「グレツキ・悲歌のシンフォニー(交響曲)」

(交響曲第3番 作品36)

デイヴィッド・ジンマン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ

ドーン・アップショウ(ソプラノ)


アウシュヴィッツにて演奏されるグレツキ作曲「悲歌のシンフォニー(交響曲)」



悲しさを湛えながらも、深い祈りへと心を導いてゆく稀にみる傑作。

(K.K)








第1楽章 レント ソステヌート・トランキッロ・マ・カンタービレ

「私の愛しい選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合いたまえ・・・」


第2楽章 レント・エ・ラルゴ トランキリッシモ

「お母さま、どうか泣かないでください・・・」


第3楽章 レント・カンタービレ・センプリーチェ

「私の愛しい息子はどこへ行ってしまったの?・・・」


 
 


わたしの愛しい息子はどこへ行ってしまったの?

きっと蜂起のときに 悪い敵に殺されたのでしょう


人でなしども 後生だから教えて

どうしてわたしの 息子を殺したの


もう決してわたしは 息子に助けてもらうことはできない

たとえどんなに涙を流して この老いた目を泣きつぶしても


たとえわたしの苦い涙から もう一つのオドラ川ができたとしても

それでもわたしの息子は 生き返りはしない。


息子はどこかで墓に眠っている

でもわたしには、どこだかわからない

いたるところで 人に聞いてまわっても


かわいそうな息子は、どこかの穴の中で 横たわっているのかもしれない

暖炉のわきの自分の寝床で 寝ることもできたはずなのに


神の小鳥たち、どうか息子のために さえずってあげて

母親が息子を 見つけられないでいるのだから


神の花よ、あたり一面に 咲いてください

せめて息子が楽しく 眠れるように


オポーレ地方の民謡 沼野充義訳 「グレツキ・悲歌のシンフォニー」パンフレットより


 


オシュウェンツィム、と言っても、すぐにわかる人はほとんどいないだろう。ポーランドの

南西部、シレシア炭鉱地帯の広がるカトヴィーツェ州の小さな町の名前である。だが、

そのドイツ名はヒロシマとともに第二次世界大戦の悲惨な歴史を象徴する場所として

語りつがれてきた。これはナチの強制収容所があったアウシュヴィッツのポーランド名

なのである。


1933年12月6日生まれの作曲家ヘンリク・ミコワイ・グレツキは、望むと望まざるにかか

わらず、ポーランドの苦難とともに生きてきた。彼の故郷であるリプニク近郊のチェルニ

ツァも、また、数十年にわたって家族と暮らしてきた州都カトヴィーツェも、オシュウェン

ツィムからそう遠くないところにある。戦後10年というと、ポーランド人やユダヤ人の大

虐殺の記憶がまだ生々しい頃だったが、それでもポーランドに雪解けの時期がやってき

た。1956年に<ワルシャワの秋>音楽祭が始まったことから考えると、おそらく文化状

況に限ってみれば、他の東欧諸国よりはるかに自由だったのだろう。この音楽祭は西側

へ開け放たれた数少ない窓口のひとつとして、東西の前衛音楽が交流するのを可能に

した。グレツキも新たな時代への期待を込めて“1959”という副題を付けた《交響曲第一

番》をその年の<ワルシャワの秋>音楽祭に出品している。だが、ご存知のとおり、民主

化が一直線に進んだわけではない。独裁政権のもとでの閉塞状態、たび重なる戒厳令、

希望のない暮らし・・・60年代になると、頭に描いていた未来が幻であったことを思い知ら

される。グレツキはその落胆を1972年の《交響曲第ニ番》に投影する。コペルニクス500

年記念の委嘱作だったこの第二番では、ソプラノとバリトン、そして合唱がポーランドの

天文学者コペルニクスの言葉と詩篇をテキストで歌う。そのころからグレツキの作品は

テンポが緩やかになり、すっきりと明快な形態をとるようになった。音楽の流れはどこま

でも重々しく、抑圧への抵抗を響かせる一方、ほんの束の間のエクスタシーからは自由

への激しい希求が伝わってくる。



彼はくしくもペンデレツキと同じ歳である。しかし、ふたりの生き方はまるで違う。《広島の

犠牲者に捧げる哀歌》(1959−60)、そして《ルカ受難曲》(63−66)の巻き起こしたセン

セーションで60年代から世界的な名声を獲得していた同胞に対して、グレツキは80年代

にいたるまで国外ではまったく知られていなかった。そもそも作曲を志したのもかなり遅

くなってからで、はじめは小学校の教員となったが、音楽への思いにかられて22歳のと

きにカトヴィーツェの国立音楽学校に入学。ボレスラフ・シャベルスキに師事した。在学

中の1958年にシレジア・フィルハーモニーのコンサートで初演された《5つの楽器と弦楽

四重奏のための協奏曲》が成功をおさめたのをきっかけに、1958年の<ワルシャワの

秋>音楽祭の委嘱新作として《墓碑名》が演奏されることになり、グレツキは国内の批

批家から若手の筆頭と評される。卒業後はパリへ行くが、ほどなく帰国。だが、それから

はヘンデレツキのように衆目を集めることもなく、地道に創作を続けた。68年以降は母

校で教鞭を取り、75年からは同校の校長を務めたが、健康上の理由もあって79年にこ

のポストを退く。その後も外国には出かけず、ひっそりと曲を書いていたのである。


グレツキの音楽がようやく80年代の半ばになって、にわかに人びとの関心をひきつける

ようになったのは、あまり派手な活動をしていなかった彼のそれまでの生き方に負うとこ

ろが少なくない。だが、もっと大きな理由はいわゆる「前衛の時代」の終焉にあったと言

えよう。過去との絆を絶って、つぎつぎに新しいものを求め続けてきた第一線の作曲家

たちが、技法の開発に行き詰ってふと立ち止まったとき、やむにやまれぬ言葉を内に秘

めている音楽だけが衝撃をもたらした。シュニトケやデニソフ、グバイドゥーリナ、ペルト・・

グレツキもしかりである。

(1992年10月 白石美雪 「グレツキ・悲歌のシンフォニー」パンフレットより引用)



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