「巡礼の書」アッシジのフランシスコを賛えて

J.ヨルゲンセン著 永野藤夫 訳 中央出版 1976年刊(原本は1903年刊 明治36年)




2017年6月8日読了(原本は1903年刊 明治36年) 6月13日加筆




(本書より引用)


イタリア賛歌  J.ヨルゲンセン 


ローマ平野の真ん中の寂しい一本道、

緑の波うつ平野の中の白い広いわびしい一本道、

わたしの後ろには太陽、暖かい二月の日のかたむいた太陽、

わたしの前にはわたしの影、

わたしのまわりには静けさ、

わたしの上にはほの青い空高くに、

たえずさえずるひばり。


わたしは立ち止まって耳をすます。

わだちの音が遠くで消え、

人声が聞こえなくなる。

野の池ではかえるが一匹ないている、

ほの青い空高くには、

たえずさえずるひばり。


主よ、あなたは賛美されますように、姉妹なるひばりのために、

その歌はたえず流れる、枯れない流れのように、

歌の泉、幸せのみなもと、賛歌の噴水のように!


主よ、あなたは賛美されますように、白い道のために、

白い広い寂しい道のために、

それはわたしをたしかに、疑いもなくたしかにみちびく、

遠くの山なみの白い町々へ、

海べのたくさんの貝殻のように、

陽に照らされて光る白い町々へ!


主よ、あなたは賛美されますように、イタリアの町々、数々の町々のために、

ローマとフィレンツェ、ピストイアとルッカのために、

ジェノヴァとラッパロ、アッシジとペルージアのために、

ウンブリアの山々の中の寒村ラ・ロッカのために、

主よ、あなたは賛美されますように、オルヴィエトとシエナのために、

聖女シエナ、聖カタリナのシエナのために、

ヴィテルボとピザ、フォリニョとコルトーナのために、チヴィテッラのために、

リーパとベットーナ、聖クララのモンテ・ファルコのために!


主よ、あなたは賛美されますように、あなたの賛歌のひびくイタリアの全都市のために、

石の賛歌、大理石の賛歌、

金の地にぬられた色彩の賛歌よ!

主よ、あなたは賛美されますように、ジオットーの壁画のために、フィエゾーレの修道院の小房のために、

フィレンツェを見おろす丘の上のサン・ミニアトの輝く聖堂のために!

主よ、あなたは賛美されますように、サンタ・マリア・ノヴェラのために、

サンタ・クローチェのために、サンタ・マリア・デ・フィオリのために、

(夏の朝、噴水が水音をたて、晴れ着の農夫がたくさん高い石段を登ってミサへ行くとき)

ペルージアの司教座聖広場のために、

(ひえびえとした十月の朝、わたしがコーヒーを飲みながら)

あいたドアから洗礼堂の白と黒の大理石を見た、フィレンツェのカフェーのために!


主よ、あなたは賛美されますように、イタリア全土のために、

わたしがあこがれの的のように見たわずかのもののために!

ひばりがほの青い空へのぼるように、

魂は高く、高く、いよいよ高くのぼる、

思い出にいこい、希望にはげまされ・・・

主よ、あなたは賛美されますように、姉妹なるひばりのために、

ひばりのように空へ舞いあがるわたしの魂のために!


 


人間の本性を研究する者にとっては、清貧への権利のためのこのような戦いほど、驚くべきものはすくない。

この世では、誰でもが互いに富をめぐって戦い、その社会秩序の下では、人間の価値はその金銭によってはか

られ、「善」と「富」、「悪」と「貧」が同義語になろうとしていて、「無一物」と皆にわかると、どんな正直者もうさん

くさく見られる・・・こんな世界やこんな人間社会では、思えば不思議なことである。実に、清貧を我がものにする

ために全力をあげ、平和の中に清貧に生きる許可を得るまでは、いつかな休むことをしなかった人々が存在

したのだから。実に、彼らは清貧を天国と思い、決して天国から追放されないために、自分の知っている最高

権威へ直接おもむき、教皇の大勅書が炎をはく剣のように自分の楽園を守るまでは、安心しなかった。それどこ

ろか、教皇に対してさえ、この清貧の熱烈な崇拝者たちは戦った。つまり、アッシジの聖クララが病床にあってなお

も生きながらえたのは、サン・ダミアノの彼女の修道女たちのために、清貧の貴い権利を確保するためだった。

教皇庁がこの権利の保持を許さないかもしれなかったからである。そこで、教皇イノセント4世が請願をついに

認可したとき、彼女はほっとして永眠した。ジオットーが清貧を女性の姿に描いているのは、不当なわけではない。

なぜなら、清貧は女性のように愛され、崇拝され、偶像化されているからである。女性のように清貧は、その愛人

を幸福にし、狂喜させ、喜びのあまりうっとりさせ、歓声と賛美で満たさせることができる。はたして、黄金はどんな

百万長者を、その臨終にあたって、助けたり喜ばせたりできたろうか。だが、清貧の忠実な花むこフランシスコは、

歌いながら死を迎え、貧しいクララはサン・ダミアノのあわれな小房で、「わが神よ、おんみがわたしを創りたまえし

を、おんみに感謝したてまつる」と、歓喜の言葉を口にして亡くなった。人間は臨終にあたって、神に創られた恵み

を感謝することより、何かより高いものに到達できるだろうか。





だから、フランシスコ会の聖人たちの明るい晴れやかな喜びは、ほとんど目もくらむほどだが、暗く若い根にも

たとえられる。厳しい貧しい生活から咲きでる、美しい花なのである。祈りの歓喜、小礼拝堂の祭壇の前での恍惚

の境地は、礼拝堂の後ろの岩穴の中における、自己否定と世界放棄のほうびである。その岩穴の中には、やみと

寒さ、固い石と長い孤独な時間、断食、渇き、後悔の涙がある。そとのここには、光と自由、太陽と空、上からの

慰め、天国の予感、あふれる幸福の歓喜の涙がある。わたしたち現代のキリスト教徒は、どちらもあまりよく知ら

ない。昔の隠修士の生活の美点を知りながらも、彼らに従う力をもっていない。自分のキリスト教に誠意をもって

いるものの、昔の人の意志のように、わたしたちの意志は、燃え立って熱心に行動しようとはしない。慰めや光明

や喜びの見出せる礼拝堂を、恐らく訪ねるだろうが、魂が神に呼びかける暗い懺悔の小房は、さけるだろう。換言

それば、全く善く、全くきよく、全く愛に満ち、優しさに満ち、平和に満ち、謙虚に満ちることが大切であり・・・この

目的を達するために命をかけても、たりないほどであることを、わたしたちはもう確信していないのだ。福音書の

若者のように、異教徒ももっている律法の大切な掟を守ることで、すぐ満足してしまう・・・しかし、キリスト教の絶頂

まで、聖性のまばゆいばかり白い高峰まで登りつめること・・・それをわたしたちは、平気で他人にまかせ、なにか

とてもすばらしいことだが、なにかまた及びがたいこととして眺め、それはもう昔のことだと思っている・・・


(中略)


このような愛は現代においては、貧者に食物を与えるだけでたりたあの別の愛より、たしかにずっと珍しくなって

いる。しかし、自己のこのような愛を堅固にすることこそ、アッシジのフランシスコと最初の弟子たちにとって、主な

使命だった。彼らは全力をあげて、善くなることを目指した・・・聖性に至るまで善くなることを・・・そして、壁にかこ

まれた日当たりのいい庭のような、俗世を離れたきよい心の中に、霊の果実をみのらせることを目ざした。この

霊の果実は、恵みの太陽の下で熱し、その美しい名は、老練な庭師である聖パウロのことばによれば「愛、喜び、

寛容、柔和、善良、忠実、温和、忍耐」というのである・・・。



このような庭には、天使がこのんで出入りする。柔和な修道士とやさしい天の霊は平和と愛の同じ祖国に住むので

ある。しかし、必ずしも天使は、わたしたちのモダンな部屋に出入りしない。そこでは、心の暖かさより暖炉の暖かさ

の方が、聖霊の光より電燈の光の方が心配され、十字架像が壁にかかっていても、しかも芸術の香り高いものが

かかっていても、だからといってそれが、心の玉座についているわけではないのだから・・・。





ああ、イタリア、わたしのイタリアよ。わたしの見、感じ、愛するイタリアよ。わたしの理解し愛するように、故国の

人にお前に興味をもたせ、愛し理解させるのに成功するのは、いつの日のことだろう。ドイツはとうの昔に、わたし

たちの精神生活に移入されている。フランスとイギリスもそれにつづいている。イタリアのための余地が残っている

だろうか。わたしがフォンテ・コロンボで、フランシスコのイタリアと呼んだ、あの現実の、真の、深い、本物の、素朴

なイタリアを入れる余地が。わたしには人生の課題があるだろうか・・・この人生の課題は、故国の人々にあのイタ

リアを知らせることにあるのだろうか。それとも、わたしの仕事は全部むだで、むだに読み、書き、旅をし、遍歴して

いるのだろうか。時間を空費し、同胞や自分自身を誤解し、不可能な夢に一生ぎせいにしているのではなかろうか。

わたしは、詩人のうたっているように、とうに滅びた都市の方向を示している、街道から離れた孤立した道標のよう

な、人々の一人なのだろうか。そうだとすれば、どうしてそういう運命になったのだろう。なぜ、他人の愛するすべて

のものを、愛せないのか。なぜ古い都市や白ぬりの修道院への不思議な愛に、悩むのか。なぜ他の人々の生活

するように、発展と進歩をすなおに信じ、教会も教義もなく、神も悪魔もなく、来る日も来る日も平穏無事に、仕事や

義務や文学や観劇にかまけて、生活できないのだろう。なぜ他の人々はそれであっさり満足し、なぜそれがわたし

には全くつまらなく見えるのか。故国の誠実で立派な精神労働者は、わたしより利口で、偉大で、すぐれているの

だろうか・・・わたしは時代に反抗する者、むだなことをしてあがく者、人類にそむく悪人、文明にそむく大悪人なの

だろうか。他の人々は本当に信心ぶかい人々であり、良心に従って、父が天にいまし、永遠の故郷が星の上に

ある、と信じているのだろうか。人間の内奥の本質、生命の核心、存在の権利への信念が失われようとする時を、

誰が知らなかっただろう。その時というのは、文筆家が静かな書斎で、著作で述べたすべてのことの真疑を思いわ

ずらう時間である・・・自分の全創作が昔の大作家のそれにくらべて、くだらない駄作に思われて、詩人の手から

ペンがすべり落ちる時である・・・画家がうつろいやすい情緒をとらえて表現できないといって、絶望してカンパすを

ひきさき、つまらない石炭かつぎになって、なにも考えずに港へ行って、単調なつらい日々の労働をしたい、と願う

ような時である・・・それはまるで、魂の心臓がふいに鼓動するのをやめるかのようであり、生命は無意味な空虚の

ように、あわれな忘想のための狂人のいたましい戦いのように、大口をあいて人をのみこもうとする・・・それはまる

で、人の中のぜんまいが不意にはじけて、分銅ががらがらとたれさがったようであり、人は人生の課題も人生の目的

もなしに、だがあらゆる感情の中でもっとも恐るべき感情をもって、欺かれ、馬鹿者のように鬼火や幻影を追いかけ

たのだ、という感情をもって、そこに立っている・・・そして、馬鹿にされたというこの苦い感情には、それは当然なの

で、なぶりものにされるのがおちであるという、あのもっと苦い感情が、まじっているのだ・・・



わたしは不意に、ラ・フォレスタ修道院の中庭で、もう陽の光が見えなくなる。苦い燃えるような恥かしさと、どうしよう

もない絶望の他は、なにも感じない。有罪を判決された者が、一生の間思いちがいをしていたこと、自分の罪だから、

もうどうしようもないことを、認める瞬間に感じられにちがいないようなことを、いくらかわたしは感じる・・・存在の全きび

きびしい厳粛さが、重く粉砕するかのようにわたしにのしかかり、責任・・・生存する責任を、わたしは感じてぞっとする

・・・



その時、誰かがわたしの肩にふれる・・・びっくりして見ると、そばに年をとったフランシスコ会の修道士が立っている。

ふさふさした髪とゆたかなひげは銀灰色で、がっしりした目に焼けた顔には、若いとび色の目が光っている。この二つ

の大きいすんだ目は、不思議に父親のようにいつくしみ深く、わたしを見つめ、ほほえみが濃いひげから、明るくこぼ

れ出ている。彼は小さい帽子をちょっと脱ぐ。



・・・「アンジェロ神父です。ご用をおっしゃってください」と彼はいう。そして、わたしは彼の手、大きいやわらかい父親の

ような手を、難船した人が助けに来たボートの縁をつかむようにつかむ。アンジェロ神父はすぐわたしを、すっかり信頼

させてしまったので、すぐあとで二人でさし向かいにかけたとき、わたしはすらすらと彼に心中をすべて打ち明けるの

だった・・・



彼と話し始めるともう、わたしは救われるのを、いや、もう救われているのを感じる・・・わたしの感じでは、きょうまで

会ったことのない、この友であり、父である司祭が、わたしをまめやかに導くだろうし、しかもなんら人間的な動機から

そうするのではなく、ただただ、1900年前にナザレのイエスに与えられた命令のために、そうするのだろうということで

ある・・・世界中どこでも、カトリック司祭の足もとに行って座るなら、わたしはそこに同じ友と指導者を得、同じ父親の

ような耳がわたしの訴えを聞き、同じ父親のような心が神ご自身の愛に満ちたみ心と同じ調子で、わたしの幸不幸の

ために温かく鼓動する・・・これは、すべての心配を主キリストに帰する、という言葉の実現であり、これは、平和につい

てのイエスの大きい約束・・・「わたしはわたしの平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたし

は、この世が与えるようにして、それを与えるのではない・・・」(ヨハネ14・27)・・・の実現である。



わたしの告白はすむ。アンジェロ神父は、わたしの方へかがんでいう。


・・・「愛するわが子よ、あなたの疑いはよくわかります・・・カトリック側からさえ今日では、文化面でのプロテスタントの

優越とカトリックの劣勢が、より取り沙汰されています・・・プロテスタントが実際に多くの点で、特に技術的発明の分野

で、わたしたちにまさっていることは、わたしたちも十分みとめることができます・・・しかし、それは宗教と全く無関係で、

原因は全く別のもので、民族心理的な、あるいは全く地理的なものです・・・なぜなら、プロテスタントは北国の人々で、

この南国に住むわたしたちとは、別の気候をもち、わたしたちの全く知らない多くの欲求をもっています・・・必要は裸の

女性に紡ぐことを教え、プロテスタントにもそれを教えたのです・・・わたしが若い頃いたことのあるイギリスでは、パン

1つとオレンジ1個の昼食では、誰も満足しません・・・あそこでは、肉とビールがどうしても必要なのです・・・。こういうこと

は、どうしてもまた、より多くの労働と発明力と道具と機械を必要とします。肉とビールは、パンとオレンジより買うのに

高いからです・・・北欧がカトリック教会から離れなかったとしても、今と同じ対立を生じただろう、とわたしは思います・・・

北欧がまだカトリックだった時代にも、たとえばフランドルやドイツやドイツの都市では、工業が栄えていました・・・



だから、愛する友よ、そんな考えでまどわされないでください・・・イエス・キリストが聖なるカトリック教会をおつくりになり、

聖パウロもいっているように、この教会が真理の柱であり、土台であることは、永遠に真理でしょう・・・それを、あなたも

前に理解なさったのですね。でなかったら、おっしゃるように、カトリックに帰正されなかったでしょうから・・・もしあなたが

カトリックとプロテスタントの国々を比較し、恐らくまた他の点でも、たとえば道徳の分野でも、後者が前者に優っていると

認めなければならない時には、カトリック国が実際はどんなにかカトリック的でないかを、考えてください・・・そういう国々

がこの2世紀の間に、合理主義、フリーメイスン、懐疑主義、無神論によって、どんなにそこなわれたかを、考えてごらん

なさい・・・悪魔は特にカトリック教会に反抗しているのです・・・カトリック教会さえ転覆させたら、他の分離した宗派や、

もう今からがたのきている国教などは、あっさりやっつけられる、と思っているのです・・・だから、それらのものをさしあた

り存続させるでしょうから、それらには、わたしたちの所よりも、より多くの教会的生命があるように、時には見えることも

あるでしょう・・・



とにかく、これまた疑いのないことですが、神は教義的には不完全でも熱心なキリスト教に対して、信仰は正しくとも

生活はなまぬるいカトリックに対してより、より大きな祝福をあ与えになります・・・だからわが子よ、そんな考えを気に

かけないでください・・・使徒の書いているように、『真の言葉の正しい形式にかたくとどまれ』です。すなわち、聖なる

カトリック教会の初代教会時代より伝えられる教えに、かたくとどまりなさい・・・また新しい疑いにいざなわれたら、子供

が父親にいうように、つつまずに率直に打ち明けなさい・・・『神様、わたしはあなたに信頼いたします。真理へと導かれ

るように、心からあなたにお願いしたとき、あなたはカトリック教会へ導いてくださいました。あなたはわたしの創造主で、

わたしの父であり、わたしを邪道に落とし入れるような悪いお方ではありません。この世の父親は子供に、パンをほしい

といわれて、石を与えるでしょうか、魚をほしいといわれて、蛇を与えるでしょうか、いったいあなたは、信頼してお願い

する人々に、どうしてもっと多くよい贈り物をお与えにならないでしょうか』。こう神様にお話しなさい、そうすれば、元気

よくあなたの道をさらに進めるでしょう・・・」。



アンジェロ神父は沈黙し、わたしは立ち上がる。平和と確信と喜びが、あふれるばかりにもどってきた。わたしたちが

しばらくしていっしょに中庭に出たとき、わたしは、太陽が再び輝くのを見る。屋根の上には、空が青くひろがっている。


(中略)


それから、また陽の光の中に出る。老神父はテラスのような段々をつたって、また庭を案内してくれる。わたしは草の中

にはえている野草を少しつむ。彼はそれを見て、バラと迷迭香(めいてつこう・ロスマリン)の花束をつくってくれる。庭の

一番下の門の所で、彼はわたしに別れをつげ、わたしはひとりで石だらけの山道を下る。少し降りた所で、ふりかえって

見る・・・彼は門に立って、わたしを見送っている。わたしは帽子をふってあいさつする・・・すると、彼がゆっくり修道院の

方へ登って行くのが見える。ずっと上の門の所で、彼はもう一度ふり向く・・・最後の別れを送ると、それに答えてくれる

・・・そして、それから彼は中へ入る。「さようなら、アンジェロ神父様、わたしのやさしい父のような友人よ! さようなら、

アンジェロ神父様、もう二度とお会いできないでしょう!」





フォリニョはわたしにとって二つの名を、死んだ人と生きている人の名を、意味している。一人は、ここのフランシスコ

会の教会に埋葬されている。フォリニョの今は亡きアンジェラであり・・・もう一人は、司教座聖堂参事会員モンセニョル・

プリニャーニで、深遠なフランシスコ研究家として、知られ、「フランシスコ雑録」誌の学識ゆたかな編集者である。



故人がまず見つかる。すぐ見つかるようになっている。フランシスコ会の聖堂にそのお棺は、みごとな棺台におかれて

いる。わたしは感銘ふかく、思いにふけって、その前に立ちつくす。ではここに、聖アンジェラはいこっているのか。フォリ

ニョの小さい素朴な市民の娘である彼女は、夫や子供が亡くなると、全財産を貧しい人々にほどこし、聖フランシスコの

第三会(平信徒の会)に入会し、その会則に従って、その余生を祈りと労働と愛徳のうちに、目立たずひっそりと送った

のである。だが、この生涯は花を咲かせ、この魂は実を結び、この女性は一冊の本を書いたのだ・・・そして、この本は

時がたつにつれて、何度も版を重ね、何度もフランス語、ドイツ語、スペイン語、フラマン語に訳されている。この一冊の

本は、その内容の力だけによって、600年もの間、聖フィリッポ・ネリ、聖フランソワ・ド・サール、聖アルフォンソ・リゴリの

ような立派な人々にとって、智恵と生命の源泉となったのだった・・・



わたしはこのアンジェラの墓の前に座って、この本を開く。今では棺台の黄金の板のかげでミイラのような手になって

いるか、くずれて塵となってしまったあの手が、その昔書いた本である。わたしのよく知っている章が見つかる・・・

「贖罪のいろいろの道」である・・・



アンジェラはこう語っている。「ある日のこと、わたしはお祈りをし、主のご受難を思って心をひどく痛めていました。わた

しは自分の罪を測り知ろうとしました。その罪をつぐなうには、神のおん子の祈りや涙ばかりでなく、死とあのような死も

必要だったからです・・・



それからわたしは、自分の忘恩を量ろうとしました。この名状しがたい無限の善行に、なにをもってむくいているでしょう

か。罪をもってです・・・毎日の罪をもってです。復活を忘れ、お恵みに協力しないでです。一方では、神の無限の慈悲が、

他方では無限のわたしの不正と狂気が、これらすべてのものがわたしをみちびいて、一つの確かな洞察を得させました。

あらゆる種類の罪が、わたしに示され、同時にまた、イエスの苦しみがわたしたちを救われた、苦しみと罪も示されました。



わたしは、キリストが十字架にかけられるのを見ました。キリストはわたしに、なぜ十字架にかけられたのか、滅びゆく者に

なんのいいわけもないことを、お示しになりました。なぜなら、病気をなおすには、医者が病人が求めるもの以外は、必要

ないからです。つまり、人は罪を告白し、医者の命じることをせねばならないのです。治療には何もいらないのです・・・



それからわたしの魂は、キリストの血の中にある解毒剤のことがわかりました。解毒剤はただで分配され、それを受ける

善意だけを要求します。そこであらゆるわたしの罪が示され、からだじゅうに精神的な痛みを感じました。



そこで、わたしはいま学んだことに従って、神にわたしの魂と肉体のあらゆる苦しみをはっきり示そう、とつとめ、こう叫び

ました・・・『おお主よ、わが神よ、み手にわたしの永遠の回復をもち給う神よ! わたしが自分の傷をおん目の前に示しさ

えすれば、あなたはわたしをいやすことを約束し給いました! 主よ、わたしは弱さそのもので、わたしの内のすべては

けがれ、くさっていますから、わたしはあなたに自分の奈落の底から、自分のあらゆるみじめさと、四肢のあらゆる罪と、

魂のあらゆる傷と、からだのすべての傷とを、お見せします』。



そしてこんどは、自分のみじめさを数え上げて、いいました・・・『あわれみふかい主よ、わたしの救いをみ手にもっておら

れる主よ! ごらんなさい、これが、何度も高慢のしるしでおおった、わたしの道です。髪を巻いて、不自然な形にゆいま

した。それだけではありません、主よ! わたしのあわれな目をごらんください、不貞でいっぱいで、ねたみで血ばしって

います!』



こんなふうにわたしは、自分の四肢五体を告発し、そのあわれな話を語りつづけました。



イエスは、すべてを、じっとがまんしてお聞きになり、大変よろこんでお答えになりました。ひとつひとつのことに、お手持ち

の薬をお示しになり、わたしは、わたしの魂への無限の同情を見ました。イエスはおっしゃいました・・・



『わが娘よ、恐れてはいけないし、絶望してはならない! たとえお前が腐敗にけがされ、全く死んでしまっているとしても、

お前に与える薬を用いるなら、わたしはきっとなおすことができる。お前は精神的な病気について、長々とくわしく訴えたが、

お前の訴えはわたしの胸に反響した。お前が装身具によって、まやかしのほお紅で、髪に与えた不自然な形によって犯した

罪、人々に示して神への罪のもととなった、お前のすべての恥ずべき高慢、すべての虚栄、地獄で永遠のはずかしめを

受けるもとだ、とお前の思っている、すべてのみじめさ・・・これらはことごとくあがなわれている!



わたしはお前の罪を肩代わりし、つぐない、ひどく苦しんだ。お前の脂粉や香油のために、わたしの頭は髪やひげをむし

られ、いばらでつらぬかれて血を流し、杖で打たれ、あざけられ、軽蔑され、いばらの冠をかぶせられた!



お前はほおをぬり、不幸な男たちにそれを見せて、その気をひこうとした。わたしの顔は人々のつばきでおおわれ、こぶし

でなぐられてゆがみ、ふくれあがり、嘲笑の布でかくされた。



お前は、虚栄心であたりを見まわし、有害なものを見つめ、神のみ旨に背くのをよろこぶために、お前の目を使った。だが、

わたしの目はつつみかくされ、まず涙で、それから血で、見えなくなった。頭から流れおちる血で見えなくなったのだ。



お前の耳が・・・不用で悪いものを聞き、悪い言葉をよろこんでいたお前の耳が・・・おかした罪のために・・・わたしは、深い

測り知れない悲しみでわたしを満たした。恐ろしいつぐないをした。わたしは、いつわりの告発人、さげすみの言葉、侮辱、

のろい、あざけり、高笑い、神の冒涜(ぼうとく)、不正な裁判官の死刑の判決、わたしの母の泣き声を聞いた。わたしは

彼女の同情の言葉を聞いた。



お前はぜいたくの味を知り、飲みものを乱用した。だが、わたしの口は飢え、断食で渇ききっていた。わたしは気つけと

して、酢と胆汁をまぜたものを飲まされた。



お前は他人の悪口をいい、そしった。神と人間をあざけった。うそをつき、うそをついては偽誓(ぎせい)をした。とんでも

ない、これがすべてではない。わたしは裁判官やいつわりの証人に対して、口をつぐんでいた。わたしのとじた唇は、弁解

しなかった。そして、わたしはいつも事実を述べ、心の底から刑吏のために神に祈った。



お前の嗅覚はきよくない。お前は、ある香りの与えるよろこびを知っている。だが、わたしはつばきの不潔な臭いをかぎ、

顔や目や鼻についたその臭いをがまんした。



お前の首は怒り、官能、高慢にふくらんでいる。それはお前の顔を、神に背けさせた。だが、わたしの首はむちで傷つけら

れた。お前の肩の罪のために、わたしの肩は十字架をになった。お前の手と腕の罪のために・・・それはお前のよく知って

いることをしたから・・・わたしの手は大きい釘でつらぬかれ、十字架に釘づけにされ、釘でわたしのからだは十字架にかけ

られた。お前の心の罪のために、憎しみとねたみと不快の流れ出た、お前の心の罪のために、欲望と悪い愛に満ちた、

お前の心の罪のために、わたしの心は槍でつらぬかれ、その傷口から水が流れでて、よこしまな熱情を消し、血が流れ

でて、怒りと悲しみの力からお前を救い出した。お前の足の罪のために、そのむだなダンスと虚栄の散歩のために、わたし

の足は十字架にゆわえられる代わりに、釘で打ちつけられた。お前のすかし彫りのあるきれいな靴の代わりに、わたしの

足は血まみれになった。血はその傷から流れでて、からだから流れるすべての血は、その上を流れおちた。



お前のからだのあらゆる罪のために、ねてもさめても、つきまとう お前のあらゆる情欲のために、わたしは十字架の上に

ねかされ、毛皮をひろげてほす時のように、手足を四方でひっぱられてから、十字架にぴんと釘づけにされた。血の汗が

わたしの全身をぬらした。十字架の固い木はわたしをおしつけ、ひどく苦しめた。わたしはひどく苦しみ、叫び、ため息を

つき、泣き、うめき、うめきながら死んだ! わけもなくえらび、身につけたお前のむなしい装身具のつぐないのために、

わたしは裸で十字架にかかった。乙女マリアから生まれた時のように、裸で大気や寒気や嵐や男女の目にさらされ、十字架

に高々とかけられ、いっそうよく衆目にさらされ、あざけられ、ののしられるようにされたのだ!



お前が不正にもっていた富のため、わたしは貧しかった。宮殿もなく、家もなく、その下で生まれ、生き、死ぬための安全な

場所もなかった。ある人がみじめさきわまるわたしに同情し、その墓をあけてくれなかったら、わたしは墓もなかったことだ

ろう。わたしは自分の血と命を、罪人のために与え、自分のためには何もとっておかなかった。貧しさは、生きている時も

死んでからも、わたしにつきまとった』。



こうキリストは語られ、それにつけ加えられた・・・『わたしがその罰を肩代わりせず、それでなおすことができないような、

どんな魂の罪も病いも、お前は見出せないだろう。お前たちの死後の霊魂が地獄で受けるべき、恐ろしい責め苦のために、

わたしは完膚(かんぷ)なきまで打ちすえられようと思った。だから悲しまないで、苦しみと恥と貧しさのうちにわたしに従い

なさい』」。



兄弟アルノルドのきしむ鷲ペンが、このフォリニョの修道院の小房の静けさと平和のなかで、アンジェラの口から語られる

とおりに、以上のような言葉を紙に書きつけてから、600年の歳月がたっている。「アンジェラが口述し、わたしが筆記した」

と、アルノルド自身がこの本の序文で語っている。「しかし、彼女が自分の意志で語ったのではない。彼女は啓示を受けて

語っている最中に、よく語るのをやめて、『わたしの話は、みんなつまらないです! みんな無意味です! 思っていること

を、どういいあらわしていいか、わからないのです!」と、わたしにいった。しばしば彼女は、啓示されたことの偉大さに圧倒

されてしまい、話してしまったことと、これから話してしまおうと思っていたことを比較して、『兄弟よ、わたしは神を冒?(ぼう

とく)しています。?神です!』と、わたしに向かって叫んだ」。

います、?神です





サン・ダミアノに着く。だが、聖堂に入って、遺物や古い物を見るつもりにはなれない。すべてはこの野外では、とても新鮮

で生き生きとしている・・・わたしはむしろ、山腹のオリーブの木の下の小道を、すこしばかり歩く。



その途中で、フランシスコ会の老修道士に会う。老修道士はたずさえた聖務日課書に右手の親指をはさみ、5月の朝の

すんだ青い大気を、感動してじっと見つめながら、太陽の光の中を行ったり来たりしている。思わずわたしたちの視線が合う

と、その灰色のひげの長い老神父は、おおらかに明るくほほえみ、なんの前置きもなく大声でいう。



・・・「なんていい天気でしょう!」・・・わたしは立ち止まり、わたしたちは話し始める。



「そうですね」と彼はいう。「神に仕え、万物の創造主、生きとし生けるものの善き父を礼拝し、ほめたたえるには、結局、

自然は一番いい所ですし、これから先もそうでしょうね。どんなに太陽が快く暖かいかを、まあ感じてごらんなさい・・・深く

息をしてごらんなさい。なんと胸がこのすばらしい、ひんやりした、きれいな朝の空気でいっぱいになるかを、お感じになる

でしょう・・・ごらんなさい、草においた露が火のように赤く、輝くように緑に、燃えるように青く光り、草を燃え立たせています。

それに、小鳥の楽しげな歌をお聞きなさい・・・遠い山々のやわらかい青い線をごらんなさい・・・主のみ前のいけにえの香の

ように、朝の空気の中に、静かにまっすぐ立ち上がる煙をごらんなさい・・・ねえあなた、たしかに、自然の中の、きれいな

自由な自然より、よりきれいで、敬虔で、神のみ心にかなう生活は、決してありませんね・・・その中で、清く純粋に、聖母の

優しいご保護の下に成長すること。わたしたちをとりまくこの5月の朝のように、すこやかに、若々しく、さわやかに人生に

分け入ること。その心臓の鼓動するのを聞くこと。おお、他人に対するきよい心、純な心、黄金のような心、この他人に愛さ

れるのを知ること。その生活が永久に他人の生活と結びついて、共通の喜びと慰め、共通の涙と幸福になっていると感じる

こと。・・・こういったすべてのことこそ、真の生活ではないでしょうか。いともお恵み深い神が初めから人間たちに与えようと

お考えになった。真の質素な清い生活ではないでしょうか。



ねえあなた、沢山の人はこのことがわからないのです。沢山の人は、その中にはキリスト教徒となのる人もいるのですが、

わたしたちの宗教の真髄は人生の放棄、人生の否定、人生の敵視にある、と信じています。でも、わたしたちの父フラン

シスコは、そう思っていませんでした。厭世家ではなく、現代の人間嫌いや悲観主義者ではありませんでした。ドイツに、

アルトゥル・ショーペンハウアー(1860年没)という哲学者がいました・・・そのいうところによれば、生の意志は、あきらめるに

値する悪、殺し根絶すべき悪です・・・そうすることによって初めて、救い、彼岸、涅槃(ねはん)への道が、見出されるので

す。これは仏教で、キリスト教ではありません。わたしたちは二元論者ではありません。わたしたちはマニ教徒ではありま

せん。世界を創造なさった神は、世界をお救いになります。それは、初めに『生めよ、殖(ふ)えよ』とおっしゃり、その時が

満ちてくると、『日々自分の十字架を背負ってわたしに従わない人は、わたしの弟子になることは出来ない』(ルカ9・24他)

といわれたのと、同じ神です。それは、お互いに争わない二つの世界です。それは、同じ法則の二つの命令です。なぜなら、

法則の総和は、愛だからです・・・法則の総和は、帰依、自己否定、生の大きい神聖な下での愛に満ちた服従ですから。

小さい利己主義の人間よ、お前のものを捨てなさい。生命には生命に属するものを与えなさい。地に人間を住まわせ、天に

魂を満たす、その生命には! お前自身のものを捨てなさい、利己的な計画、ひとりだけの快楽の夢を捨てなさい。そして、

大地をたがやして、いばらとあざみを育てなさい。その間に、妻は幕屋の中で、お前の子どもを生むだろう! 愛の法則に

従いなさい、その掟を守りなさい、身を屈して生命の黄金のきよいきずなにつながれなさい・・・そうすれば、生命を創り、

継続し、守る愛は、生命をきよめ、神聖にし、死と天に対して成熟させる、あの苦しみという陶冶(とうや)の下へ、十字架へ、

お前をみちびいてゆくでしょう!



ねあ、神は偉大です。神は聡明です。神は一つにてまします。聞きなさい、イスラエルよ、キリスト教世界よ、聞きなさい、

広い全世界よ、聞きなさい・・・それは唯一の神、創造の神、救いの神、愛の神、十字架の神、幸福の神、苦難の神です

・・・天と地のように一つである神・・・動き、呼吸をして生きているすべてのものに、世々にいたるまでほめられ、祝福され、

たたえられる、唯一の神です!」



老フランシスコ会士はわたしに別れをつげ、オリーブの木の下の道に消えてゆく。だが、その言葉はわたしの心に残る。



そうだ、なんとしばしばわたしは、光を愛するがゆえに憤慨するのだ、と自称する人々に「生命の敵」という言葉をあびせ

かけられるのを、耳にしなかっただろうか。そして、よく彼らはその言葉でわたしを不安にした・・・なぜなら、生命の敵は、神

の敵だからである。あの自称「生命の愛好家」自身が、生命の成長発展のために大いにつくした、とわたしに思われたから

ではない・・・むしろ彼らの周囲は、死んだように荒涼とならなかったか。そして、彼らは利己的に、生命の流れをせきとめる

平らな土手をつくり、岸を安心して歩き、好きかってに釣ができるようにしなかったか。なぜなら、彼らの中の誰一人として、

まじめに生命に献身せずに、法則に服することを、恥ずべき敗北だと見ているからである・・・



しかし、荒野の悪魔は、昔の隠者たちに本当のことを語った。そして、他人の理想からの離反をもっとも熱狂的に非難する

のは、理想に対して日々みずから不実となる者である。だから、わたしを攻撃する人々にも、それ相当の理由があったのだ。



だが今、フランシスコ会の老修道士のこの言葉は、わたしに光明と平和を与えてくれた・・・キリスト教の道は、生命の道で

あり、「父のなすことを、子もまたする」ことを、知るための光明・・・と同時に、訴え非難する声を耳にしながらの平和を・・・



それでもとにかく正しい道をたどっているという、強い幸福な気持ちで、わたしはサン・ダミアノのかげになってひんやりする

小聖堂に入る。もう一度、前よりもっと徹底的に、ここで聖フランシスコと聖クララを回想させるすべてのものが、見たくなる

・・・からだは結びつかなかったが、精神的に結びついていた二人、その生活は、存在、純愛、きよさ、祈り、労働、清貧、

すべてのものへの感謝の花のようだった二人・・・





「わたしはよく考えたのですが」と、サミュエル神父は話しつづける。「キリスト教とは、神が人間に自分自身になるために

与えられた、手段ではないでしょうか・・・恐らくごぞんじないフランスの作家かと思いますが、17世紀の優れた作家の一人で、

オリエという人は『愛は変じて、その愛の対象となる』という、意味ぶかい言葉を語っています。ところが、憎しみも変ります。

胸に愛をいだく人に、キリストにとらわれ、変じてキリストになります。胸に憎しみをいだく人は、キリストにしりぞけられ、ます

ます深い憎しみに満たされます。だから、キリストが福音書で、世人は彼を信じなかったので、すでに裁かれた、といわれて

いるのは、よくわかります。なぜなら、キリストに対する態度には、その人への証言が、従って審判がこめられています・・・

ごめんなさい、ここに座りこんで、おしゃべりをしてしまい、きっとお疲れになっている、とも考えませんでした・・・どうもすみま

せん・・・わたしは母国語で話す機会が、めったにないのです。なんだか、あなたが故国の方のような気がするのです・・・です

から、このおしゃべり神父を許していただけますね。わたしの話を聞いていただいて、本当に感謝しています。本当にですよ

・・・あすは何時にお発ちですか。では、4時半に聖堂に行って、ミサをささげましょう。あなたがミサも拝聴せずに、お発ちに

ならないように」。


 


本書 訳者あとがき より抜粋引用


原作者ヨルゲンセン(1866〜1956)は、デンマークの詩人で(山室静氏の『ヨルゲンセン詩集』)

が弥生書房から出版されている)敬虔なプロテスタントの家庭に生まれた。コペンハーゲン大学

時代から、自然主義の影響を受けたが、やがてニーチェやフランスの象徴派にかたむいた。そ

れでも魂の安住の地を見出せなかった詩人は、北欧の詩人らしく、イタリアへ遊び、聖フランシ

スコの遺跡を巡礼し、その生涯を研究し、カトリックに改宗して初めて、心のやすらぎと西欧一

のカトリック詩人としての名声を得ることができた。本書「フランシスコのイタリアから 巡礼の

書」(1903)と「アッシジの聖フランシスコ」(1907、訳者はこの訳書を準備中である)は、「シエナ

の聖カタリナ」「ドン・ボスコ」「自伝」などとともに、名著のほまれ高い、その名声に値するみごと

なものである。


70年以上も昔のベストセラーをあえて再び紹介するには、それ相当の理由がある。


@名作に時代なし・・・これが第一の理由である。この本は、詩人の「聖フランシスコの巡礼の書」

であるばかりでなく、改宗者の信仰の書であり、サバティエの聖フランシスコ研究への批判の書で

もある。巻頭のみごとな「イタリア賛歌」や方々に見られる珠玉の描写は、いかにも「南国をあこ

がれる北欧の詩人」にふさわしい。至る所にあふれる熱いきよらかな信仰や時折きざす迷いの

かげりは、まさに北欧の信仰者にふさわしい。散見する信仰論やキリスト教的文明論は、ひか

えめであるが、良心的な北欧の学問の人にふさわしい。これらの特色は、時代をこえている。


A現代に生きる聖者・・・聖フランシスコは現代に生きている。いや、現代の求める聖者である。

これが第二の理由である。世界の現状を考えるまでもなく、身辺を見まわすなら、愛と幸福と

平和と清貧の聖者フランシスコが、いまさらのように「現代の待望する聖者」であることが、納得

されることだろう。この聖者の面影は、この本にみごとにとらえられている。


Bわたしたちは「他国人であり旅人であるから」・・・これは、作者が巻頭にかかげた銘だが、

聖フランシスコゆかりの聖地の巡礼の書こそ、「天と地のあわいの旅人」であるわたしたち

にふさわしい本だろう。世界が戦争にのめりこもうとしていた30数年前、山間で山村氏の訳

書を読んだ若い大学生の深い感銘は、まぎれもなくそういうことだった。そして今わたしは、

改めてこの本を訳了した。





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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