シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)の言葉








 ある事象が神に発していることを示す公準は、真理を宣言し正義を愛するという能力 

こそ喪失しないが、それらが狂気の性格のいっさいを現しているということである。



「超自然的認識」






 自分が死ぬ前には、十字架にかけられて、「わが神よ、どうしてわたしをお見捨てにな 

ったのですか」といわれたあのキリストと完全に同じ状態にされていたい。その特権を

うるためなら、わたしは天国と呼ばれるものは全部よろこんで捨て去ってしまおう。



「超自然的認識」






 神を否定する人の方が、おそらくは神により近い 



「ノート」






 たましいはただ、神の方にむかって、生命のパンに飢えていると泣き叫ぶだけで 

いい。一瞬のたえまもなく、疲れも知らずに、赤ん坊が泣き叫ぶように・・・。みじ

かくて終わりが定めなく、終わりが定めなくてみじかいこの地上での滞在のあい

だ、ただこのように叫ぶこと、そして無の中へと消えて行くこと、---それだけでい

いのではないか。それ以上何を求めることがあろう。・・・せめて、今から、死の瞬

間にいたるまで、わたしのたましいの中には、永遠の沈黙のうちにはてしなく叫ば

れるこの叫びのほかには、どんな言葉もなくなってしまえばいい。・・・・・・



「超自然的認識」






真実の愛は、真実の対象をもち、その真理を織り、その真理をあるがままに、

 その真理において愛することを欲する。真理への愛について語らず、愛に宿る 

真理の霊について語らなければならない。・・・・・・・・・・・・・・



「超自然的認識」






 純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。 



「重力と恩寵」






 地球の表面を覆った不幸は、わたしの心に取り憑いて離れません。わたしは 

自分の能力が駄目になってしまうほど打ちひしがれてしまいました。・・



モーリス・シューマンにあてた手紙より






 神は愛によって、愛のために創造なさった。神が創造なさったものは、ただ愛そのもの 

と、愛の手段のほかの何ものでもなかった。神は、できるかぎりの距離をおいて、方々

に、愛することのできる存在者を創造された。ほかの者にはだれもそんなことはできな

いので、神がご自身、最大限の距離をすすんで行かれた。このように神と神とのあいだ

の無限の距離こそ、最高の分裂、ほかの者には何人も近よることすらできない苦痛、

愛の驚異であり、それが十字架であった・・・。この分裂をこえて、かぎりない愛が崇高

な一致のきずなを渡しているのであるが、分裂のひびきは、つねに絶えることなく、世

界の中を、沈黙の底に、引き裂かれ、融合した二つの音のように、まことの諧調のよう

 に鳴っている。それがまさに、神のみ言葉である。








 神について考えようとするときに、何ひとつ捨てようとしない者は、自分の偶像の 

ひとつに、神の名をつけているにすぎない。このことにはどんな例外もない・・



「超自然的認識」






 神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。 

そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ。



「超自然的認識」






 子供のころから、わたしの共感は、社会階級の侮蔑されている層の味方をもって 

任じる集団のほうに向かっていました。すくなくとも、それらの集団がいっさいの

共感を打ちひしぐ性質のものであることを意識するまではそうでした。・・・



ベルナノスにあてた手紙より






 理想国家、それは群棲体とはちがう。呼吸する空気によってしか意識し得ぬ 

人間的環境のことである。自然や過去や伝統と交わっている状態である。

根をおろしている状態とは、群棲体とは別のものである。



「雑記帳第二巻」より






 私は来世というものを考えることをいつも自分に禁じて来ましたが、死の瞬間が 

生の規範であり、目標であることをいつも信じてきました。それは、正しく生き

る者にとっては、純粋であらわで確実で永遠的な真理が魂の中にはいる瞬間

なのだと考えていました。これ以外の幸福は自分のために願ったことは一度

もないと云うことができます。



ペラン神父への手紙より






 あわれみと感謝は、神からくだってくる。そして、あわれみと感謝が 

ふと視線を交わすとき、その視線がであう点に神が臨在したもう



「神を待ちのぞむ」






 人間が神の方へ向かっていくのではない。神が人間の方へ来てくださ 

るのである。人間はただ、じっと見つめ、待ちのぞむだけしかない。



「ノート」






たましいが全宇宙をひとしくみたすような愛に到達いたしましたなら、この愛はこの世と

いう卵をつき破って出てくる金のつばさをもったひな鳥となるのです。それから、このひな

 鳥は、宇宙の内側からではなく、外側から、一ばん初めに生まれたわたしたちの長兄である 

神の「知恵」が宿りたもう場所から、宇宙を愛するようになるのです。このような愛は、神

においてではなく、神のみもとから出てきたかのように、人々やものを愛するのです・・・








ところで、宗教的な感情が、真理の霊から発したものとなるためには、宗教が真理以外

 のものになっている場合には、たといそのために生きて行く理由を失わねばならないとし 

ても、敢然として自分の宗教を捨てる覚悟ができていなければならないだろう・・・・・



「根をもつこと」






わたしたちのうちに現存したもう神だけが、不幸な者にも人間的な美質があることを

 みとめ、品物を見るような眼でない眼をもって、彼らを正しく見つめ、真に一つの発言 

に耳をかたむけるような態度で、その声に真に聞き入りたもうことができる。不幸な者

たちの方も、そのとき自分たちも声をもつことに気づくのである。・・・・・・・・・



「神を待ちのぞむ」






キリスト教思想においても、世界の美しさがいかなる位置を占めうるかを、聖フラン

チェスコの例が明らかに示している。かれの詩は、詩として完全であったばかりで

なく、かれの生涯全部がいわば生きた完全な詩だった。たとえば、かれが独りで、

 心霊修行をするために、また、修道院を建設するためにどのような場所をえらんで 

いるかということも、それ自体もっとも美しい詩であった。放浪も、貧乏も、かれに

おいては詩となった。・・・・・・・・・・・・・「神への暗黙的な愛の種々相」








とりわけ無神論的な思想とすべきは進歩の観念である。この観念は、実験済みの

 存在論的証明の否定である。すなわちこの観念は、凡庸なものがみずから最良の 

ものを生み出すということを意味しているのだ。・・・・・・・・・「ノート」








外的な成功を得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけが

はいることのできる、真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできない

ということを、くやしく思っていたのでした。真理のない人生を生きるよりは死ぬ方がよ

いと思っておりました。数ヶ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、し

 かも永遠に、いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無にひとしい者であ 

っても、もしその人間が真理を欲し、真理に達すべくたえず注意をこめて努力するならば

、天才にだけ予約されているあの真理の王国にはいれるのだという確信を抱いたのです。

たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の目には見えないことがあっても、こ

の人もまた、こうして一人の天才となるのです。・・・・・・・・・「神を待ちのぞむ」




ヴェイユが14歳のころを述懐したもの・兄の異常な天賦

の才能に対して自分の凡庸さを意識せざる得なかった。






さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて同一の真理の種々ことなった反映に

 すぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです。ところがこのことが理解されていま 

せん。各人はこれらの伝承のひとつだけを生きており、他の伝承は外側からなが

めているからです。・・・・・・・・・・・・・「ある修道士への手紙」より








 つねに、あらゆる場所で、真理を望む人ならば誰でもが自由にとることのできるように、 

おかれていないものはすべて、真理とは別のものである。・・・・「超自然的認識」より








 純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにある 

へだたりを何より尊重することである。・・・・・・・・・・・・「重力と恩寵」より








 苦痛や極度の疲労がこうじて、たましいの中にこれは果てしなく続くのではないかとの感じが 

生じるまでになったとき、その果てしなさを素直に受け入れ、愛しつつ、それをじっと見つめ

つづけるならば、人は、この世からもぎ離されて、永遠にいたる。・・・「重力と恩寵」より








 アッシジの聖フランシスコを除いて、キリスト教は自然界の美をほとんど失いかけている。 



ペラン神父への手紙より






このような精神状態と、悲惨な肉体的状況にあったわたしが、ああ、これもまた極めて

 悲惨な状態にあったこのポルトガルの小村に、ただひとり、満月の下を、土地の守護聖人 

の祭りの当日に、はいって行ったのでした。この村は海辺にありました。漁師の女たちは

、ろうそくを持ち、列をなして小舟のまわりを廻っていました。そして、定めし非常に古い聖

歌を、胸も引き裂けんばかり悲しげに歌っておりました。何が歌われていたかはわかりま

せん。ヴォルガの舟人たちの歌を除けば、あれほど胸にしみとおる歌を聞いたことはあり

ませんでした。このとき、突然、わたしは、キリスト教とはすぐれて奴隷たちの宗教である

ことを知り、そして奴隷たちは、とりわけこのわたしは、それに身を寄せないではおられな

いのだという確信を得たのでした。・・・・・・・・・・・・・ペラン神父への手紙より








詩というものは、別の社会的地位にある人々にとってはぜいたく品である。 

 民衆はパンと同じように詩を必要としている。それは言葉の中に閉じ込め 

られた詩ではない。そういう詩は民衆にとって何の役にも立たない。日々

の生活の実体そのものが詩であることを民衆は必要としている。このよう

な詩は、ただ一つの源泉しか持っていない。その源泉は神である。このよ

うな詩とは宗教にほかならない。







卵が閉じこめている暗闇から真理の明るさの中に飛び出すにあたって、あなたはもはや

 殻を突き破ればそれでよいのです。あなたはすでに、その殻をつっつきはじめています。 

卵とはこの可視的世界です。ひよことは愛です。愛とは神御自身であり、最初は目に見

えない萌芽として、すべての人間の内奥に宿っています。殻が突き破られて、存在がそ

とに現れても、対象となるのはやはりこの世界なのです。・・・・・・・・・・・・・



ジョー・ブスケへの手紙より






 おふたりがご健康でいらっしゃり、お金のご心配もないようでしたら、 

どうか青い空や、日の出や、夕日や、星や、牧場や、花が咲き、

葉がのび、赤ん坊が育つのを、心から存分に味わい、たのしみつ

くしてくださったらいいのに、と、何よりも願っています。一つでも美

しいものがあるところにはどこにでも、このわたしも一しょにいるの

だとお思いになってください・・・・・・・・・・・・・・・・




死の数ヶ月前に、両親に書いた手紙

「純粋さのきわみの死」 田辺 保 著 北洋社より







Google
 



シモーヌ・ヴェイユに戻る

最初に戻る

サイトマップ