「アッシジのフランチェスコ ひとりの人間の生涯」

キアーラ・フルゴーニ著 三森のぞみ訳 白水社 より引用






序文 ジャック・ル・ゴフ (本書より引用)

フランチェスコは、彼が生きた十三世紀に数多くの男女を魅了した。そして、彼の生涯に

再び光の当てられた十九世紀末から今日まで、その魅力は変わらないどころかますます

大きなものとなっている。数年前からこの聖人の伝記が少なからず出版され、そのうちの

いくつかは優れた作品といえる。しかしながら、キアーラ・フルゴーニの手になる本書を読

むと、私たちはフランチェスコのことを全く知らなかったわけではないにせよ、ひどく誤解し

ていたことに気づかされる。奇跡の人の生涯を記したこの小さな書物そのものが、ひとつ

の奇跡のようなものだ。奇跡とは何よりもまず、ひとりの人間をその生きた時代のただ中

に置き、ほつれなく編み上げられた情報と知識、類いまれな歴史感覚をもって蘇らせたこ

と、しかもそれと同時に、この人物を私たちの同時代人としても見いだしたことである。

(中略)

知っての通り、フランチェスコの本来の姿は、しばしば互いに相いれないと思われる無数

の証言の背後に隠されている。伝統的に言われてきた、フランチェスコ史料の問題であ

る。これらの史料はさまざまなフランチェスコ像を生み出した。彼をほとんど異端者のよう

に示す史料もあるし、また、他の史料では---それらは、トンマーゾ・ダ・チェラーノの正伝

に続いた諸資料や、先行する全伝記が破棄(幸いにも完遂されなかった)された後に聖

ボナヴェントゥーラが編んだ超越的な正伝のことだが---フランチェスコは飼い慣らされ、

和らげられ、教会にとって無害なものとされた。こうしたあらゆるフランチェスコ像に対し

て、フルゴーニは唯一のフランチェスコ像を作り上げた。けれどもそれは、他のさまざまな

フランチェスコ像を合計したものでも平均化したものでもない。そうではなく、比類なく生

き生きとした、まさに本書のタイトルにあるところの、真の「人間」を作り出すため、(矛盾

や不確かな点、またはこの他の可能性があるのではないかといった点についての検討

を避けて通ることなしに)すべての確かな情報を統合したものなのである。


フルゴーニは人間フランチェスコに留意し続け、彼の態度についてさまざまな側面から光

をあてた。彼はその態度を通して、聖人の伝統的なモデルのみならず、敬虔な信徒のモ

デルまでも破壊したのである。フランチェスコは喜びにあふれた人間(つまり、喜びにあふ

れた聖人)であった。彼は、仲間にその喜びを伝え、(筆者が書くように)「貧しさを愛して

はいても、そのために喜びを失うことは決してなかった」。フランチェスコの顔は、伝統的

な修道精神によって賞賛された悲しくてまじめな顔からは、まるでかけ離れていた。伝統

的な修道士は「嘆く者」であった。修道士は泣き、托鉢修道士は笑う。(中略) この小さ

な書物がもたらした最後の奇跡とは、真の人間であり、かつ真の聖人であったフランチェ

スコという人物を、いかにもフランチェスコ風に単純明快な筆致で描き出したことだ。それ

によってフルゴーニは、教室での記憶に乏しい「若い人々」、そしてアッシジ巡礼ともフラ

ンチェスコに関する学術会議とも無縁な大人たちに語りかけている。本書を読みながら、

私はよくある質問を自分に投げかけてみた。「無人島に、フランチェスコに関する優れた

著作すべてのうちから一冊だけ持っていくことができるとしたら、何を選ぶか」。私は答え

た。「キアーラ・フルゴーニの本だ。なぜなら、単純にして魅力的なひとりの人間を、すば

らしい形で生き返らせてくれたのだから」。


 


目次

序文 ジャック・ル・ゴフ

アッシジのフランチェスコ・・・・ひとりの人間の生涯

第一章 幼年期と青年期

第二章 決別

第三章 これこそ私の望みだ! これこそ私の求めていることだ!

第四章 仲間、会則、キアーラ

第五章 ダミエッタとグレッチョ

第六章 聖痕、それは真の発見か、聖なる物語か、それとも大胆な発明なのか

第七章 別れ


アッシジのフランチェスコ年譜

参考文献

フランチェスコ史料について

訳者あとがき





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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