「森の思想が人類を救う」

梅原猛著 小学館ライブラリー より引用









戦後日本においても、近代文明の原理である自然征服を、無条件に善とする思想はあまねく

広がり、その著しく発展した工業生産の代償として、自然破壊が日本のいたるところで進んで

いる。もちろん、日本における工業汚染は、世界一厳しい規制によって、ある程度解決された

わけですが、しかし金儲け一辺倒にこり固まった日本人は、あるいはゴルフ場の拡大に、ある

いはリゾート施設の建設に夢中であり、私などのような反時代的な学者の意見を聞くこともな

く、ますます自然破壊は進んでいる。また日本経済の繁栄は木材や紙の浪費をもたらし、熱

帯雨林の破壊に一役買っていることも否定できません。私は、二十一世紀における人類の

最大の問題は、この環境破壊にあると思っているのです。酸性雨、オゾン層の破壊、地球の

砂漠化、熱帯雨林の破壊、森の死滅、どれをとってみても、人類の生存を脅かす現象ばかり

です。こういう現象が無限に複合化して、まさに人類社会の基盤そのものを覆そうとしている

のです。この危機から人類を救い出すためには、当面の対策も必要ですが、まずその哲学を

変えねばなりません。近代文明を指導したデカルトやベーコンの考え方は、人間と自然を峻別

し、自然を客観的に研究する自然科学の知識によって、自然を征服する技術をもとうとする

思想です。かくて、自然科学は飛躍的に発展し、人類は、自然について三百年前にもってい

た知識とは、比較できないほどの精密な知識を持つようになった。そしてそれとともに自然

征服の技術は飛躍的に進み、人間は自然から、それまでの人間にはとうてい考えられない

ような豊かな富を生産することができるようになった。そしてその代償に、地球環境の破棄と

いう、まさに人間は、自分の生きている土台を根本から崩壊させるような危機に直面したわ

けです。この危機は人類全体が直面する危機であり、かつて人類社会が直面したどんな

危機よりも、ずっと深い危機ではないかと私には思われるのです。かつての危機というもの

は、人類の一つの文明の崩壊の危機でありましたが、今やそれは人類の文明全体の崩壊

の危機なのです。しかもこの危機の淵源するところはじつに古く、たんなる産業革命以後

あるいは近代以後ではありません。人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して

いらい、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。つまり人類は森を食い潰して文明

をつくってきたのです。そして一つの文明が崩壊したあとに、つぎにまだ森の残る他の地域

において文明を興し、そしてまた森を食い潰してきた。農耕牧畜社会の段階では、森の破壊

は局部的でありましたが、工業文明ができていらい、文明は飛躍的に豊かな富を生産し、

その反面、森を急激な速度で破壊してきました。日本において比較的、森が残されたの

は、農業文明や工業文明の輸入が遅れたことにもよりますが、このまま放っておいたら、

国土の六七パーセントの森は、たちまちにして消失するかもしれません。まさに森の破壊

は、農耕牧畜文明が成立していらいの、とくに近代工業文明が成立していらいの人類の

人類の運命でありますが、この運命を現在という時点において大きく転換しなければ、

人類は一直線に地獄への道をたどることは火を見るより明らかです。われわれは文明の

原理を、人間の自然支配を善とする思想から、人間と自然との共存をはかる思想に転換

しなければなりません。私は、もう一度人類は、この狩猟採集時代の世界観にたちもどり、

個人ではなく種を中心にした考え方、つまり永遠の生と死の循環という思想をとりもどさな

ければならないと思うのです。こういう思想は、古代ギリシャの思想に、あるいはヒンズー

の思想に、あるいは中国の老荘思想にも見られるものですが、それはおそらく狩猟採集

時代における人類の共通の原理の残存であると思われます。このような原理が日本文化

の伝統のなかにもある点に、私は今後の日本文化の可能性を認めたいと思っているの

です。ギリシア思想のなかにも、ケルト思想のなかにも、あるいはアメリカ・インディアンの

思想のなかにも、あるいはアボリジニの思想のなかにも見いだすことができるかもしれ

せん。私は、近代という時代がその合理的な自然征服を貫徹するために、排除していっ

た多くの思想に注目する必要があると思うのです。







最近、私はカナダへ行きました。カナダでは大きな木の根っこだけがあちこちで見られます。

これは、百年以上前に、白人によって伐られた木の伐り株です。インディアンが何千年も大事

にしてきた自然が、またたくまに破壊されました。いま、カナダ政府は自分たちのやり方が間違

っていたことを認めています。そしてすべてのものが自然のなかで循環していくという、インディ

アンの思想に学ぼうとしています。そして、森の文明の考え方の基本は“生命はひとつだ”とい

うことです。じつはこのことは高度に発達した自然科学によって証明されています。現代の生

科学は、最後にDNAを発見したわけですが、DNAは人間にも動物にも植物にも共通にあること

がわかった。これは生命はひとつだということのなによりの証明です。旧石器時代いらいの

考え方が科学的に実証されたのです。人間は生死をくり返す。そして固体は死ぬけれども、

遺伝子は永遠に生き残るのです。それが人間の永生なのです。人間の永生を遺伝子科学が

証明したわけですね。そういうふうに考えると、植物や動物の命を尊敬して天地自然を尊敬す

る、そしてその天地自然や動植物と調和して生きていく、共生する方法をわれわれは考えな

ければならないのです。それが人類の知恵である、というふうに思わざるをえない。人間は

動物や植物を殺さなくては生きていけない面があります。木は信仰の対象だけではなくて

人間に最も役に立つものである。だから木を伐るにせよ、動物の命を奪うにせよ、われわれ

と同じ命をもった木を、そして動物を殺すわけですから、その木や動物の霊を手厚くあの世

に送らなければならないのです。霊をあの世に返さなければならないのです。そしてまた木や

動物たちにこの世に帰ってきてもらわなければならない。私は、こういう宗教を今こそとりもど

さなければならないと考えるのです。だから、巨木の問題にしても、珍しいものがここにある

から、人を呼ぼうではないかということではなくて、日本人のあるいは人類の考え方の根底

にあるものにまで、思いをはせなければならない。そして、人間が生きていくということはどう

いうことなのか、それは植物も動物もみな同じ命であって、すべてのものはあの世とこの世

を循環しつつ、永遠に共生しているのだということを認識しなければならないと思います。

そういう思想が人類に浸透したときに、人類は生き残る可能性が出てくるのだと思います。

そうでなければ、私は人類の将来はそんなにながくないと思う。巨木の問題は文明の根底に

かんする問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、二十一世紀を正視する街づくりで

なければならないと私は思います。


1990年10月佐賀県武雄市で開催された“巨木の里”シンポジウム”(武雄市・椎葉村共催)

における基調講演の記録をもとに作成されたものです。・・・本書より







「ナバホへの旅 たましいの風景」河合隼雄著 朝日新聞社より引用

わが国の現状について考える前に、西洋の近代において、どのようにして「個の

確立」ということが生じてきたかを、人間のつながりという点に関連づけながら考え

てみよう。西洋においても、既に述べてきたような人間関係も相当に重視されてき

たであろう。しかし、近代において「個人主義」が生まれてくる要因として、キリスト

教の果たした役割は見逃すことはできない。キリスト教においては、神と人とのつ

ながりがまず優先する。したがって、血のつながりは第一義ではない。血がつな

がっているかということよりも、人は神とのつながり、同一の神につながるものとし

ての隣人の関係が大切になる。人間が感じるつながりとして、もっとも自然と思わ

れる、母子、血のつながりよりも唯一の神とのつながりを重視するキリスト教は、

「自然」と人間の切断を前提としている。このような宗教が砂漠地帯で生まれてきた

ことは示唆的である。文化人類学者、谷泰の「“聖書” 世界の構成論理 性、ヴィ

クティム、受難伝承」(岩波書店 1984年)は、このようなキリスト教の本質を明ら

かにするものとして注目すべき書物である。ただ、この点については既にあちこち

に書いてきたので詳述は避けるが、簡単にエッセンスを述べると、アフリカの砂漠

地帯で遊牧を主として生きてゆくには、いかに自然と共存するかなどということで

はなく、いかに自然を支配し操作してゆくかを考えることが必須のことだ、という

ことである。遊牧する羊を、群れとして人間の思うままに動かさないと、草の少な

い土地でそれを養ってゆけない。それに失敗すると、人間は滅亡してしまう。多く

の羊をひとつの群れとして、一人の牧者が自分の意のままに動かす構図は、唯

一の神がその意志のままに世界を動かすという構図と重なる。かくて、極めて強力

な一神教の世界が出現するが、そこに、キリストという神のイメージが生まれてき

たところに、キリスト教をユダヤ教やイスラム教とは異なる宗教として発展させる

ことになった。つまり、神と人との関係において、人がだんだんと強力になってゆ

く道が開かれたのである。唯一の神の強い支配のなかから、長い間かかって、

ヨーロッパではだんだんと人間が力をもち、神に頼らず人間の力によっていろい

ろなことが可能になることがわかってくる。この結果、人間の一人ひとりを重視す

る「個人主義」が生まれてくるが、そのときに、その個人個人は神とつながる存在

であることを忘れてはならない。神とつながっている限り、人と人とは神を介してつ

ながるし、「神の目」を意識する限り、その「個人主義」は「利己主義」になることは

ない。そしてまた、孤独になることもない。このことは、個人主義に生きようとする

日本人にとって、考慮すべき課題として決して忘れてはならないことである。現代

の欧米の知識人と話し合っていると、彼らの個人主義の背後にキリスト教があ

る、などということを意識していない人が多いことがわかる。それは当たり前すぎ

て意識することもないのだろう。それに、彼らは今ではキリスト教の力をそれほど

強いと思っていないし、かつてほど信じているわけではない。それよりも、個人と

個人の関係は、お互いの信義や契約によって結ばれている、と考えている。つま

り、ここでは一体感的感情を土台にするのではなく、個人と個人が言語によって、

その関係を確かめ、それを維持する努力を払うのである。それは、まさに個と個と

の関係であり、一体となったりはしない。そこでは言語のもつ役割が重要になっ

てくるし、運命など無関係であり、人間の意志が重んじられる。このようにして、

現代人はつながっていると思っているが、背後にある宗教性を失うにつれ、それ

は危ういものとなり、容易にキレたり、弱い者にとっては関係を維持するのが難し

くなる。そして潜在的に作用してたキリスト教と切れてしまうと、その人は容易に

「キレる」人間になる。アメリカにおける凶悪犯罪やアルコール依存症が日本より

はるかに多いことは、そのことのひとつの表れであると思う。







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