Pulini and Koyame (Walpi)

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


世界各地の先住民族の文献






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人間が好き アマゾン先住民の叡智と喜びに満ちた素顔の写真集
パパラギ 西サモア酋長ツイアビが白人文明の真の姿を鋭く描く名著
絵本 パパラギ 名著「パパラギ」を子供でも読めるように工夫した絵本
クジラの消えた日 文字をもたない民チュクチ人に語り継がれた”大いなる愛”
ベロボディアの輪 シベリアのシャーマンとの驚くべき体験をした精神科医の記録
ラブ・ソトーリーを読む老人 アマゾンの豊潤な世界を舞台に、人間の野蛮さを静かに訴える
ミュータント・メッセージ 虚偽のアボリジニー<真実の人>部族との出会いと体験
生命の織物 世界各地の先住民族の深い洞察の言葉を集めた好著
森の暮らしの記憶 楽園の森が文明国の飽食の犠牲になった悲しい記憶の物語
ヤノマミ
 ヤノマミ、それは人間という意味だ
先住民の中でも特異な文化と風習を貫くヤノマミの姿を、150日間
 という長期同居生活の取材を通して綴る震撼のルポルタージュ。
ヤノマミ 奥アマゾン・原初の森に生きる NHKで放映され反響を呼んだ同番組に未放送映像を加えた劇場版
アマゾンの呪術師 著名なシャーマンとして生きた男が語る、人間、宇宙、神秘
森と氷河と鯨 ワタリガラスの神話探求の旅が深い心の泉へと導かれる
鳥のように、川のように 森の哲人アユトン・クレナックが導くアマゾン先住民たちの叡智 
写真集 世界の先住民族
 危機にたつ人びと
先住民族と呼ばれる方たちの血と涙に満ちた魂の悲痛な叫び
先住民族
 地球環境の危機を語る
世界各地の先住民族の言葉一つ一つにほとばしる生命の輝き
世界をささえる一本の木 ブラジル・インディオの人々に語り継がれてきた美しい神話と伝説
アマゾン、インディオからの伝言  アマゾンに流される森と先住民の涙、精霊世界を綴った好著
マヤ文明 聖なる時間の書 時間が生命を持った創造的存在であるマヤ神秘思想を探る名著 
アンデス・シャーマンとの対話
 宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観
アンデスに住むシャーマン十数人との対話から見えた彼らの宇宙観
大地にしがみつけ
 ハワイ先住民女性の訴え
先住民の破滅や文化の売春を強要するハワイ観光産業への怒り
大いなる語り
 グアラニ族インディオの神話と聖歌
密林の住む思想家グアラニ族に伝わる美しい聖歌と偉大な神話。
悲しい物語
 精霊の国に住む民 ヤノマミ族
1993年、金の盗掘目当てのためヤノマミ族で起きた虐殺の記憶。
図説 人類の歴史 先住民の現在 世界の先住民の慣習、信仰、経済、社会生活を詳細に解説する。
自然のこえ 命のかたち
 カナダ先住民の生みだす美
主にハイダ、トリンギット、イヌイットの優れた芸術作品を紹介する。
生と死の北欧神話 生くることは死にゆくこと。されど、死ぬことは生まるることという
強靭な古代思想
歌う石 アイルランドの古代世界に自身の祖先や根源を探る旅にでる物語
生命の大地(未読) アボリジニの景観、野生観、神話をを対話形式で記述し紹介する
夜明けへの道(未読) コロンブス新大陸発見は、殺戮という残酷な歴史の始まりだった
ソングライン(未読) アボリジニの「歌の道」には美しい夢があり、夢を辿った足跡があった 
精霊たちのメッセージ(未読) アボリジニが語りつぐ神話の世界観、生命観を体験する神話世界
もしみんながブッシュマンだったら 自閉症の息子と共にブッシュマンの世界に飛び込んだ人類学者の旅
エスキモーの民話(未読) エスキモーや北方インディアンの部族に語り継がれた多彩な民話。
精霊の呼び声(未読) 恵まれた生活を捨て、著者が触れた神秘的なアンデスの信仰世界
シャーマンの弟子になった
 民族植物学者の話(未読)
自然保護の熱意を巧みな文才で綴った第一級の冒険旅行記。
 全世界でベストセラーになる。
グレートジャーニー
「原住民」の知恵(未読)
30年の冒険のなかで世界各地の先住民から教えられた知恵の数々。
図説 世界の先住民族 世界各地の先住民族の叡智を130点を超える写真・図版で紹介。
先住民族 
コロンブスと闘う人びとの歴史と現在(未読)
世界の先住民族の置かれている世界的状況とその歴史を包括する。
癒しのうた
マレーシア熱帯雨林にひびく音と身体(未読)
テミアーの音がもつ癒しが、身体と響きあうことへの民俗音楽学探求。
アボリジニー神話(未読) 動物の起源、創世神話など彼らの世界観を原型に近い形で採集した。
ダライ・ラマが語る
母なる地球の子どもたちへ(未読)
環境保護や教育問題そして非暴力の大切さを、平易な言葉で語る
スピリット・ジャーニー
 バリの大地からのメッセージ(未読)
バリの精神風土を民話の形で紹介した貴重な文献。
アマゾンの白い酋長(未読) コファン族と石油資本、米国人ながら酋長として闘争した男の実話。
増補 アボリジニー
オーストラリア先住民の昨日と今日(未読)
白人入植時代から現在、アボリジニがたどってきた問題を探る。





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既読の文献
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この文献の詳細ページへ 「人間が好き」
アマゾン先住民からの伝言 
写真・文 長倉洋海 福音館書店


この写真集はアマゾン・インディオの大地の恵みに囲まれて生きる彼らの
素朴な、そして雄弁で喜びに満ちた表情を追いかけた素晴らしい写真集で
あるが、かつてアメリカ・インディアンもこのような生活を送っていたに違いな
い。この写真集には短いながらも先住民の方たちが持つ世界観・叡智が込
められており、彼らの喜びの表情そのものの中に限りなく深い精神の豊穣さ
を垣間見ることが出来る。文明とは何か、人生とは何かをこの写真集は訴え
かけてやまない名著。

鳥のように 静かに地上におりたち 
静かに 飛び去っていく 
それが インディオの生きかた 
アユトン・クレナック(アマゾン先住民) 

「きみが微笑む時」子どもたちの微笑みがひらく、大地と地球の明日
「心に響く言葉」1998.5/08「人間が好き」
「アユトン・クレナックの言葉」
「鳥のように、川のように」森の哲人アユトンとの旅
「天空の果実」


 
  この文献の詳細ページへ 「鳥のように、川のように」 森の哲人アユトンとの旅 
長倉洋海著 徳間書店 


アユトンの体には美しき森の記憶がある。長倉洋海がそれを「詩」として「知」
として見事に結像させた。二人の旅は、いわば、人の記憶の宝さがし。かけが
えのない言葉と風景に、魂が洗われた。静かに、深く得心した。
辺見庸(作家)・・・・・・・本著帯文より


「人間が好き」という優れた写真集は、アマゾン先住民の姿と叡智を追ったも
のであったが、「鳥のように、川のように」はその叡智の部分を深く掘り下げた
ものである。アユトン・クレナックと各地の部族を訪ねる旅に、今の先住民族が
抱える多くの問題が浮き彫りにされ、改めて大地に生きるとはどのようなことか
を考えさせる。このアユトンは、インディオ連合の闘志としてインディオの自立を
目指して10年にわたって活動してきたが、「法的に土地を得ても、我々にその
土地を守る心の準備があるのだろうか。次の世代に祖先から受け継いだもの
をきちんと手渡していくことができるのだろうか」と思い、「文化を守り、引き継い
でいくためには種を植えて、強い根を作らなければ」と政治の世界から姿を消す。
今は、白人に依存する生活から脱するために、祖先から受け継いだ森を守り
伝統を受け継ぎながら経済的自立を果たすべく、各地の特性を活かした自立の
プロジェクトを推進している。


 
 

この文献の詳細ページへ 「アマゾンの呪術師(シャーマン)」 
パブロ・アマリンゴ/語り 永武ひかる/構成・訳 地湧社


若い頃、その貧しさから偽造紙幣という悪に手を染めたパブロ・アマリンゴ
の放浪と投獄の日々。しかし、ある女呪術師との出会いによって自らシャー
マンになっていたことに気づく。類まれな名治療師として多くの病気を治し、
今でも当時の手腕は語り草になっているパブロ・アマリンゴ自身が、人間、
宇宙、精霊について語る。平易な言葉で謙虚に語る彼の言葉には、人々の
ために誠実に生きたシャーマンとしての義務と責任が横たわっている。現在
のパブロ・アマリンゴはシャーマンからは身を引いたが、シャーマニズム的
精霊世界を描く彼の絵には、世界各地の文化人類学者が関心を寄せ、自ら
も美術による教育を無償で教えている。それはまた美術によって自然を大切
に思う気持ちを高めよう、という一つの環境教育でもあった。本書には、パブ
ロ・アマリンゴが描いた不思議な精霊世界の絵が七枚入っているが、この
貴重なシャーマンとしての証言を視覚化させたもので興味深い。1999年、
このパブロ・アマリンゴの人柄と言葉、精霊世界の絵がNHKでも詳しく紹介さ
れました。


 

 
 

この文献の詳細ページへ 「写真集 世界の先住民族 危機にたつ人びと」 
アート・デイヴィッドソン著 鈴木清史+中坪央暁訳 明石書店


本書を以下の人びとに捧げる。
民族と土地と生活を守るために、闘いながら死んでいった
先住民族の人たちに。
世界中の子どもたちに。
世界の人びとが自分たちの生活様式で生きていくことができることを
知ってもらうために。
(本書より・アート・デイヴィッドソン)


この名著から世界各地の先住民族と呼ばれる人びとの魂の叫びが聞こ
えてくる。この中にはインディアンを始めとして、アマゾン、アンデス、チベット、
アイヌ、サラワク、インドネシア、アボリジニ、ブッシュマン、トゥアレグなど数
多くの先住民族がおり、今日どのような現実に置かれているのかを現地の
先住民族の声と共に訴えている。その多くは文明人といわれる大地を憎む
人々の野蛮さや傲慢さにより、絶滅寸前に追い込まれている。一説による
と現在でも世界各地で毎年約25万人の先住民の方たちが殺されており、
先住民独自の言葉の多くが次の世代には消えてなくなっていくことだろう。
そしてそれは私たち文明人の未来をも奪うことになってしまうことを意味し
ていることに気づきさえしない。先住民族は物質文明の流れに乗れず溺れ
ていった悲運の民族などではなく、私たちの未来を語る上での試金石なの
である。このかけがえのない先住民族の方たちの視点を失うこと、奪い取
ることこそ、自らのそして未来の世界・子孫への殺戮そのものなのであり、
この世界を破滅へと導いていくものだろう。しかしこの私たちに何が出来る
というのだろう。余りにも複雑化してしまった現代文明の中で、そしてその
歯車の一部として動いている自分自身を振り返るとき、その無力感に囚わ
れてしまうのも事実だ。ただ、次の世代を荷う子どもたちに先住民族の方
たちの視点・魂が宿ることを願っていきたい。たとえどのような世界が待ち
受けようとも、このような魂と共に生きる子どもたちが、あるべき姿をした
新しい世界を創造してゆくに違いない。


 

 
  この文献の詳細ページへ 「先住民族 - 地球環境の危機を語る」 
インター・プレス・サービス編 清水和久訳 明石書店


世界各地の先住民族が訴える現代の危機的状況。それは民族としての
消滅を意味しているだけでなく、地球に生きるすべての生命が脅かされい
る姿をも明らかにする。本書には世界の16の先住民族の声が紹介されい
るが、その一つ一つがとても重く心に沈んでいく。彼らの声がこの正反対に
突き進んでいる文明社会から、生命の輝きを取り戻し、大地と空にあるべ
き道の指標として響き渡る日が来るのだろうか。


したがって、環境の悪化を問題にするときは、西側の文化と西側以外の
文化とを明確に区別するのが正しい。伝統的な社会の文化は支配的な
開発のパラダイムに目立った影響を与えてこなかった。また、そうしたパラ
ダイムの適用による直接の結果としての環境の悪化に対しても、これとい
う影響は及ぼさないできた。伝統的文化は西側文化とは反対に、自然を
神聖視している。その価値体系は環境危機を招いた消費謳歌主義とは
無縁であり、いわば何光年も遠く離れている。にもかかわらず、伝統的社
会の立場は環境に関する国際的議論では無視されている。その立場が
採択される決定に反映されることを全く許されないでいる。さらに、非西側
の文化が人類の大多数を代表しているという事実を考慮するならば、参加
と情報の両面で、巨大な真空が存在することはあきらかである。本書の
目的は単純明白である。伝統的社会、母なる大地、母なる地球というその
哲学、人類と自然の関係についての哲学、伝統的生活様式の根底にある
価値体系、天然資源の乱開発の結果と影響、環境破壊への対処の仕方
などを提示する。 --- これが本書の目的である。(本書・編者まえがきより)


 
 

この文献の詳細ページへ 「マヤ文明 聖なる時間の書」 現代マヤ・シャーマンとの対話 
実松克義著 現代書林


マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。マヤン
カレンダー、驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、
そして人間の生贄の儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。しかしマヤ文明
の根底に流れている神話、アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、
彼らの驚くべき世界・宇宙観が見えてくる。この神話によると人間の生贄の
儀式が復活した時代は、第五段階と呼ばれた退廃の時代であり、現代はその
時代よりも重大な危機を迎えている第七段階に位置していると言われている。
立教大学社会学部助教授である著者は、グアテマラに暮らすマヤの末裔・
シャーマンを6年にわたって現地調査し、多くのシャーマンとの対話を通して
マヤンカレンダーに代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。それは
時間そのものが生命を持った創造的存在であり、調和の思想だった。そこに
は人間の生贄の儀式など存在しない世界・宇宙観が横たわっている。本書は
本格的マヤ神秘思想研究の第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵を
も提示している。


マヤ人にとって時間とは必ずしも連続的なものではない。それは人間生活に
さまざまな恩恵を与えてくれるエネルギーであるが、同時に時と場合によっては
生命や社会そのものをも破壊しかねないおそろしい存在であった。神秘の扉を
開ける鍵ではあるが、その本質は極めて気まぐれで凶暴なのである。そして
時間は地上に生きる全ての生命に絶対的な影響力を持つ。それはちょうど食料
が生命の生物学的な維持を保証するように、宇宙における人間の存在を根底
から支えるものだ。初めに時間は過去を意味する。それは消し去ることのでき
ない過去の営為の集積である。しかし時間はまた未来をも意味する。何故なら
過去はその強い影響力によって未来を左右するものだからだ。そして時間とは
現在そのものである。そこでは時間は実際に現実世界を創り出している。した
がってマヤ的な宇宙観では過去、現在、未来という単純な区分はあまり意味を
持たないことになる。言い換えるとわれわれが今生きているこの現在とは過去
から未来に及ぶ全ての時間を含んでいる。そこにあるものは宇宙の全存在で
ある。このように、「時間」をとらえてきたマヤの時間思想は文明化された現代
日本社会に生きるわれわれにとってどういう意味があるのだろうか。現代の
日本社会において最も支配的であるのは西欧文明に起源を持つ科学的時間
概念である。この時間概念は時間を生命の内容とは全く無関係に、直線的に
流れる抽象的存在としてとらえる。その産物である時計は経過する時間を精密
に計測し、その貴重さを数量化してわれわれに教えてくれる。だが同時にそれ
はわれわれを無機質に、機械的に縛るものでもある。われわれは文字通り、
毎日を時間に縛られて働き、学び、あるいは生活している。われわれはまた、
年齢によって生き方を規定され、あたかも時間の奴隷ででもあるかのように
年老いていく。その意味では、科学的時間概念とはわれわれから本来の人間
性と自由を奪う意識にすぎない。もちろんわれわれの中にも依然として古代か
ら続いている日本的時間感覚が存在する。それはこの世界の全てが生成流転
の中にあるという意識である。この日本化した仏教思想から生まれた時間概念
は独特の美しさを持つ無常感の哲学を生み出した。こうした時間意識において
は世界とは未来永劫に変化を繰り返す存在である。ここでは時間とは虚しくう
つろうもの、そして二度と帰らぬ生の象徴である。マヤの時間概念はそうして
われわれの時間観に対して、第三の道とでも呼べる時間思想を提示している
のかもしれない。それは時間をより積極的に意味づけようとする試みである。
世界は時計の機械的な動きによって無機質に流れるものでもなければ、また
無常に過ぎ去って全てを無にするものでもない。それは世界に生命の息吹を
与える創造的なエネルギーなのだ。それは無限に流れるものではあるが、同時
に繰り返されるサイクルでもある。それはまず、ヴィクトリアーノ・アルヴァレスが
言ったように、より高い次元を目指す根源的な螺旋運動なのである。(中略) 
われわれは現在古いミレニアムが終わって、新しいミレニアムが始まる人類史
の転換点に立っている。ただ残念ながらこの転換点はあまり幸福なものとは言
えないようだ。現代の文明社会は問題だらけであり、根本的な意味で世界は今
や重大な危機に瀕している。そしてこの時期は奇しくも現在のマヤの世界の
時間が終わろうとする時期とほぼ重なっている。これは偶然であるとはいえ、
極めて象徴的である。われわれは今根底から生命の意味について考え直す
時期にさしかかっているのかもしれない。マヤ人は生命の神秘を深く哲学した
民族である。彼らはその根本的解答を天体の運行に象徴されるような宇宙的
展開の中に求めようとした。そして「神としての時間」という唯一無二の思想に
到達したのである。その哲学の全貌は神秘的で、完全には理解できないにし
ても、それは何故かわれわれの思考を刺激する。それはまた生きているとは
何かと問いかけることでもある。(本書 第15章 神としての時間 より引用)


 

 
 

この文献の詳細ページへ 「森と氷河と鯨」ワタリガラスの伝説を求めて 
星野道夫 文・写真 世界文化社


「ぼくは、深い森と氷河に覆われた太古の昔と何も変わらぬこの世界を、
神話の時代に生きた人々と同じ視線で旅をしてみたかった。この世の創
造主であるというワタリガラスの神話の世界に近づいてみたかった」アラ
スカに伝わる創世神話はなぜかワタリガラスを主人公とした物語が多い。
アラスカの写真家として知られる著者が、かねてより関心を抱いていた
”ワタリガラスの神話”をテーマに、南東アラスカの自然を旅した。神話を
追い求める著者の旅は、一人のインディアンとの出会いに始まり、それ
はやがてモンゴロイドの偉大な旅へとつながっていく。苔むした森、蒼い
氷河、ザトウクジラの海。太古の気配を残す南東アラスカにワタリガラス
の神話を追い、シベリアへと人類の足跡をたどる星野が遺した最後の
物語。(本書・帯文より)


星野道夫という魂から紡ぎだされた言葉並びに写真に秘められた視点
は、私たち日本人が忘れかけている太古の魂の記憶を甦らせてくれる。
そしてこのような星野の魂の遍歴はある一人のインディアンの男との出会
いによって浄化され強められていく。星野の写真家としての作品にははっ
きりとした意志が込められており、彼の視点が現代文明に浸っている私た
ちの視点の座標軸をあるべき位置へと帰還させてくれる。この星野が残し
た遺言に、そして先住民族の方たちが持つ世界観に、感謝と祈りと喜び
が存在していることを是非多くの方に知っていただけたらと思う。彼が残し
た遺言というべき数々の作品は、いつまでも私の心に生き続けるだろう。

星野氏の著作「イニュニック(生命)」
「Alaska 風のような物語」
「旅をする木」
「長い旅の途上」
「星野道夫の仕事 第1巻 カリブーの旅」
「星野道夫の仕事 第2巻 北極圏の生命」
「星野道夫の仕事 第3巻 生きものたちの宇宙」
「星野道夫の仕事 第4巻 ワタリガラスの神話」

「心に響く言葉」1998.10.23を参照されたし

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「世界をささえる一本の木」 
ブラジル・インディオの神話と伝説 
ヴァルデ=マール 再話・絵 永田銀子 訳 福音館書店


アメリカ・インディアンと同じく大地に根をおろして生き続けるブラジル・
インディオの人々に語り継がれてきた美しい神話と伝説はインディアンの
ものと共通性が多い。大地の恵みを深く感謝して受け取ることが出きる
人々に国境・言葉の垣根は存在しないのだろう。またこの絵本にはイン
ディオの血をひく著者による実に美しい世界が描かれている。


「この木が天をささえている。わたしたちの部族がほろびる日が来たら、
わたしはこの木を引きぬくだろう。わたしがこの木を引きぬけば、天がくず
れ落ちてきて、あらゆる人々が姿を消す。すべての終わりが来るのだ。」
・・・同著の「シアナ・世界をささえる一本の木」より

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「図説 人類の歴史 先住民の現在」 
ヨラン・ブレンフルト 編集代表 大貫良夫 監訳・編訳 朝倉書店


大型本2冊に世界各地の先住民の慣習、信仰、経済、社会生活を詳細に
解説したもので、写真や図を多く採り入れている力作である。世界各地の
先住民の解説はそれぞれの分野の専門家たちによって執筆されている。


最初の章、「人種と人間集団と文化の発展」は、われわれの種、ホモ・サピ
エンスが示す世界的な、(身体的、文化的、言語的)多用性を考察する。後に
続く8つの章では、アジア、東南アジア、オーストラリア、太平洋、アフリカ、北極
圏、南北アメリカの先住民社会での慣習、信仰、経済、社会生活といった事柄
の詳細な解説をする。最後に、「人類の未来」では、これから先に横たわる難題
を熟考する。われわれの種は発展の速度を維持し続けることができるだろうか。
そして、多種多様な人類の存在を継続できるであろうか。
(本書より引用)

本書は、一個人でも先住民族の正義のために貢献できるという信念に基づ
いて書かれている。先住民族の社会を破壊したという責任は、全部とはいわな
いが、少なくとも一部は裕福な人々が負うべきである。政府、銀行、法人は主
に市場の需要に応じるために、往々にして先住民族に不利な政策を施行した
り、あるいはそういう体制を支援したりしてきた。電動ノコギリを握るのは消費
者の手なのである。だが普通の人々が無力だということはない。それぞれの声
は小さいかもしれないが、他の人々と合わせれば、強力な権力機構にさえその
声を聞かせることができる。もし、あなたが何かをしたい、あるいはもっと知りた
いと思うのならば、本書の巻末に掲載された組織はあなたの支援を歓迎する
であろう。「図説 世界の先住民族」は、先住民族の寄稿者、人権問題の専門
家、関心をもつ人類学者、報道関係者など多くの人々やグループによる共同
作業で誕生した。皆の共通した目的は先住民族の関心事を忠実に反映する
ことであった。それは多分、各々の専門分野だけで成し遂げるのは不可能な
仕事であろう。本書の計画、著述、編集のすべてにわたって先住民族の人々
が深く関わってきた。本書は、著者が何年にもわたって森の村や僻地、町の
スラム、国連の会合、その他多くの場所で先住民族の人々と分かち合ってき
た彼らのさまざまな状況や意見を、すべて集約しようと試みている。これは多く
の人々の仕事であるが、その文責は編集者にある。もし誤りや誤解があるなら
ば、それはひとり編集者にのみ帰されるべきものである。
(本書 著者はじがき より引用)


 
 

この文献の詳細ページへ 「パパラギ」 
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 
エーリッヒ・ショイルマン 編 岡崎照男訳 立風書房


本書はアメリカ・インディアンに関する本ではないが、ツイアビの叡智あ
ふれる言葉はアメリカ・インディアンの魂そのものであるが故に、ここに
紹介することにする。世界各地にはエスキモー、アイヌなどの優れた精神
文化の花を咲かせた民族が存在し、その視点は不思議にも共鳴しあって
いる。本書のツイアビは、西サモアのウボル島の首長であり、彼が西洋
文明を見聞したことを自分の島の人々に演説するという形を取っている。
ツイアビの鋭い、冷静な、そして先入観によって判断・観察しない視線が
このような素晴らしい芳香をともなった言葉として結実した本書は第一次
世界大戦終結の二年後の1920年に発行され、世界各国語に翻訳された
名著である。・・・・・・

追記・・・この文献が真実の体験から出たものではなく、完全な創作だと
いう記事もあることをご承知置きくださればと思います。

これは鋭い文明批評の書であり、同時に文化人類学的記録であるとも
言える。またこれは一種のS.Fとして読むこともできれば、一巻の美しい
詩集であるとも思える。ポリネシアの酋長ツイアビの記した言葉は不思議
な力に満ち、私たちの胸を打つ。私たちは私たちの信じている(と思って
いる)もろもろの価値が、根本から否定されるのを見て、恐ろしくなり、また
愉快にも感じる。(谷川俊太郎)

雑記帳「魅せられたもの」1997.3/16「パパラギ」を参照されたし

この文献の詳細ページへ 「絵本 パパラギ」
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 
構成・絵 和田誠 立風書房

「パパラギ」とは、サモアの言葉で「空の穴から来た人」という意味でした。
そのむかし、サモアにはじめてやってきたヨーロッパ人の宣教師を乗せた
船の白い帆を遠くから見たサモアの人は、空にあいた穴だと思ったので
す。そして、「空の穴から来た人」は「白人」と同じ意味を持つようになりま
した。サモアの酋長ツイアビは、1915年頃、ヨーロッパを旅して帰り、は
じめて見たヨーロッパの印象を、島の人びとに報告しました。その記録を、
サモアで暮らしたことがあり、酋長とも親交のあった詩人エーリッヒ・ショ
イルマンが翻訳して、スイスで出版しました。1920年のことです。この本
は1977年に復刊され、その4年後に、日本でも岡崎照男さんの訳によ
って出版されました。もともと80年以上前の報告で、それは第一次世界
大戦の頃。映画はまだサイレントの時代でした。日本で出版されてからも
20年を過ぎています。けれどもこの報告の内容は少しも古くなっていない
ばかりか、ますます私たちに大切なことを思い出させてくれるでしょう。そ
れに、「パパラギ」とは白人を指す言葉でしたが、今では私たち日本人を
含めて、先進国と呼ばれるすべての国の人びとがパパラギだと言えます。
(本書 あとがき 和田誠)より引用


 
 

この文献の詳細ページへ 「クジラの消えた日」
ユーリー・ルィトヘウ著 浅見昇吾訳 青山出版社

 

シベリア北東のはずれ、チュクチ半島に住む少数民族に伝わる感動的
な創世神話の物語。「クジラと人間は仲間 クジラと人間は兄弟 海と陸
の兄弟 生まれたときから結ばれている 親愛なる永遠のつながり」とい
う太古の祖先からの神話を口承で代々語り継いできた。そこには生きとし
生きるもの全てにたいしての慈愛、「大いなる愛」が横たわっていた。やが
て人間だけが特別の力を授かった生き物だと信じる人によって、この「大
いなる愛」が壊されてゆく。1930年代まで文字を持たなかったチュクチ人
から生まれたルィトヘウがこの神話に再び息を吹き込んだ傑作。

 
 

この文献の詳細ページへ 「生命の織物・先住民族の知恵」 
原みち子・濱田滋朗訳 女子パウロ会


小さい本でありながら、世界各地の先住民族の深い洞察と畏敬の念の
言葉を集めた好著。記憶は鮮明ではないが、私が初めて先住民族の方た
ちの魂に触れた本である。インディアンは勿論のこと、カナダのイヌイット、
メキシコのインディオ、オーストラリアのアボリジニー、フィリピン、北海道の
アイヌ、ザイール、グアテマラのノーベル平和賞を受けたメンチュなどの先
住民と呼ばれる人々の深遠な言葉を紹介している。

雑記帳「魅せられたもの」1998.4/20「父は空、母は大地」を参照されたし

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「アマゾン、インディオからの伝言」 
南研子(熱帯雨林保護団体代表) ほんの木


地球の酸素の三分の一を生産していると言われているアマゾンの熱帯雨林。
そのアマゾンでは、先進国の豊かな暮らしを支えるためだけのため、一分間に
フットボール場60個分の面積が消滅し、そこに生きる多くの動植物や先住民が
姿を消しつつある。本書はこのアマゾンの状況並びに苦闘するインディオたちを
見事に描きだしており、現地の生の声を聞き取りながらの支援活動をしている
著者たちの姿勢に心を打たれてしまう。そして霊的にも先住民と同じ世界に立
つ者しか感じることが出来ない精霊世界、その世界をも著者はさりげなく描き出
している好著である。インディオは言う「木が世界を支えている」と。


南研子さんは、アマゾンの涙を見ている人です。減少する熱帯雨林を守る
インディオ保護区に生きる先住民たち。貨幣経済も文字もない人々との11
年間にわたる交流を初めて一冊の本に綴りました。この本は現代文明に
反省を求めた、心を癒す、精霊たちの記録です(本書紹介文より)。南研子
・・・・1989年イギリスの歌手スティングがアマゾンを守ろうというワールド・
キャンペーン・ツアーを行い、日本を訪問した。その際のボランティアが縁で、
同年5月「熱帯森林保護団体」を設立、活動を開始。ブラジルでの1992年
世界先住民会議を機にその後12回にわたりアマゾンのジャングルで先住民
と共に毎回2ヶ月以上生活し、支援活動を継続中。現在、熱帯森林保護団体
代表。NGO活動推進センター理事(本書より)

熱帯森林保護団体(RAIN FOREST JAPAN)のホームページ


自然と共生してきた先住民の生活をチラッと垣間見ただけで、その深い部分
の教えや知恵をくみ取らずに、一部分をファッションとしてしか取り入れない薄っ
ぺらな文明人が哀れにさえ思えてくる。ここにきて人類の存続が危ぶまれ、人々
は文明という迷路で立ち往生し、心ある人達が未来に対して何を選択していく
べきかの方法を模索している。私は未来へ正しく向かうオルタナティブ(他にとる
べき方法)の鍵を先住民と呼ばれている人々が持っていて、地球が窮地に追い
つめられた時に、スッとこの鍵で扉を開けて活路を指し示してくれるような気が
してならない。
本書「アマゾンの伝説に出会う」より引用。

2000年6月11日(日)朝日新聞朝刊の「天声人語」に著者の南研子さんが
とりあげられました。

魅せられたもの「未来を守る無名の戦士たち」 1999.1.30 を参照されたし

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「大地にしがみつけ ハワイ先住民女性の訴え」 
ハウナニ=ケイ・トラスク著 松原好次訳 春風社


日本の皆さまへ
本書をお読みになりましたら、次の二点を、じっくり考えてみてください。

1 ハワイの観光産業は、環境や文化を破壊するものです。この産業は、外国
人が牛耳っていて、もっぱら外国人を利するためにあると言ってよいでしょう。
ハワイには年間700万近い観光客が押し寄せますが、そのうち五分の一は
日本人です。さらに、日本人がハワイで使うお金は、平均的なアメリカ人の四倍
です。日本人観光客によって、先住民経済の依存体質が年々深まるだけでなく、
私たち先住民の環境も急速に破壊されています。

2 沖縄と同様に、ハワイはアメリカの軍事的植民地と言えるでしょう。アイヌ
民族と同様に、ハワイ先住民は自らの土地を奪われた民族です。沖縄が沖縄
の人たちに返還されるべきであるように、北海道が先住民であるアイヌに返還
されるべきであるように、ハワイもハワイ先住民に返還されるべきなのです。
2002年3月 ハウナニ=ケイ・トラスク

ハウナニ=ケイ・トラスク「新しい世界秩序」を参照されたし


私たち日本人の多くは芸能人も含めて、ここぞとばかりにハワイを目指して
いく傾向にあるように思います。ハワイ先住民は100年前の王朝転覆から、
アメリカの白人たちによって土地を奪われ続け、先住民の文化までも観光客
のために商業化されてしまいました。楽園というアメリカ政府並びに観光業者
の宣伝広告に踊らされた観光客が、怒涛のようにハワイに押し寄せ、その
観光客のための施設が次々と建てられていくことになります。その建設地は
先住民にとって聖地であったり、先祖が眠っている土地であったり、日々の
糧を得る貴重な畑だったりします。このような開発により、先住民がどうなる
かなど一切考慮されることはありません。アメリカの白人の頭にあるのは儲け
だけなのでしょうね。自分自身の快楽のために、他の人間が犠牲を強いられ
ることに何の感情も起きないのでしょう。アメリカの何処が民主主義なのでしょ
う。そしてそんなアメリカに追随している日本も同罪かも知れません。しかし思
うのですが、何故、世界の先住民たちはこのような理不尽な苦しみを一身に
背負わなければならないのでしょう。文明化されていないというだけで、人間
失格の烙印を押され、土地や生活の糧、そして残念ながら心までもキリスト教
の宣教師たちによって踏みにじられてきました。ハワイ先住民が大切にしてい
た「マーラマ・アーイナ」(大地を慈しめ)の文化は崩壊の危機に直面していま
すが、それでも著者のように勇敢に闘い続けている姿は、先住民全てにとって
希望の光の一つなのだと感じてなりません。

 
 
  この文献の詳細ページへ 「アンデス・シャーマン 
     宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観」

     実松克義 著 現代書館


立教大学社会学部で学ぶ生徒は幸せだと思う。何故ならこの学部にはインディ
アン研究の第一人者である阿部珠理さんと、ヤマ・アマゾン研究の第一人者実松
克義さんがいるからである。もし私が若く頭も良ければこの大学で学ぶことを選ん
でいたと思う。その理由は三つある。一つ目は研究量だけに留まらず、如何にそ
れを解りやすく砕いて説明できるかの才能を持っている点。二つ目はフィールドワ
ークの技術が優れている点。三つ目は決して奢らず飾らない人間的な魅力を持っ
ており平衡感覚に優れている点であり、それらの優れた特質は、文献にも良く反映
されているのではと思う。本書「アンデス・シャーマンとの対話」において、実松克義
さんはアンデス・アマゾン地域に住む十数人のシャーマンから話を聞き、背後にあ
る世界観・宇宙観を探るだけに留まらず、シャーマンによる儀式にも参加している。
儀式では時には遺書を用意してまで探究しようとする。現在の日本でこのような真
摯な探究心をもっている研究者はあまりいないのではないだろうか。少し話は違う
が、以前NHKの放送大学の「先住民講座」の中で司会のスチュアート・ヘンリ氏が
イヌイットなど先住民族のカテゴリー分け必要だと指摘したのに対し、若いフィールド
ワークをしている2人の研究者が共に「同じ民族でも一人一人違う」ことを強調され
ていたが、それだったら別に外国まで行かなくても近くのお爺ちゃん、お婆ちゃんの
姿を追えばいいのである。何故、外国に住む先住民をフィールドワークの対象とし
ているのか、その原点(自分が何故彼らに惹かれたのか)を忘れ、自分の研究対
象が唯一無二のものだと近視眼的な捉えかたに囚われていることに気づきもしな
い。勿論このような研究者ばかりではないことを願うが、実松克義さんのような存在
がまだまだ日本には求められているのではと思う。話はそれてしまったが、本書で
展開されるアンデスの宇宙観、時間の流れなど興味深く、シャーマンでも考え方や
技法が一人一人異なる点も驚かされる。しかし、それでも土台には共通した世界観
・宇宙観が宿っていることを本書から感じとれるのではないだろうか。
(K.K)


だが最も特筆すべきなのは、アイマラ族が後年発展させた歴史的認識である。
ボリビアの人類学者マウリシオ・ママーニ・ポコアカによれば、現代アイマラ文化に
は四つの歴史的段階を示すパチャが存在する。チャマック・パチャ(月の時代)、
ハナ・パチャ(文明の時代)、タキシン・パチャ(苦難の時代)、そしてクティ・パチャ
(刷新の時代)である。これは歴史としてのパチャである。直線的時間としてのパチ
ャ、進化論的なパチャと言ってもよいだろう。歴史としてのパチャはスペイン人征服
者による文化的破壊の後に発生した。それは民族の歴史の再評価と反省、新しい
意味付けという主体的行為の結果である。ここではパチャはすでに完成された過去
の世界観ではなく、時間とともに変化し、進化する概念である。これはパチャの概念
が、あたかも文化生成のマトリックス(苗床)であるかのように時代に応答し、発展す
るダイナミズムを備えているからだと思われる。

世界は静止してはいない。絶えざる運動の中にある。そして人間はその運動を正し
く導き、調和的世界を維持するために、努力しなければならない。

こうしたパチャの思想はすでに古代アンデスにおいて存在した。回転する十字架で
ある。ティワナコ文明の先行文化であるチリパ文化には一つの興味深い表象が存
在する。俗にチリパの表象として知られるこの石のレリーフは、アンデスの宇宙観
の祖形とも言うべき世界を描いている。そこには太陽から発散する世界の四大要素、
エネルギーがベクトルとして描かれ、生成変化する生命の躍動が表現されている。
チリパ文化は初期のティワナコ文明に大きな影響を与えたのではないかと思われる。
それを示すのがチリパの表象に酷似する、「稲妻の石」と呼ばれるティワナコのレリ
ーフである(写真参照)。興味深いことに、ここでは太陽の代わりにヒキガエルが中心
に描かれている。これはティワナコ文明におけるアマゾンの影響を示すものであろう
か。非常に神秘的なティワナコ人の宇宙観が表現されている。
(本書より引用)



 
この文献の詳細ページへ「自然のこえ 命のかたち カナダ先住民の生みだす美」
国立民俗学博物館 編 昭和堂

カナダ先住民と言ってもオジブワ、モホーク、イロコイ、ヒューロン族など
アメリカ国境をまたがっている部族も存在するが、本書は主に北西海岸
(ハイダ、トリンギット)と極北(イヌイット)の先住民の芸術品を紹介している。
芸術品と言ってもただ単なる羅列に終わることなく、その意味、そして過去
から現代までの歴史を踏まえながら紹介しており、一つ一つの芸術品に刻
まれた彫刻や文様を通して彼らの精神文化の一端を知ることができる。
この文献は2009年9月から12月に大阪・国立民族学博物館にて開催さ
れた特別展にて出品されたもので、カナダ文明博物館からも多くの出品が
なされている。

とくに、後半部では、対照的ともいえるイヌイット文化と北西海岸先住民
文化の違いを示すとともに、それらに共通する人間と動物の関係など世界
観を紹介する。カナダの先住民社会では、人間と動物の関係はたんなる
「捕る・捕えられる」という関係ではなく、人間は捕獲した動物の霊魂に敬意
を表し、適切な儀礼をおこなうことによって、動物を再生させる役割を担って
いる。すなわち人間と動物の関係は生・・・・死・・・・再生という循環にもとづく
互酬的な関係である。

また、多くの先住民は、すべての動物には霊魂が宿っており、その霊魂は
人間のものと同じであると考えている。したがって、人間はクマやカリブー
(トナカイ)の姿に変身できるし、その逆も起こりうる。人間も動物も同様に
家族をもち、カリブーも家に帰れば毛皮を脱ぎ、人間と同じ姿で生活を送っ
ていると考えられている。つまり、人間と動物(広義の自然)は別々の存在
ではなく、一体化した存在でありつ言い換えることができる。したがって、
人間が動物(自然)を無意味に傷つけることは、人間自身を損なうことでも
ある。

これらの考え方は、イヌイットや北西海岸先住民の神話や昔話、アート作品
の間において広範に認められる。それは、すべての生命や自然を尊ぶ共生
の思想であり、グローバル化が進み、技術が発達した現代社会では等閑視
されがちな考えであろう。カナダ先住民文化の展示および本書が、今一度、
人間と自然の共生のあり方を再考していただく契機となることを願っている。

(本書より引用)

 
 

 

この文献の詳細ページへ 「ベロボディアの輪」
シベリア・シャーマンの智慧 
オルガ・カリティディ著 管靖彦訳 角川書店


本書は最近、私の身に起こった出来事をつづった真実の物語である。
シベリアのノボシビルスクにある精神病院に勤務する私は、ある日、心
に悩みを抱える若者の訪問を受けた。それが事の発端だった。次々に
不思議な出来事が重なり、歴史的に神秘的な場所とみなされている
アルタイ山に導かれた私は、そこでシャーマンがするような驚くべき体験
をし、数々の神秘的な啓示を授けられたのである。(著者)

本書はカルロス・カスタネダがヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン
との出会いを描いた一連の書籍のロシア版と高く評価されているもので、
シャーマニズムの本場とも言えるシベリアの古代の叡智を見事に伝える
ことに成功している。本書の原題は「聖なる伝統の輪に入る」という意味
を持ち、著者の経験した驚くべき体験を通して読者を、聖なる王国「ベロ
ボディア」へとひきつけてゆく。

「シャーマニズム(シャーマン)に関する文献」の項目を参照されたし
1997.7/25 「インディアンの源流であるアニミズムとシャーマニズム」


 
 

この文献の詳細ページへ 「ラブ・ストーリーを読む老人」 
ルイス・セプルベダ著 旦啓介訳 新潮社

 

「人間たちと動物たち両方が生きられる世界というのはないのだろうか」
という願いを込めた作品。アマゾン上流での開発は多くの動物や先住民を
森の奥地へと駆り立てていく。そして子供と連れを殺された山猫(オセロッ
ト)が人間を攻撃し、この山猫討伐隊に強制的に加えさせられた主人公の
心の葛藤を描く作品。豊潤な森の世界を舞台に、人間の野蛮さを静かに
訴えてやまない書である。


 
 

この文献の詳細ページへ 「森の暮らしの記憶」
絵・マーロン・クエリナド 文・マーロン・クエリナド/清水靖子 
「パプアニューギニアとソロモン諸島の森を守る会」制作 自由国民社


僕の名前はマーロン・クエリナド。
パプアニューギニアのゴゴール渓谷に生まれた。
日本から5000キロほど遠い、赤道の南のニューギニア島という
ところだよ。僕が日本に来たときに、日本の道路わきに、段ボール
や紙が捨てられているのを見た。
そして僕は泣いた。
遠い記憶の僕の森を思い出したんだ。
日本の会社が僕の森を伐ってしまって、チップにして運んで行ったことを。
そのチップは日本で段ボールになってしまったんだよ。
僕が十三才のときだった。
僕は僕の描いた絵を通して、伐られる前の森と暮らしがどんなに
素晴らしかったかを、日本のみなさんに知ってもらいたいと思う。
毎日、毎日が天国のような暮らしだったんだよ。
(本書より)

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「大いなる語り グアラニ族インディオの神話と聖歌」 
ピエール・クラストル著 毬藻充訳 松籟社


本書 序論 より抜粋引用
〈美しき言葉〉・・・・グアラニ族のインディオたちは、自分たちの神々に訴え
るために役立つ言葉を、このように名づけている。それは美しい言語であり、
大いなる語りであり、神々の耳に心地よく響く言葉、神々が自分たちにふさ
わしいと評価する言葉である。霊感を受けたシャーマンがこの言葉を発する
とき、その口には厳粛な美しさがあり、シャーマンに耳を傾ける男たちや女
たちの心には、その言葉の格調の高さに陶酔が広がる。これらのネエン・
ポラン・・・・〈美しき言葉〉・・・・は、いまでもまだ最も秘境の原生林にこだま
している。そこには、いつも自分たちのことをアヴァ・・・・〈人間〉・・・・と呼ぶ
者たちがおり、こう呼ぶことによって自分たちを人間性の絶対的な受託者
であると断言する者たちがいる。彼らは、それゆえ自分たちが正真正銘の
人間であると主張しているわけであり、途方もない英雄的な傲慢さで、自分
たちのことを神々に選ばれた人間である、神の印を刻まれた人間であると
主張しているのである。そしてまた彼らは、自分たちのことをジェグアカヴァ
・・・・身を飾った者・・・・とも言うのである。彼らの頭に飾られている冠の羽は、
神々の栄光を讃える踊りのリズムに乗ってかすかな音を立ててざわめき、
この冠は、偉大なる神ナマンドゥの燃えさかる頭髪を再現するのである。


アマゾンの奥地に住むグアラニ族の人々。神から選ばれてこの地に生き、
そしていつの日か神の懐へと昇っていくため、その試練の道を何千年もか
けて守り続けている人たち。部外者には殆ど語られることがなかった彼ら
グアラニ族の人々の聖歌と神話は実に深く、その普遍性はインディアンの
ホピ族に伝わるものと匹敵するであろう。著者クラストルはフランスを代表
する人類学者の一人で、その思想はドゥルーズ、ガタリに多大な影響を与
たと言われるが、1977年に交通事故により死去してしまう。ただ訳者も
書いているように、クラストル自身が解説した部分は「ごつごつした文脈の
ぶっきらぼうさ」があり、読みづらいところがあるのがとても惜しまれる。

 
 
この文献の詳細ページへ 「生と死の北欧神話」 
水野知昭・著 松柏社


北欧神話とは、破壊と創造、闘争と平和、犠牲と豊穣、そして死と再生という
中心的テーマが脈打っている。それぞれの語りが緊密な因果の糸で結ばれ
ている。たとえば神界の没落をまねくバルドル殺害の悲劇は、宇宙創成
原点にその根本原因がひそんでいた。生と死の循環原理に基づく語りは、
全体として円環的な構造をなしていると説く。


その語りのなかには、人間の創成、神界の構成、侏儒(こびと)族の発生、世界樹
と運命(ウルズ)の泉、妖精族の特徴、オージンを主宰神とする神々の特性、ロキ
の一族、神界を中心に発生した銘記すべき出来事、あるいはソール神とロキの旅、
ミズガルズ蛇を釣り上げる話、そして、バルドル殺害の事件など、その他もろもろの
神話的情報がふくまれている。最後にラグナロクと称する「神々の滅びゆく定め」と
世界の没落、そして世界の新生にいたるまでの語りを聞かされるという構成である。

古代の叡智ともいうべき神話が、ここではひとりの世俗的な王の幻術体験という
「枠組み」の内部に封入されている。いわば、巨大な一幅の絵画の「額縁」のなかに
はめ込まれたものは、神話的な物語の全体像を示唆しながらも、実はその一部
抜粋でしかないのである。

(本書より引用)

 
この文献の詳細ページへ 「歌う石」 
O.R.メリング・著 井辻 朱美・訳 講談社


ここがわたしの故郷なのかしら。
さもなければ、わたしの両親の生まれた場所?

自分のルーツを探しにアイルランドへ行ったケイは、山の中で見つけた巨石
のアーチをくぐったとたん、四つの民族が対立しあう紀元前のアイルランドの
世界へと迷いこみ、まもなく記憶をなくした少女アエーンと出会う。そして、
助けを求めて仙境の賢者フィンタン・トゥアンを訪れたふたりは、助けてもらう
かわりに、トゥアハ・デ・ダナーン族のいにしえの四つの宝を探す旅に出る。
時を越え、女魔術師となったケイと、謎の秘めたアエーンの運命は・・・・?


(本書より引用)

 
 

この文献の詳細ページへ 「悲しい物語 精霊の国に住む民 ヤノマミ族」 
アルナルド・ニスキエル作 エドムンド・ロゴリゲス絵 
田所清克・嶋村朋子 編・訳  国際語学社


ブラジルとベネズエラの国境のアマゾンの森に生活する、先住の民ヤノマミ族。
そこは、まさに生命力が息づく、自然と資源の豊かな地。ヤノマミ族は、自然と
共存するために、彼らの始まりと生き方の示された物語を代々語り継いで守って
きました。しかし、語り継ぐべき物語を失った文明社会の人々によって、ヤノマミ
族に悲劇がもたらされます。1993年、金の盗掘目当てに、オリノコ川支流の
ハシムーの集落が襲われたのです。エドムンド・ロドリゲスが挿絵を描き、アルナ
ルド・ニスキエルの手による本作品は、先住の民の文明社会との共存を望む叫
びを伝えるものです。 (本書より引用)

悲しい物語 この本を手に取ったすべての方々へ 本書より引用
はじめに 人生は楽しいことばかりではありません。時には私たちは、嘆かわし
い出来事に向き合うことを強いられます。だからといって、それを隠し立てする
わけにはいきません。そうしたことが再び繰り返されぬよう、学校でも教えられ
るべきです。多くのインディオが殺された、アマゾンのヤノマミ族に降りかかった
悲劇は、その許しがたい出来事のひとつです。違法なダイヤモンドや金・錫の
採掘は、無責任きわまりない人たちの、殺人の口実になっています。25万人
(西暦1500年頃には約600万人であった)のインディオは、20世紀末には
50万人に達するであろうという統計とは反対に、殺略され続けています。横暴
な採掘者であるガリンペイロは常に略奪的に振舞い、河川に水銀を垂れ流し、
アマゾンの自然をも犠牲にしています。この本で取り上げていたハシムー
(Haximu[地名])の事件は、下劣な暴力そのものです。私たちは、そのような
残酷な行為を忘れてはいけません。それがブラジルで起きたのか、それとも
ヴェネズエラで起きたのかは問題ではないのです。なぜなら、彼の地はもともと
ヤノマミ族のものであり、そこに後になって国境が置かれたのですから。本書は、
先住民たちに必要な土地の境界について、私たちが話し合う機会となるよう、
熱情を込めて書かれたものです。
リオ・デ・ジャネイロ 1993年9月1日
ブラジル文学アカデミー アルナルド・ニスキエル

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「ヤノマミ 奥アマゾン・原初の森に生きる 
    劇場版 DVD」
 
国分拓 監督 NHK


国分拓著「ヤノマミ」を読み終わったあとの違和感、それはこの文献の感
想にも書いたことだが、このDVDを見てそれが何だったのか次第にはっきり
してきたのを感じる。3度の訪問による150日間の長期取材でも心を開かな
いヤノマミの人と、長倉洋界氏の写真や文献に登場するヤノマミの人とのま
るで別世界とも感じる差。それはこのDVDの最初に登場するヤノマミの男性
が取材陣に対して「お前たちは味方なのか、敵なのか、敵だったら殺すぞ」
と詰め寄る場面、そうこの場面に私が感じた違和感の全てがあるのかもし
れない。確かに今までヤノマミに対して何の知識もない人にとっては、生ま
れたばかりの胎児を人間として迎えるか、殺して精霊として天に返すかの
決断をする女性の姿や、先進国顔負けの結婚前のおおらかな性など衝撃
を受ける内容であり、長倉洋海氏の文献や写真でもそれは出てこない。世
界各地に住む先住民族の精神文化の中でも特異な位置にヤノマミは立って
いるのだろう。ただ、フィールドワークという点でこの作品を見ると最初の交
渉から失敗であったと思う。「ブラジル政府、および部族の長老との10年近
い交渉の末」と書いてあるが、長倉洋海氏は何の連絡もせず、ただ先住民
活動家アユトン・クレナックと共に訪問しただけで彼らの警戒心を解き彼ら
の素顔を撮影できたのである。10年近くも交渉しながらヤノマミの男性に
「敵だったら殺すぞ」と詰め寄られること自体、取材陣の認識の甘さを指摘
されても仕方ないのだろう。これと同じようなことがNHKの放送大学の「先住
民講座」の中でも見られた。司会のスチュアート・ヘンリ氏がイヌイットなど
先住民族のカテゴリー分け必要だと指摘したのに対し、若いフィールドワー
クをしている2人の研究者が共に「同じ民族でも一人一人違う」ことを強調
されていたが、それだったら別に外国まで行かなくても近くのお爺ちゃん、
お婆ちゃんの姿を追えばいいのである。何故、外国に住む先住民をフィー
ルドワークの対象としているのか、その原点(自分が何故彼らに惹かれた
のか)を忘れ、自分の研究対象が唯一無二のものだと近視眼的な捉えかた
に囚われていることに気づきもしない。横道にそれてしまったが、NHKの取
材陣も10年という準備期間があったのだから、文献なり情報を集め、何を
写し、何を日本の人に伝えたいのか明確な意思を持つべきだったと思う。
150日間も一緒に生活しながら、彼らの警戒心を解けなかったことを猛省
すべきであり、この作品が放送文化基金賞優秀賞受賞したこと自体、滑稽
なことに感じられてならない。ただ、多くの人にこのような特異な精神文化を
持つ先住民がいることを知らしめた事実だけは認めなくてはいけないのだ
ろう。

アマゾンの最奥部で、1万年以上独自の文化・風習を守り続けている人々、
ヤノマミ。ブラジル政府、および部族の長老との10年近い交渉の末、撮影陣
は「ワトリキ」(風の地)と呼ばれる集落に150日間にわたって同居することを
許された。集団で狩りを行い、獲物を全員で分け合う自給自足の暮らし。豊
かな実りに感謝をささげる祭り。天の精霊たちと会話するというシャーマンの
姿。大らかな性、そして「人間として迎えるか、精霊として天に返すか」を母親
が決める出産。「生と死」、「聖と俗」、すべてが剥き出しのまま同居するヤノ
マミの生活。その姿をとらえたドキュメンタリー。NHKで2009年に放送した同名
番組に未放送映像を加え再編集した劇場版を収録。(本DVDより引用)

「アユトン・クレナックの言葉」

「人間が好き」アマゾン先住民からの伝言 
写真・文 長倉洋海 福音館書店


「鳥のように、川のように」森の哲人アユトンとの旅 
長倉洋海著 徳間書店


「悲しい物語 精霊の国に住む民 ヤノマミ族」
アルナルド・ニスキエル作 エドムンド・ロゴリゲス絵
田所清克・嶋村朋子 編・訳 国際語学社


 




 

この文献の詳細ページへ 「ヤノマミ」 
ヤノマミ、それは人間という意味だ 
国分拓 著 NHK出版


どちらが真実のヤノマミ族なのか? 本書で紹介される出産における
驚愕の事実や長期滞在にも関わらず、警戒感を持ち続けるヤノマミ族の
「ワトリキ」村の人たちと、長倉洋海氏がヤノマミ族「デミニ」村を撮った傑
作写真集「人間が好き」そして日々の触れ合いを綴った「鳥のように、川
のように 哲人アユトンとの旅」で紹介される人たちの陽気な笑顔と深遠
な言葉。200以上も分散しているヤノマミの村落だが、「ワトリキ」と「デミ
ニ」の村は地理的に非常に近い場所にありながら、女性の祭の参加の仕
方や警戒心など異なっている。恐らくどちらの姿も真実なのだと思う。日本
でも北海道と沖縄では歴史・風習が違うようにヤノマミ族でもそれぞれの
村落が持つ歴史(金鉱堀りのガリンペイロなどや森林破壊、白人の接触)
がそうさせたのかも知れないし、また違う理由があるのかも知れない。
本書に紹介されている長老の一人が「あなたたちはしっかり広めて欲しい。
自分の家に帰って家族に話して欲しい。ナプ(ヤノマミ以外の人・主に白
人)が来る前、ヤノマミは幸せだったと。ナプが病気を持ってきて、私の父
も母も祖父も祖母も叔父も叔母もみんな死んでしまった。私は一人ぼっち
になった。こんなことは二度と起きて欲しくない。ヤノマミがナプの病気で
死ぬところを見たくない。私たちは逃げた。山の中を歩いた。その時もた
くさん人が死んだ。今、ワトリキにいる者は生き残った者たちだ。とても苦
しい思いをしてきた者たちだ。忘れないで欲しい。私たちはもっと大きな
グループだった。とても大きなグループだった。その頃のことを思い出す
と、今でも苦しくなる。思い出すだけで悲しい。どうして、私たちの祖先の
土地でそんなことが起きたのか。あなたたちはしっかり伝えて欲しい」と
訴えているように、悲しい記憶が「ワトリキ」の人たちに突き刺さっている
のだ。

ヤノマミの世界では、生まれたばかりの子どもは人間ではない。精霊な
のだ。女が妊娠するのも精霊の力によると信じられていた。まず、大地か
ら男の体内に入った精霊が精子となり、女の体内に入る。その時に天か
ら<ヤリ>という精霊が下りてきて膣に住み着く。ヤリがその場所を気に
入れば妊娠し、気に入らなければ妊娠しない。だから母親の胎内に宿る
命も精霊で、人間となるのは母親が子どもを抱き上げ、家に連れ帰った
時だった。モシャーニャは精霊として産まれてきた子どもを人間にはせず
に、精霊のまま天に返したのだ。 (中略)誤解のないように言っておきた
いのだが、ヤノマミの女たちは何の感情もなしに子どもを天に送っている
のではない。僕たちは、天に送った子どもたちを思って、女たちが一人の
夜に泣くことを知っている。夢を見たと言っては泣き、声を聞いたと言って
は泣き、陣痛を思い出したと言っては泣くのだ。ヤノマミのルール(掟と言
うより習慣・風習に近い)では死者のことは忘れねばならないのに、女たち
は忘れられないのだ。

僕たちの同居は闇の中で耳を澄ませるようなものだった。百五十日間、
僕たちは深い森の中でひたすら耳を澄まし、流れている時間に身を委ね
た。そして、剥き出しの人間に慄き、時に共有できるものを見つけて安堵
し、彼らの歴史や文化を学び、天と地が一体となった精神世界を知った。
それらは、僕たちの心の中にある「何か」を突き動かし、ざわつかせた。
深いところに隠れていたはずの記憶が甦ってくるように、心の奥底ざわ
つかせた。僕たちは、その得体の知れない「何か」と、答えの出ない対話
を続けることになったのだ。

「アユトン・クレナックの言葉」

「人間が好き」
アマゾン先住民からの伝言 写真・文 長倉洋海 福音館書店


「鳥のように、川のように」
森の哲人アユトンとの旅 長倉洋海著 徳間書店


「悲しい物語 精霊の国に住む民 ヤノマミ族」
アルナルド・ニスキエル作 エドムンド・ロゴリゲス絵
田所清克・嶋村朋子 編・訳 国際語学社


 
 

この文献の詳細ページへ 「ミュータント・メッセージ」
<真実の人>族の教え 
マルロ・モーガン 小沢瑞穂訳 角川書店


本書はオー ストラリアの砂漠に住む<真実の人>というアボリジニの
部族との四ヶ月にわたる旅を通して、著者が叡智と使命を授かったと
いう実体験を記したものとしてアメリカではベストセラーとなり、特にニュ
ーエイジの読者に広く受け入れられました。しかし、本書の虚偽はアボ
リジニ自身の手によって明るみに出され、この物語を真実と主張する
著者が講演の為に来日した際にも、アボリジニの方が抗議するために
日本にも来られています。この件は新聞紙上でも大きく報道されました
が、抗議の内容は下に紹介するページに詳しく書かれていますので、
是非お読みいただけたらと思います。実は日本でもこの文献はニュー
エイジと呼ばれる方たちを中心に、実際に起こった体験として受け入れ
られていましたが、このアボリジニの方の抗議の内容を知っているにも
関わらず、たとえこの文献が虚偽であっても自分自身に気づきを与えて
くれる素晴らしい文献であり、虚偽か真実かは自分とは関係ないという
認識がニューエイジの中で急速に広がりつつあるのを感じています。し
かし、この偽書によってアボリジニがどれだけの侮辱と痛みを受けてき
たか、それを感じ取ることが出来ない人間に、どんな気づきや素晴らし
い世界観が宿るというのでしょう。結果として本書で展開されるアボリジ
ニの偽世界観に強く傾倒していながら、真のアボリジニの精神文化の
破壊に加担している矛盾に心を痛めることもないのでしょうか。この文
献の著者のように、先住民族の精神文化を自己の名誉と私腹を肥や
すために利用する白人は後を絶ちません。土地を奪い、命を奪い、
同化政策によって先住民の自己基盤を破壊してきた白人が次にした
ことは、彼らの魂を金で売り飛ばすことだったのです。インディアンの
文献の中においても、多くの方の共感を呼び名著といわれている「リト
ル・トリー」
もそのような偽書の類ですが、世界中の先住民族がこのよ
うな新たな侵略にさらされている事実を知っていただきたいと思い、敢
えてここに紹介することにします。白人の破壊行為に目をつぶること、
それは私たち自身も先住民族への迫害に手を貸していることを意味し
ていると思います。

「アボリジニのメッセージ」は「MICA BOX HOMEPAGE」
の次のページで紹介されています。

http://www2.comco.ne.jp/~micabox/bun/ms1.html

 



未読の文献

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この文献の詳細ページへ 「夜明けへの道」はじまりの500年に寄せて アメリカ先住民は語る 
翻訳者 本出みさ 山尾三省 木村理真 高橋純平 松田トム 斉藤由佳 
大畑豊 坂口典和 北山耕平 宮田雪 弥永健一・光代 河本和郎 森田ゆり 
大羽正律 村上美理子 
人間家族 特別号 スタジオ・リーフ より引用


前書きにかえて

“インディアン・タイム”という言葉がある。杓子定規で時間割に追われる人間から
見れば、それはルーズでいいかげんとも写るが、どうして奥のある言葉だ。物事
は、時が来ないと進まない。自然が時を教えてくれる。人間が決めるべきコトで
はなく、自然という神の采配によって時が決まり、コトはそのように進む、という
意味である。本書はまさに“インディアン・タイム”で進行した。ちょうど一年前、
モホーク事件を(私の知り得た限りにおいて)まとめた小冊子「The Sacred Hoop」
を出版したときから始まった。以来、「五百年」という言葉のその重みが、呪文の
ようにくり返されて交錯した。「五百年」・・・・何という歳月であろう。地球の年月か
ら見ればわずかな時間かもしれないが、人間の罪という面から考えると、気の遠
くなりそうな長い年月である。コロンブスのアメリカ大陸到来にはじまる影響は、
南北アメリカ大陸だけの歴史の変化だけでは断じてない。地球上のすみずみに
まで波及し、そして現代という結果につながっている。日々エントロピーを増やし
つづける人間の勝手な行為、今なお行われている侵略・戦いの数々、そしてなお
も残る奴隷制。五百年前のことではなく、現在のことである。世界中の誰もが、
この五百年間に行われてきたことごとに決して目をつむってはならないし、心に
きざまなければならない時だ。本書の作業は、アメリカ・インディアンの人たちに
「あなたにとっての五百年とは?」という質問を投げかけることから始まった。
どれだけの人たちが、それに応えてくれるか見当もつかなかった。ただ待つしか
なかった。もしかしたら、ひとりも応えてくれないかもしれないとさえ思っていた。
結果は、レポートやエッセイ、インタビュー等が、次々と亀の島から送られてきた。
彼らへの質問は、同時に「わたし自身」への問いかけであり、「わたし」のアイデ
ンティティーを探る旅でもあった。そして「ホピの予言」の上映活動や「セイクレッド・
ラン」を通して北米先住民族の世界を垣間見、アイヌの文化にふれ、それらの奥
の深さにただ圧倒されるばかりの「わたし」を知ることであり、「五百年」を学び直
すことは「すべてにつながる」ことでもあった。浅学、未熟な私には、歴史の史実
を語ることなどとても出来ない。充分な内容の歴史書はすでに出版されているの
で、それらの史料を読んでいただきたい。本書は、インディアン・タイムの進行の
結果、少しの背景の説明と、現実問題のレポートを載せているが、主として現在
生きている先住民族の生の声をレポートしている。彼らからのメッセージが「夜明
けへの道」につながらんことを心から切望し、どうかゆっくりじっくり時間をかけて
お読みいただきたい。また本書は、たくさんのネイティブ・アメリカンの人たち、
日本の人たち、そしてアイヌ民族の想いによって出来上がった合作の本である。
それらの運搬係のつもりで、企画、監修にたずさわらせていただいた。そして92年
10月12日、フルムーンにあたるコロンブス・ディに、本書を亀の島に奉納させてい
ただく。
All my relations 
ソンノ イヤイライケレ(本当にありがとう - アイヌ語) 
堀越由美子 
(本書より引用)

 
 
  この文献の詳細ページへ 「癒しのうた マレーシア熱帯雨林にひびく音と身体」 
マリナ ローズマン著 山田陽一&井本美穂 共訳 昭和堂


民俗音楽学の観点からすると、本書の特色はつぎのような点にあるといえる。
まず、民俗音楽学と医療人類学を有機的に結びつけていること。音楽は音楽の
みで成立しているわけではなく、だからこそ民族音楽学はこれまで、音楽と社会、
音楽と儀礼、音楽と信仰、音楽と感情など、さまざまな音楽的な結びつきの解明
をこころみてきたのである。本書もまた、そうした結びつきの解明を音楽民族誌
的な基盤としている。だが、そうした基盤のうえに立ちながらローズマンは、音楽
と癒しという、テミアーの社会と文化におけるさらに深い次元の結びつきに果敢
に踏みこもうとした。本書はその先鋭的な試みの成功例なのであり、音楽kと癒し
の力とのつながりを、本書ほど精微に、かつ説得力をもって論じた例はほかに
ない。

本書のもうひとつの特色は、「音」という聴覚領域をほかの感覚領域と統合的に
関連づけている点にある。テミアーの音がもつ癒しの力とは、たとえば「影」とい
う視覚領域や「匂い」という嗅覚領域との相互作用をとおしてはじめて発揮される
のであり、その相互作用を綿密に記述することによって、本書は感覚人類学の
ひとつの優れたモデルとなっている。また本書が、さまざまな感覚をつなぐ基盤
として「身体」をとりわけ重視していることも、これからの民俗音楽学にとって欠く
ことのできない視点をあたえてくれている。人間にとって、音を生みだし、それを
受けとめるという音の経験は、身体的経験にほかならない。本書は、テミアーの
音の経験が、魂や匂いや影とともにいかに身体に根ざし、いかに身体から立ち
あらわれ、いかに身体と響きあうかを、じつにダイナミックな筆致で描きだしてい
るのである。
(本書 訳者あとがき より引用)


 
  この文献の詳細ページへ 「アボリジニー神話」 
K.ラングロー パーカー編集 松田幸雄訳 青土社


これらの伝説は重要である。これらの伝説は、当時父の牧場に住みキャサ
リン・フィールドの名前でアボリジニーのなかで育った、ラングロー・パーカー
夫人によって50年以上前に集められた。子供のとき、彼女は溺れたところを
先住民に助けられた。既婚女性として、ニュー・サウス・ウェールズ州ナーラン
・リヴァーのバンゲート牧場で、彼らに混じって生活をつづけた。彼女にとって、
彼らはなによりもまず遊び相手であり友人だった。彼らへの興味はのちにます
ます広がりさらに学問的になったが、そのために人間関係の温かさが冷える
ことはけっしてなかった。彼女自身の同情的だが客観的な態度に援けられて、
ようやくこれらの伝説や物語は、初めて彼らのことを語った黒い人たちの呼吸
で躍動的に劇的に生き生きと語られることになった。さらに、オーストラリア人
にとって新鮮で南十字星のような親しみ慣れた感じもする、イメージによる魅力
も加わっている。伝説は、成人の知恵をもつにもかかわらず、その単純さにお
いては子供っぽく、また詩的な特質をもっているので、子供たちのみならず若
い人たちにも、心から親しみを覚えさせてくれるだろう。明快な性格描写と、
人間の基本的な行動や動機についての鋭い理解は、美しいし面白い。(中略)
パーカー夫人は、事実、もっぱらオーストラリアの先住民を仲間として扱って
書いた、最初の人たちの一人だった。それどころか、おそらく彼女は、英語の
文章で彼らの思想や言葉を語り直したことにおいて、彼らが自分たち自身と
その生活条件をどう見ているかを広範に述べた最初の人だったろう。(中略
)最後に申し上げるが、パーカー夫人が書いたユアーライイに人びとは、赤ん
坊が良い子になるように、あるいは丈夫で賢く育つように、あるいは彼らを
危険から守るように、彼らに呪文の歌を歌って聞かせる魅惑的な習慣を持っ
ていた。国家の成長期にある現在、悲しくも過去に濫用された、かの歌が思
い起こされていいだろう。その歌は、世界のなかで自分の道を行きはじめた
ばかりで、すべてのものを求めて手を差し伸べる子供に向かって、いつも歌わ
れていたのだった。

「親切にせよ、
ものを盗むな、
他人のものに手を触れるな、
そんなものは放っておけ。
親切にせよ」。

本書 はじめに 1953年 H/ドレーク=ブロックマン より引用


 
  この文献の詳細ページへ 「エスキモーの民話」 
ハワート・ノーマン編 松田幸雄訳 青土社


北極圏および亜北極圏たちは、その無数の文化の中心につねに民話をもって
いた。本書は、わずか百十六の物語を採録したにすぎないが、その範囲は、地理
的な起源からみると、日本の北海道からはじまり、シベリアを抜け、グリーンランド
に渡って、カナダを横切り、ベーリング海のアリューシャン列島までおよんでいる。
大地とそこに住んだ太古の人びとがつねに変転を続けていた「深い時間」、すなわ
ち「溯った時間」と、比較的新しい過去の出来事とを描いて、北方民話は、人間と
動物たちの語り口をそのまま伝え、風景---大針葉樹林帯、ツンドラ、山々、平原、
北方樹林、ジグザグの海岸線、海---の様子を語る。北方の世界がここに表され
ているとはいうものの、村々に伝わる民話の驚くべき内容の豊かさと多様さは、ど
んな本のページをもってしてもとうてい伝えることができない。いかにも語族が入り
組んでいるので、少なくとも一つの物語が三十五の異なった部族から集められて
いる。しかし、一部のエスキモーやインディアンの人たちは、それに該当しない。
十八および十九ページの部族の領域は、少なくとも彼らの分布状況を示すだろう。
(本書より引用)

 
 

この文献の詳細ページへ 「シャーマンの弟子になった民族植物学者の話 上下巻」 
マーク・プロトキン著 屋代通子訳 築地書館


「シャーマンの弟子」を世に問うには、いまが絶好の時期であろう。環境がとて
つもない勢いで破壊され、人口が目の回るような勢いで増えつつあることを考え
ると、熱帯雨林と、その周辺に暮らす人々のこわれやすい文化を保護するため
には、少なくとも今世紀末までになんらかの手を打たなくてはならない。作家とし
ての才能と科学者としての洞察力に恵まれた著者の手になる魅力的な本書は、
熱帯雨林保護のために大きな役割を果たすことだろう。マークは、熱帯雨林と
そこに住む人々が存在することの意味の重さを、人の心を動かさずにはおか
ない、痛切な言葉で訴かけている。したがってこの本は、植物学、民族植物学
のみならず、人類学、熱帯医学、シャーマニズム、そして熱帯地方の環境保護
に関心のある方ならどなたにも読んでいただきたい傑作となっている
(本書 序 リチャード・エヴァンズ・シュルツ博士 
ハーヴァード大学植物博物館 より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「ダライ・ラマが語る 母なる地球の子どもたちへ」 
ダライ・ラマ14世 ジャン=クロード・カリエール 
新谷淳一訳 紀伊国屋書店


二人とも、説教臭い本のリストにさらに一冊を加えたくなかった。つねに開か
れ、予想を裏切り、なかなか接近できない領域へいざなう、そんな真の対話に
したかったのである。私は、敬意を払うあまり過度に緊張するのも、無意味に
なれなれしくするのも、どちらも避けようと努めた。私の方が長々と話し続けた
こともあったが、それはダライ・ラマが促したからである。ダライ・ラマは、とき
おり私にうかがいを立てるだけではなく、ありがたいことに、私の話にじっと耳
を傾けてくれるのだった。したがって、この本を研究や発表と考えて欲しくはな
い。いわば、最高の相手と二人で出かけた散歩、秩序を持ちながらも混沌し、
集中力だけは欠かさない散歩として、あるがままに受けとって欲しい。はっきり
ことわっておくが、仏教の教義の多くの点については、ほんの軽くふれただけで、
大乗仏教のきわめて複雑な思弁についても、論じたなどととうてい言えない。私
が一番重視したのは、過去も現在も、ときには現在の方がより激しく私たちを
揺さぶっている人間をめぐる現象のいくつかについて、飾らずに語る声、その
たびごとに二千年以上の思索と経験に基づいて語る声に、耳を傾けることで
あった。


 
 

この文献の詳細ページへ 「生命の大地」
アボリジニ文化とエコロジー 
デボラ・B・ローズ著 保苅実訳 平凡社 より引用


「生命の大地」の執筆は、1992年にオーストラリア遺産委員会から要請されま
した。遺産委員会は、多少の教育を受けた人なら読める、アボリジニの人々と
カントリーの関係を説明している本を求めていたのです。高度に学術的な記述
は望まれていませんでした。わたしも、学術的な言語を使わずにアボリジニの
人々の複雑な思想を記述するという方針に同意しました。本書の執筆を依頼
された背景には、一つの論争も関係しています。次のような主張があります。
「多くの西洋人は、原生自然に価値を見出す。なぜなら、そこに行けば、近代
的農場や街や郊外といった、変容してしまった景観から逃げ出して、心をリフ
レッシュすることができるからだ」。こうした主張をする人々は、そこに人間の
いない景観を求めていることが分かります。その一方で、アボリジニの人々の
あいだには、別の主張があります。アボリジニの人々は、自分たちの故郷が
「人間のいない景観」として定義されることに不快を感じています。かれらの
主張によれば、「原生自然」という概念には二つの重大な問題があります。
一つは、先住民が自分たちの故郷で暮らす権利が十分に認められていない
点、そしてもう一つは、先住民による積極的なカントリーへの働きかけが否定
されている点です。(中略) 「生命の大地」は対話的に記述されています。つ
まり、アボリジニの人々の言葉とわたし自身の言葉の両方を使いました。そし
てたくさんの詩歌を引用しました。なぜなら、こうした美しい言葉は、アボリジニ
の人々が環境とふれあうときの心や魂、喜びや情熱を雄弁に語っているから
です。散文ではどうにもならないことを、詩歌が可能にしてくれます。詩、歌詞、
あるいはもう少し格式ばった発言も使うことで、異なる言葉や思想のあいだを
いったりきたりしながら、文章を織りあげてゆきました。対話的記述は、脱植民
地化の文脈において、論理的な記述スタイルです。ある一つの権威が世界の
定義をくだすことが決してないからです。この記述はまた、読者に対しても開か
れています。「生命の大地」は、読者が自分の考えにもとづいて参加できるよ
うな、そんなスペースも残しています。アボリジニの人々の詩歌をぜひ声に出し
て読んでみてください。そして何を伝えているのか、よく聞いてほしいのです。
(本書 著者と翻訳者の対話 あとがきにかえて より引用)

 
 
  この文献の詳細ページへ 「アマゾンの白い酋長」 
マイク・ティッドウェル著 吉嶺英美訳 翔泳社


米国のジャーナリスト、マイク・ティッドウェルがエクアドル南部のアマゾンに
おもむき、コファン族と石油資本の闘争、コファンの人々との交流、そして米国
人とコファンの間を揺れ動き、ついにはコファンの酋長としての人生を選ぶ米国
人、ランディ・ボーマンの人間像を綴ったノンフィックション。 (本書より引用)


本書は、ノンフィックションでありながら、冒険小説のような展開を見せる。石油
会社による自然破壊の脅威、自分たちの生活の場を守るために闘うコファン・
インディオ、彼らを率いる白人酋長ランディと石油会社との攻防。このようなストー
リー全体の物語としての面白さもさることながら、本書の魅力は著者の語り口に
よるところが大きい。この物語は「本当はこんな問題に首を突っ込みたくなかった
のに」と後悔しきりの著者のぼやきで幕を開ける。インディオたちのやりとりや、
西洋の現代人である自分がジャングルでいかに無力かを語るときの抑制のきい
た、時として皮肉まじりのユーモア。そして、インディオたちが失ってしまった、また
は失いつつあるものに思いを馳せるときの感傷的な口調。訳者としては、ストー
リー展開同様に雄弁な語り口をできる限り日本語に反映したいと願ったが、それ
が達成されたかどうかは読者の判断に任せるよりほかはない。私がクスリと笑っ
た場所で皆さんが笑い、しんみりとした場面で同様に感じていただければこれほ
ど嬉しいことはない。
(訳者あとがき 吉嶺英美 より抜粋引用)


 
 

この文献の詳細ページへ 「ソングライン」 
ブルース・チャトウィン著 芹沢真理子訳 めるくまーる


一見ノンフィクションの観を呈している本書は、ブルース・チャトウィンが
長年にわたって暖めてきた「遊牧民理論」のいわば集大成といえるものだ。
彼は1987年に本書を発表し、その二年後の1989年1月、惜しくもこの世を
去った。オーストラリア全土に、先住民アボリジニが放浪生活をしながら
たどる、目に見えない歌の道があることを知った主人公ブルース・チャト
ウィンは、それを自分の目と耳で確かめようと、はるばる英国からこの
“さかさま国”へやってくる。彼は、オーストラリア生まれの“ロシア人”アル
カディに導かれるままに、アボリジニの精神世界のもつ深遠な美しさに触
れ、そしていつかこの旅は、彼の生涯のテーマである「人はなぜ放浪する
のか」という問いに光を当てる行為へと繋がっていく。欧米人がソングライン
と呼んだ、このオーストラリア大陸全土にまるで迷路のように延びる歌の道
は、アボリジニにとって、“祖先の足跡”であり、“法の道”だった。アボリジニ
の何百という種族には、それぞれに固有のトーテムがある。各トーテムの
祖先は“夢の時代”、つまり神話の時代に、この大陸をさまよい歩きながら、
旅の途中に出会うあらゆるもの---生きものもそうでないものも---の名前
を歌に歌い、そしてその歌うという行為によって、彼らはこの世界を存在せ
しめ、あるいは創造していった。歌に歌うまで、土地も、土地の上にあるな
にものも、存在することはなかった。彼らは、すべてのものは地面の下で
歌に歌われるのを待っていると考えた。白人の持ち込んだランドクルーザ
ーや鉄道でさえ、地面の下でじっと眠っていたと考えられていた。種族の
子孫たちはそうした自分たちの祖先の歌を受け継いだ。そして歌を歌い
ながらソングラインをたどって、彼らの土地を、いままでどおりの姿のまま
に再創造していった。こうした歌はまた、彼らのアイデンティティを、彼らの
属する場所を保証してくれるものだった。
(本書より引用)

 
 
  この文献の詳細ページへ 「精霊たちのメッセージ 現代アボリジニの神話世界」 
松山利夫著 角川書店


アボリジニの人びとは、この国とは無縁な歴史時間の中で、神話を語って
きた。冒頭に述べたとおりである。したがってその神話は、大地の創造を語り、
太陽や月、星の誕生を説明し、人がどうして生まれ、人びとの社会組織がいか
にして形成されたのかを語る。その中には、わたしたちにはなじみにくい話も
ある。「人が大地に生まれでたころ、空は低くて木々はいまよりずっと小さかっ
た。だからユーカリの梢に登って天をつかみ、空にのぼって人が月になった」と
いう話などは、その例かもしれない。しかしこの場合、月が生命をもつと考えた
らどうだろう。月の満ち欠けは死と再生、つまり生命の不滅を語り、その生命を
いま地上に暮らす人も共有しているとしたらどうだろう。そう考えれば、あなたと
わたしの生命は、わたしたちの体に一時的にやどっているにすぎないという論理
が導ける。狩猟採集をつづけてきたアボリジニの人びとは、カンガルーにも
エミューにも、水鳥にもハスにも、人と同じ重さをもつ生命の存在を認めている。
それは魂といいかえてもいい。肉体が死をむかえても、魂が死なない限り、人に
も鳥にも動物にも死は訪れない。その魂を司るのは、大地と天空を含めたこの
世の構造をもたらし、人びとの社会の枠組をつくりあげた「夢の時代」の精霊で
ある。彼らは神話の中でそう語っている。神話はアボリジニの人たちの文化の
中核をなす哲学なのだ。少なくともわたしはそう考えている。だからこそ、神話を
語りつぐことによって、彼らはアイデンティティを確認し強固にして、現代という
時代を生きているのだろう。そうした彼らの神話を紹介しようとするこの本に、
いささかの主張があるとすれば、アボリジニの人たちが祖先から語りついできた
神話は、ただ単に語る神話ではないということである。それは彼らが白人と接触
する以前においてもいえることであり、接触後の200年をこえる歴史の中でより
明確になってきたことである。本編の最後を「第六章 神話を語ることの現代的
意義」でしめくくっているのは、そうした意図にもとづいている。
(本書 はじめに より引用)

 
  この文献の詳細ページへ グレートジャーニー「原住民」の知恵 
関野吉晴 著 知恵の森文庫


今、このままでは地球が危ないという声が、澎湃とわき上がっている。では、
どうしたらいいのか。そのような状態を引き起こした「責任者」の側から聞こ
えてくるのは、悲しいかな「地球に優しく」というスローガンだけである。私たち
は、これからの地球や人類を支える、新しいパラダイムを創出できない状況
に置かれている。どうすれば地球を、そして人類を持続させていくことができ
るのか。そのための知恵を持っているのが太古の時代から長いこと持続型
の社会を続けてきた世界の先住民たちだ。私は30年以上にわたって彼らと
暮らしを共にしてきた。彼らは自然の包容力と同時に、その怖さを体験して
いる。クッションを厚くしすぎたために起きている負の側面は、私たちが自然
の一部であることを忘れてしまったことによって起きている。いくら科学の力
が偉大だといっても、植物のように光のエネルギーを使って、二酸化炭素と
水から自分自身を構成する材料さえ作ることさえできない。科学と科学技術
にもおのずと限界があるのだ。彼ら先住民の暮らしや考え方の中、つまり
文化の中に私たちが生き延びていくために必要な重要なヒントが詰まってい
るのではないか。もちろん、そっくりそのまま活かせるなどと言うつもりは
毛頭ない。ただ、彼らが培ってきた知恵の数々の中に、私たちの「落し物」
「忘れ物」を見つけることができると思うのだ。現代人はともすると、彼ら
先住民を「遅れた人びと」「未開の人びと」などと考えがちである。彼らを称
するときによく使われるもう一つの言葉、「原住民」には、そうしたニュアンス
が色濃くこめられている。しかし、断じてそんなことはない。本書のタイトルを
あえて「先住民の知恵」ではなく「原住民の知恵」としたのも、そうした誤解、
偏見、差別などの意識を払拭することから第一歩が始まると考えたからで
ある。そのような視点から、一人でも多くの人が、利用可能な発想や生きる
ための技術を発見してもらえれば、これに勝る喜びはない。
(本書 はじめに より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「先住民」 コロンブスと闘う人びとの歴史と現在 
上村英明著 解放出版社


1993年は、国連の制定した「国際先住民年」に当たり、アイヌ民族を含め、
先住民族の権利回復運動が大きな飛躍をとげる歴史的な「チャンス」と言える。
しかし残念ながら、この日本では、「国際先住民年」に対する関心は市民から
行政まで極めて低い。解放出版社から、先住民とは、どういう人びとで、その
人権がどういう状況に置かれているのかという視点から、本を執筆しないかと
連絡を受けた時には、正直に言うと、躊躇してしまった。先住民族は北極圏か
ら南太平洋までの世界各地で、それぞれの生活を営んでいる。先住民族とし
ての共通の運命を背負っているが、その歴史的背景、そして、文化や価値の
独自性に至っては、実に千差万別であるからだ。そもそも、先住民族の歴史と
現状、権利を一冊の本にすることなど、それこそ、無謀な冒険以外のなにもの
でもない。しかし、例え「冒険」であるにしても、誰かがやならければならないと、
しばらくして、思い直すようになった。それは、第一に、日本における先住民族
の権利問題への関心があまりに低く、ある種の総括的な入門書が、どうしても
必要であると痛感することが何度かあったからである。第二に、国際的な先住
民族への関心の高まりに影響されて、先住民族の権利問題が紹介されるよう
にはなってはきたが、そうした紹介も、上澄みだけをすくうことが多く、基本的な
問題や、その歴史がすっぽり抜け落ちている場合が少なくないからである。
先住民族との共生は、言語や風俗、伝承、行事それだけを取り出し、記録し
たり、保存したりして達成できると思われた時代から、はるかかなたに進んでし
まった。現在では、民族自決権や土地権、資源権、環境権が世界各地で議論
されており、その土俵の上で初めて、文化や伝統の維持、発展の問題も検討
されるという時代になったのである。こうした状況を理解してもらうためには、
誰かが先住民族の置かれている世界的状況とその歴史を包括する本を書く
という「冒険」を行うことしかなかった。
(本書・あとがき 上村英明 より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「スピリット・ジャーニー」 バリの大地からのメッセージ 
マディ・クルトネゴロ著 武内邦愛訳 アート・ダイジェスト


現在バリに住む人々の大部分はイスラムに追われて14世紀頃ジャワ島か
ら移住して来たマジャパイト王朝の末裔たちだ。インドネシアの多くの地域が
イスラム化したのとは対照的に、バリでは全人口の90パーセントがヒンドゥー
教徒である。しかしインド・ヒンドゥー的要素はかなり外面的なものであり、ど
ちらかといえばバリ本来のアニミズム的要素が強く、ヒンドゥー、仏教、アニ
ミズムが混在した観がある。バリ人の生活は公私を問わずすべて宗教に
裏打ちされたものであり、島中に何万という寺院があり、毎日どこかで祭礼
が行われている。バリの宇宙観を一言で表わすならば、それは『善と悪、
生と死、光と闇の二元論宇宙』であり、この世はその両者の終ることのない
闘いの上に成り立っているというものだ。そうした宇宙観はこの作品の底流
にも一貫して流れているような気がする。

さて、マジャパイト王朝の人々がバリに渡来する600年ほど前に、いちはやく
ジャワから移住してきた人々がいた。それが現在“バリ・アガ”と呼ばれている
人々である。バリ・アガの村はバリの中にも数箇所あるが、バリ島東部にあり、
三方を山に囲まれたタガナン村は中でも特異な村といわれている。本書の
原題は、“The spirit Journey to Bali AGA,Tenganan pegringsingan”となってお
り、物語の語り部である「霊魂」が、タガナンに住む一組の父子の家に舞い降
り、村の歴史を父が語って聞かせるのを耳にするところから劇中劇が展開して
行く。民話集としての形式をとってはいるが、その裏には深い精神性が流れて
いる。「霊魂」が著者の全くの想像上の産物なのか、あるいは現実の霊的経験
によるものなのか定かではない。彼の著作は米国、西独でも出版されており、
特に米国版「スピリット・ジャーニー」はスピルバーグ監督作で有名な「カラー・
パープル」の原作者アリス・ウォーカーの発掘により、彼女の所属する出版社
から発行され、アリス自身が紹介文を書いている。


ここ数年のエスニック・ブームも手伝ってかバリに魅かれる人は多い。だがいざ
バリ文化について知りたいと思うと、似たような旅行ガイドか、はたまた難解な
文化人類学の本ばかりで、気楽に読める民話の様な本は皆無といってよかった。
現在バリは観光開発で大きく変わりつつある。開発が文化破壊の一面を持って
いるというのは皮肉な事実であり、異国を旅する者としてはその様な破壊活動に
できる限り荷担しないよう努めるべきだと私は思う。金にまかせて土産物を買い
漁るのではなく、文化を学ばせてもらうという謙虚な態度こそが旅行者に最も求
められるのではないだろうか。触れ合いの旅を志向する“スピリット・ジャーニー
(精神の旅人)”の心のガイドブックとして本書が少しでもお役に立てればと、訳者
として祈る次第だ。
(訳者あとがき 武内邦愛 より抜粋引用)

 
  この文献の詳細ページへ 世界差別問題業書
「増補 アボリジニー オーストラリア先住民の昨日と今日」
 
鈴木清史 著 明石書店


もともと本書は、オーストラリア社会におけるアボリジニの状況を総括的(マクロ)
視点から描いている。この視点は、アボリジニのように被差別者で少数民族という
社会的な弱者の状況を考えるのには必要であり、全体的なアボリジニの状況を
把握するうえでは重要である。しかし、同時に筆者が現在では、文化人類学的な
視点から都市部のアボリジニを対象とするようになったせいか、アボリジニが何を
必要として、何に向かって生活をしようとしているのかを知るうえではもっと微視的
(ミクロ)な視点からの研究があってもよいと考えるようになっている。幸い明石書
店では世界の先住民の現在に関してのシリーズが企画されている。この企画には
オーストラリアのアボリジニの巻も含まれている。そのなかでは全国のオーストラリ
ア研究者が中心となり、現地調査によって独自に収集した資料をもとに、今日の
オーストラリア社会でアボリジニがどのように生活しているのかを報告することに
なっている。アボリジニの描き方がミクロ的かマクロ的かということになれば、企画
中のアボリジニの研究書はマクロ的である。その意味では、これと本書は補完的
になり得ると思うので、関心のある読者は参考にしていただければ幸いである。
1993年1月 鈴木清史
(本書より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「もし、みんながブッシュマンだったら」 
菅原和孝著 福音館書店


むかし、むかし、日本という国の大きな町にひとりの少年が住んでいましたとさ。


こんなふうに、物語は始まる。それはとても単純な物語で、丸いお月さまが屋根の
むこうに顔をのぞかせた宵のくちに、ゆっくりとお話を始めたとしても、お月さまが
窓のむこうにみえるケヤキのいっとう高い梢をかすめるころには、もう終わってし
まう。若葉の匂いがきつくただよう五月の夜には、黒々とそびえるケヤキのほうか
ら、「ホッホー、ホッホー」という声が聞こえるだろう。たぶん、それは初夏にきまっ
て飛来するアオバズクの声なのだ。


少年は青白く病弱なチビで、いつも家の中で、とりとめもない空想にふけっていまし
た。彼がいちばん好きだった遊びは、プラスチックや陶器でできた小さな動物の
おもちゃを、畳の草原で走りまわらせたり、こたつぶとんの崖をよじのぼらせたり
することでした。少年は、まるで同級生たちが「長島選手」や「若乃花」に憧れるよ
うに、「百獣の王ライオン」に憧れました。大都会に生まれ育ったせいか、少年の
胸には、手のとどかない自然や野生への憧れがとても大きく育ってしまったのです。
やがて、そんな空想が高じて、少年は、動物学者になってアフリカに行こうときめ
ました。もう少年とはいえない年になってからは、幾人もの娘たちに恋をしたり、
ふられたりしながら、結局、ひとりの美しい女の人と結婚しました。それからすぐに、
ほんとうにアフリカに行くことになりました。毎日、サバンナを走ったり、急な崖を
よじのぼったり、川辺の森で昼寝をしたりしながら、ヒヒという大きな猿の仲間を
追いかけまわすようになったのです。結婚してから何年かたって、青年が、ふた
たびアフリカでヒヒたちを追いまわしているとき、母国では、かわいい赤ちゃんが
生まれました。あんなにきれいだった「お嫁さん」は、たくましいママさんになり、
あんなに頼りない青白いチビだった少年も、いつのまにか、アフリカの強い陽射し
でまっ黒に日焼けしたパパさんになっていたのです。その赤ちゃんに、パパは
由隆と名づけましたが、ママはいつのまにか「ゆっくん」という愛称で呼ぶようにな
りました。ゆっくんはちょっと変わった子でした。パパもママもその子をどんなふう
に育てていいのかさっぱりわからず、とても困っていました。何年かたってから、
もうひとりの赤ちゃんが生まれました。翔と名づけました。「しょうちゃん」が愛称に
なりました。この子のほうは、まるっきりふつうの子で、大きな声で泣いたり笑った
り、家の中がとてもにぎやかになりました。でも、パパは困った人で、またもや家を
留守にして、アフリカに行ってしまいました。子どものころからあんなに動物学者に
なりたかったはずなのに、どういうわけか気が変わって、アフリカの南のカラハリ
砂漠という土地に住むブッシュマンと呼ばれる人たちのことを調べるようになった
のです。そういう研究を「人類学」といいます。ついでにいうと、ブッシュマンという
のは白人が勝手につけた名前で、パパがお友だちになった人たちは、自分たちを
グイという名で呼ぶのです。この人たちと仲よくなってから、パパな何度もアフリカ
に通いつめました。だからパパのいない長い歳月のあいだ、ママは苦労して二人
の子を育てたのです。やがて、ちょっぴり変わり者だった赤ちゃんは、ちょっと変わ
った少年に育ちました。まるっきりふつうだった赤ちゃんは、ふつうの少年に育ち
ました。そして、ずいぶんいろいろなことがありましたが、あるとき、この一家は、
みんなでカラハリ砂漠に行き、ブッシュマンの人たちと会いましたとさ。おしまい。


ほら、読み終わるのに十分もかからない。あらすじにすれば、本の数ページぶん
におさまってしまう。けれど、じつは、こんな短い物語の登場人物にも、ずいぶん
いろいろな言いぶんはある。そのひとりひとりにしゃべらせたら、それはもう大変。

(本書 たき火の明かり より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「精霊の呼び声 アンデスの道を求めて」 
エリザベス・B・ジェンキンズ著 高野昌子訳 翔泳社


本書は、著者エリザベス・ジェンキンズの魂の渇望から生まれた、精神世界へ
の冒険物語である。カリフォルニアの大学院で臨床心理学を学んでいたジェンキ
ンズは、学問で満たされない心の「渇き」を体験する。目に見える世界の彼方に、
もう一つの世界があることを直感した彼女は、本能に導かれるまま、南米ペルー
のクスコへと移り住む。のっけからアンデスの呪術的世界に放り込まれた読者は、
インディオの儀式の闇に降臨する山の精霊、アプの魅力に取りつかれるに違い
ない。著者とアプとの緊迫した駆け引き、アプの住む山への巡礼、仲間割れ、さら
にアルゼンチンへと舞台を移す息をのむストーリー展開は、まさに冒険小説顔負
けの迫力に満ちている。アンデスの土着信仰に根ざしたアプとは、呪術師の起こ
すまやかしか、それとも現実か。聖なる秘物コズミック・プレートは、中世騎士伝説
に登場するあの聖杯なのか・・・・。数々の謎を秘めたまま、物語はいよいよ「アン
デスの道」の秘儀を明かす後半へとなだれ込む。
(本書より引用)

 
この文献の詳細ページへ『「予言」のゆくえ』これからの生き方を知るために 
エヴァ・ブックス サンマーク出版

暗い世相の中で真に必要とされるのは、環境問題をはじめとして、現代に山積する
問題を解決するヴィジョンや、未来に向けて意欲的に生きる力を創出する新しい価
値観である。近年、「予言」に関する数々の書物が刊行され多くの読者をつかんでい
ることからも推測できるように、その新しいヴィジョンや価値観がもたらしてくれる可能
性を、人々が「予言」に期待している一面もあるのではないだろうか? 社会不安が
増し、目に見えるもの、金銭などの物質的な価値しか信じられなくなってしまった現代
だからこそ、それ以外の道が模索されなければならない。そうでなければ、未来に対
する希望はすべて失われてしまうだろう。

本来の予言あるいは預言とは、いたずらに不安や恐怖をあおりたてるためにあるの
ではなく、〈地球上に生息する人類の文明や社会が全体としてどのような方向に向か
っているのか〉、また〈人類の進むべき道はこれでよいのか〉といった、経済や政治の
論理だけでは推し測れない、別な視点、別な方向性をもたらすために存在していたと
いう。

人間の精神性や信仰との関連で、現代のさまざまな出来事、人類の情勢を包括的に
とらえるための指針として予言をとらえなおすためにも、いま一度、予言(預言)とは何
かを探りながら、その真意に迫ってみたいと思う。

(本書より引用)




Walpi snake chief

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)







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