ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone, 1267年頃 - 1337年1月8日)


ルネサンス時空の旅人『聖なる都アッシジ物語』 [DVD]




中世絵画の父と呼ばれたジョット、その生涯と作品を基としてアッシジの聖フランシスコ

の根底に流れる現世の美を追った作品で、案内人は女優の大竹しのぶである。羊飼

いの少年だったジョットがチマブーエに見い出され、如何にルネッサンス芸術の先駆者

となったかを彼の作品やダンテとの交流を通して描かれている。ジョットが残した偉大な

作品は、アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂やパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁

画、そしてフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の「ジョットの鐘楼」や西

洋美術史上最も重要な作品のひとつである荘厳の聖母(オニサンティの聖母)がある。

アッシジの聖フランシスコの生涯を追ったものではないのだが、アッシジの風景やジョット

の心の中に流れている聖フランシスコの息吹が感じられる良作だと思います。

(K.K)


ジョットとチマブーエとの出会いを描いた絵本も
素晴らしいです。
「ジョットという名の少年 羊がかなえてくれた夢」







パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂(Scrovegni Chapel)

上の画像はhttp://www.raffaz.net/scrovegni.phpより引用



荘厳の聖母(オニサンティの聖母)





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)







ダンテとボッティチッリ 千年王国の夢 若桑みどり(わかくわ みどり美術史家)

「芸術新潮 2001年3月号」 より抜粋引用


ダンテとボッティチェッリを結ぶもの



ダンテはトスカーナ文学の創始者として常にフィレンツェ市民の敬愛の的であったが、とりわけ15世紀末のフィレンツェで

意味を変えて解釈され、勢力ある人文主義者たちによって注釈され直していた。その理由は、「神曲」の本来の主旨で

ある「政治と宗教の改革」という問題が深刻になってきたからである。



14世紀にはダンテはなによりもまず、「フィレンツェ市民」として認識され、「彼は真摯で勤勉な市民的生涯を送った。

彼はフィレンツェ共和国のために貢献した」という評価がされていた。フィレンツェ・ルネサンスが最盛期を迎えた15世紀

前半になるとアルベルティやマネッティ、ヴァッラら文人たちが先輩としてダンテを意識していた。マネッティはダンテの

伝記を著し、ペトラルカ、ボッカッチョとともに三大フィレンツェ人として殿堂に陳列した。15世紀後半になってダンテの

神秘的な宗教性、その百科全書的知識、皇帝によるイタリア統一と恒久平和の確立という政治的イデオロギーが切迫

性を帯びてきたのである。フランス、スペイン、オーストリーが絶対主義王権を確立しはじめたこの時期、地方都市が

分立し相互に抗争を続けるイタリアの統一はマキャヴェッリの悲願になった。



1460年から世紀末にかけて、新プラトン主義の隆盛やヘルメス主義の再興といった文化史的事件があったことも、ダンテ

の復興と関連がある。コジモ時代の1439年、フィレンツェでギリシャ正教とカソリック教会の統一公会議が開かれた。

ビザンティン皇帝および正教の総主教とともにギリシャの学者ゲミストス・プレトンがフィレンツェを訪れ、プラトンをはじめ

ギリシャ哲学を講義したのである。その教えを受けたフィチーノが著したプラトンやヘルメスについての注釈書は、古代

哲学とキリスト教との統合、完璧に調和した宇宙の把握を示すものだった。彼の世界観は、形のない物質から純粋な

霊魂への上昇、肉体から霊的な存在への上昇、理性的霊魂と天使の出会い、ついには永遠の完璧なる一者=神との

合一である。霊魂は永遠の起源である神に回帰するという思想は、ダンテの光にみちた「天国」のイメージと共通する。

普遍的帝国という思想においてもフィチーノはダンテに共鳴していた。その著「モナルキア」の序文でフィチーノは「ダンテ・

アリギエーリ、彼はギリシャ語では書かなかったがプラトンの真理を語った。彼の書はプラトンの思想を語っている」と

書いている。彼によればダンテの描いた彼岸の三つの王国はプラトン的秩序を示すものであった。



メディチ家のサークルにおける、新しいダンテ研究の筆頭に位するのが1481年に上梓されたクリストーフォロ・ランディーノ

び「神曲注解」であり、人々はこの著作によって真に「ダンテの祖国帰還」がかなったと評した。この頃(1480〜95年)の

ある時期に、ボッティチェッリは、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコから「神曲」挿絵の委嘱を受けた。(アノニモ・マリア

ベキアーノの覚書による)。制作年代やその後の詳細な来歴は必ずしも明確ではない。重要なのはメディチ家の親戚だっ

た問題の多いパトロンの手からいつ国外に出たのかということで、委嘱者のピエルフランチェスコは、ナーポリ王やフラン

スのルイ12世と接触があった。おそらく1501年にルイ王に謁見したおりに彼に手渡されたものだろうとされている。とすれ

ば大部分は90年代から1501年の間に描かれたと推定される。ヴァザーリは、ボッティチェッリがローマから帰国してすぐ、

つまり1482年に描いたように書いているが、様式的にもっと近いのは〈神秘の降誕〉であるから、およそ90年代末の製作

ということはまちがいないだろう。



ボッティチェッリ「神曲」素描は上等な羊皮紙にさまざまな媒体と技法で描いたフォリオで、ベルリンに84図、ヴァティカン

8図が現存している。輪郭は金属ペンで、褐色や黒色のインクで素描され、構図は銀筆や鉛筆を使用している。部分的に

彩色したフォリオもあり完成の段階はまちまちである。90年代に描かれたものが多くあるとしても、これが晩年のもので

ものであることは確かであり、その他の同時期の作品とともに、19世紀までまったく無視忘却されてきた。権威ある19世紀

生まれのルネサンス美術史家やその教えを受けた日本の学者にとってボッティチェッリは何にもまして〈春〉と〈ヴィーナス

の誕生〉
の画家であったらから、日本におけるボッティチェッリ研究の権威・矢代幸雄氏やその弟子であり筆者の恩師で

ある摩寿意善朗教授の著作では(講義でも)、〈神秘の降誕〉以下の緒作は、宗教的狂信者サヴォナローラの影響を受け

た芸術家がルネサンス人文主義の成果を捨てて中世に回帰した衰退の晩年様式を示すもの、と評価されてきた。たしか

に「神曲」の表現様式は線描を中心とし鮮明な色彩で人物の動作と物語の流れを追う物語絵のそれである。



しかし、ボッティチェッリは透視図法による三次元的構成に基づく古典的様式の画面のみを製作してきたのではなく、〈春〉

でも〈ヴィーナスの誕生〉でも観念(イデア)を重視した二次元的空間を背景とした象徴的表現をとっている。のみならず

彼は細密画的な物語挿絵画家として多くの注文をこなし、富裕なフィレンツェの家で愛用される婚礼用カッソーネや木製

家具に聖書の物語や神話、美徳の模範になるような主題を描いている。〈聖ゼノビウスの生涯〉はその一例である。ナラ

ティフな連続形式画は15世紀フィレンツェの伝統に一つであって、ボッティチェッリも必要な場合にはこれを用いたので

ある。



またシリーズの用途がはたして挿絵集として出版するためか、壁画か何かの下絵か、個人的な鑑賞のためかによって

表現の様式は異なる。鮮やかな色彩や「神曲」本文とは必ずしも密接に関連していない画面選択からみて、これは絵画

の鑑賞を主目的とする大型の豪華本のためであろうと考えられる。問題はオリジナルの構成を再構築することだが、

1986年にピーター・ドレイヤーが統合整理して再構成に一歩接近した。彼の観察で非常に面白いことほあボッティチェッリ

の「神曲」の構成は要するに「画巻形式」だということである。絵巻物形式といってもよい。その巻物の流れ方に特色が

あり、地獄篇は「下降」、煉獄篇は地獄と逆の回転方向で「上昇」、天国篇は煉獄と逆の左廻りで「上昇」するように仕組ま

れている。このことから、ボッティチェッリは中世の画巻様式に回帰したのではなく、ダンテの形而上学的観念世界での

遍歴暦程を、運動を伴った鑑賞形式によって再現したのではないかという気がしてくる。



観念の世界の象徴的表現の一歩を先んじたのが実はボッティチェッリではなかったかと筆者は常住疑っていたが、彼が

マリエスム観念主義への先駆者の一人であることはあきらかになった。マニエリスムそのものを堕落、撤退とみた時代

に、ボッティチェッリ晩年の様式変化が堕落とみえたのは当然であったろう。ジョットの時代から市民社会の実相を描く

ことを心がけて進んできた市民的リアリズムは、多かれ少なかれ現実性への関与と参加の意思から生じていた。メディチ

家が宮廷化し、そこでの芸術が新プラトン主義の観念を表象するものとなったとき、すでに絵画の観念化が始まっていた。

〈春〉は観念の世界である。いまボッティチェッリは別の世界を、それも暗黒の地獄から宇宙を暦程し、ついには肉眼では

耐えられない神の光にいたる人間の魂の永劫の旅程という課題に取り組むことになった。その主題そのものが、もはや

市民的リアリズムの手法によっても宮廷的祝祭の手法によっても、表現できるものではなかった。



「神曲」を描くにあたって、ボッティチェッリの前には14世紀から数多く描かれてきた「神曲」の挿絵群があった。先行作品

として特に示唆的なのは1465年にアレッソ・バルドヴィネッティが作画してドメニコ・ディ・ミケリーノ(1417頃〜91)が描いた

サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の〈ダンテの宇宙〉である。ダンテは死後の三つめの世界を包容する大きさで

描かれ、左下に地獄の穴、中央に煉獄の山、上方には天国の蒼窟が描かれ星々が輝いている。地獄では特に「怠惰の

罪」に落ちた人間が描かれているのは、ダンテの遺骨を故郷に取り戻せなかった市民の無能を非難する意味がある。

地獄の底にルチフェロが炎を発している。煉獄は7層からなる山で、入口では天使が入る者の資格を検閲し、肩に重い石

を載せ「傲慢」「吝嗇(りんしょく)」「放蕩」などの浄罪に従う人々が環状に描かれている。そこには教皇冠をつけたハドリ

アヌス5世の姿もある。煉獄の頂上はアダムとエバの智恵の木のある「地上の楽園」で、ここから暦程は天国へ向かう。

「神曲」を理解することは容易ではない。ここには政治家でもあり古典学者でもあり詩人でもあったダンテの「すべて」が

隠喩・比喩・直喩・引用・修辞学を駆使して、精魂こめて詰め込まれているからである。ダンテの祖父ベリンチョーネと

父アリギエーロはフィレンツェとプラトで金融業を営んで成功したらしい。ダンテ自身は家業を継がず、身分ある市民の

当然の職業として市政に参加するべく教育を受け、幼少から古典文法・修辞学・古代ローマの詩文・シチリア派の恋愛詩

を学んだ。1274年9歳のとき8歳の少女ベアトリーチェに出会い衝撃の愛を予感し、9年後彼女と再会し、彼女の会釈に

救済を感じた。1290年に嫁したベアトリーチェは24歳で死去したが、ここから彼女は地上ではなく天上の永遠の女性に

変容する。この体験はボエティウスの影響の強い「新生」に結実したが、そこに表象された永遠の女性への純潔な愛の

観念は、明治30〜40年代から日本でも熱狂的に歓迎された。そのときダンテの政治思想家としての面はなおざりにされ

た感があり、日本での受容には例によって偏りがある。



当時のフィレンツェおよびイタリアは教皇庁と神聖ローマ皇帝のはざまにおかれ、フィレンツェの大資本家たちは、教皇派

「グエルフ」と皇帝派「ギベリン」に分かれて紛争を続けていた。政権を掌握していたのはグエルフであったが、それはさら

に自立政策のビアンキ(白党)と商業上の利益から教皇と結びつくネーリ(黒党)に分派していた。ダンテは1295年から

市行政の公務につき、まもなくシニョリーナ直属の百人委員会委員となり、1300年にはプリオーレ(統領)にまでなった。

このときの教皇が、ダンテが永遠に地獄に落としたボニファキウス8世である。



ビアンキだったダンテがローマ教皇庁に使者として出向いているあいだに、教皇は特使をフィレンツェに派遣してビアンキ

とその一門を追放したのである。ダンテは欠席裁判のまま公金横領の罪で5000フィオーリの罰金を課せられ、3月には

罰金支払いに出頭しなかった兼で死刑宣告を受け、家族とともに生涯流浪の生を送ることになった。その間、屈辱的条件

で帰国を提案されるが拒否、同志とともにいくたびか復帰運動をおこすも失敗し、ついにグエルフであることを止め、皇帝

による全イタリア統一の理想を抱くようになった。



1310年、イタリアに攻めくだった神聖ローマ皇帝ハインリッヒ7世に世界帝国実現の希望を託したが、しかし皇帝は1313年

に急死してダンテの夢は崩壊した。これ以後、彼は「神曲」にそのすべての思想を注ぐことに専心し、最後まで執筆を続け

たのである。



最晩年はラヴェンナの領主グイード・ノヴェッロの保護を受けたが、1321年57歳で客死した。その後、フィレンツェは再三

にわたりダンテの遺骸の返還を求めたがラヴェンナ市民はこれを認めなかった。1487年にラヴェンナに作られた墓には

「祖国に愛されざりき」詩人と墓碑銘が刻まれている。



「神曲」は驚くほど厳格な構成をとっており、「三位一体」のドグマと、神学的にというよりはむしろダンテが信奉していた

フィオレのヨアキムの歴史神学にしたがって、神秘的な数である 1、3、10、100 を尊重して構成された。すなわち全体

は3篇で、一篇が33枚から成る。ただし地獄篇の冒頭に1歌が付加されているので全部で100歌。詩形は3行を一句とする

三行韻詩からなっている。暦程は運命の年であり聖年でもあった1300年の、復活祭の木曜の夜から聖金曜までのあいだ

に始まり、1週間で三界を旅する。イタリア人ならすべての人が知っている冒頭の一句「わたしは人生の道の半ばで、暗い

森のなかにいた。まっすぐな道は失われていた」は、壮大な宇宙の旅の孤独な始まりを告げているのである。最初にダンテ

は自分を陥れた欲望と奸計を動物の姿で表象し、救済に現れたローマの詩人ウェルギリウスとともに真理を知る旅に出た。

なぜウェルギリウスなのか。学者たちはダンテの古典的素養が彼を連れてきたとしてきた。筆者はそればかりではなく

ダンテは、ウェルギリウスが仕えた皇帝アウグストゥスのもとでの帝国の平和を、政治的理想としていたのではないかと考え

ている。9つの環からなる暗い地獄を2人は辿るが、そこはイタリアの過去と未来を悪化させる理性と道徳の喪失、肉欲・

利己主義と物欲が渦巻く肉体の宇宙である。気候は荒々しく水・雨・火・悪鬼・怪物が人間の身体を打ち砕く。そこでは聖職

売買をおこなったニッコロ3世、そしてかのボニファキウス8世が、祖国を裏切ったウゴリーノ伯らとともに永劫の責め苦に

苦しめられている。私怨と人は呼ぶが、はたして人は自分の身に加えられた不正を身をもって痛いと感じることなしにこの

不正を痛感し、これを是正するために賭そうとするであろうか?



かの「哲学の慰め」を書いたボエティウスも無実の罪で死刑囚となった牢獄で畢生の傑作を書いたのである。個人の体験・

・・個人の怒り、個人の涙の上に書かれた故にこそ、「神曲」は近世文学の嚆矢とされるのである。



地獄の底、世界の中心では煉獄の王ルチフェロ(悪魔大王)が3面の怪獣の口で悪人を食べている。それはキリストを

裏切ったユダ、カエサルを裏切ったブルータスとカシウスである。裏切りはダンテのもっとも許しがたい罪であった。地獄の

底で二人の旅人は反転し、南半球の空の下、煉獄の山の前に出る。煉獄は罪を浄化する世界である。そこでは傲慢、

羨望、吝嗇(りんしょく)、強欲な人間が改悛によって自らを救う機会を与えられる。煉獄の第30歌でダンテは彼を天国に

導くベアトリーチェに遭遇する。天国は異教の詩人ウェルギリウスの案内しうる場所ではない。至高の愛と神の英知の象徴

である聖なる女性が彼を神のもとへと導くのである。世界は地上を離れ、天空の円環をなす光の源へと向かって行く。それ

は純白の薔薇をなす光であるが、光の奥に三色の三つの円環が、三位一体を象徴として現れる。



天使らは聖母マリアを讃えて恍惚として合唱し、光の輪のなかに人のかたちを映す。これは神秘であり神そのものである。

ダンテは神との合一を感じて最後に詠う。



わが思いはさながら一様に動く輪の如く

愛によって廻る

日やそのほかのすべての星を動かす

愛によって。



これが神曲の最終句である。ここでダンテはすべての苦痛、恨みを忘れ、宇宙を動かす至高のもの、神の愛と合一するの

である。いかに、現実に絶望した二つの魂・・・ダンテとボッティチェッリの魂が、この世の悪を告発し、自己自身のなかにある

傲慢の罪の浄化を求め、神の究極の愛と直接に、教皇の仲介なくふれあい、全キリスト教世界と人間性の愛による救済を

切望したか。それこそボッティチェッリとダンテを結ぶものなのである。ダンテが地獄に落ちたのは1300年であった。

ボッティチェッリが「神曲」を構想していたのも1500年を中心にした世紀末であった。2000年に欧州各地でボッティチェッリ

の「神曲」展が開催されたのは理由あってのことだった。かれら西欧人が千年ごとに思い出すものは何か? かれらは、

この世紀末の地獄にあって、まだ地上での至福の王国の実現をどこかで信じているのだろうか?


 







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