
「いと低きもの」
小説・聖フランチェスコの生涯
クリスティアン・ボバン著 中条省平訳 平凡社より
聖フランシスコの魂の偉大さ、透明さを改めて感じ
させてくれた素晴らしい文献である。奇跡とは神から
降りてくるものではなく、自らの眼に幾重にも覆って
いる曇った鏡を脱ぎ捨ててゆくところに在るのでは
ないだろうか。聖フランシスコはこの曇った鏡を、一
気に飛び越え目の前の存在そのものの本質に飛び
込んでゆく。奇跡が彼と動植物との垣根を取り払っ
たのではなく、彼の澄んだ眼が動植物との間に横た
わる神秘の次元に立ったのであろう。まさに彼の眼
の視点は大地をはうような低い視点だったのであろ
う。以前から感じていたこの想いを、本書は改めて
再確認させてくれると共に、聖フランシスコのまこと
に類い稀な魂の深遠さに迫ったものであると感じて
いる。
(K.K)
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来る。アッシジのフランチェスコ、木にして人、花にして人、風にして人、土にして人 であるフランチェスコのもとへ。鳥たちは聖書に最初に住みついたものであり、それ は人間があらわれるはるか以前、神が目覚めた直後の出来事であった。聖書の最 初のページを開くと、まもなく神の放った炎のなかで幾千もの鳥の鳴き騒ぐ声が、 また、愛の恐慌のなかで幾千もの羽ばたきの音が聞こえる。聖書のはじまりは「創 世記」である。「創世記」を読むことは、神の胸郭にいること、神の横隔膜にじかに 接することだ。ひとつ呼吸の潮が高まるたびに、世界がもち上がり、世界の各層全 体があらわになり、まず水が、そして大地が、ついで石と植物が、さらに動物が、そ して、息の最後には、人間があらわれる---この驚くべきもの、みずからの創造物 を前にした神の無知という神秘。というのも、すべてを創りだす神は自分の創りだ したものについてなにも知らないからだ。動物を創った神は動物の名さえ知らな い。「神ヤハウェは土を捏ねて、さらにすべての野生の獣と空の鳥を創りあげ、そ れを人間のもとに連れてゆき、人間がそれらをなんと呼ぶかを見た。獣と鳥のひ とつひとつに名前がなければならず、人間がその名前をあたえるはずだった」。 神のもとで暮らしていたとき、獣は名前など必要とはしなかった。このはじまりの 沈黙のいくぶんかが、いまの獣にも保たれている。彼らは、一部分を神から受け 継ぎ、一部分を人間から受け継ぎ、その二つのあいだで、おずおずと迷ってい る。アッシジのフランチェスコが鳥たちに言葉をかけながら還ってゆくのは、この はじまりに向かってなのだ。人間は獣に名前をあたえることで、獣を自分の歴史 のなかに、自分の生と死の災禍のなかに閉じこめてしまった。フランチェスコは、 獣たちに神の話をすることによって、彼らをその宿命から解放し、開かれた鳥小 屋から鳥が逃げるように、すべてがそこから解きはなたれた絶対へと獣たちを送 りかえすのだ。彼は燕たちに話しかけ、狼たちと語りあう。石との集いに顔を出し、 木々との討論会を開催する。全宇宙と話しあうのだ。なぜなら、すべての存在は 愛のなかに言葉の力をもっているから、並外れた愛のなかではすべての存在に 意味があるから。(本書より引用)
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肉体だけでは充分ではない。この言葉こそが必要なのだ。それは遠くから やって来る。天上の遠い青からやって来て、生きるもののなかに入りこみ、 地下を流れる浄らかな愛の水流のように、生きるものの肉体の下を流れて ゆく。その言葉には耳を傾けるためには、かならずしも聖書を知っている 必要はない。その言葉の息吹に活気づけられるためには、かならずしも 神を信じる必要はない。その言葉は聖書の一ページ一ページだけでは なく、木々の葉、動物の毛、宙を舞う塵のそれぞれに染みこんでいる。 それは物質の深奥であり、最期の核であり、究極の点である。それは物 質ではなく、言葉なのだ。わたしはお前を永遠の愛で、永遠にお前に向 かう愛で、愛している---塵よ、獣よ、人間よ。この言葉は、揺りかごの上 空を漂い、母親の唇のうえで踊る前、ひとつの時代を作りあげ時代の色 と調子を決定した声を突き抜けて、道を作ってきたのだ。その声とは、 戦争と商業の言葉であり、栄光と災厄の言葉、耳の聞こえぬ者たちの 言葉だ。だが、そこを貫いて、斜めから、下から、上から、風の精霊、狂 ったざわめき、赤い血のなかの鼓動が響きわたる。わたしはお前を愛し ている、と。お前が生まれるずっと前から、多くの時代が終わるずっとあと まで。すべての永遠の現在のなかで、お前を愛している。そこからやって 来たのだ。アッシジのフランチェスコは。彼はそこからやって来て、深い 寝台の美女の腕のなかに帰るように、そこに帰ってゆく。(本書より)
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言葉は「神」をあらわすLe Tres-Haut(「いと高きもの」「至福者」)の反対語 として、ボバンが造語したものである。このタイトルが象徴するように、本書 のフランチェスコは一貫して、高い場所から託宣を下すことを避け、いと低 きものとして世界を見つめている。その低いまなざしは、まさに幼児のそれ であり、フランチェスコは大人から幼児への逆の成長を遂げ、高貴な人々 から貧者のもとへと降りてゆく。それは、遥かな天上から下界を見下ろす 視線とは対極の、無心に見上げる幼児のまなざし、大地のまなざし、土の まなざしであり、それはまた、木々のまなざし、風のまなざし、そして、ひた すら低い場所へと流れる水のまなざしでもある。「単純なまなざしとともに、 純粋な力が帰ってくる」(「小さな祭の衣」より)。嬉々として大地と、また世 界と戯れる幼児こそ、ボバンの描くフランチェスコの特権的なイメージだ (まさにロベルト・ロッセリーニが「神の道化師、フランチェスコ」で描きだし たように)。幼児の戯れ、その無心の喜びが、「いと低きもの」の基調音を なしている。それゆえ、本書のアッシジのフランチェスコの生きかたには、 禁欲や苦行の影はみじんもない。所有を否定し、家や教会への安住を 棄て、浮浪者と等しい生活を送り、乞食とおなじく物乞いしながらも、アッ シジのフランチェスコは全身愛と歓びにひたされている。「いと低きもの」 とは、そのタイトルが連想させるものとは裏腹に、この上ない「ドルチェ・ ヴィータ(甘い生活)」の記録だといってよい。(本書・訳者あとがきより)
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