シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)の文献


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解説書

「シモーヌ・ヴェイユ・その極限の愛の思想」 田辺保著
「シモーヌ・ヴェイユ入門」 ダヴィ 著
「回想のシモーヌ・ヴェイユ」 J.M.ペラン / G.ティボン著
「シモーヌ・ヴェーユの世界」 ダヴィ著
「純粋さのきわみの死・さいごのシモーヌ・ヴェイユ」 田辺保著 
「新装版 シモーヌ・ヴェイユの生涯」 大木健著
「ヴェイユの言葉」富原眞弓 翻訳
「シモーヌ・ヴェーユ伝」ジャック・カボー著(未読)
「シモーヌ・ヴェーユ最後の日々」ジャック・カボー著(未読)
「シモーヌ・ヴェイユ ひかりを手にいれた女性」ガブリエッラ・フィオーリ著(未読) 
「シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話」富原眞弓著(未読)
「ほんとうの考え・うその考え」賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって 吉本隆明著(未読)
「シモーヌ・ヴェーユ その劇的生涯」クロード・ダルヴィ著(未読)

ヴェイユの著作書

「重力と恩寵」
「神を待ちのぞむ」
「根をもつこと」
「超自然的認識」

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解説書

   

「シモーヌ・ヴェイユ・その極限の愛の思想」 

田辺保著 講談社現代新書


あえてこのおそろしい光に近づこう---この一すじの純粋さ---
この小さな本の中で、わたしが見つめてみたいと思うことは、ただ
この点につきるかもしれない。しかし、この純粋さは、火の矢となっ
てわたしたちを射とおす。この炎に身を焼かれる覚悟がなくては、
わたしたちは、シモーヌ・ヴェイユに一歩も近づくことはできないと
いえよう。ふつう一般の基準、わたしたちが日常なんの疑問もなく
用いている理屈や習慣に対して、彼女はつねに挑戦し、わたした
ちの安易さをうち破るのである。こういう彼女の前で、わたしたち
は、あるとまどいや恥じらいをおぼえずにはいられないとしても、
ここにはまた、わたしたちを変革する一つの力の存在をもたしか
にみとめずにはいられないであろう。マグドレーヌ・ダヴィ女史は、
「シモーヌ・ヴェイユのことを正しく語るには、彼女が立っている場
所に自分もまた、きっかりと位置することができねばならないので
あろう。そのときこそ、わたしたちの見る目が、彼女の見る目に達
するのであろう」と書いている。とはいえ、そこにまで達することの
不可能さを、わたしもまた、ダヴィ女史とともになげくことからはじ
めなくてはならない。この強烈な炎に近づいて行くことの危険を知
りすぎるほどに知りながらも、やはりわたしも光を指示するという
使命感につき動かされるのをおぼえずにいられない。いくつかの
彼女の著作もでそろい、機も熟した今、ともかくもこうして、わたし
自身の手で、貧しくつたない筆ながら、彼女の生涯と思想とを日本
の読書界に紹介できる機会が与えたれたことは、何よりも深いよ
ろこびであり、同時にまた、おそろしいことである。せめても、「この
光が人を焼きつくすものであっても、光をますの下にかくしておいて
もよいという十分な理由にはならない」というギュスターヴ・ティボン
の言葉だけに、ひそかな支えを求めつつ、読者とともに、この特異
な生涯をふりかえってみようと思う。
・・・・・本著 「はじめに---一すじの純粋さ」より引用


 
 
   

「新装版 シモーヌ・ヴェイユの生涯」 

大木健著 勁草書房


肉体は病魔に蝕まれ、革命と戦争の暗い夜に苦悩した類まれな
魂の遍歴を記した研究書であると共に、同時代に生きたアルベー
ル・カミュ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとの共通点や対比を描き出
した書である。改めて本書の帯文に書かれている「不幸に対する敏
感さと真理に対する渇望と」を、彼女の生き方そのものに感じさせ
てくれる文献であり、ガブリエル・マルセルが言うところの「シモーヌ・
ヴェイユを理解するためには、真理に対する飢餓、現実に対する
渇きがなければならない」ことの真の意味を思い知らされる。


シモーヌ・ヴェイユの書き残したものを読むと、そこに人をとまどわ
せるはげしさや、矛盾が少なくないことはたしかである。その行動に
は常識で考えられない愚かさもある。しかし、彼女は目を閉じてその
瞑想の中に世界の希望を捜し求めたのではない。また、泣く者ととも
に泣いていただけではない。彼女は、惨澹たる絶望的不幸の中に自
分自身の肉体を置き、人格を据え、その不幸の中核が彼女の目に
映るまでその場の苦難に耐え抜いた。そして、その絶望の砂の奥底
から、誰の目にもとまらぬほどささやかな萌芽を見つけ出したのであ
る。この苦闘から発したその言葉に矛盾があることはむしろ当然のこ
とであろう。われわれがこの苦闘の本質を見きわめることなしに、その
思想の局部をとらえて軽率に「これは賛成」「これは不賛成」と批判す
るにとどまるならば、われわれは<純金の預かり物>を受け取ること
はできないであろう。この荒野に呼ばわる声を聞くには、それ相当の
敬虔さと努力が必要なのである。彼女の苦闘によって発見された、
不幸と真理との血縁関係を示す細い沈黙の道があることを信じるなら
ば、われわれはまず姿勢を正さなければならないのである。
・・・・・・・本書「終焉の地ロンドン」より引用

 

 
 

 「シモーヌ・ヴェイユ入門」 

ダヴィ 著 田辺 保訳 勁草書房


ヴェイユを誰よりも深く理解し敬愛するダヴィ女史による解説。

この本の原著者マリー・マグドレーヌ・ダヴィ女史には、あと二冊、
シモーヌ・ヴェイユにフランス語の研究書がある。(『シモーヌ・ヴェイユ』、
「二十世紀の証人」双書、1956年、「哲学」双書、1966年)。1956年版
の本には、有名な哲学者ガブリエル・マルセルが序文を寄せており、
その一ばん最初の部分でマルセルは原著者について次のような賛辞
を述べている。

「マリーマグドレーヌ・ダヴィ女史こそ、だれにもまして、シモーヌ・ヴェ
イユという人のおもかげ、他にまったく比類のないこのおもかげをよみ
がえらせるのにふさわしい人であると言えよう。女史こそ、熱情溢るる
心、範とすべき高邁さ、見るべき明哲な精神をかねそなえた人だから
である。・・・・シモーヌ・ヴェイユについて、これ以上に知性に裏づけら
れた敬愛の思いをもって語ることは、ついにこれまでだれにもできない
ことであった。」
(本書 訳者あとがき より引用)

 
 
 

 「シモーヌ・ヴェーユの世界」 

ダヴィー著 山崎庸一郎訳 晶文社


マリー=マドレーヌ・ダヴィーほど、シモーヌ・ヴェーユの相貌、他の
いかなる人間とも似ていないその相貌を想起させるにふさわしいひと
はいない。彼女に見られる心情の熱烈さと、範例とすべき寛大さと、
すぐれて明哲な知性との結合のゆえに、彼女はそれにふさわしいの
である。ありがたいことに、彼女がそのモデルについて描いた肖像の
なかには、いささかも聖者伝的なところはない。だが、これ以上に知的
な敬虔さをもってシモーヌ・ヴェイユを語ることは、たしかに不可能であ
る。ひとしく驚嘆すべきものである彼女の作品と生涯とを注意深く眺め
てみればみるほど、私にはますます確信をもって、この両者をなんらか
の公式のなかに閉じこめることが不可能であるように思われてくる。
マドレーヌ・ダヴィーはキルケゴールから借用された表現を用いて、シ
モーヌ・ヴェーユは真理の証人だったと語っている。そうかも知れない。
だがむしろ私は、はるかに希有のことであり、かついっそう逆説的でも
あるが、彼女は「絶対の証人」だったと言いたい。
・・・・・・・・本著「絶対の証人」 ガブリエル・マルセルより引用


 
   

「回想のシモーヌ・ヴェイユ」

J.M.ペラン / G.ティボン著田辺保訳 朝日現代業書

ヴェイユと深く親交を持っていた、ペラン神父と農民哲学者のティボン
による回想録

真に偉大な人々の生涯をまったくそこなうことなしに語ることがどん
なにむつかしいかについて、ボードレールは、あまり知られていないが、
次のような文章を書いている。「いったいだれが、太陽の伝記を書こう
なんて思いつくだろうか。この星が生命のきざしを示しはじめてからの、
単調と光と崇高さとにみちた歴史なんだが」。そして、事実、太陽の歴
史は、神についての歴史と同様に書かれることはないのだ。歴史にお
いて群集の堕落した欲望をそそりたてるようなものはいっさい、きっぱ
りとはねつけられているのである。人は、空虚なたましいを持てば持つ
ほど、あらゆるものごとの不変の本質を味わい知ることができず、現代
性だとか、新奇さだとかのピーマンで味つけされたものを必要とするの
だ。肝心の本質をなおざりにして、めずらしい出来事にばかり熱中し、
深い価値、真の実在性をもつもの、原初の光の単純さに近いものにあ
っては、存在と出来事、本質と実存とが一致する傾向があることを考え
てみようとしない。より高い世界においては、とくに何も起こることはな
いのだ。なぜなら、そこではつねに、同じことが起こっているからである。
夜明けのくるごとに、いつも同じさまで、純に清らかに生まれでてくる太
陽がそうであるように。また、同じ岸辺のあいだを、終わりなく流れてや
まない川がそうであるように。また、ふたりの人間が死に至るまで結び
つける真実な愛がそうであるように。何ものによっても弱められず、力
を失なわず、正しい者の上にも、正しくない者の上にも雨を降らせる
神の愛がそうであるように。こういったふうな真にわたしたちを養い育
て上げる実在の中には、ひとつとして、世間の好奇心をかきたてるよ
うな、意想外の偶然性や煽情的な新奇さは含まれていない。だからこ
そ、ともかくもいくらか見栄えがし、あまり重要でないなんらかの出来事
をそこに持ちこんでくる必要がでてくるのだ。たとえば、太陽が日食の
ために欠けたり、川が洪水をおこしたり、夫婦が口論しあったり、神が
物質の上に働きかけて奇跡をおこす必要があるのだ。あまりにも深く
内側に沈み、ただ持続して行くものであるために、煽情的ではありえ
ない。だからこそ、人々は気づかぬままに過ぎて行ってしまうのである。
シモーヌ・ヴェイユの真の偉大さも、こういう次元に属するものであった。
彼女の言葉の真実の意味をつかもうとするなら、幾重にも重なった
沈黙の厚みの中をくぐりぬけてこなければならない。そのときはじめて、
この言葉を告げるのが、もはや彼女その人ではなく、より高くにある霊
であって、彼女のたましいとからだはその従順な道具となっていたにす
ぎないことをさとるだろう。こういう至高の霊感のときには、ものを書く手、
考える頭は、もはやただ、「死すべきものと不死なるものとをつなぐきず
な」、「創造主と被造物とがそれぞれの秘密を交わしあう」ための、人格
を脱した仲介物になりおわるのである。
・・・本書「はじめに」G・ティボンより引用


 
   

「純粋さのきわみの死・さいごのシモーヌ・ヴェイユ」 

田辺 保 著 北洋社


「純粋さ」とはなんだろうか。講談社現代新書版の小著「シモーヌ・ヴェ
イユ」の初めに、こんな問いをおいた。十年前に世に出されたこの小著
でも、むろんこの課題はつねに意識の底にしっかりと保持していたつも
りだが、新書版では何しろ分量が十分ではなかった。シモーヌ・ヴェイユ
の、あまりにも多彩な、変化に富む生涯を、外側から、また内面的にも、
追うことばかりに賢明になり、一つのテーマで筋を通し、自分なりの解答
をさいごに見出してきたとはいいがたい。
・・・・・・・・・・・本著「あとがき」より引用


本書の外面的な構成は、一応シモーヌ・ヴェイユゆかりの土地をめぐ
る旅行記と、それぞれの場所においてもっとも重要なかかわりのある
主題の考察とをからみ合わせながら、著者自身の個人的なメモやノー
トを公開するという形をとりつつ、読者に対しても問題への主体的な臨
場感の興味を添えしめて行こうと意図している。もちろん、この試みが
どこまで成功しているかは、自信がない。読者のきびしい批判を仰ぎた
いと思う。各章は、シモーヌ・ヴェイユと「詩」、カタリナ派、イタリアの画
家たち、聖フランチェスコ、ジョー・ブスケなどとの関係をさぐってみた、
それぞれ独立した小エッセーと見てもらってよいのであるが(中略)、マ
ルセイユ、フィレンツェ、アッシジ、カルカソンヌ、パリなど、仏伊の各都
市の名を縦の軸として全体をつなぎ、全体に流動性と一貫性をつけよう
とした。シモーヌ・ヴェイユの研究家R・リースは、彼女の研究に向かう場
合、最初にどこを出発点にしてもよいといっている。彼女の思想は体系
ではなく、あらゆる細部が全体と関連し合い、一つのテーマを追えば必
ず他の諸テーマがつながって出てくる、「生きられた神話」であったから
である。本署においても一見して、個々別々の問題を各章で扱っている
かに思われるであろうが、全体を通読していただければ、ある有機的な
連関がその間にあるのに気づいていただけよう。
・・・本著「あとがき」より引用

 

 
   

 「ヴェイユの言葉」 

富原眞弓 翻訳 みすず書房


本書 「編訳者 序」 より引用

本書は、シモーヌ・ヴェイユの残した断章を5つのカテゴリーに分類して
収録した。いうまでもなく、同じ断章でも読みによって異なるカテゴリーに
属しうる。それでもかまわない。この種の読みの多様性こそが、ヴェイユ
によれば知性の自由な行使を証し、人為的な整合性の欠如こそが、と
きとしてテクストの真正性の保証なのだから。大別して断章は執筆年順
に配置してあるが、場合により内容上のまとまりを優先した。



未読の文献

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 「シモーヌ・ヴェーユ伝」

ジャック・カボー著 山崎庸一郎・中条忍 訳 みすず書房


本書は、シモーヌ・ヴェーユの思想の独自性にたいする深い理解と、
綿密な資料蒐集と、卓越した洞察力にもとづき、ありうべき唯一のか
たちにおいて、彼女の全体像を浮き彫りにすることをめざした労作で
あり、彼女に共感をもって接近しようとするあらゆる読者が繙かねば
ならぬ必読の文献である。わたしは、本書を手がかりとし、また、なか
んずく彼女の作品自体を通じて、多くの読者が、現代におけるひとり
の希有の女性の魂に参入し、しばしば誤解を生む表層的理解を越え
て、その輝きを受けることを心からねがっている。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
     「シモーヌ・ヴェーユ最後の日々」 

ジャック・カボー著 山崎庸一郎訳 みすず書房


この死をまえにした最後の時期、彼女の言辞に如実にうかがわれ
るように、彼女の知的自我の習慣的メカニスムは、若干の逸脱とも
呼ぶべきものを伴いながら、ときには解決不可能な神学的問題をめ
ぐる非現実的な雰囲気のなかで、いぜんとして運動していたかも知れ
ない。だがその反面で、彼女が実践した「愛の狂気」は、衰えてゆく
肉体のなかで自我の発言を徐々に封じてゆき、彼女の心情は意識
せずして神に満たされていなかったとだれに断言しうるであろうか。
真に内的な劇は立ち入る権利はないという意見も原著者ははっきり
表明しているが、われわれは本書のなかに、以上の線に沿った解釈
の方向をうかがうことができるし、この方向は、ヴェーユの包括的理
解にも重要な因子となりうるものと考えられる。この点は、貴重な新
資料と提出とならんで、本書の忘れてはならぬ価値であろう。
(本書 訳者あとがき より引用)


 
   「シモーヌ・ヴェイユ ひかりを手にいれた女性」

ガブリエッラ・フィオーリ著 福井美津子訳 平凡社


本書はシモーヌ・ヴェイユ研究ではない。彼女への熱中である。
シモーヌ・ヴェイユは研究の対象とはなりえない。研究の対象となる
には、彼女はあまりにもいきいきと永遠の若さを保ち、強烈であるか
らだ。わたしたちは彼女を分析することはできない。分類も比較もで
きない。彼女は触媒のはたらきをする力であり、わたしたちの時代
に待ち受けている苦境を切り抜ける手段である。彼女はわたしたち
にさまざまな本質的な質問を提起させながらわたしたちの人生を横
切る。エネルギーの流れである。それらの質問のうちでもっとも重要
なのは「わたしの人生の意味とは何だろう?」という質問である。わた
したちはこれに答えようとこころみることも、質問から身をかわすこと
もできる。わたしたちは彼女の著作を捜し出し、読み、再読し、それら
を通り抜け、ともにたたかい、それらが突きつける恐るべき要求を受
け入れるかもしれない。あるいは宗教的信仰についてのことばがあま
りにも強烈ならば、それらを斥けることもできよう。いずれにせよ、わ
たしたちはこの出会いから無傷で出てくることはできない。わたしたち
が生きている工業文明の迷路をひらき、新しい見解を備えた知性に
よって迷路にふたたび生命をあたえるのは、彼女の女性としての
豊饒の愛であり、強烈なエロスである。
(本書より引用)

 
 「シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話」

冨原眞弓 著 青土社


「シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話」と題したこの本のなかでわたしが
試みたのは、ヴェイユの寓話の手法をそれぞれの具体的な脈絡の
なかで解き明かすことである。デカルトは「屈折光学」で精神は視覚
をつうじて物質を捉えると述べ、スピノザは数学的推論よりも確実で
包括的な直感を「第三の認識」と呼んだ。ヴェイユの「寓話の手法」
は、あきらかにアルカイックな神話的表象に訴えるプラトン以上に、
むしろこのふたりの近代人により多くを負っているのではないかとも
思う。もとより寓話といっても牧歌的なメルヘンとは無縁である。近
代的な搾取の構造である工場においても、祖国の存亡をかけて殺し
あう戦場においても、信仰の名のもとに異端者を焼き殺す聖戦にお
いても、ほんとうの主人公は資本家でも労働者でもなく、勝ちほこる
戦士でも辱められる敗者でもなく、教皇の祝福をうけるアルビジョワ
十字軍兵士でも薪の上で煙と化するカタリ派でもない。ほんとうの主
人公は人間ではなく、つかのまの勝利を貸与された人間がたしかに
掌中に収めたつもりでいる力そのものなのだ。
(本書より引用)

 
 「シモーヌ・ヴェーユ その劇的生涯」

クロード・ダルヴィ著 稲葉延子訳 春秋社


本書 あとがき より引用

ドイツ再統一、湾岸戦争、共産主義国の内部崩壊、そして凱旋する
教会から旅する教会へと大きく変貌したカトリック教会、確実に広が
るエキュメニスムと世界情熱が激動するなかで、切実な課題として
いま、シモーヌ・ヴェーユの存在がよみがえろうとしています。本書は、
そんな気運に呼応してクロード・ダルヴィの芝居を縦糸とし、アンドレ・
ヴェーユ、吉本隆明、同時代14人の言葉を横糸に、思想家シモーヌ・
ヴェーユの全体像を描く一枚のタピスリー「シモーヌ・ヴェーユ その
劇的生涯」として、新ヴェーユ入門をめざして編まれました。実兄アン
ドレ・ヴェーユの証言と吉本隆明の分析は、いうまでもなく貴重なもの
になるにちがいありません。また14人の同時代評は、ヴェーユ像の全
体をとらえるのに、できるかぎり偏りがないように留意して文章を選び
ました。しかしひとつとして同じヴェーユ像はありませんでした。その
意味からも、ヴェーユの全体像を浮かびあがらそうとする本書の試み
には意義があると自負しております。

 
   「ほんとうの考え・うその考え」
     賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって

吉本隆明著 春秋社

それだからもしある実験方さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うそ
の考え」を、敵対も憎悪も、それがもたらす殺戮も含めた人間悪なし
に(つまり科学的に)分けることができたら、というのはわたしの思想
にとっても永続的な課題のひとつにほかならない。この本に集まられ
た文章は、喋言り言葉で宮沢賢治本人はもとより、偉大な思想がどう
かんがえたかを追いつめながら、追いつめることがわたし自身の追い
つめ方の願望になっている文章を集め、それに注釈になっている文
章をつけ加えたものだ。早急に、真剣な貌をしてじぶんを一点に凝縮
しようとしたときのじぶんの表情がとてもよくあらわれているとおもって
いる。
(本書より引用)








ヴェイユの著作書




「重力と恩寵」

 田辺 保 訳 講談社文庫 



時間を捨て去ること、重力と恩寵、不幸、宇宙の意味、労働の神秘、清めるものとしての

無神論、などの39の項目に彼女の深い洞察が書かれている。なおこの本の「解題」に

は、一農夫として大地に密着した生活を送りつつ、時代の流行思想とは無縁な独自の

思索をつむぎ出した農民哲学者のティボンが愛情を込めて友情関係にあった彼女を感

動的に描き出している。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



シモーヌ・ヴェイユのそうめったにない作品を世人の目にさらすのは、わたしには

苦痛である。これまでわたしは、ほんのわずかな友人たちとだけ、彼女という人と

その思想とを知るよろこびを分かち合ってきたのだが、今日は、家族の秘密を洩

らすような堪えがたい思いを感じている。ただひとつわたしのなぐさとしているの

は、広く世に知られることによって、この清いものがけがされるのは避けられない

としても、それを越えて彼女の証言が、彼女のたましいと姉妹のように通じあうい

くつかのたましいにまでたどりついてくれるだろうと思うことである。・・・

ギュスターブ・ティボン・同著「解題」より





「神を待ちのぞむ」

 田辺 保 ・ 杉山 穀 訳 勁草書房 


 


「神を待ちのぞむ」は、シモーヌ・ヴェイユがマルセイユおよびカサブランカから、

ペラン神父にあてた手紙六通と、フランスを離れてアメリカにむかうとき、同神父

に託した五編の文章とから成り立っている。すなわち、1939年9月に第二次世界

大戦がはじまり、翌40年6月パリが陥落して、ドイツ軍が進駐してくると、ユダヤ

系の血を引く彼女はナチの粛清をのがれて、南部の非占領地帯へ移らねばな

らなかった。一時、ペタンの仮政府がおかれていたヴィシーに滞在したあと、

40年10月に、両親とともにマルセイユにたどりついたのである。マルセイユに

たどりついたのである。マルセイユで、翌年6月、ドミニコ会修道院長のジャン・

マリー・ペラン神父と出会う。シモーヌ・ヴェイユのキリスト教への接近は、この

時からはっきりと具体的な形をとりはじめる。この時期にいたるまでの具体的

な形をとりはじめる。この時期にいたるまでの彼女の宗教的な体験について

は、本書におさめられたペラン神父あての手紙、とくに「精神的自叙伝」という

題がつけられた42年5月15日付の第四の手紙にくわしく述べられている。この

手紙は、いわば彼女の霊的遍歴の記録であり、工場生活における「不幸」の

発見、スペイン内乱参加においての挫折感を経て、次第にキリスト教的な運

命の受容の態度にいたる過程がよくうかがわれる。ポルトガルの小さな漁村

の夜、キリスト教を「奴隷の宗教」であると直感する場面、アシジの礼拝堂

思わずひざまずいて祈るところ、ソレム修道院での完成された宗教的勤行に

参加して深い感激を味わうあたりなど、とくに印象に残る描写である。こうして

ペラン神父の導きのもとに、キリスト教的な求道を進めて行くのであるが、1941

年の夏には、アルデーシュ県サン・マルセルに、ペラン神父の紹介で、百姓哲

学者として知られたギュスターヴ・ティボンをたずね、農家で労働をしたいとい

う希望をのべる。そして、一ヶ月間、毎日、近隣の農家の女たちにまじっては

げしい畑仕事に従事するのである。最初、ティボンのところに滞在していたと

き、夕方、仕事がすむと、石のベンチにすわって、ティボンにギリシャ語を教

え、ティボンからは、十字架の聖ヨハネの著作などを借りて読んだ。(ギリシャ

語のテキストとして、「主の祈り」をえらび、仕事の最中にも原語でそれを暗誦

したと言う。本書中の「主の祈りについて」という一文は、こと時の瞑想に独自

な注釈をほどこしたものである。)ほどなく、彼女は渡米の手続きのためにマ

ルセイユへ呼びもどされ、ふたたびペランペラン神父の指導をうけるが、神父

がしきりに洗礼を受けてカトリック教会へ正式に所属するようにすすめたにも

かかわらず、彼女はついに最後までこれを拒み、1942年5月17日マルセイユ

を出発、途中カサブランカの収容所で半月ばかりを抑留されたのち、6月末

ニューヨークへ到達する。この間の彼女の心境、受洗をついに承諾せず、

最後まで「教会の入口」にとどまった彼女の内面的理由は、ペラン神父あて

の手紙にくわしく述べられている。これらの手紙は、シモーヌ・ヴェイユの教

会観、キリスト教に対する見方を知る上に非常に興味深い、貴重な資料で

あると言えよう。彼女が、この世の機構としての「教会」を忌避したのは、も

ちろんすべての「社会的なもの」「党派」として存在する諸機関のもつ独善

性、排他性を見ぬいたのと同じ動機に出ているのであろうが、(「重力と恩

寵」の中の言葉を借りれば、いわゆるこの「太った動物」)、ひろくギリシャ

哲学やヒンヅーの宗教のうちにもキリスト教的な真理の投影を見ずには

いられなかった、とらわれない開かれた心のためであろう。こういう彼女

の態度は、単に諸宗教の教義に類似したものを求めて、一種の普遍的な

総合を目ざそうとするシンクレティズムとも見られようが、もともと基本的に

はキリスト教的な深い運命の感覚、世界意識から出発して、その原形ない

しアナロジーを諸民族のたどりついた古典的英知のうちに求めて行ったも

のと解すべきであろう。こういうところから、往々シモーヌ・ヴェイユの宗教

的体験が「異端」ときめつけられたり(たとえば、「二十世紀文学とキリスト

教」の著者シャルル・メレル師)、一たん書いた初版の序文を撤回したペラ

ン神父の早計な誤解も生まれてきたのである。しかし現在では、教会自身

もシモーヌ・ヴェイユの望んだように「変化して」いるのであり、当のペラン

神父の序文を付して、刊行されたダニエルウ師らの共著「シモーヌ・ヴェイ

ユの疑問への応答」(1964年、オービエ版)によれば、彼女の提起したさま

ざまな問題について、その真理契機を十分に尊重しつつ、教会の教義の

内容の「カトリック」なひろい展望のうちにできるだけ包容して行こうとする

寛容な努力が見られるようである。この書物の中には、シモーヌ・ヴェイユ

によって、「超自然性」の確かさを教えられ、キリスト教信仰を見出した一

女性の感謝の告白までが含められている。本書「訳者あとがき」より





「根をもつこと」

 山崎庸一郎 訳 春秋社 



「根づくということは、おそらく人間の魂のもっとも重要な要求であると同時に、

もっとも無視されている要求である。」という言葉からこの書は始まる。戦後

の社会をどのように構築してゆかねばならぬのか人間の精神的な渇きを根

底に置きながらヴェイユの鋭い考察が始まる名著。第二次世界対戦中、自

由フランス政府、すなわち「闘うフランス国民委員会」(ロンドンにあった)の

フランス活動部門に配属される。ここで彼女はフランス潜入を希望したが

容れられず、解放後のフランスの未来についての立案を命じられる。そして

その報告書が「根をもつこと」だが寝食も忘れて書き続け、その半年後、フラ

ンスで闘っている同胞の食料事情を思い、食物を拒否し、「飢餓および肺結

核による心筋縮退から生じた心臓衰弱」で八月二十四日永眠。享年34歳。



「この書物は,政治家たちがほとんど読むことのない、そしてまた、政治家たちの

大部分には理解されることも、その適用法を知られることもないあの序論という

部門において、政治学に属している。このような書物は、同時代の国政の運営

に影響を与えることはない。すでに政界に乗り出して、政治という市場の隠語に

引っ込みがつかぬほど縛られている男女にとって、この種の書物が現れるのは

つねに遅すぎるのだ。本書は、余暇が失われてしまわぬうちに、思考能力が政

界場裡の生活や国会のなかで破壊されぬうちに、青年たちによって研究される

べき書物の一つである。われわれとしては、このような書物の効果が、別の世代

の精神的態度に判然と現れるであろうことをねがうほかはない。」・・・

T.S.エリオット





  「超自然的認識」 

田辺 保 訳 勁草書房



古代諸民族の伝承や各国の神話、民話の比較研究、聖書の章句についての

独自の釈義、ところどころにはさみこまれた、比類のない、個性のひらめきを

放つ鋭く深い省察のちりばめられた本書の、やはり中心は、超自然的真理

の、こういうきわめて厳正な科学的研究という面に求められるべきでははな

いだろうか。その生涯を通じて、ひたすら現実の底にかいくぐり、そのもっとも

奥深い、なまのリアリティに触れようとこころざしてきたのが、シモーヌ・ヴェイ

ユの霊的歩みであったとしたら、この現実を組み上げている必然的諸関係の

均衡をできるかぎり知性の光によってとらえつくそうとし、断片的ながらともか

くもその成果を言語表現によって記録しようと試みたのが、晩年のこれらの

ノートの神髄であったといえよう。表面にあらわれた、すさまじくもきびしい彼

女の生きざまのまったく背面に、ここに記されたような霊的経験が熟していた

と知ることは、わたしたちの魂にも抑えきれぬ深甚の激動をもたらさずにはお

かないのである。この純粋な、つきつめた生き方は、内側において、現実を

把握するこの眼識と、痛烈なばかりの祈りに支えられていとなまれていたの

である。ダヴィ女史が、「魂を底からくつがえすような祈り」と呼び、その言葉

のもつ力を、ほんのわずかの間だけでももし信じられるとしたら、「恐怖にとら

われずにいられない」と、いみじくも評した、あのおそろしくも、感動的な祈り

は、ノートの第五冊めの中に見出される。「神にむかって叫ぶ。父よ、キリス

トの御名によって、このことをわたしにゆるしてください・・・」この祈りの文章

を読むとき、わたしたちにおそいかからずにいない震撼は、そのまま、「ロンド

ン論集」の中のあの「愛の狂気」にかんする一条にみなぎっていた戦慄感に

も通じる。「愛の狂気、それがひとりの人間をとらえるとき、それは人間の行

動と思考の様式を完全に変化させる。愛の狂気は、神的な狂気と同種のも

のである」 日常的次元に生きるわたしたちの目を引きさくたぐいの、シモーヌ

・ヴェイユの在り方に対して、またきわめて独創的で、奇抜で、人々の意表を

つくその思想に面して、ともすると一般の反応は、そんなことをしてなににな

るのかという疑問であり、常識や分別では到底割り切れない、実在の裂け

目の前にいきなり連れ出されたふうな戸惑いである。しかし、シモーヌ・ヴェ

イユのような人たちにおいては、「飢餓が器官の機能をこわしてしまうのと

同じ程度に、魂の自然な均衡をうちこわすある欲求がかれらの内部にあっ

た」ことは確かであり、かれらは、「気が狂っていた」ともいいきってしまうこ

ともできよう。弱い人間のうちに神が根をおろすならば、どういうことが起こ

るだろうか。ダヴィ女史はたしか、土の鉢に植えこまれたかしの実が、鉢を

くだいてしまうキェルケゴールの例話を引いていた。今もなお、わたしたちを

打ちのめす、シモーヌ・ヴェイユの経験の本質とは、こういうものである。既

に、聖パウロも、「わたしは気が狂ったようになっていう」といったように、これ

こそは、「神の愚か(狂気)」なのである。すべての者にうち捨てられ、あらし

の荒野をさまようリヤ王のそばにさいごまでつき従った、あの阿保の道化

は、主人公が悲惨と孤独の境におちいり、劇的状況がひときわ深刻の度を

加えてくるとき、だれからも聞かれなくてもいよいよ真実の叫びを放つという

ことを、彼女自身も書いていた。わたしたちのまわりに、目には見えぬ暗い

とばりが重くたれこめてきつつあるとの予感が切実なこの日頃、シモーヌ・

ヴェイユの言葉がますます非常な現実感をともなってひびいてくるのに、わ

たしたちは耳をふさぐことができるだろうか。・・・・本書「訳者あとがき」より







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