「Capablanca's 100 Best Games of Chess」

H.Golombek著

1947年発行


   

   



著者 Harry Golombek

この文献の詳しい紹介はこちら(ChessBase)










史上最強の棋士は誰かと言う質問に対して、カパブランカの名を挙げるチェスファン

は案外多いかも知れない。勿論現代チェス理論並びに日々発展していく定跡を過去の

名人達も精通した上での仮定が大前提であるのだが。その仮定なくして単なるレイティ

ングだけで判断してしまうと、レイティングの性質上常に現代に近い世代のチャンピオン

が常に史上最強者となってしまう。現代チェス理論並びに定跡において共通の分母が

出来ればいいのだが、その判定基準も曖昧であり、史上最強者の名前は人それぞれ

によって異なってくるのは当然かもしれない。ただ、チェス界のドン・ファン的な存在で

あったカパブランカだが、頂点にいた頃「不敗の名人」と呼ばれ、1914年から27年にか

けて負けたのは約220局中たったの5局。勿論この中にはアリョーヒンラスカーなど

一流のプレーヤーが入っているのだが、フィッシャーやカスパロフでさえ到達することの

出来なかった極みなのだ。また彼が書いた文献は名著として今も輝いている。




 



   "The Immortal Games of Capablanca" by Reinfeld
この文献で紹介されているカパブランカの棋譜

Your browser is completely ignoring the <APPLET> tag!

JAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません
 
Jose Raul Capablanca's Best Games Compiled by KingG
で紹介されているカパブランカの棋譜

Your browser is completely ignoring the <APPLET> tag!


 
Capablanca's Best Chess Endings (Irving Chernev)
この文献で紹介されているカパブランカの棋譜

Your browser is completely ignoring the <APPLET> tag!


 













ホセ・ラウル・カパブランカ


以下、 「激闘譜」マックス・エイベ著より引用



チェス史上最高の天才の一人といわれるホセ・ラウル・カパブランカは1888年11月19日

ハバナで生まれ1921年から1927年まで世界チャンピオンの座にありました。4才になら

ない頃、彼は父親がその友人と遊んでいるチェスを見ながらルールを覚えてしまったとい

います。小さなホセ坊やが、ハバナ・クラブの強豪であるイグレシヤ氏と、「クイン落ち」の

ハンディキャップ戦ではありますが、生涯の第一局に快勝したのもこのときでした。そして

この勝利は、未来のチャンピオンへの道の急成長を予言するものだったのです。8才、彼

が小学生のとき、日曜ごとにチェス・クラブに精を出し、家でもひまがあればチェス盤をもち

出して研究を続けました。こうして、11才のときにハバナ最強にランク。彼の才能の進歩の

速さは、13才のときに当時のキューバ・チャンピオン、コルソを破ってチャンピオンとなった

ことが示しています。これは当時としてまったく前人未到のスピードだったのです。このあと

彼は大学教育を目指して、アメリカで主に生活しました。しかし、チェスへの情熱が彼のす

べてを奪い、大学はほんの短い期間在籍しただけになりました。そして全米をチェス行脚、

強敵を文字通りなぎ倒しながら・・・・・・・・。


1909年、カパブランカは“最高段者”の仲間入り。当時最強のGMであり、世界チャンピオン

への挑戦者であったマーシャルに対する勝利、そして1911年のサン・セバスチャンGMトー

ナメントでビドマール、ルビンシュタイン、マーシャルを一しゅうしての優勝は彼自身を、全天

にひときわ輝く新星であるとして確立しました。(GMとはグランド・マスターの略) 3年後の

セント・ペテルスブルグ(今のレニングラード)GMトーナメントでラスカーと初めて対戦し最終

局で敗れました。このトーナメントで2位を得た彼は世界チャンピオンへの挑戦権も同時に

獲得。しかし、第一次大戦のため、ラスカー、カパブランカの試合は1921年まで延期の止む

なくとなりました。ハバナでのこの対決は、全然予期されない結果に終りました。カパブランカ

が4勝そして10引分け、24番勝負ということで開始したこの試合で、ラスカーが中途棄権し

てしまったのです。27年間も続けてチャンピオンの座にあり、伝説的な強さを持ったラスカー

が一局も勝つことなしに敗北するとは一人として予想するところではありませんでした。こう

して、カパブランカの夢は現実となりました。


マスコミは彼を“神のちょう児”としてもてはやしました。プレーヤーたちは彼の足跡にあこがれ

“チェス機械” いまでいえば「コンピューター」という仇名をつけもはや、打ち勝つことのできない

超人だと思い込むほどでした。輝かしい、自身にあふれた勝利の数々、マスコミの人気はいよ

いよ上昇、こうしたことがカパブランカをして自から超人である錯覚を持たせました。自己研鑽

と研究の能力もにぶり出し、自己防衛本能が顔を出します。1927年ニューヨークにおける、

マッチ・トーナメントで、彼はアリョーヒン、マーシャル、ビドマール、ニムゾビチ、シュピールマン

等の挑戦者たちを個別撃破したとき、このことが明白に現われました。ラスカーただ一人不参

加、そしてこれはカパブランカの内密の要求の結果だったといわれています。


この勝利は正に彼の“白鳥の歌”でした。アリョーヒン以外しかし、それを見破ることができなかっ

たかも知れないとしても、全カパブランカではなかったのです。彼には、“チャンピオンの座に再任

される”、神の御恵みによって折りよく与えられた絶好の機会として、懸案のアリョーヒンとの試合

がとっても待ち遠しく感じられたことでしょう。しかし、劇的な大接戦の結果、この試合に準備怠る

ことのなかったアリョーヒンは、ブエノス・アイレスにおいて、ついにチャンピオンの座をカパブランカ

から奪いました。


タイトルを失った後、1928年から1939年にかけて、カパブランカは諸競技会で好成績をあげて

います。最後の公式競技会、1939年ブエノス・アイレス・オリンピックで、彼はキューバ・チーム

の一将として出場しました。彼の無限の才能が、最後の輝きとなり、アリョーヒンに後塵を与えて

一将として優勝。3年後の1942年3月8日彼は永遠の旅立ちとなりました。


カパブランカは、ほんのごく僅かでもよい優勢をどのように導き出すかを知っており、これが

“チェス機械”という仇名の由来でもありました。彼の棋風はまったく合理的で、生涯583局の

うち302勝246引分け、負けはわずか35局。特に1914年から27年にかけて失ったのは

たったの5局。これは今日の最高位者といえども誰にも達成することのない業績で、生涯、

不敗の名人の名が彼につきまとっていた理由が判りましょう。カパブランカは実戦家としてだ

けでなく、チェス・ライターとしても著名でした。彼は世界中のチェス誌に数百の実戦講評や

文章を寄稿しました。1920年処女作“私のチェス歴”を上梓し自選35局を講評。1932年

“初心者の手引き”を世に出し、世界中でベストセラーになりました。カパブランカは史上

最も偉大なプレーヤーの一人。彼が急逝したとき、愛と尊敬をこめて賛美するものが絶えま

せんでした。そして、これを最もよく表現したのが、アリョーヒンだったでしょう。「彼の死に

よって、私たちはもはや決してこの世に見ることのできない最も輝かしい唯一の天才を

失った」。


 
 





以下、「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著 より以下引用




一般のチェス競技者にとって、カパブランカの試合を盤上に再現することは、しびれる

ような体験である。その論考『チェス頭脳(The Chess Mind)において、「カパブランカには、

統御に失敗する危険をなんらおかさずに、手順を算定する判断力があった。ひとつの判断

がべつの判断につぶされても、カパブランカの最終判断がほとんど無効にならなかったこ

とは、マーシャルという名うての攻めの大家を相手どった冷酷な、さけようのないものにみ

えるこの偉大な名人の勝利が立証する」とジェラルド・エイブラムズはのべている。カパブラ

ンカの全盛時には、著名な棋士がたいていこの下りをもってむすぶことになった。いくつか

の可能性に直面したとき、複雑な、あるいは危険な局面にあっても、カパブランカは正しい

手順をえらびだした。ほかのどんな名人にもまして、盤面のもつれた鋼鉄の糸さながらに突

きとおす純粋論理の、最適連続手の武装をかれは点検した。カパブランカの単刀直入な棋

風は、ながらくチェス・コンピュータに組みこまれてきたが、いままでのところ成功していない。

彼の才気には、死のような静けさがある。エイブラムズとともに、そのアンソロジー『チェスの

マスターたちの偉大な輝きの賞受賞試合』(Chess Brilliancy Prize Games of the Chess Mas

ters)』で、オーストリアのルドルフ・スピールマンをくだしたカパブランカの勝利(1927年ニュ

ーヨーク)をフレッド・ラインフェルドば分析している。18手目の、白のビショップとポーン2個

の交換は劇的な一撃だが、綿密にしらべるならば、それはほとんどとるにたらない自明のも

のである。カパブランカは、クイーンを7列目に進めるにあたって、ただ地勢のみとおしをよく

するため、黒のクイーンとルークを盤上からうばいさったのだ。つづく手順は文字どおりの

完全無欠である。


Your browser is completely ignoring the <APPLET> tag!


JAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません


さらに立派な試合は、1921年の世界選手権の第10局だ。ラスカーが白番で指した最初の

16手のなかに、ほんものの弱点をつきとめることは、きわめてむずかしい。ここから議論と分析

がはじまる。「17手目の配置は」エイブラムズは書いている。「チェスの偉大な歴史的瞬間とし

て当然かたりつがれるだろう。ラスカーが失敗を回避していたら、チェス史の流れはひどくちがっ

たものになっていたはずだ」。よりどころがあったにせよ(ラスカーはあやまったビショップでカパ

ブランカのナイトを攻撃したのか)、チャンピオンのクイーン・ポーンは弱体になった。このたった

ひとつの要因に端を発し、傷のない正確さで、カパブランカのいっさいの措置はとられた。あら

ゆる罠をさけ、物的利益を早々につかみたい誘惑をはねのけて、51手ののち、カパブランカは

もっとも静かな、もっとも致命的な勝利をもぎとった。そのポーンを、クイーンに成る8行目に進

めたのである。


Your browser is completely ignoring the <APPLET> tag!


 
 


Capablanca v Bogoljubow, Moscow, 1925





以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」

ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用




世界チャンピオンはしばしば対を成して登場する。偉大なキューバ人チャンピオン、ホセ・

カパブランカのことを思い浮かべたら、アレクサンドル・アリョーヒンのことを考えずにいる

のはむずかしい。カパブランカは1921年、ハバナでの決戦で初老のエマーヌエル・ラスカー

に圧勝して第三代世界チャンピオンになった。“カパ”は無敵と思われ、10年間に1敗しか

喫しなかった時期もある。



ところが、彼は王冠を6年しか保持できず、1927年にブエノスアイレスでアリョーヒンに奪わ

れることになる。動かぬ山はロシア人の破格の才気と鉄の意思によって動かされた。つづ

く10年間、再試合を求めるカパブランカの努力もむなしく、アリョーヒンは二度とキューバ人

と対戦しようとしなかった。一方でアリョーヒンは格下エフィム・ボゴリューボフ(アリョーヒン

と同じロシアからの亡命者)の挑戦を二度にわたって退け、その後オランダのマックス・

エーヴェとの対戦で“事故”に見舞われ、2年間タイトルを明け渡している。1946年、世界最

高のプレーヤーであった時代はとうに終わっていたものの、アリョーヒンはタイトルを保持

したまま死去した唯一のチャンピオンとなった。現在、ふたりはそれぞれが確立した棋風

の究極のシンボルとして存在する。よどみないポジショナル・プレーを得意とする棋士はか

ならず「カパブランカのように指す」と言われ、鋭い攻撃を持ち味とする者はきまって「アリ

ョーヒン2世」と称される。



カパブランカはいみじくもチェス史上最大の天才として記憶されている。彼は電光石火の

早業で局面を理解し、しかも誤ることはなかったといっていい。明快で整然としたプレーは

棋士仲間からも、のちの世代からも大いに称えられた。もっと早い時期にチャンピオンの

タイトルに挑む実力があったのは間違いないが、第一次世界大戦と財政面の事情から、

その必然的な勝利は先延ばしされたのである。カパブランカはチェス盤を離れても、その

魅力と端麗な容姿で知られていた。故国から名誉職の外交特使に任命されたおかげで、

彼は自由に旅行して人生を楽しむことができ、その使命を存分に活用した。



アリョーヒンは多くの点でカパブランカの対極にあると考えられる。したがって歴史上ふたり

が対になるのは当然であり、避けることはできない。アリョーヒンのチェスは奔放で、たいが

い奇怪なほどむずかしく、他に類のない複雑な意図に満ちていた。私が最初に手に入れた

チェスの本のひとつはアリョーヒンの名局集だった。彼のゲームは何度再現しても、そのたび

に驚きと新しい発見がある。向こう見ずなスタイルは恐れる敵を圧倒した。こういうチェスがや

りたいと私は思ったものである。



アリョーヒンはチェスのことばかり考えていた(飼い猫までチェスと名づけたほどだ)。プレー

しないときは執筆に励み、残りの時間は研究に費やす。およそ魅力的な人物とはいえなかっ

たが、当人はどこ吹く風だった。だが過度の飲酒で健康とキャリアを損ない、1935年の衝撃

的(で短期的)な失冠は、オランダ人挑戦者マックス・エーヴェの強力なプレーと周到な準備

に加えて、飲酒癖も大きな原因になったとされることが多い。以後、敵を見くびることなく、

牛乳を飲んで摂生したアリョーヒンは2年後にタイトルを奪還した。




 


「チェス戦略大全T 駒の活用法」

ルディック・パッハマン著 小笠誠一訳 評言社 より引用



タラッシュの思考の「効率」や試合で起こり得るすべての問題の単純化などの基本的な考えは、第3代世界

チャンピオン、ホセ・ラウル・カパブランカ(1888〜1942)によってその頂点を極めた。カパブランカは多くの讃美

を受け、チェスの天才と一般に考えられている。彼の試合には驚くほどの正確さがある。彼は重大な誤りを犯す

ことはほとんどなく、素晴らしい直感をもっていた。彼はわずかな有利を推し進めて、中盤を簡素にして勝利に

つなげることを得意とした。カパブランカの試合はチェス技法を完成させた。彼の常々の目的は単純化であり、

明瞭でない局面は避け、危うい冒険の手を指すことはなかった。1921年、ラスカーとの世界選手権で勝利を手

にした後、彼は多数の大会に参加し、常に勝利を収めた。そのなかには、1927年のニューヨーク・トーナメント

(6人のトップ・グランドマスターによる、それぞれの4ゲーム・マッチ)も含まれる。この時点ではチェスはあたかも

絶頂に達したかのように見えた。カパブランカ自身、チェスにはもはや謎は何一つないと述べ、卓越したマスター

がお互いにドローへもっていく技術を身に付けたら、試合は死に至ると予言した。しかし、カパブランカが正に

絶頂を謳歌していたそのとき、すでに凋落の兆しが忍び寄っていたのである。










麗しき女性チェス棋士の肖像

チェス盤に産みだされた芸術

毒舌風チェス(Chess)上達法

チェス(CHESS)

天空の果実