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「ルイス島のチェス駒」
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ことはありません。盤はイタリアのアッシジへ巡礼に行っ たとき、道端のお店のショーウィンドウに飾られていたもの で、盤の色彩や重厚感に魅せられ購入したものです。ただ リュックに入れ日本に持ち帰ったのですが、盤や駒が割れ てしまいました。一度は捨ててしまおうかと思ったほどの損 傷を受けてしまいましたが、なんとか修復したものがこれで す。今の私にとって思い出が刻まれた最も大事なチェス盤 です。駒は骨製(何の骨かはわかりません)で、第二次世界 大戦の終戦時に売られていたものと聞いています。それぞ れ別々に購入したものですが、私にとっては駒と盤が見事 に調和しています。またこの駒は、アビラの聖テレジアが昇 天した10月4日という日に偶然届けられたもので、私にとっ ては貴重なものです。画像をクリックすると大きく表示され ます。 この局面の棋譜はこちら |
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見ると全く違うものである。勿論土台は「ルイス島のチェス 駒」なのだが、何故このように変化させたのか、また素材・ 製作年など不詳である。ただこのチェス盤と駒の造りは 素晴らしく、上で紹介したチェスと同じく大切にしている。 画像をクリックすると大きく表示されます。 |


このページの一番最初の写真は「ルイス島のチェス」です。とても魅力ある駒
で、ハリー・ポッターの映画でも登場してきます。「白夜のチェス戦争」ジョージ・
スタイナー著及びチェスの根源・歴史を研究発表した「チェス」増川宏一著より
ルイス島に関する記述を紹介します。
「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著より引用。「ひとたび足がかりを
つかむと、チェスは隆盛をきわめる。16世紀の初頭には、ヨーロッパの旅行客
がアイスランド人のゲーム熱にふれていた。ハンザの商人で旅行家のゴーリ
ース・ペールゼは、1561年に上梓されたアイスランド紀行で、裕福なアイス
ランド人になるほど子供や召使いに家をまかせきりにして、ながい冬の闇にと
ざされた週日をチェスのほかなにもせず寝てばかりいる、と報告した。それは、
われわれの知るところではとりわけ、フィスク教授が300年後にチェスの道具
とチェス関係の蔵書を寄贈することになる北極圏の小島、グリムジャーの実情
であった。1600年よりまえにまとめあげた「アイスランドにて」のなかで、ノル
ウェイのペーデル・クラウソン・フライス師は耐久競技に言及しているが、それ
こそ「いずれかの闘士の勝利で決着がつくまで、ときとして数週間を・・・毎日
指して・・・つぎこむ」アイスランドの棋士のねばり強さであり、わざなのだ。戦闘
意欲は教会をまきこむ。17世紀のなかばに生きた牧師のステファン・オラーブ
ソンは、チェス狂ならだれしも邪悪な心の奥底から応唱するであろう、ひとくだ
りの呪詛をのこしている。「わがかけし呪・・・ステイニの手勢が山と斃(たお)れ
ることを。わが神呪が彼王をまどわし、危難がその手駒の二つ三つをいちどきに
襲うことを。老いしもの(ガムラ=クィーンをさす)が生命をおとすことを、雑兵ども
が盤上ますますへることを、そして、彼王がいっさいのメイトに詰みとられること
を」 デンマーク王室につかわされた英国大使のサー・ロバート・モールズワー
スは、アイスランドのチェスの優秀さと普及ぶりにおどろいて、1694年にしるし
た。「もの好きに詮索させるだけのことがあるのは」 彼はこう問いかける。
「かくも考えぬかれた面倒なゲームが、どのようにしてこんな北のはてにわた
り、これほど広く手がけられるまでになったかだ」 名だかい海豹(あざらし)の
牙のチェス駒、というとヘブリディーズのルーイス島ウィーグ教区で1831年に
出土したものだが、それを大英博物館なりエジンバラの国立古代博物館でつく
づくみるにつけ、この疑問は心をみだしてやまない。とある地下の貯蔵庫に海水
が流れこみ、ずっしりした78のものいわぬ小立像を、磨耗にも威厳ある風貌と
ともに、あらわにしたのだ。好古学者で古文書学者のサー・フレデリック・マドン
は、1年後に発表された論文において、これらの駒の出所をアイスランドに帰着
させた。1200年ごろに彫られ、贈答品か獲物として北の海をわたって、ヘブリ
ディーズ諸島にもちかえられたというのであった。われわれに確かなところはわ
からないが、マドンはおそらく正しいのだろう。このゲームとアイスランドの風土
との親密な関係は、根ぶかいようである。レイキャビークを数マイルもはなれる
と、路面は均した溶岩の小道にかわり、ものすごい静寂・・・チェスのばあいとお
なじように張りつめ、ときには威嚇する沈黙・・・があたりをつつむ。光と闇が、
盤上さながらにアイスランドの1年をわけあう。牙はチェス駒の彫刻にもっとも適
当な有機物であり、棋士の目と指先がもとめる、おさえた光沢とかたいへこみを
もつ。アイスランドの歴史と古の猛威と位置上のおもおもしさが、このゲームには
ふさわしい。
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「チェス」増川宏一著より以下引用。「ルイスの駒は1831年にスコットランド
北西のヘブリディーズ諸島のなかの一つのルイス島で偶然発見されたので、
発見地の地名により「ルイスの駒」と名付けられた。制作年代は1200年頃と
推定され、本来は四組の駒であったのか8個の王と8個の女王の駒があり、
全部で78個という大量の駒であった。このうち11個はエジンバラのスコット
ランド考古博物館に、67個は大英博物館に展示されている。一群の駒はい
ずれも海象(せいうち)の牙で作られ、どの駒も表情豊かな彫りが特徴である。
王の駒は玉座に坐り、膝の上に横たえた剣を両手で持っている。大臣とみな
される駒は長い上衣を着け、右手を右頬にあて左手は右に伸ばして右肘を
支えている。僧正の駒はカソリックの司祭冠をかぶり、右手に笏杖を左手に
聖書を持っている。騎士は髭面で左手にキリスト教の象徴である十字架を描
いた楯を持ち、鞍の飾りや馬のたてがみも細かく刻まれている。歩兵だけは
人物像でなく、楯や角のある立方体で表されている。これらの駒も製作者の
名前は不明である。ルイスの駒は発見されると、ただちにその精巧な美しさ
はヨーロッパ中に知られるようになった。たとえば、H・F・マスマンの「ドイツに
おける中世の駒の歴史」(1839)に図示して紹介されている。このなかで兜
の形、紋章、手の組み方、駒に彫られた文様などが詳しく分析されている。
「ルイスの駒」は宮殿の遺構や寺院の廃墟から発掘されたのでなく、城塞や
修道院の秘宝として伝世されたものでもなかった。ルイス島の海岸から袋詰
めで発見された。それゆえ発掘当初から様々な憶測がなされた。バイキング
の遊戯具という風説も流れたが、ルイス島は海上交易の中継地として古くか
ら利用されていたので、当時の危険の多い貿易に従事していた「商人が砂丘
に隠した」(講談社版“世界の博物館・大英博物館”)という見解もみられる。
文献上の記録や由来を裏付ける資料もなく、それだからこそ様々な考察が
なされている。研究者達は、スコットランドで発見されたとはいえ、「ルイスの
駒」は北欧で作られたと推定している。この駒の発見により一世紀以上も前
の1715年に、ノルウェーのトロンドハイム近くのムンクホルムで、「ルイスの
駒」と極似した駒が発見され、現在コペンハーゲン国立博物館に所蔵されて
いることを知ったからである。ムンクホルムの駒はわずかに損傷しているも
のの様式も「ルイスの駒」と同じで、特に玉座の背後にあるケルト文様は
完全に一致している。コペンハーゲン国立博物館は15世紀のオランダ王室
のコレクションも所蔵しているが、このなかにも「ルイスの駒」と同じ型の駒
が含まれている。しかし、これらの駒は「ルイスの駒」のような劇的な発見と
は異なり、全く報道されなかったので、ごく少数のチェス研究者以外には知
られていなかった。近年のコペンハーゲン所蔵の駒を調査する過程で確認
されたのは、「ルイスの駒のグループ」といえる一連の駒と、これらを製作し
た工房が北欧に存在していたという事実である。同時代のロシア北方から
出土した駒に比べると、いかに北欧で優れた職人が活動していたかが明瞭
である。」
