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ポール・モーフィー
Morphy,Paul Charles 1837 6/22-1884 7/10

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最強のプレーヤーたちが参加したこの大会で、優勝したのはポール・モーフィーでした。弁 護士になるための教育を受けていた彼は、子どもの頃からチェスにすぐれた才能を示し、 周囲のおとなたちを驚嘆させていました。その後、ポールセンやスタンリーにも勝ち、アメ リカ最高のプレーヤーとしての栄誉を獲得しました。当時のドイツの新聞は「たしかにモー フィーは存在する。しかし彼に対する名声は、彼自身を凌駕している」と報じています。18 58年夏、ヨーロッパに招待されたモーフィーは、イギリスでボーデンに5勝1敗1分け、バ ードに10勝1敗1分け、モングレジェンに7勝1分けの成績をあげ、次いでフランスでは、 ガルビッツを5勝2敗1分けと退け、ついにアンデルセンとの対戦が準備されたのです。 同年12月20日、パリのホテル「ブレティ」で非公式のチェス世界選手権が行なわれまし た。第1ゲーム(エバンズ・ギャンビット)はモーフィーの白で始まりましたが、アンデルセン の勝利に終わりました。このゲームは7時間も続き、72手目で終了。第2ゲームは引き分 け、その後はモーフィーが勝ち続け、11試合が終わったときにはモーフィーの7勝2敗2分 けとなっていました。(中略) モーフィーとの試合後、この若いプレーヤーは自分よりも卓越 していることを認めたアンデルセンは、「彼は芸術家の真剣さと誠実さをもって、チェスに 対している」と賞賛しています。競技者としてすぐれていただけでなく、モーフィーは卓越し た理論家でもあり、彼は競技の主要な法則をすべて理解し、チェスの発展に大きく寄与し たのです。それらの法則は、19世紀のチェスを理解する上で注目すべきものです。なか でも次の3法則が特に有名です。1.すばやい、一致した駒の展開(キャスリングも含む)。 2.中央と、解放された列の獲得。3.状況的イニシアティブの意味と空間の優勢。名人 モーフィーの名は、一世紀を経た現在でも、チェス技術完成の象徴として栄誉に輝いて います。モーフィーのスタイルで競技をするという表現は、最高の賛辞なのです。プレー ヤーとして大成功をおさめたモーフィーでしたが、その生活は長く続きませんでした。彼 はアメリカへ帰国し、本来の弁護士業に打ちこむようになりましたが、1860年代には 精神異常の徴候があらわれ、チェスから遠ざかってゆきました。無敗のプレーヤー、 モーフィーは、47歳のとき故郷ニューオリンズでその生涯を終えています。ボトビニク (前世界チャンピオン)は強調して書いています。「モーフィーは序盤戦の名人である。 彼の偉大さは、彼の死後、この分野で何も新しいものが創造されていないことからでも 明らかである。初心者から名人にいたるまで、このアメリカが生んだ天才の手法を今も 研究しなければならないのだ」と。・・・・「楽しいチェス読本」ロフリン著より引用
るくせがあったそうです。このエピソードは、映画007の原作者イアン・フレミングの「ムー ン・レイカー」の勝負シーンに、効果的に使われています。 「将棋とチェスの話 盤上ゲームの魅力」松田道弘著より引用
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![]() 白の手番 |
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ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」を観ながら、ボックス席の中で1対2で指さ れたもので、相手はブラウンシュヴァイクとイサウアード。さて、君だったら白と黒ど ちらの側につきたいかな。上の局面をしばらく見て考え、そして感じてほしい。恐らく 君はまだ駒の動きやルールを知らないかも知れない。そんな君たちに随分無茶な 質問を僕はしているのかも知れないね。それでもこの局面から何かを感じることが 出来ればと願っているんだ。さて、実は白を持ったのはモーフィーで、次は白が指す 局面だけど、その手が君には見えるかな。モーフィーはこの局面から膨大な変化を 読み取り、必勝の手を指したんだ。この局面はチェスの多くの参考書に引用されて いるほど有名なものだけど、君たちも最後まで読むことは出来なくても、何かが浮い ていると感じること、この感覚がとても大切な要素だと思うんだ。チェスの上達方法 は色々あるけれど、名人たちの華麗な試合を何度も並べ返し、その呼吸を感じとる ことが最善の道だと言われている。君たちも名人たちの棋譜に触れて、耽美の世界 に酔うことが出来るといいね。下にこのモーフィーの試合を掲載するから最初の一手 から見てみることをお勧めします。そして何度も何度も並べて覚えることで、この名人 の息に触れることが出来るかもしれないね。
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戦術を彷彿させるものだよ。この試合の詳しい説明は「107 Great Chess Battles」Alekhine 著に書かれている。
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Morphy(左)-Lowenthal in London 1858 |
ヨーロッパの傑出した競技者の一団が、1851年のロンドンにおいて、みずからの 帝王をみいださんものと、あいまみえたのであった。優勝といまだ非公式の世界選 手権は、ブレスラウからきた数学教師のアドルフ・アンデルセンの手に帰した。かれ は1858年12月20日から28日にかけて指された対局で、ポール・モーフィの7勝 2敗1分のまえに敗れさった。このモーフィをもって、われわれはフィッシャーの世界 につづく、はるかな歴史のへりにさしかかるのだ。ふたりの経歴や才能にみる類似 は示唆的である。1837年にニューオリンズで生まれたモーフィは、12歳になるまえ から、配置の技巧にほんものの理解力をしめしたらしい。まもなくかれは、チェスに 真摯な情熱をそそぐこの街の第一人者にのしあがっていた。モーフィは1857年秋 の記念すべきニューヨーク・トーナメントを、14試合に勝ち、わずか1敗し、3局引き わけた。かれはすでにアメリカの伝説的人物で、ヨーロッパ侵攻はさけられなかった。 それは、「絵いりロンドン・ニューズ」のチェス欄の寄稿家であり、今日の標準チェス・ セットのデザイナー、さらにはじしんも英国を代表する棋士であったハワード・スタウ ントンとの、執拗な論争がものがたっていた。このあと味のわるい紛糾劇をもっとも 公平に評価するなら、盤越しにむかいあうのをスタウントンがおそれていると極め つけたとき、モーフィは正当だったし、スタウントンのほうは、どんな影響力を駆使し てでも、ヤンキーの侵略者の勝ちほこった進撃を阻止しなければならなかった、と いうところだろう。60年代はじめのフィッシャーの問題なり態度とはいくぶん似か よっていることは、あきらかである。モーフィは1858年6月に英国に上陸し、一連 の個人戦、相談勝負、同時対局、はては駒落(相手は通常ひとつのポーンと一手 の利益をあたえられた)といったチェス史に燦然と輝く試合で、いどむ者をのこらず たいらげる仕事にとりかかった。モーフィがH・E・バード戦でとったルークとクイーン の捨て駒(駒をわざと取らせて有利な展開にもちこむ戦法)は、根拠はたぶん薄弱 だったが、つまり理論的に反駁されやすかったけれども、いまなおすばらしい。8月 21日の試合でハンガリー人マスターのJ・J・レーベンタルと対戦したモーフィの冷静 な、仮借のない終盤の組みたてもまたそうだ。モーフィのパリ急襲はあざやかであっ た。そのめざましいわざの例は、「セビーリャの理髪師」の公演の幕あいに、ブラン ズウィック公とイズール・ド・ボーブナルグ伯を相手どって公爵の特別席であげた1勝 だった。対戦者は手ごわくなかったが、なにぶん時間が切迫していた。10手目に白 番のモーフィがしかけたナイトの捨て駒は、一世紀あまりをへた今日なお、往時とお なじように斬新である。 「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著 晶文社より引用 |
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彼は1857年~59年のあいだにヨーロッパで勝利の巡回をした。そこで旧大陸の 強いプレーヤーたちを歴史に残るような名局でなぎ倒した。タイトルをおびやかされ ると考えたスタウントンは言を左右にして引き伸ばしを図り、挙句の果てに対局を 拒否した。モーフィは米国に帰国することを選び、恨みつらみのうちに法律家として のキャリアに戻り、再び駒に手を触れることはなかった。詩人のランボーと同じく生 存中にその才能から引き離され、モーフィは1870年代に精神の異常を示すように なった。南北戦争以来一時的な経済的困難にあって、この米国人の天才は被害妄 想狂の徴候を示した。たとえば、一家の遺産を管理していた彼の義兄が財産を盗ん だ、彼の一番親しい友達は彼に対して陰謀を企んだ、床屋は彼ののどを切るために 多額の報酬を支払われた。ニューオーリンズの床屋のうち2人しか信用できない。そ れでもこの信用できる床屋から怪しい所作があったと首にタオルを巻きつけたまま、 シャボンだらけで飛び出してくることも稀ではなかった。彼の妹と母親だけが自分を 寵愛してくれていると思った。しかし母親は彼を入院させるほうが良いと考えた。医者 は彼の華麗な弁舌に幻惑され、彼の精神状態は正常だと判断して母親のもとへ 送り返した。症状はそれからも止まらなかった。モーフィは破産したと思いこみ、友 達みんなに始終200ドルを要求した。彼らが支払うと約束するとモーフィは落ち着 き、請求するのを忘れてしまうのだった。父親の遺産は始終彼の執念の的となり、 晩年にはこればかりが彼の会話の種になった。しかし、ほとんどの時間、彼は町を 散歩し、オペラに行き、庭園にのぞむベランダをそぞろ歩きしながら低い声で『地獄 の季節』のせりふと思われるものをフランス語で繰り返すのだった。「占領された町 の泣き声を聞きながらマドリードの塀の上にカスティーリャの旗を立てよう。そして 小さな王はしょげ返って去っていくのだ」。早い父親の死とスタウントンの対戦の拒否 が、成人になるのに必要な父親あるいは自分より強い者をのりこえるという過程を 彼に与えなかったのであろう。 「チェスへの招待」ジェローム・モフラ著 白水社 より引用 |
Louis Paulsen vs Paul Morphy New York 1857 · Four Knights Game: Spanish. Classical Variation (C48) · 0-1 Paul Morphy vs Adolf Anderssen Casual Game 1858 · King's Gambit: Accepted. Kieseritsky Gambit Berlin Defense (C39) · 1-0 Paul Morphy vs Schrufer Paris 1859 · Italian Game: Scotch Gambit. Anderssen Attack (C56) · 1-0 Paul Morphy vs Daniel Harrwitz "At Witz End" (game of the day Apr-11-11) Paris (France) 1858 · Philidor Defense: Exchange Variation (C41) · 1-0 |
Paul Morphy -The Great Chess Genius (ポール・モーフィー 偉大なチェスの天才の309の名局) |
19世紀(1800-1900)に指された名局集 |
