
「ホピの国へ」
アメリカインディアンに学ぶ
青木やよい著 廣済堂文庫 より

「技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く」というこのいかにも当たり前の思想が、
じつは文明の諸悪の根元ではないかと私は考える。なぜならここには、自然は人間のため
だけにあるという近代を支えてきた人間の傲慢があるからである。ヒューマニズムといえば
いかにもひびきがよいが、それがもし、地球における生きとし生けるもののリーダーとしての
自覚と責任を伴っていないなら、それは人間エゴにほかならないのではないだろうか。そして
そこにはまた、人間とは「技術をもって自然を自分に役立てる能力を持ったもの」という定義
に至りつく道がおのずと開かれており、あらゆる人種差別の基礎をかたちづくっているのだ。
<自由・平等・友愛>をかかげて出発したはずの近代ヨーロッパが、火器を持たない人々を
つぎつぎと征服し、植民地として収奪のかぎりをつくした裏には、たんに歴史の必然というより
も、むしろこうした文化的偏見があったというべきだろう。この場合人間とは、いな人類とは、
つまり「文明人」のことでしかないのだ。北米インディアンが自然をありのままにたもち、そこ
から生きるに必要なものだけしか採取しないのを見た白人が、彼ら野蛮人は自然の有効な
用い方を知らないから自分たちが代わってそれを開発するのが神の御旨にかなっているの
だと考え、インディアンは彼らなりに、そのような白人を見て自然を憎んでいるとしか考えら
れなかったという。ここにあるのは、<自然>とのかかわり方の決定的な、しかも重大な
対立である。レビィ・ストロークが最近のある対談でつぎのようにいっている。「・・・これらの
<未開>社会の実験から引きだせる最も意味深い教訓は、人間の欲望の一種好ましい
節度と、おのおのの人間集団とその自然環境とのじつに賢明な調和だといえるでしょう。
これらの社会とわれわれの現社会との本質的な違いは、それらの社会には、われわれの
社会とは問題にならないほど、動物の生命とか、植物の生命とか、生きとし生けるもの一切
に対して極めて大きい敬虔の心があることです。」 問題のポイントはまさにここにあるよう
に思われる。近代のあやまりは、こうした未開社会の考え方を文明社会が自分たちの尺度
で裁断し、片はしから圧殺してきたことではないだろうか。たとえば自然を人間に都合よく
作りかえあるいは破壊することになんの疑いもいだかなかったし、未開社会をたんに劣っ
たもの野蛮なものとしてさげすみ、彼らを「文明化」するかさもなければふみにじるかの
二つに一つしか考えおよばなかった。未開社会もまた別のスタイルの人間の社会集団
であり、そこにも学ぶべき何ものかがあるかもしれないとは思いつきさえしなかったので
ある。さらにわれわれ現代の日本人は、よりいっそう罪ぶかいというべきかもしれない。
なぜならわれわれの遠い祖先は、いやつい百年前までは、殺生を忌む仏の教えを身に
つけ、この世を仮の宿りだとする輪廻の思想を持っていた。自分一代は善行を積み、
死ねば肉体は土に還り、霊魂は他の生を享けて生まれ変わるという考え方は根深い
信仰となっていた。いったいいつのまに私たちはこのような自然観をふり捨ててしまっ
たのだろう。現代の私たちは、たしかに「世の中が開けて生活水準が高まっている
状態」にいるかもしれない。つまり「文明開化」されたのである。しかし、「国破れて山河
あり」といわれた山河がいま致命的に破壊されている。山河どころではない、空気も
大地も海も汚染されつくしているのだ。もっとも恐ろしいのは、こうした目に見える自然
環境の破壊以上に、私たちのうちなる自然、肉体と精神の荒廃であろう。
創造主がマサウを通して語った預言と教示をまとめた「テククワ・イカチ」
