
「ホピの国へ」
アメリカインディアンに学ぶ
青木やよい著 廣済堂文庫 より


ナバホ族とホピ族との最初の出会いを語る。続編が「ホピ・精霊たちの台地」。
(K.K)
創造主がマサウを通して語った預言と教示をまとめた「テククワ・イカチ」
ドキュメンタリー映画「ホピの予言・人類滅亡・核時代の最終予言」を参照されたし

いや、そんな哲学的めいた論争すらもはや必要ではない。このままでは人類は、偶発的な
核戦争か、環境および食品の致命的な汚染か、地球資源やエネルギーの枯渇か、ある
いは試験管ベビーに代表される生命の人工生産や種の人工淘汰といった悪魔的な所業
によって、この中のどれか一つでもおこれば、簡単に、それこそマンモス以上に急速に滅
び去るにちがいない。この現実を前にした私たちにいま必要なことは、あれこれの小さな
手直しに気をとられるよりも前に、自分たちが確固不抜なものとして信奉してきた「二千年
の歴史の進歩」という考えを一度疑ってみることである。「文明的」という時の、「文明」のよ
ってくる意味を、根元的に問いなおしてみることである。その時、未開社会の無言の存在
が、滅び去った無数の部族と死に絶えた無数の人々のアルカイックな微笑と共に、私た
ちに何ごとかを告げるだろう。いま、地球上の生きものの一つの種として私たち人類が
存亡の岐路に立っている時、そこに何をよみとるのかが、未来をひらく重大なカギとなる
のではないかと私は考えている。・・・本書<なぜ未開社会を語るのか>より

「技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く」というこのいかにも当たり前の思想が、
じつは文明の諸悪の根元ではないかと私は考える。なぜならここには、自然は人間のため
だけにあるという近代を支えてきた人間の傲慢があるからである。ヒューマニズムといえば
いかにもひびきがよいが、それがもし、地球における生きとし生けるもののリーダーとしての
自覚と責任を伴っていないなら、それは人間エゴにほかならないのではないだろうか。そして
そこにはまた、人間とは「技術をもって自然を自分に役立てる能力を持ったもの」という定義
に至りつく道がおのずと開かれており、あらゆる人種差別の基礎をかたちづくっているのだ。
<自由・平等・友愛>をかかげて出発したはずの近代ヨーロッパが、火器を持たない人々を
つぎつぎと征服し、植民地として収奪のかぎりをつくした裏には、たんに歴史の必然というより
も、むしろこうした文化的偏見があったというべきだろう。この場合人間とは、いな人類とは、
つまり「文明人」のことでしかないのだ。北米インディアンが自然をありのままにたもち、そこ
から生きるに必要なものだけしか採取しないのを見た白人が、彼ら野蛮人は自然の有効な
用い方を知らないから自分たちが代わってそれを開発するのが神の御旨にかなっているの
だと考え、インディアンは彼らなりに、そのような白人を見て自然を憎んでいるとしか考えら
れなかったという。ここにあるのは、<自然>とのかかわり方の決定的な、しかも重大な
対立である。レビィ・ストロークが最近のある対談でつぎのようにいっている。「・・・これらの
<未開>社会の実験から引きだせる最も意味深い教訓は、人間の欲望の一種好ましい
節度と、おのおのの人間集団とその自然環境とのじつに賢明な調和だといえるでしょう。
これらの社会とわれわれの現社会との本質的な違いは、それらの社会には、われわれの
社会とは問題にならないほど、動物の生命とか、植物の生命とか、生きとし生けるもの一切
に対して極めて大きい敬虔の心があることです。」 問題のポイントはまさにここにあるよう
に思われる。近代のあやまりは、こうした未開社会の考え方を文明社会が自分たちの尺度
で裁断し、片はしから圧殺してきたことではないだろうか。たとえば自然を人間に都合よく
作りかえあるいは破壊することになんの疑いもいだかなかったし、未開社会をたんに劣っ
たもの野蛮なものとしてさげすみ、彼らを「文明化」するかさもなければふみにじるかの
二つに一つしか考えおよばなかった。未開社会もまた別のスタイルの人間の社会集団
であり、そこにも学ぶべき何ものかがあるかもしれないとは思いつきさえしなかったので
ある。さらにわれわれ現代の日本人は、よりいっそう罪ぶかいというべきかもしれない。
なぜならわれわれの遠い祖先は、いやつい百年前までは、殺生を忌む仏の教えを身に
つけ、この世を仮の宿りだとする輪廻の思想を持っていた。自分一代は善行を積み、
死ねば肉体は土に還り、霊魂は他の生を享けて生まれ変わるという考え方は根深い
信仰となっていた。いったいいつのまに私たちはこのような自然観をふり捨ててしまっ
たのだろう。現代の私たちは、たしかに「世の中が開けて生活水準が高まっている
状態」にいるかもしれない。つまり「文明開化」されたのである。しかし、「国破れて山河
あり」といわれた山河がいま致命的に破壊されている。山河どころではない、空気も
大地も海も汚染されつくしているのだ。もっとも恐ろしいのは、こうした目に見える自然
環境の破壊以上に、私たちのうちなる自然、肉体と精神の荒廃であろう。
目次
旅のはじめ
砂漠の都市
銀細工師の家
美しい街サンタフェ
脱文明の世界
「テクノロジーを忘れるな!」
T ナバホ国にて
「ナバホ族のロング・マーチ」
料理の味
人種はどこで見分けるか?
「希望の地」の夕景色
見知らぬ来訪者
お役所は日本に似ている
ここにもヤング・パワーがある
二人の青年画家
U 砂漠の子供たち
ホピ族の台地に向かって
ニホンはどこの部族か?
プエブロ風のモーター・イン
霊の文化
砂漠の大パノラマ
ホピの子供たちと
星空の下で
ションゴポビ村の朝
V 野性と文明とのあいだ
トゥバ・シティとは何か?
ロミオとジュリエットはもういない
太った紳士の親切
ここにもカカア天下がある
おみやげについての考察
風景についての対話
夜のグランド・キャニオン
ヒッチハイカーたちの生活と意見
W 未開から見た文明
「当方モーテル付き終夜営業」
ミスター・シェリンの望遠鏡
アルカトラス島は牢獄である
提督夫人との対話
アパッチは無頼漢ではない
首長と文字の効用
未開社会におけるノーブレス・オブリッジ
性とタブー
北米の女戦士たち
おしゃれと文化
最後の未開人
硫黄島で戦ったインディアン
ホピ族と徴兵拒否の思想
なぜ未開社会を語るのか
あとがき
