Garry Kasparov interview - Business Insider


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LIFE: Chess Champion Bobby Fischer - Hosted by Google


ボビー・フィッシャーの肖像




以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」

ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用



輝かしい伝説と悲しき遺産

街頭で誰かにチェスプレーヤーの名前を挙げるように頼んだら、かなりの確率でボビー・フィッシャー

名前を耳にするだろう。1972年、インターネットとチェスエンジンが登場するよりはるか昔、チェスがまだ

純粋に人間のゲームだったころに、フィッシャーは歴史上もっとも有名なチェスプレーヤーとなった。その

チェスの才能に匹敵するのは、彼自身の物議をかもす才能のみ。それはテレビ時代における西側初の

スター棋士にとって理想的な・・・・あるいは破滅的な・・・・組み合わせだった。



ブルックリン育ちのフィッシャーは第一級の十代の天才児だった。勝利へのとてつもない決意と飽くなき

練習意欲、無類の正確さを誇る技術を併せ持っていた。その実績の多くは今後も破られることはないだ

ろう。14歳で全米チャンピオン。16歳で世界選手権の候補者。1963年の全米選手権を11−0の完璧な

成績で制覇。世界選手権の候補者大会では2試合連続で6−0と完勝。そして1972年、アイスランドの

レイキャヴィクでボリス・スパスキーを破って世界チャンピオンとなる。外部からの支援をほとんど受けな

いまま、因習を打破するフィッシャーは破竹の勢いで台頭し、1948年以降初となるソ連からの王座奪取

を実現した。



レイキャヴィクでの対戦にいたるまでの経緯と論争が、最高の舞台をつくりあげた。フィッシャーはプレー

しないらしい、いやするらしい、いや違うようだ、空港に現われた、いや現われていない・・・・などなど。

ヘンリー・キッシンジャーはわざわざ電話をかけ、愛国者としての義務を果すようフィッシャーを説得した。

遅まきながらフィッシャーがアイスランドに到着したあとも、このイベントを順調に進めるには偉大な外交

術とスパスキー側の騎士道精神が必要だった。



試合開始後も驚くべき事態がつづいた。フィッシャーは大悪手を重ね、黒番での第1局を失った。第2局

のまえには会場の状態について抗議した。フィッシャーは得意の気晴らしである。雑音が多すぎるし、

カメラも多すぎると彼は言った。やがてゲームは開始される・・・・ところがフィッシャーがいない! 彼は

出場を拒み、この局を放棄したのだ。これで0−2とリードされ、ついに対戦は中止されるかと思われた。

粘り強い交渉のおかげで対戦は続行されたものの、第三局がおこなわれたのは舞台の上ではなく、

卓球用の裏部屋。観客は有線方式のカメラを通してアイドルたちの姿を見るしかなかった。フィッシャー

はその第3局でスパスキーから初めて勝利を奪うと、そのまま優勢に試合を進め、タイトルを手に入れた。



このとき世界はフィッシャーの思いのままだった。彼は若くハンサムで、裕福であり、チェスを米国の一大

人気スポーツに仕立てあげようとしていた。資金提供の申し出やイベントへの招待が舞いこんだが、何度

かテレビ出演に応じただけで、ほとんど断った。そして、訪れた沈黙。フィッシャーはチェスをやめ、20年

にわたって本格的な試合でポーンを突くことはなくなる。1975年には、つぎの世界チャンピオン戦のルール

をめぐってFIDEと対立し、王位を剥奪された。挑戦者のカルポフが後釜に据えられ、フィッシャーは姿を

消した。




彼の所在についての噂や、いまにもふたたび現われてチェス界を制覇するのだという風説はたえず存在

した。だがボビー・フィッシャーが、50歳を目前に太ってひげを生やした姿でチェスのプレーを再開するの

は1992年を迎えてからになる。それは喜ばしくも悲しい出来事だった。ふたたび脚光を浴びたのは、フラ

ンスで半隠居生活をしていたボリス・スパスキーと、戦乱のユーゴスラビアで再戦をおこなうという数百万

ドルのオファーに引かれたためだった。チェスの腕は予想どおりさびついており、以前の輝きはほとんど

見る影もなかった。最悪だったのは、冒涜的な反ユダヤ的発言をせずにはいられない傾向を見せたこと

だ。フィッシャーの傷つきやすい心は、唯一理解できたチェスという世界を長く離れているあいだに崩壊

していた。



試合後、フィッシャーはまたも消息を絶ち、今度は2004年、日本の成田空港の収容所というさらに意外な

場所に現れた。ユーゴスラビアでの試合は国連によるユーゴ制裁措置に違反するものであり、彼は無効

になったパスポートで旅していたとして拘束されたのだ。こうしてフィッシャーはふたたび話題の人物となっ

た。そして8ヵ月後、日本政府はフィッシャーをアイスランドに送り出す。彼の最大の勝利の舞台。彼が

いまでも敬愛されている国に。



その言動や数奇な人生にかかわらず、フィッシャーは何よりチェスに対する限りない貢献で記憶されるに

値する。頂点に君臨した期間は悲劇的に短かったが、彼は現代のポール・モーフィともいえるほど、同時

代のプレーヤーのなかでぬきんでた存在だった。フィッシャーの成功と並はずれたカリスマはある世代

全体にチェスを広め、とくに米国では大きな“フィッシャー・ブーム”が起こっている。フィッシャーとスパス

キーの対戦がおこなわれた当時、9歳だった私は友達とともに1局1局を熱心に追ったものだ。彼の餌食

にあった者の大半はソ連人だったが、フィッシャーのファンはソ連でも多かった。彼のチェスが素晴らし

かったのは間違いない。だが私たちは彼の個性と独立心に敬服したのである。



 



ガルリ・カスパロフが過去に国際チェス連盟と騒動を起こし、イギリスのショートと共にチェス界を分裂さ

せたことを忘れることができません。1993年、チャンピオン・カスパロフと挑戦者・ショートは、彼らの世界

選手権を乗っ取り、彼らが作ったプロチェス協会(PCA)の元で行なうことを宣言しました。彼ら理由として、

「国際チェス連盟(FIDE)の規則では、世界選手権決勝マッチの開催地はFIDE、世界チャンピオン、挑戦

者の3者の合議で決定することとなっていた。しかし、カンポマネス(FIDE会長)はこれらの規則を破って、

開催地をマンチェスターと宣言した」からだとしていますが、確かにFIDEの官僚体制などいろいろ問題が

あったかも知れません。しかし、彼らカスパロフとショートが動いた根本動機は私利私欲であった面は否定

できないと思います。カスパロフは以前からカンポマネスに不信感をもっており、自分主導でチェス界を

引っ張っていく想いが強かったのかもしれませんが、ただ言えることは、彼が現在のチャンピオンになる

ことが出来たのは、地方・国など多くのチェス組織があってこそだと思います。会長への憎しみだけのため、

今まで自分を育ててくれた組織を分裂させてしまったカスパロフとショートの行動は批判されるべきかも

知れません。カスパロフは最近、あの行動は間違っていたと語り、その責任の多くがショートにあると主張

していますが、これもチェス界の悲しい遺産の一つです。



2013年月.30日 (K.K)

 



チェスの歴史上、最強の人間は誰だったか、それは人の感性や棋力により答えが異なるのは当然かと

思います。現在のレーティング(強さの数値)で判断すると、必ず現在の棋士がトップに来ますが、それは

チェスのイロレーティング(Elo rating)が年に数%づつインフレを起こしているためです。ですから最も公平

な見方は、同時期に存在した多くの名人たちとの比較などでしか判断できないかも知れません。例えば時

代別にA・B・Cの名人を並べると、AとB、BとCは対戦が多く優劣の判断はできるが、AとCは対戦したこと

がない。このような場合、AとC、どちらが強いかを判断するには、Bの存在で測ることも可能です。AとBの

勝率、BとCの勝率などで、AとCの力関係を推察することができる。しかし、この比較も名人と言えども全盛

期とそうでない時期、そして相性の問題も当然あるのでやはり確定することはできないように思います。私

個人としては、モーフィーカパブランカフィッシャーがチェス史上最強かと思いますが、カスパロフに関し

ては序盤研究のプロ集団を雇っていた彼にはその資格はないと思います。そして大事なことは、たまたま

チェスに接することがなかっただけで、その素質は彼らより上という人間も人類誕生から今日まで沢山いた

ことを忘れてはいけないと思っています。


2013年1月31日 K.K




 



フィッシャーとシモーヌ・ヴェイユ。2人の生きた時代は異なりますが、同じユダヤ人でありながらユダヤ

社会を批判しています。その動機は全く異なるかも知れませんが、フィッシャーはヴェイユと同じく共産

主義やユダヤ社会の両者に全体主義の匂いを感じていたのかもしれません。




「神を待ちのぞむ」シモーヌ・ヴェイユ著 田辺保・杉山毅・訳 勁草書房

より以下引用


超自然的啓示に対して、イスラエル(ユダヤ)は拒絶をもって応対した。なぜならイスラエルにとって

必要だったのは、秘かにたましいに語りかける神ではなく、民族的集団に姿をあらわし、戦時には

保護者となる神であったからである。イスラエルは権力と繁栄を欲していた。ユダヤ人たちは、しば

しば、しかもながらくエジプトと接触を保ったにもかかわらず、オシリス、霊魂の不滅、救済、愛に

よるたましいの神との同一化を信じることには無関心でありつづけた。この拒絶がキリストを殺して

しまった。キリストの死後、この拒絶は分散と果てしなき苦しみの中に長く延びて行った。






「重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ『ノート』抄」シモーヌ・ヴェイユ著 田辺保・訳 講談社新書

より以下引用


この純粋な一瞬に生きて、真空状態で苦しむ必要は、救いのために何よりもたいせつなことであるが、

シモーヌ・ヴェイユはそこから、肉体労働のすばらしい霊的意義を引き出してくる。肉体労働は、この地上の

人生に固有の不条理、矛盾と人間をじかに接触させるものであり、それゆえに、労働者がまやかしをしない

かぎりは、天国にも触れさせる程のものである。「労働を通じて、究極の目的が、打たれたボールのはね

返ってくるようにつき戻されてくるさまを、疲労でくたくたになりながら、味わい知ることができる。食べるため

に働き、働くために食べ・・・このふたつのうちのひとつを目的とみなしたり、あるいは、ふたつとも別々に

切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。循環のさまにこそ、真実が含まれている。」

だが、この循環を理解するためには、未来の方から目をそむけて、永遠にまで高まって行かなければなら

ない。「宗教ではなく、革命こそが、民衆のアヘンである。」



この世においては、絶対のレッテルを貼りつけられた多くの相対的なものが、たましいと神とのあいだに

割りこんでくる。人間が無となることに同意せず、すべてであろうとするかぎりは、さまざまな偶像を必要と

する。「偶像礼拝は、洞窟内では、生きて行く上にぜひ必要なものである。」 そして、これらの偶像の中で

も、社会的なもの、集団精神の偶像は、もっとも強力であり、もっとも危険である。罪の大部分は、社会的

なものと関連している。見栄えと支配欲とにそそのかされて生じたものである。シモーヌ・ヴェイユは、社会的

なものそれ自体を捨て去ろうというのではない。社会的環境、根づき、伝統などは、架け橋であり、天と地

とのあいだにある〈中間的なもの〉だということを、彼女は知っている。彼女が排斥するのは、プラトンでは

〈大怪獣〉、黙示録では〈獣〉の象徴によって示される、全体主義的な国家である。その力と威光とがたまし

いの内部で、神の地位を奪いとっているのである。社会的なものという偶像の崇拝は、保守的色彩を帯び

てあらわれるにせよ、革命的色彩を帯びてあらわれるにせよ、また、現在の国家を崇めることにせよ、未来

の国家を崇めることにせよ、つねに真の神秘的伝統を圧殺し、これにとって代わろうとする傾向をもつ。

この偶像崇拝から、預言者たちや聖徒たちに対するすべての迫害が生じてきたのである。アンティゴネー

やジャンヌ・ダルクが処刑され、イエス・キリストが十字架にかけられたのは、このためである。社会獣は、

人間に宗教の代用品を提供し、それによって人間は自分自身をぬぎ捨ててむなしくならなくても、自分を

超越することが可能となり、ひいては、それ程の苦労なしに、真の神を持たずにすごすことができるように

なる。もっとも高い徳も、社会的なものによって模倣されることがあり、その結果たちまちのうちにパリサイ

主義に転落してしまう。「パリサイ人とは、大怪獣への従属によって徳の高いりっぱな人とされる人のことで

ある。」 古代の二つの民族が、この集団精神の偶像崇拝を実際に行った。すなわち、イスラエルとローマ

である。「ローマは、無神論的で、物質主義的で、自己のみを崇拝する、大怪獣である。イスラエルは、宗教

的な大怪獣である、このどちらもが、愛するにあたいしない。大怪獣はつねにいやらしい。」 イスラエルと

ローマとの衝突の中にニイチェは、どうしようもないふたつの人生観のあいたたかうさまを見たが、シモーヌ・

ヴェイユは、同じ種類のふたつの全体主義の争いにすぎぬとしたのである。しかしながら、彼女の反ユダヤ

思想は、教会が旧約聖書と新約聖書とのあいだに連続性を認めていることがカトリックへの入信の主要な

生涯となったくらいに、激越であったが、どこまでも純粋に霊的な面にとどまるものであって、したがって、

今日〈反ユダヤ思想〉と呼ばれているものとはなんの共通点もないことを、強調しておく必要がある。彼女

はたとえば、ヒトラーのユダヤ人排撃思想も、ユダヤ人の世俗的なメシアの信仰もどちらも同じように嫌悪

したのである。彼女は、反ユダヤ思想がユダヤ人に根をもつことを何度もわたしに語ったことであろうか。

ヒトラーはユダヤ人と同じ立場に立ってユダヤ人排撃をしたこと、ユダヤ人迫害はただ、現世的で残忍で

排他的なかれらの種族神を名前をかえて自分のために利用しようとし、その神をよみがえらせようとする

仕業にほかならなかったことを、彼女は倦まずにくりかえして語ったものだ。社会的な偶像に対する彼女の

嫌悪は、当然ながらさらに拡がって、このほかのあらゆる形の全体主義的神秘思想、なかでもとくに、

マルクス主義に及んで行った。カトリック教会すらも、彼女の社会的なものへの批判からまぬがれることは

できなかった。もっとも、彼女は、カトリック教会に対しては多くの点で深い敬意を寄せていたのであるが、

教会のユダヤ的ローマ的な起源、現世の諸問題への干渉、その組織と教階制度、公会議、「教会の外に

救いなし」とか「破門を命ず」とかいったふうなある種の決まり文句、宗教裁判所のような歴史上の発現形態

のいくつかなどは、彼女から見れば、社会的偶像崇拝の、おそらくは高度の、しかも限りなくおそるべき様相

と思われたのである。しかしながら彼女は、教会における神の現存と霊感の所在とをあくまでも信じつづけ

た。「さいわいなことに地獄の門もこれには打ち勝たないだろう。朽ちることのない真理の枝がなお残って

いる」と、彼女は、その人生の最後の時期に書きとめている。





bobby fischer | Tumblr



Cheap Wood vs. Nice Plastic - Chess.com

フィッシャーとタイマノフの10番勝負 1971年



Fischer - Taimanov Candidates Quarterfinal (1971)

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A Blindfold King in Iceland - US Chess


下の写真3枚は、イギリスのチェス雑誌「Chess Monthly」1997年11月号より引用





Today in History: Aug. 25, 2015 - WTOP

1965年8月25日、カストロとの政治的応酬後に臨んだハバナ・トーナメントは、NYからの難儀なテレタイプ対局となった。



Bobby Fischer's Overlooked Gem - Chess.com



the informal formalist

Belgrade, 1972 (フィッシャーとスパスキーの世界選手権が行われた年にベオグラードにて。)



Isabelle Avenue | The King of Isabelle Avenue





Federacion Paraguaya de Ajedrez
Fischer analizando la partida Gheorghiu Andersson del Informador 19



Florin Gheorghiu vs Ulf Andersson
Las Palmas (1972) ・ King's Indian Defense: Saemisch Variation. Panno (E84) ・ 1-0




gheorghiu_ulf_andersson_1972.pgn へのリンク



The Age of Bobby Fischer by Kenneth Rogoff - Project Syndicate







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