はなくてはならない存在です。西欧諸国は日本のようなよい水に恵まれていませんから、ルルドの奇蹟の

水は大変貴重な水、ありがたいものなのです。ルルドの奇蹟の水は、巡礼者によって病気の人への何よりのみやげとして持ち帰り

ます。


(中略)


重病人の笑顔 私はルルドで生まれて初めて重病の人が心から喜んでいる笑顔と出会いました。カメラを向けると、不治の病の

大多数がすばらしい笑顔で応じてくれるのです。普通、痛みのともなう人や身体に障害を持って苦しむ人は、冷たいカメラに撮ら

れるのをいやがるはずなのに・・・。



ルルドでは人間の生きる気力を甦らせ、病気の回復はなくとも、病気に打ち勝ち、精神革命を得ています。これは奇蹟としか言い

ようがありません。ルルドに滞在中、光を見いだし、自己回復力を得て喜びに満たされ、家族や仲間たちと帰路につく時、病の人々

は以前よりずっと気持ちが明るく現実を受け入れることができます。



彼らの笑顔には、回復につながる力がすでに与えられているように見えます。アレキシス・カレル博士は、1912年にカレル縫合と

いう血管縫合術および臓器移植術でノーベル生理・医学賞を得た人ですが、肉体の限界の彼方にあるもの、化学と宗教の二つを

を結ぶかけ橋を見いだしたのがこのルルドでした。彼は著書「人間、この未知なるもの」の中で、「物質的な世界を変容せしめた

科学は、人間に彼自身を変容させる力を授けた」、つまり「一人の人間はその肉体の限界のうちに閉じ込められていない」と書いて

います。私は重病人の笑顔の中に、このことが決定的に現れていると思うのです。


(中略)


星くず ローソク行列の興奮からさめて、人々は宿へ急ぎます。すっかり夜のとばりの下りた空には一つ二つと星が輝きだしま

した。ルルドの空を見上げる時、マリアとベルナデッタを思い出さずにはいられません。ベルナデッタは22歳の時、ルルドを去り、

ヌヴェールというフランス中部のヌヴェール愛徳修道会に入会します。その後ルルドへは一度も戻りませんでした。彼女は結核の

持病にもかかわらず、祈りの修道生活を続け、闘病生活に苦しんだ末、1879年、35歳の若さで昇天します。遺体は修道院内の墓

に埋葬されますが、30年後、40年後、46年後と3度にわたって墓が開かれ、全く腐敗しなかった遺体であることが証明されました。



1933年12月8日、ベルナデッタはローマ教皇ピオ11世におり列聖されました。美しく眠るような聖ベルナデッタの遺体は、ヌヴェール

修道会のサン・ジルダl−ルのチャペルに静かに安置されています。今夜もルルドの空にはかぎりなく聖母を慕った聖ベルナデッタ

が、多くの星くずと共に輝いて見え、聖母マリアの優しさが濃いブルーの空にただよっていました。



 ベルナデッタを映画化した名画「聖処女」ヘンリー・キング監督 ジェニファー・ジョーンズ主演 を参照されたし



聖母子への祈り







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