「セブン・アローズ 聖なる輪の教え 心の目をひらく旅 よみがえる魂の物語」T-V

ヘェメヨースツ・ストーム著 阿部珠理 訳 地湧社 より引用







「聖なる輪の教え」「心の目をひらく旅」「よみがえる魂の物語」の三部作。

作家の中上健次氏が「叡智と神話力に満ちた比類なく美しい本、それが

インディアン系の作家ヘェメヨースツ(チャック)・ストームの“セブン・アロ

ーズ”である。1979年私が初めて長期滞在したロスアンゼルスで一冊

を前にした時、心臓に電撃のような衝撃を受けたのだった。13年後の今

その日本語版がここにある。」と絶賛した宇宙のハーモニーの中で生きる

ことを教える、アメリカ・インディアンの原点の書。

(K.K)






阿部珠理(あべ・じゅり) 立教大学社会学部教授


福岡市生まれ。UCLA大学院助手、香蘭女子短期大学助教授を経て、現在

立教大学社会学部教授。アメリカ先住民研究。著書に「アメリカ先住民・民族

再生にむけて」(角川書店)、「アメリカ先住民の精神世界」(日本放送出版協

会)、「みつめあう日本とアメリカ」(編者・南雲堂)、「マイノリティは創造する」

(共著・せりか書房)、「大地の声 アメリカ先住民の知恵のことば」(大修館書

店)、「ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の聖なる言葉」(小学館

新書)、訳書にアメリカ先住民の口承文学をまとめた「セブン・アローズ」(全

3巻 地湧社)、名著「ブラック・エルクは語る」、「文化が衝突するとき」(南雲

堂)、「ビジュアルタイムライン アメリカ・インディアンの歴史」(東洋書林)、論

文に「アメリカ・インディアン・アイデンティティの文化構造」など多数
2011年

にはNHKカルチャーラジオ、歴史再発見で「アメリカ先住民から学ぶ・その

歴史と思想」が放送された。


 
 


T・「聖なる輪の教え」

<白い楯>一族に戦さの気配がしのびよる。人びとがこれまで信じてきた

道は、白人たちの新しい道の前で滅びようとしているのか? 一族の

チーフが子供たちに語り聞かせたのは、<跳ぶネズミ>の物語、一匹

の小さなネズミが聖なる力を捜し求めて旅する物語だった。


U・「心の目をひらく旅」

楯の兄弟たちの絆がこわれはじめ、部族の人びとを取りまく状況はだん

だん過酷になってゆく。戦さが続く中、一人の若者がヴィジョン・クエスト

の儀式にのぞむ。何ものにも負けない強い心と”与えること”を学んだ

若者は、新しく<夜の熊>と名づけられた。


V・「よみがえる魂の物語」

学びのための数々の物語がからみあいながら展開する最終巻。分裂し

ていた人びとが絆を取りもどし、自らの歩むべき道に再び目覚めてゆく。

しかし歴史はいやおうなく人びとに敗北を与えようとしていた。そして時

は、現代。彼らが学び、守り、伝えてきたスピリットは生きていた。



本書より引用


インディアンの埋葬地

フィリップ・フレノー



学識あるものたちが 何と言おうと

私は 自分の考えを なお 捨てない

私たちが死者たちを横たえるのは

魂の永遠の休息を 志向しているが


この地の祖先たちは そうではない

インディアンが 生から 解き放たれると

再び 友と座り

祝宴を また 共にするのだ

 

鳥たちの絵や 椀の模様が

獲物の肉が 旅立ちのために供されて

魂のありさまを語る

魂の活性を 休息を知ることのないさまを


彼の弓は 今にも 引き放たれようとし

矢には 石の鍬が付いているが

それらが語るのは ただ 生は費やされるが

古の考えは なくならないということだ


おまえは 異郷の者だが この地へ来れば

死者たちを欺いてはならない

盛り上がった芝土を見て おまえは 言うがいい

彼らは横たわっているのではなく ここに座っているのだと


ここに なお うず高い岩があり

物珍しく 異郷の者は それを見るだろう

(今は 実は 風雨に晒されて 半分の大きさになっているが)

そして、もっと野生溢れていた人びとの思いを知るだろう


ここに なお 楡の古木が天を突き

その下に長く差す影は

(今なお 牧童たちが その木陰を渇望しているが)

森の子供たちの遊んでいた場所


そこでは 休息を知らないインディアンの女王が

(青白きシバ、三あみの)

また 多くの雄々しい姿が

よく、そこに佇む男を追い払おうとしている


真夜中の月のもと 湿った露の上

狩の装束を身にまとい

狩人は今もなお鹿を追う

狩人と鹿 一つの影絵!


これからも長く 恐れる思いが

絵にかかれた酋長と 尖った槍とを見るだろう

そして 理性の自我なるものが

この地の影と幻とに 膝を屈するだろう


 


阿部珠理・・・本書・心熱き者へ(訳者解説)より引用


本の中でよく言われているように、物語は、一度に理解されるものではなく、聞くたびに

その花びらを開いていく花なのだ。聞き方も、その速度も、聞き手によって異なるし、

開いた花の色も形も、人によって異なるだろう。人それぞれ、成長の仕方と速度は異

なるのだから。また人生に起こる多くの出来事が、その人の認識のレベルを変えてい

くであろうから、いったん開いた花が、色や形を変えることもありうる。物語は、人の成

長にそって変化し生き続け、人の学びは一生続いていく。教えは、このように、決して

絶対的な解釈がないし、また、それを学ぶべき時も強いない。私たちはここに、ネイテ

ィブの教えの相対性の偉大さを知る。そして、その相対性の中でも特に重要なのが、

人間存在に関するものだろう。すなわち、人もまた、絶対的な存在としてでなく、生きと

し生けるものの住みかである聖なる輪の中で、調和的に生きねばならぬということだ。

それを学ぶために人は生まれてくるし、学びの徹底が人生である。調和が保たれてい

るかぎり、聖なる輪は回り続け、世界が終わることはない。 「セブン・アローズ」という

物語は、時代と人と学びを映す鏡であった。物語の中心となった1860年代からの

三十年間は、大陸横断鉄道の完成とともにフロンティアが急速に消滅してゆき、平原

インディアンにもっとも過酷な時代となった。これは、侵略者の白人との戦いでの物理

的敗北だけではない。敗北の結果、楯の兄弟の絆が壊れ、依って立つ彼らの信仰と

価値が崩壊し、心が荒廃してゆく。登場人物のほとんどは、死んだ。<タカ>は死に、

<夜の熊>も死ぬ。だが彼らの教えは、物語は、辛うじて生き延びる<青い火のネズ

ミ>に伝えられる。そして時は現代になり、すっかり年老いてしまった<青い火のネズ

ミ>から、平原を馬で駆けた時代をまったく知らぬ孫のロッキーへと語り継がれる。ち

ょうど花が色を変えたように、「白雪姫」の話となって。アメリカ全土がネイティブの埋葬

地だと言ってもいい。そこに立つ彼らの見えぬ墓標は、数えきれない。もっとも寒い

時代にありながら、それども心に熱きものを持ち続ける人びとの中で、物語が死ぬ

ことはない。そうして物語のたいまつは次の世代に渡されてゆく。「セブン・アローズ」

は、今語り終えられた、だが物語が終わるのは、心熱き者の中によみがえるためだ。



「ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の『聖なる言葉』」阿部珠理著 より抜粋引用


中上さんのアメリカの交遊関係の中に、ヘェメヨースツ・ストームがいた。インディアンの

シャイアン族の作家だった。彼は中上さんに自分の作品を日本語に訳して、日本で出版

してほしいと頼んだ。新宮の「部落」を出自に持つ中上さんが、マイノリティ作家に反応

しないはずはない。中身もよく見ず、翻訳を請け合ったらしい。といっても中上さんは英

語に堪能ではないから、子分のような私に「ジュリ、お前やれ」ということになった。私は

中上さんの手下(彼は若輩者を好んでテカ、テカと呼んだ)に昇格していたから、これも

二つ返事で引き受けた。私が下訳をして、出版のおりには中上さんの共訳者として名前

を出してくれるという。たかだか大学院生には、もったいない話だった。だがそれはずっと

実現しなかった。私は学位論文の執筆で忙しかったし、中上さんも超多忙な人だったか

ら、翻訳の話はずっと宙に浮いたままだった。出版社からとうとう翻訳の版権が切れる

からまずいという連絡を受けて、ようやく私は重い腰を上げた。そのときすでに大学の

助教授になっていた。『セブン・アローズ』は、1973年に出版されたが、アメリカでは珍しく

絶版になっていない本だった。ある平原インディアン部族と、その兄弟たちの絆と分裂、

18世紀から19世紀にかけて頂点に達した白人との戦いと、インディアンの歴史上の敗北

を背景に語られる死と再生の物語だ。この一大サーガという趣の本には、インディアンの

教えがそこここにちりばめられていた。ニューエイジ本と片付ける学者もいるが、エドワー

ド・カーティスの詩情溢れる写真と、ストームの簡潔だが響きのある文体のせいか、独特

の雰囲気のある本だった。読みすすめるうち、私は平原に吹く風を感じた。直感的な中上

さんが、中身も読まず、二つ返事で翻訳を引き受けたのが理解できるような気がした。訳し

始めて困難にぶつかった。どうしても平原の風を感じさせるような文章にならない。私は

実際のインディアンの生活の中で、彼らの思想に触れなければ、この本は訳せないと感じ

た。私は、その舞台になっているシャイアン族の保留地へのつてを探し始めた。つては見

つかったが、それは私を、シャイアン族ではなく、ラコタ族の保留地に導いた。それがイン

ディアンとの実際のエンカウンターだった。

(中略)

インディアンの世界に、私を引っ張り込んだ中上さんが亡くなり、翻訳も完成して、私の

インディアン体験は完結したと思った。大学で自分の専門の研究生活に戻るつもりだっ

た。だが、そうはいかなかった。『セブン・アローズ』が新聞の書評に取り上げられたこと

もあった、私にはインディアン関連の原稿依頼が舞い込むようになった。ほどなく某出版

社から単行本の依頼があり、その本が学者の本としてはかなり売れた。世間や学会は

私を「インディアン研究者」と見なすようになっていった。講演で話し、テレビに出演し、

さらに本を書いた。需要に押される格好で、気がつくと私はインディアン研究をやめるこ

とができなくなっていた。もう来ることはないと思ったラコタ族の保留地に、毎年出かけ

ることが恒例となっていった。在外研究のおりには、少なからぬ時間をそこで過ごした。

私は「インディアン研究家者」以外の何者でもなくなった。『セブン・アローズ』から20年

近くがたつ。中上さんがいなかったら、この道は歩かなかっただろう。私は自分の意思

を超えた縁によって、今この地点に立っている。








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