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ヨルゲンセン著 永野藤夫訳 講談社 |
著者のヨルゲンセン(1866-1956)は日本にも知られたデンマークの詩人で敬虔な
プロテスタントの家庭に生まれた。コペンハーゲン大学時代から自然主義の影響を
受けたが、やがてニーチェやフランスの象徴派に傾いた。ルーヴァンやパリで美学を
講じたが、第一次世界大戦でドイツのために追放された。魂の平和を求めたヨルゲ
ンセンは、いかにも北欧の詩人らしく、アンデルセンのようにイタリアへ遊び、清貧
に平和と救いを見いだした聖フランシスコの遺跡を巡礼し、その生涯を研究した。
荒廃した西欧の人々の魂に呼びかけ、心の糧として多くの人々に読まれた<巡礼
の書>中央出版社は、この間の事情をみごとにえがいている。やがて、当時の西
欧のベストセラーの名をほしいままにした<アシジの聖フランシスコ>が出た。ヨル
ゲンセンはこうしてカトリックに改宗し、心の安らぎと西欧一のカトリック詩人として
の名声とをえ、魂のふるさとアシジに居を定めた。いずれも七十年ほど昔のものだ
が、<詩集><シエナの聖女カタリナ><ドン・ボスコ><自伝>などは、詩人の
たどった道程を物語っている。古い文字どおりのベストセラーをあえて再び紹介す
るには、それ相当の理由がある。まず、「名作に時代なし」だからである。この本は
「詩人の書いた聖人伝」であるばかりでなく、プロテスタントのサバティエ師の聖
フランシスコ研究への批判の書でもあり、良心的な北欧の学問の人にふさわしい
研究書でもある。つまり、この本はみごとな文学的研究書なのである。・・・
同著・あとがきより
現在この文献は平凡社ライブラリーより再販されている。
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アベル・ボナール著 大塚幸男訳 白水社 |
わたしは数ある文献の中から、なにゆえにこの書を選んだか?それはこの書が聖伝を
厳密に尊重しつつ、アッシージの聖者の人間とドラマとを深い洞察をもって描き出し、
その聖性の比類ない特質と美しさとを詩的に伝えているからである。しかも二百数十項
という小さい本でありながら、その緊密度が希有の高さに達しているからである。さき
に挙げたような、フランチェスコ文献の主なるものはすでに日本語に移されているが、
それはほとんど宗門の人々の手に成るものであった。けだし純粋な作家の手に成る
ものの邦訳は、この拙訳をもって嚆矢とするのではあるまいか。それだけ本書は一
般の読者にも近づきやすいであろうと思う。とはいえ、わたくしはわたくし自身のため
に、わたくし自身の喜びのために、この書の翻訳を志した。フロベールが常にいって
いたように、われわれは何よりもまず自分自身のために仕事をしなければならない
のである。この書がわたくしに絶大な感激と法悦とをもたらしてくれたように、心ある
読者の胸に何らかの感動を伝えることができれば、訳者として望外の喜びである。
<知識階級も国家も、大がかりで馬鹿げた金銭経済に足もとを奪われている。この
世がこれほど俗世だったことはなく、これほど愛情と善意に乏しかったこともない。>
これは誰の言葉であるか? ニーチェの言葉である。ビスマルク時代のドイツ、国運
隆々たるかに見え、政治的、経済的に急速に発展しつつあった時代のドイツに対
る批判である。この批判を現代の日本にあてはめ、今日の時代の挙世とうとうた
る風潮にフランチェスコを対置するのは極めて容易なことである。しかし、わたくし
はこの聖者に単なる今日的意義を求めて事足れりとする者ではない。それは至っ
てこの偉大な人を引き下げ、小さくすることにすぎないからである。それにこの人
は他を責めたり、理屈をこねたりすることは決してなかった。ただ、ひたすら愛を歌
い、愛を実践したのである。<理性は語る、されど愛は歌う!>。フランチェスコ
は<この世に太陽のごとく出現した>ダンテ。<彼は深い夜の中に輝く一つの
星のように、闇を追い払う曙光のように輝いた>チェラーノ。アッシージのフランチ
ェスコは、時と所を超えて、人の世の空高く、まさに太陽や星のごとく、永遠に輝
いているのである。・・・・・・・・・・・・・・同著 「短い序曲」より
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光明社 |
「聖フランシスコの小さき花」は、アシジの聖者に関する最古の貴重な文献としてイタリア
宗教文学上の一傑作として、世界各国に翻訳され、広く人々に愛読されているが、(中略)
「小さき花」の著者がだれであるかは明らかではない。しかしもちろんフランシスコ会の一
修道者に相違あるまい。中世紀にはけんそんによる、このような無名執筆が数多くあった。
なお書かれた年代も明らかではないが、十三世紀の末か十四世紀の初め、すなわち聖フラン
シスコの帰天後八十年を経たころと推定されている。「小さき花」の内容については、ある
文学者の評に「これらの物語には楽園の芳香がただよっている」とあるが、実際敬虔素朴な
聖フランシスコならびにその弟子たちの言行は、この世のものとも思われないほど清く高く
、信仰生活のこよなきかがみと言うことができるであろう。・・・・・同著 はしがきより
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マリア・ピエラッツィ 編 岳野 慶作 訳 聖クララ会編 ドン・ボスコ社 |
アッシジの聖フランシスコと共に「清貧の花」を着飾った聖女クララの伝記。
聖フランシスコより約10年後に、同じアッシジの名門の家に生まれるが、聖フランシスコ
の生きざまに心奪われ、生家の追求を逃れ修道生活に入る。神への愛による二人の心
の結びつきは強く、聖フランシスコの精神を最も体現した人として知られる。彼女の亡骸
は700年たった今でも教会に安置され、そのからだは黒く変色しているだけで、腐ること
はない。神の恵みを真に受けた感動の伝記。・・・・・・・・・・・・・・・
聖女クララの名は、すでにアシジの聖フランシスコの名とともに、わが国においても
一般に知られている。しかし、アナトール・フランスの「聖女クララの泉」その他によっ
て、聖女の姿がゆがめられ、聖女の出家の動機や、聖フランシスコとの関係などに
ついて、あやまった考えが流布されているのは、まことに遺憾である。リナ・マリア・
ピエラッツィは、これまで発見されたもっとも確実な資料にもとずき、詩情ゆたかな
筆致をもって、聖女の清く聖なる、雄々しい生涯を物語っている。清貧を愛し、清貧
に生き、清貧のために戦い、清貧の腕に抱かれながら世をさった聖女クララは、
福音の庭に咲き出たもっとも清純な花であるとともに、物欲にとらわれがちな人類
に、つねにあらたな教訓を与えている。聖フランシスコが、心のなかで歌ったとい
われるあの美しい詩句を、私たちもまた、口ずさまないではいられない。・・・
「主よ、ほめたたえられよ、
姉妹なるクララのために。
彼女は、いと柔和謙そんにして、
気高く清らかなるゆえに。」
同著「はしがき」より
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フランシスコ会業書 |
先に紹介した「聖フランシスコの小さき花」の続編で、「聖フランシスコの聖痕について」
「兄弟ジネプロの伝記」「兄弟レオによる兄弟エジディオの伝記」「兄弟エジディオのこ
とばから」「補足された章」が収められているが、私は単純素朴なジネプロにも惹かれる
アシジと言う、イタリアの小さな町から生まれたささやかな精神運動が、幾世紀の歳月を
経て、今日全世界に広がり人々の共感を呼んでいる。今年は、この運動の創始者フラン
シスコの生誕800年を迎える。彼のメッセージは、激動する現代社会と動揺する人々の
良心に、過去のどの時代にもまして強くアピールするもののように見える。騎士とこの世
の栄誉に憧れた若きフランシスコは神の霊の呼びかけに答えて、全き回心をし、大王で
あるキリストの騎士となった。全ての人を救おうとされるキリストの愛を実行するため、彼
はキリストと全く同じように生きることを望んだ。そこから生まれた霊性には、他のそれと
ちがって難解な所は何もない。理由は、それが生活に根ざし、生活そのものであったか
ら。この内容は神と人とを愛し、貧しく謙遜に生きる、ただそれだけである。しかし、この
実行は生やさしいものではなかった。この世に生を受けた誰もが、このような生活を望
み、憧れながら成功した者といえば、数えるほどしかいない。それはエゴ(自我)との壮絶
な戦いに始まり、想像を絶する苛酷な戦いに終わる。この「小さき花」は、フランシスコと
彼の生き方に共鳴した、最初の兄弟たちの血みどろの戦譜である。「小さき花」という題
名の持つひびきは、耳にやさしくムードに溢れるが、その内容は、はげしく魂の根元を衝
く。ロマンティシズムとは、大きな困難に敢然と立ち向かうことであるとすれば、この書に
見られる個々のエピソードに登場する、小さき兄弟たちの生き方を支えていたものが、
まさにそれであろう。神と人との平和を目ざすフランシスカン運動は、自我との戦いに始
まり、それに終わる。「小さき花」は、その戦いで花開いたロマンティシズムによって編ま
れた花冠、つまりロマンの勝利を表す月桂冠とでも言えよう。同著「序にかえて」より
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レオネ、ルフィーノ、アンジェロ兄弟たちの報告記 佐藤翔子・渡辺義行 訳 小さき兄弟会監修(フランシスコ会) あかし書房 |
フランシスコは、神が創造された美しい兄弟姉妹被造物に話かける。そのようなフランシスコ
が人の心を引きつける。フランシスコのもとにやってきた貧しい人のだれにも、背負っている
ものは何でもあげようと心配っているフランシスコが、わたしたちの心を暖め、財布のひもを
緩めさせる。この兄弟は、ラ・ベルナ山での熾天使との言い表せないほどの崇高な出会い
でわたしたちを圧倒する。だれもかれも、フランシスコが非常に魅力的で非常に愛すべき人
だと言うほどである。フランシスコを、美しい、人の心を高潔にする神秘家とする人々もいる。
だが、それにもかかわらず、そこには、福音の主が、人類に絶えず教えられることを、自身と
その行いとで劇的に再現されるために、考えられないほどまでに、自らを放棄していた人、
祝福されたフランシスコの姿はないのである。仲間たちの話は、神聖な想像を描いて自己
満足している者に反省を促すものである。兄弟たちは、自分たちの聖なる師の真の姿を描
き出している。また、フランシスコ自身がそれらを言い表したと同じ動機、目的をわたしたち
に語ってくれる。兄弟たちの話すことは、どれもわたしたちにとって、目新しいものではない。
兄弟たちは、フランシスコについて書かれた物語、また、最近の物語どちらにも資料を提供
している。本書は、これを読んで、フランシスカニズムを学というよりもむしろ、フランシスコ
がどんな人であったかにもっと気づきたいと望む読者のために、仲間たちの物語にたやす
く近づけるような書き方の形を整えたものである。・・・・・・・・・・・・・・・本書より
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小説・聖フランチェスコの生涯 クリスティアン・ボバン著 中条省平訳 平凡社 |
聖フランシスコの魂の偉大さ、透明さを改めて感じさせてくれた素晴らしい
文献である。奇跡とは神から降りてくるものではなく、自らの眼に幾重にも
覆っている曇った鏡を脱ぎ捨ててゆくところに在るのではないだろうか。
聖フランシスコはこの曇った鏡を、一気に飛び越え目の前の存在そのも
のの本質に飛び込んでゆく。奇跡が彼と動植物との垣根を取り払ったの
ではなく、彼の澄んだ眼が動植物との間に横たわる神秘の次元に立った
のであろう。まさに彼の眼の視点は大地をはうような低い視点だったので
あろう。以前から感じていたこの想いを、本書は改めて再確認させてくれ
ると共に、聖フランシスコのまことに類い稀な魂の深遠さに迫ったもので
あると感じている。
わたしはお前を愛していた。愛している、愛しつづける。生命の誕生には、
肉体だけでは充分ではない。この言葉こそが必要なのだ。それは遠くから
やって来る。天上の遠い青からやって来て、生きるもののなかに入りこみ、
地下を流れる浄らかな愛の水流のように、生きるものの肉体の下を流れて
ゆく。その言葉には耳を傾けるためには、かならずしも聖書を知っている
必要はない。その言葉の息吹に活気づけられるためには、かならずしも
神を信じる必要はない。その言葉は聖書の一ページ一ページだけでは
なく、木々の葉、動物の毛、宙を舞う塵のそれぞれに染みこんでいる。
それは物質の深奥であり、最期の核であり、究極の点である。それは物
質ではなく、言葉なのだ。わたしはお前を永遠の愛で、永遠にお前に向
かう愛で、愛している---塵よ、獣よ、人間よ。この言葉は、揺りかごの上
空を漂い、母親の唇のうえで踊る前、ひとつの時代を作りあげ時代の色
と調子を決定した声を突き抜けて、道を作ってきたのだ。その声とは、
戦争と商業の言葉であり、栄光と災厄の言葉、耳の聞こえぬ者たちの
言葉だ。だが、そこを貫いて、斜めから、下から、上から、風の精霊、狂
ったざわめき、赤い血のなかの鼓動が響きわたる。わたしはお前を愛し
ている、と。お前が生まれるずっと前から、多くの時代が終わるずっとあと
まで。すべての永遠の現在のなかで、お前を愛している。そこからやって
来たのだ。アッシジのフランチェスコは。彼はそこからやって来て、深い
寝台の美女の腕のなかに帰るように、そこに帰ってゆく。(本書より)
「いと低きもの」というタイトルはフランス語のLe
Tres-Basの直訳だが、この
言葉は「神」をあらわすLe Tres-Haut(「いと高きもの」「至福者」)の反対語
として、ボバンが造語したものである。このタイトルが象徴するように、本書
のフランチェスコは一貫して、高い場所から託宣を下すことを避け、いと低
きものとして世界を見つめている。その低いまなざしは、まさに幼児のそれ
であり、フランチェスコは大人から幼児への逆の成長を遂げ、高貴な人々
から貧者のもとへと降りてゆく。それは、遥かな天上から下界を見下ろす
視線とは対極の、無心に見上げる幼児のまなざし、大地のまなざし、土の
まなざしであり、それはまた、木々のまなざし、風のまなざし、そして、ひた
すら低い場所へと流れる水のまなざしでもある。「単純なまなざしとともに、
純粋な力が帰ってくる」(「小さな祭の衣」より)。嬉々として大地と、また世
界と戯れる幼児こそ、ボバンの描くフランチェスコの特権的なイメージだ
(まさにロベルト・ロッセリーニが「神の道化師、フランチェスコ」で描きだし
たように)。幼児の戯れ、その無心の喜びが、「いと低きもの」の基調音を
なしている。それゆえ、本書のアッシジのフランチェスコの生きかたには、
禁欲や苦行の影はみじんもない。所有を否定し、家や教会への安住を
棄て、浮浪者と等しい生活を送り、乞食とおなじく物乞いしながらも、アッ
シジのフランチェスコは全身愛と歓びにひたされている。「いと低きもの」
とは、そのタイトルが連想させるものとは裏腹に、この上ない「ドルチェ・
ヴィータ(甘い生活)」の記録だといってよい。(本書・訳者あとがきより)
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永井明著 サンパウロ アルバ文庫 |
「十二世紀に、イタリアのアッシジの町に生まれ、「聖貧」と愛徳に基づいて一生を送った
聖フランシスコの精神は、混乱した現代の社会がもっとも必要とするものではないだろ
うか。本伝記の著者は、この聖フランシスコの「聖貧」と愛徳の精神を、特に日本の若い
人々に理解してもらうため、なめらかな文体で、やさしくこの伝記を記し、楽しい読み物
としている」(本書より)。本書は上に紹介したヨルゲンセン氏の「アッシジの聖フランシ
スコ」やフランスの青少年のためのスライド用の台本を参考に書かれたものであるが、
初めて聖フランシスコの生涯に触れる人を対象にしており、その文体は読みやすい。
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武田友寿著 聖母文庫 聖母の騎士社 |
アッシジの聖フランシスコを敬愛してきた日本人は数知れないだろう。何故なら「太陽の
歌」に代表される聖フランシスコの世界観は、国家主義に結びつく前の古神道の視点に
共通するものがあり、私たち日本人の原風景の記憶を呼び戻すことから来ているのかも
知れない。一方、この文献の著者はその共通性を聖フランシスコが回心する前の俗の部
分に焦点をあて、多くの文献を参照しながら深く掘り下げている。そしてそこから見えてく
るものは著者が言うように「泥中に咲いた蓮の花」の美しい姿なのである。この泥中とい
う俗性の中においても、そして聖なる後半生においても聖フランシスコの蓮の花の根っ
こには吟遊詩人と騎士道が息づいていたことを改めて気づかせてくれる良書である。
本書はカトリック新聞に連載され、アウシュヴィッツのガス室で亡くなったコルベ神父が
長崎にいた時に創った「聖母の騎士」から発行されている。
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小川国夫・文 菅井日人・写真 講談社 |
著者のとても素朴な感性から紡ぎ出される聖フランシスコへの想いには、静かな共感と
感動さえ覚えてしまう。また写真は「聖フランシスコの世界」でもその美しい映像を撮った
カトリックの写真家・菅井日人氏によるものであり、小川国夫氏の文と共にアッシジの祈
りに満ちた世界に読者をひきこむだろう。尚、この文献は1985年に刊行されたものだ
が、新たに装幀され出版されたものである。
念願であった聖フランシスコが最後にキリストの様に聖痕を受けたといわれるラ・ベルナ山
に登って行った時のことでした。空が一転にわかに暗くなり、嵐になりました。非難するため、
聖フランシスコの隠遁した岩の洞穴に入って祈ったり暗い中のローソクの明かりで撮ったり
していました。外はみぞれまじりの大雨で仕方なく聖堂に、また行ってみました。正面祭壇の
一段も二段も高いところに美しい聖母像だけが見えました。聖母像の箱の中に明かりがつい
ていたので、何とか三脚なしにカメラを手で固定して撮ろうとしていました。聖堂内はほとん
ど真暗な状態でしたので私は聖母像だけに集中していました。と突然、私が向っている暗
がりの左側の小窓に黄金色の光が当たっていました。その明るい光は背後から照らして
聖フランシスコの像を浮かび上がらせたのです。びっくりしました。それまで聖母像だけで
聖フランシスコの像に全く気付いてませんでしたから、考えると、あるべき太陽は嵐の中で
すし、私のうしろにあるはずがなくきっと急に太陽がでて、光線が岩に反射しているのでしょ
う。聖堂内は私一人で、もう音一つなく神秘的な空気がただよっていました。ここに神様が
いると感じて、鳥肌が体中に立ちました。その後ひざまずき祈りながら、聖母マリアと聖フ
ランシスコを二つ一緒に撮ることに成功しました。聖堂の外に出ると、思った通り、今まで
の嵐はうそのように静まり、雨水の流れた岩山に一本の大きな木の十字架が立ってい
て、雲一つなく澄みきった青空に、美しい夕日が輝いていました。まるでその夕日は沈み
ゆく前に、もう一度すべての光を惜しみなく注ぐかのように、キリストに最も近く生きた、
聖フランシスコを讃えているかのように見え、先程の洞穴での祈りと、不思議な聖堂で
の祈りの答えだったのかも知れません。その夜、再びみぞれが降りさまざまの感動と
ともに頭はさえわたり、一晩中、寒さの中で眠ることすら惜しかったのでした。神は何と
偉大で恵み深いのでしょうか。神の姿にもっとも似せて造られた人間とは、一体何もの
なのでしょうか。人間の生きる価値として一番大切なものは何なのでしょうか。アッシジ
の聖フランシスコのように、富も名誉も財産も捨て、貧しくとびきり豊かな心を持って生
きることができないものでしょうか。「天に宝をつみなさい、あなたの宝のあるところに、
あなたの心もあるのだから。そこでは虫もくわないし、また盗人もいない」。言葉という
のは言うにやすく実行にむずかしいことですが、写真という小さな仕事を一つ一つ大切
にやりとげます。どうか聖フランシスコの精神が私の中で生きつづけ、平和の道具とし
てあなたに使っていただけるなら、こんなに幸せなことはありません。
(菅井日人・・・・本書「心のふる里」より引用)
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カトリック映画演劇連盟出版部 フランシスコ会(日本管区本部)協力 |
1980年にアメリカで発行された漫画で辿る聖フランシスコの物語を翻訳したもの
ですが、子どもでも読むことが出来、なおかつ格調高さを感じるものです。