Tse-ka ("Douglas Spruce Leaf"), cacique of San Juan

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


インディアンの視点を持って描かれた文献










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森の思想が人類を救う センス・オブ・ワンダー
森を守る文明・支配する文明  宗教の自殺 さまよえる日本人の魂 
沖縄文化論 忘れられた日本  生きがいについて 
蛇と十字架 オーロラの彼方へ
ラブ・ストーリー 森に還る日
最後の楽園 祈りの木
奄美 神々とともに暮らす島  「太陽の哲学」を求めて
 エジプト文明から人類の未来を考える 
あなたが世界を変える日
12歳の少女が環境サミットで語った
伝説のスピーチ
日本の深層
縄文・蝦夷文化を探る
木が人になり、人が木になる。
アニミズムと今日
 
ネイティブ・タイム(未読)
先住民の目で見た母なる島々の歴史
リグ・ヴェーダの智慧(未読)
アニミズムの深化のために
世界樹木神話(未読) 縄文の音(未読)
アニミズムという希望(未読)







既読の文献
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この文献の詳細ページへ 「森の思想が人類を救う」

梅原猛著 小学館ライブラリー


「梅原日本学」から飛翔してアイヌ・沖縄の底に流れる縄文文化の姿は、アメリカ・
インディアンの世界観と共有していた。哲学者である著者は日本人のルーツを明かし、
このような世界観の上に日本独自の仏教文化が花開く過程を探り出す。また近代
文明を指導したデカルトやベーコンによる人間が自然を峻別・征服する哲学を今
変えてゆくことが求められていると強調する。また国家主義に結びつく前の日本古来
の神道、人間のみならず生命全てに霊が宿っていると語る大乗仏教、そしてアイヌ、
インディアン、アボリジニーの世界観の再構築こそ危機に瀕した現代文明を救うこと
になると結論する。「隠された十字架」など独自の視点で歴史の常識を覆してきた
著者が語る未来に向けての言葉は哲学者としての使命によるものであり、著者の
思索の結晶でもある。また著者編集による「アイヌ学の夜明け」という文献も同じ
視点で展開されているものである。アマゾンに生きる先住民族インディオは言う。
「木が世界を支えている」と。


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「蛇と十字架」 

東西の風土と宗教

 安田喜憲著 人文書院


おのおの異なる風土とそこに生まれる宗教や世界観は決して断ち切ることが出来
ないほど密接に絡み合っている。しかしこの風土とて不変のものではないことは、
縄文時代のそれと現代日本を比較しても容易に想像することが出来るかも知れない。
殺す道具さえ持たず、一部の富者をつくりだすことを避けてきた縄文時代の神は森
に生きる蛇だった。大地の女神のシンボルであった蛇、これはインディアン・ホピ族の
儀式にも見られるが、青銅器時代までの古代地中海世界においても神聖なものとして
捉えられていた。この大地の豊穣の女神のシンボルに闘いを挑んだのが、当時の
一神教のキリスト教であった。三位一体の互いを与え尽くす神が一神教と呼べるかに
ついては私自身疑問が残るが、当時のキリスト教は多神教やアニミズムの世界観と
対立する形で生まれてきた。そしてエデンの園の物語に見られる、ずる賢い悪魔の
存在としての蛇を攻撃する。つまり人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然
に対しての畏敬を失い、現代文明のような地球規模の環境破壊がひきおこされてきた
のだろう。勿論この大地の女神のシンボルを殺すことは人間自らの欲望を満たすため
に好都合だった事実があげられるかも知れない。快適な便利な生活のために、森や
他の動植物が犠牲になることに何の抵抗も感じなくなかった人間が肥大化してきたこと。
この背景に一神教としてのキリスト教の存在が本書では展開されるが、まだ私自身の
中では解決されていない問題でもある。しかし本書は東洋の象徴としての蛇と西洋の
象徴としての十字架を取り上げた比較文明論であり、現代文明に縄文時代から生き
残ってきたアニミズムの必要性を強く訴えかける力作である。

キリスト教とアニミズムやシャーマニズムへの私の想いはこちらに書いています。

「アメリカ・インディアンへの私の想い」

「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」

「インディアンの源流であるアニミズムとシャーマニズム」

アメリカ大陸を発見し、人類に新たな世界観をもたらしたコロンブスの発見は、
その一面において、インディヘナの文明を侵略し破壊するという血塗られた歴史の
側面を持っていたのである。だがそのことを長い間、じつに長い間、インディヘナの
人々は声を大にして訴えることができなかった。それほどまでに近代ヨーロッパ文明
は強大であった。そして、日本人もまた経済力を手にした今、ようやく本音で西洋文明
と対等に語り合うことができるようになったのである。もちろん、アニミズム・ルネッサ
ンスの考え方が、ヨーロッパの人々やアメリカの人々に早急に理解されるとはとうてい
思われない。むしろより強烈な反発と衝突を生む可能性さえある。しかし、その本音
の部分での語り合いと対話なくして、どうして真の国際化が可能なのであろうか。共存
の前には真の対話が必要なのである。欧米の諸国が気に入るように取り繕うことは
やさしい。明治以降、日本はその道を選択してきた。だがもう取り繕うのはたくさんだ。
むしろ本音の部分にこそ、人類の未来を切り開きうる可能性と創造性があるのでは
ないだろうか。本音を語ることが「ナショナリズム」だという批判は、欧米人の傲慢だろ
う。本音を語ることなくして、真の共存の時代は生まれてこない。日本の経済成長を
支えた平等主義、あるいは物づくりへの情熱、それらは多分に日本人が伝統的に
持っていたアニミズムの精神に発しているところが大きい。さらにファジー理論など
未来の文明を切り開く可能性をひめたハイテクとアニミズムの精神を合体させた、
ハイテク・アニミズム文明の時代の幕開きを私は待望している。自然と人間が共存
可能な、そしてあらゆる民族とあらゆる宗教が共存可能な世界の実現に向けて、
日本人が縄文時代以来一万年以上にわたって持ち続けてきたアニミズムの精神の
果たす役割は、今後ますます見直されるに違いない。「アニミズム・ルネッサンス」に
は教団も教義も必要ではない。要は一人一人の心がけの問題なのである。
(本書より引用)


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「沖縄の文化論 忘れられた日本」 

岡本太郎著 中公文庫


過酷な歴史の波に翻弄されながらも、現代のわれわれが見失った古代日本の息吹
を今日まで脈々と伝える沖縄の民俗。その根源に秘められた悲しくも美しい島民の魂を、
画家の眼と詩人の直感で見事に把えた、毎日出版文化賞受賞の名著。

この名著は1959年、敗戦後のアメリカ占領下にあった沖縄を画家・岡本太郎が半月
かけて旅し、その受けた想いを綴った文献である。生命が放つ眩しいほどの輝きとは何
だろう? そんな根源的な問いを抱きつづけてきた岡本太郎が投げかける痛烈な非難は、
日本舞踊、歌舞伎、神道、仏教など形式化・形骸化されたものに向けられ、日々の生活
の中で息づいている沖縄の宗教や踊りのそれと比較されている。真剣に命と向き合い、
そして芸術と向き合ってきた岡本太郎でしか書けない名著であり、その言葉は50年経っ
た今でも斬新であり、根源的な問いかけを私たちに投げかける。


 
 




 
この文献の詳細ページへ 「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 
梅原猛 著 佼成出版社


原日本文化への旅立ち(本書より引用)

東北人は、長いあいだ、心の中に、密かなる誇りをいだきながら、蝦夷の
後裔であることに、耐えてきた。そして自分が、アイヌと同一視されることを
頑強に拒否してきた。蝦夷は人種的概念ではなく、ただの政治的概念に
すぎない。そして、「蝦夷はアイヌではない」そういう結論は、東北人にとって
のぞましい、はなはだ願わしい結論のようであった。このような願わしい結
論にそって、東北を、古くから倭人の住む、古くから稲作農業が発展した
国と考える見解が、戦後の東北論の主流であったように思われる。それは
東北人を後進性の屈辱から救うものであったとしても、かえって東北特有の
文化の意味を見失うことになると思う。

蝦夷の子孫であることが、蝦夷の後裔であることが、なぜわるいのであろう。
アイヌと同血であり、同文化であるということを、なぜ恥としなくてはならない
のか。日本は平等の国家である。幕末に戦った二つの権力、薩長方も徳川
方も、平等に日本国民としての権利と義務をもっているのではないか。倭人
と蝦夷の対立はもっと昔のことなのである。その昔の対立が、なぜ現代まで
差別になって生き続けねばならないのか。蝦夷の後裔であること、アイヌと
同血であることを、恥とする必要はすこしもないのである。むしろ、日本の文
化は、蝦夷の文化、アイヌの文化との関係を明らかにすることによって、明ら
かになるはずである。

私のこの旅は、ほんの短い期間の旅である。芭蕉は、『奥の細道』の旅に5ヶ
月を要した。私は公務の都合で、10日しかこの旅に使うことはできなかった。
もとより、前にも何度か東北の各地を訪れたことはある。このささやかな旅で
私は、東北文化のほんのわずかしか触れることはできなかった。しかし、見方
が変われば、うわべを見ただけでも、やはりその解釈は変わってくる。このささ
やかな「紀行記」が、今後の東北論の出発点になり、今後の新しい「原日本文
化論」の基礎になることを願うものである。

 
この文献の詳細ページへ 「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」
岩田慶治 著 人文書館 第16回 南方熊楠賞 受賞

アニミズムの根本は何か。それは木にも、石にも、虫にも、鳥にも、もともと、
カミが宿っていることを認め、そういうカミでいっぱいの自然を尊重しながら生
きることだ。そうすると、木は木として宇宙の主人公になり、山は山として主人
公、ひとは誰もかれも一人ひとりが主人公になる。自分も、また、その仲間に
なって、風景が生き生きしてくる。これがアニミズムの本質なのだ。

一般に、アニミズムは未開人の宗教だと言われている。しかし、ホントはそう
じゃない。未開人だって・・・・そういう人がいたとしても・・・・何千年、何万年も
地球とともに生きて、悩んで、考え考えしてきたのだから、かれらの宗教、かれ
らの世界観を未熟だなどと言うわけにはいかない。かれらのなかにだって、た
くさんの哲学者がいたし、宗教家もいたに違いない。そういうかれらが信じてい
るカミなのだから、そのカミと出会い、そのカミの声を聞くのは、われわれの側
に委ねられた仕事なのだ。

それなのに、アニミズムのカミなんてダメだ。高木から下りてきて住民に供物を
要求したり、おどろおどろしい衣装をまとって人びとを恐怖におとしいれるのが
関の山だ。それは現世利益を旨とする民俗信仰より、もっともっと低級なものだ。
そういう声がやかましいくらいだ。

しかし、宗教と文化をとり違えては困る。アニミズムは始めから終わりまで、祈り
のなかの出来事であって、欲望の渦巻く文化のなかの出来事ではないのだ。
現代人は霊的な力、あるいは直感の力が衰えてしまったから、その結果によって
しか宗教の真偽を判定できない。その証拠を求めようとする。しかし、カミの証拠
なんて、どこにもないのだ。


(本書より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「センス・オブ・ワンダー」

「沈黙の春」の著者 最後のメッセージ

レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳 新潮社

「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれて
います。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美し
いもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもってい
るとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない”センス・オブ・ワンダー =神秘
さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は、やが
て大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかる
こと、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、変わらぬ解毒剤になる
のです。」   レイチェル・カーソン(本書より)


「沈黙の春」を執筆中にガンにおかされた彼女は、文字通り時間とのたたかいのなか
で、1962年、ついにこの本を完成させた。「沈黙の春」は、環境の汚染と破壊の実態を、
世にさきがけて告発した本で、発表当時大きな反響を引き起こし、世界中で農薬の使用
を制限する法律の制定を促すと同時に、地球環境への人々の発想を大きく変えるきっか
けとなった。この本は初版後三十五年になろうとする現在でもなお版を重ねているロング
セラーである。彼女が発した警告は、今日でもその重大さが失われていないばかりかさら
に複雑に深刻になってきている環境問題への彼女の先見性を証明している。レイチェル・
カーソンは、「沈黙の春」を書き終えたとき、自分に残された時間がそれほど長くないこと
を知っていた。そして最後の仕事として本書「センス・オブ・ワンダー」に手を加えはじめた。
この作品は、1956年、”ウーマンズ・ホーム・コンパニオン”という雑誌に「あなたの子ど
もに驚異の目をみはらせよう」と題して掲載された。彼女はそれをふくらませて単行本とし
ての出版を考えていたのである。しかし、時は待ってくれなかった。彼女は1964年4月
14日に五十六歳の生涯を閉じた。友人たちは彼女の夢を果たすべく原稿を整え、写真家
チャールス・プラットやその他の人の写真を入れて、レイチェルの死の翌年、一冊の本に
して出版したのである。(本書・「訳者あとがき」より引用)


 
 

この文献の詳細ページへ 「生きがいについて」

神谷美恵子著 みすず書房


私自身「生きがいについて」「人間をみつめて」「うつわの歌」しか読んでいませんが、
著者の鋭い洞察力と何よりも、あたたかい眼差しに深く感動させられました。この文献
には先住民やインディアンの言葉は出てきません。しかし、人は何によって癒され何に
よって生きがいを根づくのか、神谷美恵子さんの根っこは先住民の根っこに繋がって
いるのかも知れません。


神谷美恵子(1914-1979)

東京・大阪大学神経科の医者から、癩病の方が住む長島愛生園精神科勤務
(1958-72 )。医学博士。著書に「神谷美恵子著作集」全13巻 みすず書房
「精神疾患と心理学」 みすず書房がある。

(『生きがいについて』より引用)
足場をうしない、ひとり宙にもがいているつもりでも、その自分はしっかり下からうけ
とめて支えてくれたのだ。そして自然は、他人のようにいろいろいわないで、黙ってうけ
入れ、手をさしのべ、包んでくれる。みじめなまま、支離滅裂なまま、ありのままでそこ
に身を投げ出していることができる・・・・。血を流している心にとって何というやすらぎ
であろうか。何という解放であろうか。そうして、自然のなかでじっと傷の癒えるのを
待っているうちには、木立の陰から、空の星から、山の峯から声がささやいてくること
もある。自然の声は、社会の声、他人の声よりも、人間の本当の姿について深い啓示
を与えうる。なぜならば社会は人間が自分の小さい知恵で人工的につくったものである
から、人間が自然からあたえられているもろもろのよいものを歪め、損なっていることが
多い。社会をはなれて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえ
ることができるというルソーのあの主張は、根本的に正しいにちがいない。少なくとも
深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるより
も、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力・・・・それ
は彼の内にも外にもはたらいている・・・・によって癒され、新しい力を快復するのである。
このことは地上のどこにいても、人間が自然に接することができるかぎり同じであろう。
たとえレプラの島のなかでも同じことである。小さな療養社会のなかで息がつまりそうに
感じるひとも、そこからそっと抜け出て丘の頂から碧い海と広い空を眺め、草木の緑の
輝きに身を包まれるとき、傷ついた心身が次第に癒され強められるのを感じる。完全に
断ち切れられてしまったと思っていたひとびととのつながりも、自然のなかに深く沈潜す
ることによって、かえってもっと広く深くむすばれるのを発見するのである。「はじめに」
に記したひとは(原田憲雄・原田禹雄編『志樹逸馬詩集』)次のように歌って逝いた。




丘の上には

松があり 梅があり 山桃があり 桜があり

木はまだ若く 背たけも短いが

互に陰をつくり 花のかおりを分ち

アラシのときは寄りそいあって生きている



ここは瀬戸内海の小さな島

だが丘の頂きから見る空のかなたは果しなく

風は

南から 北から 東から 西から

さまざまな果実の熟れたにおい、萌えさかる新芽や

青いトゲのある木 花のことば を運んで吹いてくる



それは おおらかな混声合唱となって丘の木々にふるえ

天と地の間

すべては 光 空気 水 によって ひとつに

つながることを教える



風はあとからあとから吹いて来る

雲の日 雨の日 炎天の日がある

みんなこの中で渇き 求めているのだ

木はゆれながら考えている

やがて ここに 大きな森ができるだろう

花や果実をいっぱいみのらせ

世界中の鳥や蝶が行きかい

朝ごとににぎやかな歌声で目覚めるだろう


 


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「森を守る文明・支配する文明」 

安田喜憲著 PHP選書

森は洋の東西を問わず、人類の命脈だった。縄文以来、日本人は森を崇め
「森の文化」を継承してきた。しかし現代文明は次々と森を破壊し、ついに、地球
環境を破壊寸前までおとしめた。人類は、いつから森の神々への畏敬の念を失
い、森を支配しはじめたのか? その結果、人類を襲ったものは何だったのか? 
「環境考古学」の確立者である著者が、古代の気候変動のデータをもとに、自然
破壊と文明興亡の深遠なる関係を解き明かす。(本書より)


哲学者・梅原猛氏と同じ視点を持つ著者が科学的データを基に、過去の文明
の破滅の原因を探りながら「森の環境国家」を構築していく必要性を訴えている。
古代メソポタミアの「ギルガメッシュ叙事詩」には森の神フンババを殺した王が
森林破壊を繰り返す物語が描かれており、そして後に残されたものは不毛の
砂漠化した大地だった。映画「もののけ姫」の設定も実はこの「ギルガメッシュ
叙事詩」を土台にしたものだろう。大地母神としてのシンボルであった蛇(インディ
アンのホピ族にとってこの動物は今でも神聖なものである)を、キリスト教は邪悪
なものとして捉え、森の文化を如何に破壊してきたかを著者は言及している。私の
故郷・九州でも白い蛇がすむ家は栄えると言われていたことを思い出すが、幼い私
にとってその意味することを理解することは出来なかった。そして何故、キリスト教
がこれほどまでに蛇を邪悪なものとして描くのか、私は本書を読んでもまだその真
の意味することを見出せずにいるのも事実である。


安田喜憲・・・気候変動と人類の生活・歴史の関係を科学的に解明する
「環境考古学」の確立者。1946年、三重県生まれ。東北大学大学院理学
研究科博士課程退学。理学博士。広島大学助手を経て、現在、国際日本
文化研究センター教授。京都大学大学院理学研究科教授、麗澤大学客員
教授を兼任。1991年から始まった文部省の重点領域研究「文明と環境」
に参画し、国内外の研究者を200名以上動員、三年間にわたる共同研究
の成果を「講座・文明と環境」全15巻(朝倉書店)にまとめる。96年、第49
回中日文化賞受賞。著書は「環境考古学事始」(NHKブックス)、
「森と文明の物語」(ちくま新書)など多数。(本書より)

「魅せられたもの」1997.6.20「霊的な戦士」を参照されたし


 
 

この文献の詳細ページへ 「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 

梅原猛 山折哲雄著 祥伝社文庫


日本人の魂の根っこを探っていくと古神道に行き着く。しかし、7−8世紀の
律令制度と明治以降の国家主義により古神道は改変させられ、その原点を
見失った時代に私たちは立っている。わずかにアイヌや沖縄に生き残った
古神道のあるべき姿から遠く離れてしまった多くの日本人の魂、この古神道
という源流は仏教や西洋の個人主義の流れを穏やかに包み込みながら日本
独自の世界観を作ってきた。しかし、その源流の存在さえ忘れてしまった現代
において、オーム真理教などのようなカルトの狂気を呼び寄せる背景を作り
出している。このような危機的状況の日本人、このさまよえる日本人の魂を
救うにはどのような宗教や哲学が必要なのかを、哲学と宗教の二大巨頭が
語り尽くしている。アイヌや沖縄に残った古神道の世界観(インディアンに代表
される世界各地の先住民族の世界観と共通するもの)を再生することなしに
未来への希望はないかもしれない。


そこで日本文化の根底を、縄文文化に求めた。この縄文文化については
考古学的遺品によってある程度知られているが、それだけでは靴の上から
足をかくようなもので、その文化に深く宿っている魂を研究しない限り、この
日本文化の原点というべき縄文文化は理解できないのではないかと考えた。
アイヌ文化及び沖縄文化に日本の基層文化が残っているのではないかと
思って、しばしば北海道や沖縄を訪れた。北海道では藤村久和君と知り合い、
アイヌにおいて神を表わす言葉はほとんど古代日本語と同一であることを
聞いた。おどろいたことに、アイヌの言葉に七、八世紀の日本においても
はるか昔に死んだと思われる日本語、ラマトという言葉が残っていたのである。
アイヌも古代日本人もあつく神をうやまう民族であり、両者とも自己の宗教は
外から来たのではなく固有なものであることを信じている。そのような状況の
中で二つの民族が神を表わすことばを共通というよりは、全く同一しているの
はどういうわけであろう。私は日本の古代神道とアイヌの宗教との同一性を
認めざるを得なかった。すでにこのような見解は、江戸末期にアイヌのところ
におもむき、アイヌ文化を知った国学者などにとられている見解であるが、
私は改めてアイヌの文化の中に日本の基層文化である縄文文化の名残が
あると認識せざるを得なかった。アイヌの宗教こそ、沖縄の宗教と共に古神道
の名残をとどめるものであるということになる。 (中略) 私は日本の神道は、
国家主義の呪縛から脱却するのが何よりもまず必要なことであると思う。明治
以来百年間を支配した神道は、却って神道の魂を殺してしまったのである。
神道には二十一世紀において最も必要な、自然崇拝がある。もう一度人類は
自然の中に戻って、その声を素直に聞かない限り、滅びの道を歩まざるを
得ないと思う。神道には自然を神とし、自然と仲良く生きる知恵が含まれている
のである。・・・梅原猛 本書・エピローグより


 

 
 
この文献の詳細ページへ 「オーロラの彼方へ」 

 星野道夫 写真・文 PHP研究所


アラスカという原始の姿が残された極北に近い場所にひかれ続けた著者の
魂を揺さぶる言葉や未発表の写真。オーロラ、北極熊などそれぞれの写真が
彼の言葉と共に大自然の営みを語りかけてくる。


星野氏の著作「イニュニック(生命)」「Alaska 風のような物語」
「旅をする木」「長い旅の途上」
「星野道夫の仕事 第1巻 カリブーの旅」
「星野道夫の仕事 第2巻 北極圏の生命」
「星野道夫の仕事 第3巻 生きものたちの宇宙」
「星野道夫の仕事 第4巻 ワタリガラスの神話」

また同じく極北の大地とそこに生きる先住民族を描いたリチャード・ネルソンの
「内なる島 ワタリガラスの贈りもの」も参照してください。


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「ラブ・ストーリー」 

 星野道夫 写真・文 PHP研究所


作品の中に北極熊やグリズリーなどが子どもとじゃれている姿が多く掲載され
ているが、今この瞬間に遥かアラスカではこのような光景が満ち溢れているのだ
ろう。文明社会にいる私たちが生きているこの同じ時間の中で彼らも生きている。
大自然の中で慈しみであり、戦いでもある一瞬一瞬という時を今彼らは生きて
いる。この文献はそのことを私たちにふと思い出させてくれる。


「僕たちが生きてゆくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が必要なの
だろう。オオカミの徘徊する世界がどこかに存在すると意識できること。それは
想像力という見えない豊かさをもたらし、僕たちが誰なのか、今どこにいるのかを
教え続けてくれるような気がするのだ。(本書より)」


 

 
 

この文献の詳細ページへ 「森に還る日」 

 星野道夫 写真・文 PHP研究所


その過酷な環境の故、限られた人間しか踏み入れることがなかったアラスカ。
その太古からの手つかずの大自然の中で繰り返される生と死の世界。森や植物、
動物たちの終わることのない営みが今を創造していることをこの文献は訴えて
やまない。


「森の主人公とは、天空に向かって伸びる生者たちでなく、養木となって次の
世代を支える死者たちのような気さえしてくる。生と死の境がぼんやりとして、
森全体がひとつの意志をもって旅をしているのだ。(本書より)」


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「最後の楽園」 

 星野道夫 写真・文 PHP研究所


星野道夫氏の写真には不思議な魅力がある。それはそれぞれの写真の中の
生きものがまるで自分という存在の隣にあり、その鼓動が見る者の心に響いて
くるような錯覚を覚えることにある。きっとそこには撮るものと撮られるものとの間
に何らかの、言葉では言い表せない共通する息吹が横たわっているからなの
かも知れない。


目に見えるものに価値を置く社会と、見えないものに価値を置くことができる社会
の違いをぼくは思った。そしてたまらなく後者の思想に魅かれるのだった。
(本書より)


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「祈りの木」 

 高田宏・文 阿部幹雄・写真 飛鳥新社


木には個性があり長い歳月を生きた老木には存在感、風格があるのだ。人間に
とっての十年が樹木にとって一年、人間と樹木の時間の速さの比率は十対一では
ないか。百歳の人に風格が漂うのと同じく樹齢を千年も重ねれば、個性的な存在感
が滲み出る。ロシア人は「森は元気を与えてくれる。疲れたら森へ行き大木を抱きし
めなさい」と言う。老木と向き合ううちに力が漲り“安らかなる心”を得たように思う。
撮影が終わると拍手を打ち老木に祈りを捧げる。自然に感謝し僕を支えてくれる
家族の健康と幸せ、そして生と死のはざま、山の世界で亡くなった友たちの霊安らか
なこと、遺族の行く末の平穏を祈るのが習慣だった。そうやって撮影した老大木の
写真から四十本を厳選し、高田宏さんが豊かな経験から味わい深い文章を書いて
下さり、飛鳥新社の笹浪真理子さんの尽力で一冊の本になった。僕は嬉しく思う。
(本書・おわりに 阿部幹雄 より引用)


 
 
 

この文献の詳細ページへ 「奄美 神々とともに暮らす島」

 濱田康作 著 毎日新聞社


美しい自然に抱かれ、精霊や神々と響き合って暮らす島人たちの表情は生気に
満ちている。死や闇の世界が身近にあるからこそ、生はいっそう輝くのだ。大島、
加計呂麻島、与路島、徳之島・・・。失われた日本の原型が、ここにある。
(本書 帯文より)


奄美の美しい自然と、そこに生き、祈る人々を撮った素晴らしい写真集です。写真
も素晴らしいのですが、序文にある「奄美・・・現代と古代が同居する“すべてが美しい
島”」を書いた小林照幸さんの言葉がまた比類なき輝きを湛えています。この言葉を
読んで改めてこの写真の数々を見ると、よりその深みが肌を通して理解できるのでは
ないでしょうか。少し長くなりますが、この小林さんの文を掲載しましたのでお読みくだ
されば幸いです。私の父は船乗りでしたので、ユタが真剣に海に祈りを捧げている姿
が心に残ります。この奄美で幼少の頃を過ごした大ばか者の私は、本当は幸せ者か
もしれません。多くの人にこの写真を、そして言葉を見て読んでもらいたいです。


 
 
 

この文献の詳細ページへ 『「太陽の哲学」を求めて 
エジプト文明から人類の未来を考える』
 

梅原猛 吉村作治著 PHP研究所


この文献にはアメリカ・インディアン、アニミズムという言葉は一切出てこない。しかし、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教と異なる多神教が古代エジプトに存在
し、その中心には太陽崇拝があった。この太陽崇拝に近いものをアメリカ・インディアン
アッシジの聖フランシスコも共有していた。日本でも「アマテラス」がそうであるように、
太陽を崇拝している自然哲学がそこには存在していた。しかし、農業中心の哲学はい
つしか人間崇拝の哲学へと変わり、ギリシャ、イスラエルに引き継がれて西洋近代文明
へと移行し、多神教も一神教が支配するようになっていった。梅原猛氏が現代の環境問
題や核戦争の危機的状況の根源的な問題として、一神教の成立を挙げているのだが、
氏のアイヌ文化を紹介する文献などを読んでもその主張は一貫している。ただ私自身の
中で、キリスト教は人類が創造してきたものとは言えないと感じているのも事実だ。
アッシジの聖クララルルドのベルナデッタの腐敗を免れている遺体を見ると、何か
超自然的な力が働いているとしか思えない。確かに梅原氏と私は立つ座標が違うけれど、
多神教やアニミズムの中に世界を救う「美」の存在を感じている点で共通しているものを
感じてならない。「エジプトで私が獲得した『太陽の哲学』はまだ十分に整理されていない
が、私は残された人生において、できるだけその哲学を論理一貫した体系をもつ哲学に
して、それを平明な言葉で語りたいと思う。」と語る哲学者・梅原猛氏の姿勢・方向性に
強い共感を覚えると同時に、心からの尊敬の念を抱かせる。


「このようなラーの神がギリシャ文明、イスラエル文明において消失してしまう。それは、
ギリシャでもイスラエルでも農業国家ではないことと関係するであろう。奴隷国家といって
よいギリシャでは、労働はほとんど奴隷に任せて、そのうえに戦士である支配階級が君臨
していたのである。プラトンの『ポリティア(国家)』において、国のトップに哲学者王が君臨し、
そのもとに戦士がいて、庶民を統制するのが理想国と考えられている。イスラエルの民も
また放浪する遊牧の民であり、農業民とはいえない。この段階において、哲学はすでに
大地から遊離したのである。そしてその大地からまったく遊離した理性中心の哲学が近代
の哲学になったといってよい。近代の自然科学において天動説から地動説への転換が
あった。天動説では人間の住む地球中心に自然の動きをとらえていた。コペルニクス
(1473〜1543)は、この天動説を科学的な観察によって地動説に転換させた。このように
自然科学においては天動説から地動説、すなわち人間の住む地球中心の自然観から
太陽中心の自然観への転換があったわけだが、哲学においてはいまなお天動説が支配
しているように思われる。この天動説の如き人間中心の哲学を自然中心、太陽中心の
哲学に転換させないかぎりは、環境破壊という人類を襲っている深い病根を容易に除去
できないであろう。エジプトからラーを中心とする自然科学を改めて学び、そのような自然
哲学を、科学技術が大発展した二十一世紀という時代において復活させねばならない。
科学技術が悪いわけではない。科学技術を推し進めた哲学が間違っていたのである。」 
梅原猛 本書「エピローグ」より抜粋引用


 

この文献の詳細ページへ 『あなたが世界を変える日」
12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ

セヴァン・カリス=スズキ著 ナマケモノ倶楽部 編・訳 学陽書房



1992年国連・環境サミットがブラジルで開かれることを知ったセヴァンはこの会議に子供
を含む若い世代が参加していないことを知ります。そして子供たちの代表としてこの会議に
参加しなければならないという決意の元にカナダからブラジルに飛びます。そしてユニセフ
の代表であるグラント氏が「子供たちも全体会議に参加させるべきだ」と言ったのを受けて
セヴァンのスピーチが実現することとなります。

セヴァンのスピーチは単純明白で核心を突く言葉がとても印象的でした。そしてその裏に
ある怒りや悲しみが彼女を突き動かしていることを感じることができます。彼女はもう現在
大人になっていますが、それでも子供時代に感じたこの感情を忘れ去ることなく、子供が
見た視点を広がりのある力強いものに変えていこうとしている活動に打ち込んでいる姿は
素晴らしいと思います。



南アメリカのキチュア民族にこんなお話があります。山火事で森が燃えていました。虫や
鳥や動物たちはわれ先にとにげていきました。しかし、ハチドリだけがいったりきたり、口ば
しで水のしずくを運んでは、火の上に落としています。いつもいばっている大きなけものたち
がそれを見て、「そんなことをしていったい何になるんだ」と笑います。ハチドリはこう答えま
した。「私は私のできることをしているだけ」。問題の大きさや難しさを前にして気がくじけそ
うになったときには、セヴァンのことを思いだし、またこの本を手にとってみてください。

(本書 より引用)





未読の文献

各文献の前のをクリックすると表紙・目次並びに引用文が出ます。

 

この文献の詳細ページへ 「アニミズムという希望」

講演録・琉球大学の五日間

山尾三省著 野草社


 

アニミズムについて (本書より引用)

今日から五日間、一日に90分を三コマですから、4時間半ずつ五日間お話をする
わけですが、通しのテーマとしては、アニミズムということを頭に入れてというか、
胸に置いて考えていてください。アニミズムという言葉は、ご存知の方もたくさん
いらっしゃると思うんですけれども、アニマという言葉がその源なんですね。ラテン
語のアニマ(anima)。アニマというラテン語の意味は、生命あるいは命、あるいは
精霊、霊魂。霊魂という意味がいちばん強いかもしれません。自然の万物の内に
は、このアニマが宿っている、精霊あるいは霊魂が宿っているという考え方がアニ
ミズムというものなんですね。ですから、宗教的に見れば、宗教のいちばん最初、
そもそもの始まりというのは、アニミズムから出てくる。アニミズムからやや展開し
てシャーマニズムになる。この琉球地域の風土の中で、現在でも力を持っている
ノロやユタと呼ばれる方達の存在は一般的にいえばシャーマニズムという範疇に
入るんだろうと思うんでけれども、そのシャーマニズムに発展して、その後でやがて
ユダヤ教徒かキリスト教とかイスラム教とか仏教であるという、いわゆる民族的な
世界的な大宗教に発展してきたというのが、従来の発達宗教史観なんです。宗教
もまた発達していくという見方だったわけです。ですけど、これはもう文明全般にし
てもそうですけども、何かが発展する、進歩するのが万全の価値であるという考え
方というのは、最近はあまりはやらなくなってきましたね。はやらないといったらおか
しいですけれども、ぼくは進歩が善であるというふうにあまり考えてないんです。特
に今世紀の後半以降、哲学的には実存主義や構造主義がはやりだしましたが、
そのような立場に立ってみると、たとえばぼくが現在住み、暮らしている屋久島とい
う島があって、そこにある種の文化・文明があるわけですが、その文化・文明とたと
えばヨーロッパやアメリカという文化・文明とではどちらが優れているかということを
考えるのは、あまり意味のないことです。ミクロネシアなりメラネシアなりの島の文化
が、ヨーロッパの文化に比べて劣っているという見方をするのが発達文明史観です
が、そういう文明史観に対して反省が起こって、どのような文化あるいは文明も、
価値としては同じなんだという考え方が一般的になってきたと思います。70年代以
降は、それが世界の思想の主流になってきているわけですけれども、宗教観にお
いてもそれは同じです。ですから仏教であるとかキリスト教であるとかイスラム教、
そういういわゆる大宗教がもっとも進んだ宗教で、シャーマニズムのような、あるい
はこれから展開していくアニミズムというような宗教はいちばん遅れた、つまりもっと
も劣った宗教形態であるという考え方は、もう進歩主義学者達の過去の幻想になり
つつあるんです。

 
  この文献の詳細ページへ 「リグ・ヴェーダの智慧 アニミズムの深化のために」

山尾三省著 野草社


本書 あとがき より抜粋引用
『リグ・ヴェーダ讃歌』と呼ばれる森は、人類史上の最古の文献の森のひとつであるに
もかかわらず、一般的にはほとんど知られていない。摩居不思議の森ということができ
るだろう。これほどに各種の情報が行きわたる社会にあって、古代インドの殼深奥に
『リグ・ヴェーダ讃歌』と呼ばれる文献の宝の森が確固として存在することが知られない
のは、私の感覚からすれば、目本の知識人達と学術出版界を支える人々の知的貧困と、
相も変わらぬ欧米志向をまさしく象徴しているできごとのように思われる。この上うな悪
□は別において、すでにこの本を読み終えられた読者には、『リグ・ヴェーダ讃歌』という
森が、どれはどの豊穣を秘めた宝の森であるかということは、ほんの入口ながらも充分
にお分かりいただけたことと思う。

本文中にも記したように、私がこの本に引用したのは、森全休の千分の一にも満たない
微々たる部分であり、その森の全体に分け入るならば、人は古人達のこの宇宙の森羅
万象を讃える叡知という、汲めども尽きることのない泉と大樹に、到るところで出会わぬ
わけにはいかないだろう。しかしながら、まことに残念なことに、日本中のすべての書店
や図書館を探したとしても、『リグ・ヴェーダ讃歌』の全訳本を見つけ出すことはできない。
かろうじて私がこの本のテキストとした、辻直四郎訳の岩波文庫版が、抄訳としてその
さわりの部分を伝えてくれるだけである。私としては、直接にはお会いしたことのない
辻直四郎先生が、このような稀有な訳出の仕事をされたことに心からの敬意を抱くけれ
ども、この本の引用でお読みになった読者にはすでにお分かりのように、その訳文は
現在となってはあまりにも古文調である。韻文の訳といえば古文調という半世紀前の
常識がそのまま踏襲されていて、時には読み進めていくことに苦痛をさえ感じた。そこ
で、あまりにも苦痛な場合には、私の判断において若干ではあるがその文体を修正して、
少しでも読みやすくする方法を選んだ。私としては、辻直四郎先生という稀有な宝の森の
伝達者に心から感謝するとともに、一日も早く、一年も早く、若いサンスクリット哲学者か
文学者が、現代文において新たな『リグ・ヴェーダ讃歌』の全訳に取り組み、それを支え
て積極的に出版する出版社が現われることを望まずにはおられない。


 
  
この文献の詳細ページへ 「世界樹木神話」

J・ブロス著 藤井史郎 藤田尊潮 善本孝訳 八坂書房


本書 結び より引用

このようにキリスト教が勝利をおさめてからというもの、崇めることの許された樹は
ただ一つ、贖い主がその上で死んだあの四角い木だけになってしまった。他の崇拝
はすべて禁じられ、それらを一掃しようとして福音伝道者たちの払った熱意につい
ては周知の通りである。多様性、相互補完性に根ざし、複合的で互いに関連し合っ
た宇宙論・・・・古代の「多神教」がそうである・・・・に代わって、教権的、不寛容で
二元論的な一神教がその跡を引き継ぐことになった。善悪の区別という名のもと、
旧い精神状態に対する反動から、魂は肉体から切り離され、人間は自然から隔て
られた。当然神につながるのは魂であるから、自然も肉体も必然的にそこから排斥
されたのである。自然や肉体人を誘惑に駆りたてるものにすぎず、エデンの園追放
に責任を負うべきかつての知恵の樹の蛇のように、悪魔の手先以外にはなりえな
かったのだ。


往々にしてそれと気づかぬうちに私たちのものになってしまっているこのような状況
について、クロード・レヴィ=ストロースは見事な深さで捉えている。「ユダヤ・キリス
ト教的伝統がそれを隠蔽するためにいろいろなことを言ってきたのですが、この地上
で他の動物と一緒に生きながら、地上で暮す喜びを彼らとともに享受している人間が、
その動物たちとのコミュニケーションを持てないという状況ほど悲劇的なものはなく、
また心情にも精神にも反するものはないと私は思うからです。これら[ユダヤ・キリスト
教以外]の神話は、この原初的欠陥を原罪だなどとは考えないで、自分たち人間の
出現が、人間の条件とその欠陥を産み出した事件であると考えている、というのは
よく理解できますね。」


こうして生きとし生けるもの同士の交感の上に立脚していた生命のバランスは崩壊し、
その最終的な影響が今日人類の上にふりかかっている。かつての開放的だった人類
は次第に自らの内に閉じこもり、その頑なな人間中心主義のため、もはや人類以外
の存在は物としか映らなくなってしまった。自然全体が価値を下げることになったので
ある。かつて自然の中では、すべてのものが何かのしるしであった。自然それ自身が
ある意味をもち、人はそれぞれ心の内でその意味を感じとっていた。しかし人間は
それを見失ってしまったがゆえに、今日自然を破壊し、またそうすることによって自ず
から裁かれているのである。


 
  この文献の詳細ページへ 「縄文の音」

土取利行著 青土社


あとがきにかえて 土取利行 本書より抜粋引用

わたしは、これまで「古代三部作シリーズ」としてすでに「銅鐸」、「サヌカイト」、「縄文鼓」
の演奏プロジェクトに取り組んできた。その動機や経過については拙著「螺旋の腕」およ
び本書冒頭でも述べている。本書「縄文の音」は文字通り、縄文時代の音や音楽につい
て記したものであるが、基本的には、上記の「縄文鼓」演奏プロジェクトを実現するまで
ほぼ十年、そしてそれ以降の十年にわたって調べてきた縄文時代の音にまつわる覚え
書きなどをまとめたものである。縄文鼓とは、今も考古学会で用途をめぐって土器鼓説
と酒造具説に意見が分かれている有孔鍔付土器を、土器鼓として復元し、自ら演奏した
ものである。それゆえ最初はこの有孔鍔付土器の用途論、すなわち縄文鼓論だけに
本書のテーマをしぼろうと考えていたのだが、もう少し縄文の音世界をトータルに紹介で
きないだろうかという編集者の意見もあり、わたしにとってはまだこれからの課題でもあ
る縄文の歌や仮面などの問題も、取り上げてみることにした。とくに歌は楽器とはちがい、
形として残らないものだけに、これまでこの問題に触れようとする音楽学者はいなかった。
しかしあらゆる角度からの検証を重ねていけば、この見えない世界を理解することもあな
がち不可能なことではないのではないか。その一つの方法として、今回は数例にかぎった
が縄文文化とつながりのある世界の民族文化との比較検討を通じて、縄文の歌の輪郭
をつかもうとした。


 
  この文献の詳細ページへ 「ネイティブ・タイム」

先住民の目で見た母なる島々の歴史

北山耕平著 地湧社


わたしたちは日本人になる前は「日本列島の人間」として自由であり、開放されて
いて、スピリットとともに生きていた。草や、樹や、石や、空を流れる雲の話す声を聞
くこともできた。母なる大地をおとしめることもなく、自然には神秘的な力が存在する
ことを知っていた。今、アメリカのネイティブたちが、アメリカ人になることによって何か
大切なものを失いつつあるように、わたしたちは、日本人になることによって − 良い
日本人であることに一生懸命のあまり − 決定的に何かを失ってしまった。わたした
ちの精神が母なる日本列島の根っこから切り離されてしまったのだ。わたしたちは母親
を喪失したかに見える。神話は奪われ、改ざんされ、気がついたときには父なる太陽が
母親だと教育されていた。わたしたちはひっくり返った世界を正しいものとして教育され
て育った。母なる大地にたいする尊敬を失ってアルコール漬けになっているネイティブ・
ピープルほど、地球上で哀しいものはない。差別をたくみに操る支配者たちにより、
物理的に、経済的に、また精神的に奴隷のような暮らしをあまりにも長期にわたって強
いられてきたために、いつしか生きることにプライドも見つけられず、年寄りも、子どもも、
女性も、自然も、生も、死すらも、そうしたものをすべて敬い大切にすることもなくなって
しまった。かつてわたしたちは「最初の生き方を知る」人間として、人間は人間以外の
あらゆるものと調和を保っていかなくてはならないということを知り、すべての生命を敬い
つつ地球で生きていたのに、今は、そこから最も遠いところにいる。みんなもうすうす気
がついていると思うが、日本列島の自然は沈黙しつつある。その声を聞く者たちはいっ
たいどこにいるのだろうか? ファッションのようにネイティブ・ピープルの文化やシャーマ
ニズムやアニミズム的なライフスタイルを取り入れて、意味のない空虚な言葉で自分を
飾りたてるのではなく、それを生きることをはじめなくてはならない。誰かの力に頼ること
もなく、自らが自らの意思で、自分の精神と大地とを結びつける作業にとりかからなくて
はならない。そのための第一歩が、わたしたちから取り上げられて久しく、学校教育に
おいても完全に無視され続けてきた。もうひとつの歴史を学びなおすことにほかならない。
彼らの歴史を学ぶのではなく、われわれの歴史を取り返さなくてはならない。
(本書より引用)








Sia war-dancer

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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ホピの預言(予言)

大地と空の息吹き

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