
「アメリカ先住民の精神世界」
阿部珠理著 NHKブックス より


私はこの書で、アメリカ先住民の精神的伝統を維持しているという意味で代表的な、
ラコタの人びとの生活と信条を、出来るだけ忠実に描き出したい。彼らの生活の中心
には、彼らの創造の主であり、大いなる霊(スピリット)であるワカンタンカへの信仰が
ある。彼らの信仰に、仏教やキリスト教といった名称はない。信仰とは、彼らにとって、
ワカンタンカの意志にそった生き方をすることに他にならないのだ。あえて名づけるな
ら、「ラコタの道」と言うしかないものだろう。我われを含むいわゆる「文明人」の目に
は、彼らの信仰は原始的な自然崇拝と映りかねない。事実、西欧文明は近代まで、
宗教進化論にそって、文字によって体系化された一神教こそ高等な宗教であり、多神
教や書かれた教義を持たない自然・精霊崇拝を低位のものと位置づけてきた。西欧
的物質文明の行き詰まりが語られて久しいが、それこそこのようなヒエラルキー的
発想なども、よりよく生きようとする人間と自然の幸福な調和に、亀裂を生じさせた
一つであったかもしれない。信仰は書かれるものでなく、生きられてこそ初めて信仰
となる。先住民のあるチーフがいみじくも言う。「あなた方の信仰(キリスト教)は、
神の鉄の指で石版に刻まれるがゆえに忘れられることはないが、我われの信仰は、
先祖たちの歩いた道であり、それは心に刻まれるがゆえに忘れられることはない」
ラコタの道は、人が、自然とそして、あまねく自然に宿るスピリットと共に生きる道で
ある。また、心と体と自然が繋がった調和の世界である。ラコタの道には、聖堂も
聖人も必要ではない。しかし、ワカンタンカとスピリットの仲立ちをして、人を調和の
世界に導く役割を持つ人はいる。それがメディスン・マンである。本書でメディスン・
マンとラコタの伝統的儀式であるサンダンスに章をさいているのは、それが心と体と
自然を繋ぐ人であり、儀式であり、またもっともラコタの精神を体現するものだと思わ
れたからだ。しかしそうしたラコタの信仰や精神を、言葉に写すのは難しい。また、
そういう努力が有効なものかどうかも覚束ない。だが敢えて私にそれをさせたのは、
ラコタの人びとの生き方が、「豊かさとは何か」「人間とは何か」という古くてまた常に
新しい問いを、繰り返し私たちに投げかけるからだ。
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本書 あとがき より抜粋引用
経済的基盤の破壊の後に続くものは、文化の破壊である。ほとんど強制的な
同化政策によって、言語はしだいに失われ、彼らに特有の宗教儀式が禁止され
ていた間に、多くのラコタの人びとがキリスト教に改宗した。だがラコタの人びと
は、彼らの文化の核である信仰の灯火を、小さいながらも燃やし続けてきた。
1960年代の公民権運動のうねりは、抑圧されてきたアメリカ先住民の大きな
刺激となった。アメリカ・インディアン・ムーブメントによる1973年のウンデッド・
ニーの占拠は、彼らの復権運動の頂点をなすものであった。だが、ラコタでその
出来事が象徴的なのは、それが単なる政治的復権を目指すものではなく、文化
的復権をも意味したからだ。
言語復興、文化復興の努力は今も続けられている。それは、ラコタがラコタであり
続けようとする営みに他ならない。文化の核であり彼らの信仰の形象である儀式
は、ことに注意深く守られようとしている。伝統維持派の中心的人物に言わせれ
は、儀式は、彼らが完全に奪われることを免れた唯一最後のものである。近年そ
れを脅かしているのが、学者や研究者ということになる。私自身もその例外では
ないだろう。
儀式は本来、それを信仰するもののみに開かれたものだ。ところが文化復権運動
が促進され、内外でラコタの文化の再評価が高まる過程で、ラコタは多くの訪問者
を引き寄せることになった。研究者のみならず、ラコタのエコロジーに根ざした生き
方に対する関心から、また彼らの癒しの技法に自らの救済を求めて彼らはやって
くる。そしてラコタの人びとに言わせれば、彼らは、自分の欲しいものだけ手に入
れるが早いか去ってゆく。サンダンスの時期など見るとそれがよくわかる。どっと
押し寄せた外部の人びとは、それが終わるやいなや跡形もなく消えている。
各地の博物館に展示されている先住民の聖具は、彼らにとって、本来信仰のない
人の目にさらされてはいけないものなのだ。大地に眠る先祖の遺骨が掘り起こされ
る発掘調査なども含めて、彼らの信仰に対する不敬の行為に研究者は手を貸して
いる、と彼らは考える。学者は泥棒だと公言する人さえいる。
部外者の流入は内部の質的変化も引き起こす。外部の要請に応え、便宜を図る人
びとが内部にでてくる。彼らの抱える貧困を考えれば一概に糾弾できることではない
のだが、伝統維持派は、それらの人を、文化を売るものだと批判する。本来介在する
はずのない金銭が、儀式に絡んでくる。彼らが守ろうとする文化の核が、外部からの
そのような干渉によって薄められてゆくと彼らは感じている。
こうしたことは、文化の個別性と普遍性に関わる問題でもある。伝統維持派が個別
性の堅持を主張すれば、過渡的段階ではどうしても排他的にならざるをえないだろう。
文化を売るものだと批判を受ける人は、ラコタの思想の普遍性を外部の多くの人と共有
することの重要性を主張し、開放派の立場をとる。それは、ラコタのアイデンティティをど
う捉えてゆくかの問題でもある。ラコタの社会は、このように文化的に揺れている。この
対立がどう収束してゆくかは、予測がつかない。しかし彼らの批判と危惧を私自身の中
に受けとめ、彼らとの心かよう関わりを今後常に検証することを忘れてはなるまい。
貧困、飲酒、暴力といった社会問題、聖地ブラック・ヒルズの返還訴訟、保留地の自治
権の確立と民族としての独立といった政治的懸案など、ラコタの人びとが直面する問題
は他にも多い。だが日々の営みの中で彼らが見せる大らかさの中に、私は彼ら民族
の将来を見たような気がしている。そのどこか悠揚迫らぬ態度の根底には、自分たち
は大いなる自然の意思とへその緒で繋がっているのだという潜在的確信がある。それ
をラコタの真の伝統と呼んでもいい。ラコタの雄大な平原に昇る朝日と、沈みゆく夕日の
美しさを、私は忘れない。その時の空は、天上の色を思わせずにはおかない。この太陽
に、彼らの待ち望む再生の日々を祈りつつ、筆を擱く。
