
「アッシジの聖堂壁画よ、よみがえれ」
石鍋真澄著 小学館より

聖フランチェスコの恵み
(本書 はじめに より引用)
記憶の中で、アッシジはいつでも色褪せることがない。スバシオ山の中腹に広がる、あの白っぽい
肌色の町を遠くから初めて見たときのことは、誰だって忘れないだろう。静寂が支配する真昼の町
を歩いたり、夕暮れにかすむウンブリアの平野をテラスから眺めわたしたりするだけで、不思議な
幸福感がこみ上げてくる。そこには、長い間かかって培われた自然と人間との調和があり、それゆ
えに、言いしれぬ心の安らぎを感じるのである。アッシジが特別なのは、そうした恵みのすべてが聖
フランチェスコという一人の聖人のおかげだと、自然に、そして率直に納得することができる点にほ
かならない。聖フランチェスコはカトリックのみならず、キリスト教界全体で、最も親しまれ最も敬愛
されている聖人である。たとえば、ネオレアリズモ巨匠ロッセリーニの、まるでドキュメンタリーのよ
うな映画「神の道化師、フランチェスコ」、ロマンティックなゼッフィレッリのヒット作「ブラザー・サン
シスター・ムーン」、そして女性監督の作品として話題になったリリアーナ・カヴァーニの「フランチェ
スコ」と、聖フランチェスコの生涯は、私の知る限り、三つの作品で映画化されている。聖人の生涯
のエピソードを集めた「聖フランチェスコの小さき花」や、「太陽の讃歌」で知られる聖フランチェスコ
は、カトリックの聖人というより、人類の師として親しまれているというべきだろう。だが、こうした聖
フランチェスコ像は十九世紀後半に「再発見」されたものだ。清貧を理想とする聖フランチェスコの
修道会は、1209年に十二人で出発したが、またたく間に大きくなり、聖人が世を去った1226年
には5000人ものメンバーを数えるまでになっていた。こうなると当然、戒律をめぐって意見の対立
が生じ、穏和派と厳格派が形成され、反目しあうようになる。こうした対立を融和させて、教団の
基礎を固めるために、総会長となったボナヴェントゥーラは、聖フランチェスコの正伝「レゲンダ・
マイヨール(大伝記)」を著わしたのだった。一方、修道士トンマーゾ・ダ・チェラーノが書いた聖人
の生涯を最もよく伝える二冊の伝記と「奇跡の書」は禁書とされてしまう。これは1226年、聖フラ
ンチェスコが世を去ってから40年後のことである。こうして、いわば封印されてしまった聖フラン
チェスコの真の姿を取り戻そうとする努力が、ようやく十九世紀になって開始された。こうした潮流
の頂点に立つのは、フランス人のプロテスタント牧師ポール・サバティエが書いた「アッシジの聖
フランチェスコの生涯」(1894年)だった。綿密な史料研究に基づくこの伝記は、熱狂的に受け
入れられた。たとえば、感動したトルストイはすぐロシア語に翻訳するように求めている。実際、
まもなく各国語に翻訳され、版を重ねていった。その結果、サバティエはノーベル文学賞の候補
にさえなったのである。この伝記は十九世紀の実証的歴史研究とロマン主義的中世讃美の賜物
であり、背景には、リベラルで漠然とした反教会的態度があるといわれる。実際、サバティエは
聖フランチェスコを、教会によって封じ込められた宗教改革者として描いたのだ。この伝記の
イタリア語訳が最も遅かったのは、教会から批判があったためであるサバティエのこうした聖
フランチェスコ像が歴史的に正しいかどうかは問題だが、彼の仕事が二〇世紀の聖フランチェ
スコ像の出発点になったことは、広く認められている。その伝記の最後で、サバティエはサン・
フランチェスコ聖堂にも言及している。それによれば、聖フランチェスコの死後二年もたたない
1228年七月十六日に、教皇グレゴリウス九世が自ら列聖式を行うためにアッシジを訪れた。
そしてその翌日、「聖痕を受けた者」に捧げられる聖堂の礎石を置いたのである。こうして「教皇
の示唆と総会長エリアの監督のもとに建てられたすばらしい聖堂」を訪れると、「名状しがたい
メランコリー」に襲われるだろう、とサバティエは書いている。なぜなら教皇に承認された、フラン
チェスコ会士たちのマグナ・カルタともいうべき「第一戒律」が、「兄弟たちは家も、修道院も、
その他の何物も所有してはならず、われわれはこの世で外国人か巡礼者のようでなけらばな
らない」と教えていたからだ。同様にポルツィウンコラやサン・ダミアーノ、カルチェリといった聖
フランチェスコゆかりの地を訪ねても、「聖フランチェスコの理想と、彼の栄光を讃美しようとす
る教皇のそれとを隔てる、深い傷を理解するだろう」。サバティエの伝記はこう結ばれている。
たしかに、聖フランチェスコの清貧の理想と立派な聖堂や壁画装飾は、相いれないかもしれ
ない。けれども、聖人の教えは新しい信仰のかたちをもたらし、それによって宗教のみなら
ず、イタリアの社会や文化に大きな影響を与えた。だからわれわれには、聖地アッシジに建
つ端正なサン・フランチェスコ聖堂は、聖フランチェスコと彼がもたらした新しい信仰と文化の
記念碑のように見えるのである。実際、1270年代から1320年頃までの50年間にこの聖
堂で行なわれた壁画装飾は、チマブーエからロレンツェッティにいたる、イタリア美術の偉大
な革新のモニュメントである。聖フランチェスコの宗教精神は、人間的共感をもって聖なるも
のに接するという新鮮な製作の姿勢を生み、それはまず宗教文学の分野で、続いて美術の
分野で実を結んでいった。とくに聖地アッシジで、フィレンツェ、シエナ、ローマ、そして地元の
画家たちが展開した美術活動は、その後のイタリア絵画を方向づけたといっても過言では
ない。そしてそれらの作品は、いまも多くの人々に感動を与えている。町も聖堂も中世当時
とほとんど変わらない環境のなかで、名画の数々を鑑賞できるのは大きな喜びである。こう
した喜びもまた、聖フランチェスコの恵みの一つなのである。
