
「炎の馬」
アイヌ民話集
萱野茂著 すずさわ書店

はじめに・・・萱野茂
わが家の茶の間のベランダ越しに、沙流川右岸の山ひだに消え残っている雪がぽつんと
見えます。毎年今頃の季節になると、その残雪とにらめっこしながら、消えた日を日記に記
していました。その形がなんとなくウサギに似ているので、私なりにパシイセポ(走りウサギ)
と名付けて見ていたものです。ところが、昨日四月十三日近所の貝沢はぎ婆さんが来たの
でその話をすると、「どれどれ」と立ち上がって窓越しに残雪を見たはぎさんは、「あれは
走っていない。眠っている」と言うのです。眠りウサギという言葉をアイヌ語でいうと「モコロ
イセポ」となります。より、眠りウサギに決めた。・・・・・あのモロコイセポはいつ目を覚まして
神の国へ帰るだろうか --- 民話や伝説とはこんな具合に庶民によって作られ語り継がれ
て来たものかもしれません。それにしても「炎の馬」と題されたこの小さな本には、登別、
静内そして私が住んでいる沙流川地方という風に、各地の昔ばなしを盛り込むことができ
ました。古いものは、登別の金成まつさんがローマ字で筆録しておいたものです。昭和三
年から二十二年にかけて膨大な量のユカラを書き遺した中に、たまたま数編のウウェペケレ
(昔ばなし)が混じっていました。新しいものには、昭和五十年十二月に私が録音した話があ
ります。金成まつさんの話は昭和初年に書かれたものですから、明治時代に聞いた話であ
るといえるでしょう。つまり、この本では、一世紀分のアイヌ民話の流れを知ることができる
わけです。(金成まつさんの遺稿の訳には北海道教育委員会が助成金を出しています)
翻訳するために、アイヌ語で語られる昔ばなしの録音テープを聞いていると、私一人が
特別招待を受けて、古い時代のアイヌの村里を歩きまわっている錯覚に陥ることが度々
あります。近くを通る国道二三七号線をひっきりなしに車が走り、テレビに電話と、アイヌ
の生活もすっかり近代化されたいま、私一人だけの招待席ではなく、この本を読んで下さ
る方々も一緒に神代時代のアイヌの里へご案内したいものです。そして、アイヌが自然に
対してどのような心で接したか、現代の生活者である私どもが忘れているものを思い起こ
してもらいたい。それがこの小さな本にこめた私の願いです。
アイヌ民族の文化伝承に生涯を捧げている著者の自叙伝「アイヌの碑」を参照されたし
