
聖ボナヴェントゥラによる「アシジの聖フランシスコ大伝記」
聖フランシスコ会監修 宮沢邦子訳
あかし書房
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本書・はじめに フランシスコ会子 戸田三千雄 より
おいて「レヂェンダ」という語は、「殉教者及び証聖者の生涯や功績を示すために、聖人たちの 祝祭日に“読まれるべき書物”という意味で用いられたものである。この語はその内容が歴史 的事実に基づくものではないというニュアンスは、全く持っていなかった」といいます。「レヂェン ダ」は修道院の聖堂や食堂で朗読されるという目的を持っていました。フランシスコが亡くなって から40年間にすでに多くの伝記が書かれていましたが、聖者の祝日が全教会で祝われるよう になって、典礼用の「レヂェンダ」を作らねばならなくなっていました。そこで1260年ナルボンヌ で開かれた「小さき兄弟会」の総集会は、「すでに書かれた伝記に基づいてフランシスコの良い 伝記が一つ書かれることを命じる」と決議しました。そしてこの伝記作製の仕事を、当時の総長 ボナヴェンゥラ自身の手に委託したのです。こうして出来上がったのがこの「レヂェンダ・マーヨ ル」で普通「大伝記」と呼ばれているものです。この他にレヂェンダ・ミーノルがありますが、これ は「大伝記」の簡約本で、各時課の祈りに合わせて七日分の朗読用に63もの小区分がほど こされています。そして普通には「小伝記」といわれています。「大伝記」は、1263年に認可さ れ、さらに1266年には決定的な唯一の伝記と定められ、これ以外に書かれた伝記は一切 焼却されるように命令されました。このような処置がなぜとられたかは、今の私たちには理解 に苦しむところです。正しく理解するためには、当時兄弟たちの置かれていた事情や背景を 知らなくてはなりません。当時フランシスコについて、また小さき兄弟会については、論争が 起こっていて、兄弟会は分裂の危機にありました。フランシスコの教えに固くとどまろうとする 「厳格派」と、聖者の制定した会則の緩和を求める「緩和派」との間の対立がしだいに大きく なっていたのです。本当のフランシスコの姿と生き方をさまざまな伝記で知ることは、むつか しくなっていました。また論争点になっていた清貧の問題についても、一口で要約できるもの でもありませんでした。さらにそのころ、小さな兄弟会と外部の間に、つまり教区司祭や大学 の聖職者との間にも対立が生じて、兄弟会は存亡の危機にも立たされていたのです。兄弟 たちの理想としていた清貧は悪として非難され、托鉢修道会の司祭には告解をきいたり、 説教をする権利がないといわれ、フランシスコの聖痕も否定されて、聖者の教えや遺言は ひどく誤解されていました。このように内でも外でも危機に直面していたのです。それで「す でに書かれた伝記に基づいて良いフランシスコの伝記が一つ書かれる」必要があったので した。大伝記は主として、チェラノの第一、第二伝記、それにスピラのユリアヌスの伝記に 基づいて書かれています。正しくは「基づいて」というよりも、文字通り写して、といった方が いいくらい写した部分が非常に多いのです。もちろんボナヴェントゥラが新しく書き加えたも のもあります。フランシスコの生涯の出来事をはっきり確かめるために、聖者の生まれた所 や生活した所、また終焉の地を訪れたり、さらに生存中の兄弟たち、すなわちエジディオ、 レオ、マッセオ、ルフィーノ等にこまかく尋ねてから書き記した、とボナヴェントゥラは言って います通り、文中の約55ヶ所はその調査の結果によるものです。内容は正確で信用に価 すると、本人が主張するくらいの自信作になっています。大伝記の特徴は、フランシスコの 生涯の出来事を時間的な順序で並べたというよりも、むしろフランシスコの精神をよくつか み、それを一つ一つの出来事を通して語らせるという方法をとったことにあります。あるい は、他の伝記からとったものを、霊性神学の一つの視点から組み合わせ、解釈していると も言えます。それからボナヴェントゥラの描くフランシスコは、平和のために働く姿をとって いることも、多きな特長です。これは、総集会の折に内部の闘争や大学の聖職者との対 立を鎮静するという課題が、総長としてボナヴェントゥラに負わされていたことにもよるの でしょう。大伝記の中には、平和のために働くフランシスコの行いや、説教において平和 を訴える姿、和解の道具となっている様子等が、生き生きと描かれています。ここには 聖者について兄弟たちが争うことも、止めさせるという意図があったと思われます。これ はまた兄弟間の一致の実現を、具体的事柄の同一性ということではなく、父なる神をフ ランシスコのように愛するという理想の下に追求した結果でもあります。しかし外部から の攻撃に対しては、別の方法をとらねばなりませんでした。すなわち、フランシスコの理 想としたことや、生き方について、これを不可能とし、兄弟会のことを認めようとはしない 学界の聖職者たちに対してボナヴェントゥラは、聖者が実際にしたことを、神さえも聖痕 というしるしをもって認めていると主張します。聖痕についての記述が続くのも、また現 代人が抵抗を感じる奇跡について長々と書くのも、この目的のためでしたでしょう。ボナ ヴェントゥラは、チェラノのトマスの書いたものに基づいて「大伝記」を書きながらも、ある 部分は押えて省略しています。このことを非難する人もいます。また地方からは、ボナヴェ ェントゥラは歴史家というよりも、政治家だったとも言われています。これは当時の論争や 対立を悪化させないため、鎮静化のためという配慮から出たことを指して言うのでしょう。
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