「聖者マキシミリアノ・コルベ」

アントニオ・リチャアルディ著 西山達也

聖母の騎士社 より


   











本書より引用


マキシミリアノ神父の名でうずめられたような、この日の歴史的事件は、死を免れた人々を

して、その夜、感激で眠らせなかったであろう。その翌日、これまで数知れぬ死刑が行われ

ても無関心であった人々が、マキシミリアノ神父の名をささやき合い、隣人愛の最も純粋で、

英雄的な行為であるという声が、収容所中に満ちあふれた。ドイツ人当局者たちでさえ、おそ

らく、この勇敢なポーランドのカトリック司祭を忘れることができなかったであろう。しかし、こ

れがすべてではない。ここでとどまってしまったならば、私たちはマキシミリアノ神父の英雄的

行為の偉大さと美しさ、その深い意義を表面的にだけつかまないことになる。自分の生命を

犠牲にして、見ず知らずの人間を救い、その妻子に帰してやるということは、疑いもなく驚嘆

すべきことであり、愛徳の最高の証明である。けれども、マキシミリアノ神父の目の前には、

他の九人の囚人があった。彼らは、突然、重々しく、荘厳な永遠の問題に直面したのである。

神父は彼らを絶望のふちから救い上げ、永遠の生命へ導きたかった。そのために、キリスト

への愛に押しやられて、薄暗い地下室へ下って行き、進んで、彼らと苦しみを共にしたので

ある。それだけではない。彼の心に燃えさかる神のおん母への愛は、飢えより渇きよりも強

かった。彼は次々と倒れてゆく者に希望を持たせ、罪の許しを与えたのち、最後に彼も神の

手に魂をゆだねるのだ。毎日、地下室から聖母への賛美がもれていたというスエダ師の証言

を感動なくして読むことはできない。一人の父親を救ったということは、マキシミリアノ神父に

とって、もっと高い目的の他の九人を救うという、その手段に過ぎなかったのである。この点

を理解してこそ、初めて、マキシミリアノ神父の崇高な行為を正しく評価できるであろうし、

同時に、いかに強い使徒的魂をいだいていたかも理解できよう。


 


本書より引用


スエダ師が聖母の騎士に寄せられた「マキシミリアノ神父の生涯の最後の思い出」を

読んで、アウシュヴィッツ収容所の地下における同神父の最後の日々を書きつづって

みようと思います。私は当時、先に述べた地下室付きの通訳兼秘書でした。ゲシュタポ

の兵士たちをも感動させたこの英雄的人物の最後の日々を、私は今でも、ありありと、

かつ詳細に思い浮かべることができます。十三号棟舎は収容所の右手に位置し、高さ

六メートルの壁で囲まれていました。地下にはたくさんの独房があり、一階は処刑班の

部屋に当てられておりました。独房のあるものには、小窓や明り窓がありましたが、全く

ないものもあり、そこは暗やみのようでした。1941年の七月、その中の一室へ、夕方

の点呼のあと、十四号棟舎の十人の死刑囚が連れられて来ました。部屋の前で、はだ

かになるように命じられ、そのあと、すでに宣告を受けていた約二十名の死刑囚のいる

所へ閉じ込められました。やがて、この最後の十人は隔離された一室に移されました。

扉にかぎを掛けながら、監視兵たちは吐き出すようにいいました。“お前たちはチューリ

ップのように枯れてゆくんだぞ”と。この日以来、彼らは食物を絶たれたのです。毎日

見回る監視兵たちは、夜のうちに息絶えた死体を運び出すように命令しました。この

見回りの時には、私はいつもついておりました。死人の名前を記し、囚人たちの話や

用事を書きとどめるためでした。十名が閉じ込められている部屋からは大声でロザリオ

の祈りや、賛美歌が流れ出ていましたが、他の部屋の囚人もこれに声を合わせていま

した。私は監視兵がいないすきを見ては下に降り、話をしたり、慰めたりしていました。

地下室は聖母への賛美歌と熱心な祈りであふれ、まるで教会にいるようでした。マキシ

ミリアノ神父が先唱し、みんなが答えていました。時には、監視兵が来ても気付かぬほ

ど祈りに没頭し、どなられてやっとやめるくらいでした。扉をあけると、囚人たちはひどく

泣きながら一切れのパンをねだるのでしたが、いつもはねつけられました。いささか元気

の残っている者が扉に近づくと、腹をけ飛ばされて、セメントの上に倒れ死ぬか、さもなけ

れば銃殺されました。どんなにひどい、残酷な死を迎えねばならなかったかということは、

便器からも推して知れます。便器はいつもからでした・・・・・・・。つまり、あまりの渇きの

ために、自分の排せつ物を飲まざるを得なかったのです・・・・・・・。尊敬すべきマキシミ

リアノ神父は、全くき然としていました。彼は何も求めず、一言の嘆き声ももらしません

でした。他の囚人たちを励まし、やがて逃亡者が見つかり、みんな助かるだろうと希望

を持たせておりました。もはや、非常に弱っていたので小声で祈りを唱えていました。

見回りに行くたびに、他の者はすでに床にのびてしまっているのに、マキシミリアノ神父

だけは立っていたり、真中にひざまずいていて、穏やかな目つきで監視兵を迎えるの

でした。監視兵たちは彼が身代わりであるということ、そのほかの者も罪なき者である

ことをよく知っていました。監視兵たちもマキシミリアノ神父を尊敬し、彼らの間ではこん

なこともいわれていたのです。“この神父はまさに紳士だね。こんなやつは、いまだかつ

て、この収容所にいなかったぞ”   こうして二週間たちました。その間、囚人たちは、

一人、また一人と死んで行きました。三週間目の土曜日には、マキシミリアノ神父を含

めて四人だけが残っていました。これを見た当局は、あまり長生きしすぎる、何とかしな

ければと考えました。あとから、あとから、死刑囚がつかえていたからです。そのために、

八月十四日、病院付けの元犯罪人、ドイツ人ボフを呼び寄せ、四人の左腕に死を早める

注射をしました。マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕をさしのべました。私は見る

に見かねて、用事があると口実を設けて外に飛び出しました。監視兵とボフが出て行くと、

もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、目を明け、頭を

左へ傾けていました(これは、彼のいつものくせです)。その顔は穏やかで、美しく輝いて

いました。私はこの英雄の死体をブロックの散発屋、カルビナククレビク氏とふろ場に

運び、そこで箱の中に収め、監獄の死体安置所に移しました。このようにして、アウシュ

ヴィッツの英雄は、自ら進んでその生命をある一家の父親のために捧げ、最後の瞬間

まで静かに祈りながら死んで行ったのです。囚人たちは、この司祭の行為を忘れません

でした。死刑が行われるたびに、マキシミリアノ神父の名を思い出すのでした。私の受け

た印象は、いつまでも私の心に刻まれていることでしょう。

(死の地下室での通訳を勤めたブルノ・ボルゴビエツ氏の証言)


 
 


目次

著者の序文

第一章 アウシュヴィッツの英雄

第二章 幼年時代

第三章 修道生活教育

第四章 聖母の騎士会

第五章 ポーランドにおける最初の使徒的活動

第六章 ニェポカラヌフ〔汚れなき聖母の町〕

第七章 無原罪の園

第八章 二度目の日本滞在

第九章 ニェポカラヌフに帰る

第十章 強制収容と逮捕

第十一章 アウシュヴィッツ

第十二章 霊のプロフィル

第十三章 栄光の途上に








「夜と霧をこえて ポーランド強制収容所の生還者たち」より引用


 



マキシミリアノ・マリア・コルベ神父

列聖 1982年10月10日 祝日 8月14日

(聖母の騎士社ホームページより)


聖マキシミリアノ・マリア・コルベの取次ぎを願う祈り


われらの救い主のけがれなき御母へのまじりなき信心と、われらの隣人への

無私の愛との模範聖マキシミリアノ神父をわれらに与えたまいし全能に在ます

永遠の神よ、こいねがわくは彼の取り次ぎによって・・・・(ここでお願いしたいこ

とをのべる)・・・・恵みを与えたまえ。我らの主キリストによって。アーメン。



聖母の騎士社

(1930年、コルベ神父がゼノ神父たちと共に長崎に降り立ち、この地に

無原罪の園修道院の設立並びに「聖母の騎士」誌を発行しています。

下の写真はこの当時のコルベ神父の姿です。)




2012年1月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

映像省略

今から70年前にあった一つの実話を紹介しようと思います。映像は第二次世界大戦中、敵味方

なく愛された歌「リリー・マルレーン」 です。



☆☆☆☆☆☆☆



ところで、先年、ヨーロッパを旅行中、私は一つの興味深い話を聞きました。どこでしたか町の

名は忘れましたが、何でも、ドイツとの国境近くにあるフランスの一寒村に、今度の大戦中に

戦死した、フランスのゲリラ部隊十数名の墓があるのですが、その墓に混じって、ひとりの無名

のドイツ兵の墓が一つ立っているのです。そしてすでに、戦争も終って十数年経った今日も、

なお、その無名のドイツ兵の墓の前には、だれが供えるのか手向けの花の絶えたことがない

とのことです。いったい、そのドイツ兵とは何者なのかと尋ねると、村の人々はひとみに涙を光

らせながら、次のように話してくれることでしょう。



それは第二次世界大戦も末期に近いころのことでした。戦争勃発と共に、電光石火のような

ドイツ軍の進撃の前に、あえなくつぶれたフランスではありましたが、祖国再建の意気に燃え

るフランスの青年たちの中には、最後までドイツに対するレジスタンスに生きた勇敢な人々が

ありまして、ここかしこに神出鬼没なゲリラ戦を展開しては、ナチの将校を悩ましておりました。

が、武運拙くと言いましょうか、十数名のゲリラ部隊がついに敵の手に捕らえられました。残虐

なナチの部隊長は、なんの詮議もなく、直ちに全員に銃殺の刑を申し渡しました。ゲリラ部隊

の隊員の数と同じだけのドイツ兵がずらりと並んでいっせいに銃を構え、自分の目の前のフラ

ンス兵にねらいを定めて「撃て!」という号令を待ちました。と、間一髪、ひとりのドイツ兵が、

突然叫び声をあげました。



「隊長! 私の前のフランス人は重傷を受けて、完全に戦闘能力を失っています。こんな重傷

兵を撃ち殺すことはできません!」 今まで、かつて反抗されたことのないナチの隊長は怒りに

目もくらんだように、口から泡を吹きながら叫び返しました。「撃て! 撃たないなら、お前も、

そいつと一緒に撃ち殺すぞ!」と。けれど、そのドイツ兵は二度と銃を取り上げませんでした。

ソッと銃を足下におくと、静かな足取りで、ゲリラ部隊の中に割って入り、重傷を負うて、うめい

ているフランス兵をかかえ起こすと、しっかりと抱き締めました。次の瞬間、轟然といっせいに

銃が火を吐いて、そのドイツ兵とフランス兵とは折り重なるように倒れて息絶えて行ったという

のです。 (中略)



しかし、そのドイツ兵は撃ちませんでした。のみならず、自分も殺されて行きました。ところで

なにか得があったかとお尋ねになるなら、こう答えましょう。ひとりのドイツ兵の死はそれを

目撃した人々に忘れ得ぬ思い出を残したのみならず、ナチの残虐行為の一つはこの思い出

によって洗い浄められ、その話を伝え聞くほどの人々の心に、ほのぼのとした生きることの

希望を与えました。ナチの残虐にもかかわらず、人間の持つ良識と善意とを全世界の人々

の心に立証したのです。このような人がひとりでも人の世にいてくれたということで、私たちは

人生に絶望しないですむ。今は人々が猜疑と憎しみでいがみ合っていはいても、人間の心の

奥底にこのような生き方をする可能性が残っている限り、いつの日にか再びほんとうの心か

らの平和がやって来ると信ずることができ、人間というものに信頼をおくことができる・・・・これ

が、このドイツ兵の死がもたらした賜物でした。どこの生まれか、名も知らぬ、年もわからぬ

この無名の敵国の一兵士の墓の前に戦後十数年を経た今日、未だに手向けの花の絶える

ことのないという一つの事実こそ、彼の死の贈物に対する人類の感謝のあらわれでなくて何

でありましょう。(後略)



「生きるに値するいのち」小林有方神父 ユニヴァーサル文庫 昭和35年発行より引用



☆☆☆☆☆☆☆



ナチの残虐行為、特にユダヤ人虐殺(ホロコースト)は、生き残った人々の多くに死ぬまで

消え去ることのできない印を刻み込みました。600万人が犠牲になった強制収容所という

極限状況の中で、フランクル著「夜と霧」では人間の精神の自由さを、ヴィーゼル著「夜」

は神の死を、レーヴィ著「アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察」

は人間の魂への関心を決して絶やさなかったことを、そして大石芳野著「夜と霧をこえて 

ポーランド・強制収容所の生還者たち」では癒すことが出来ない忌まわしい記憶に苦しめ

られている人々を私たちに訴えかけています。しかしそのような絶望的な状況の中でもシ

ャート著「ヒトラーに抗した女たち」に見られる、ドイツ全体を覆う反ユダヤの流れに抵抗し

た人もいたのも事実です。



私自身、家族、国家、主義主張を守るため自分の生命を犠牲にすることとを否定するもの

ではありません。ただ先に紹介した一人のドイツ兵のことを思うと、家族、国家、主義主張

を守るため自分の生命を犠牲にすることとは違う次元に立っているよう気がしてなりません。

それは彼が助けることを選んだその瞬間、彼の未来の人生を、守りたかったものへ捧げる

という意味ではなく、未来へと向かって生きる自分自身に対しての意味を感じたと思うので

す。家族とか国家のためではなく、自分自身の未来に責任を持つために。



しかし、もし私が同じような状況に置かれたら間違いなく銃を撃つ側に立つでしょう。「これ

は戦争なのだ」と自分に言い聞かせながら。ただ、実際に銃を撃った他の兵士はその後

どのような人生を送ったのでしょうか。中には生き残って愛する女性と結婚し子育てをし

幸せな老後を迎えた人もいるかも知れません。ただ彼の意識のどこかにいつもこのドイツ

兵の行為が頭から離れなかったことは確かだと思います。「あの時自分がとった行動は

本当に正しかったのか」と。



この時期、夜の11時頃に東の空から「しし座」に輝く一等星レグルス(二重星)が登ってきま

す。77年前第二次世界大戦突入の時に、この星から船出した光が今、私たちの瞳に飛び

込んできています。当時の世界や人々に想いを馳せながら、春の予感を告げるレグルスを

見てみたいものです。



(K.K)


 








写真中央左の髭の長い方がコルベ神父で、これは

ニエポカラノフ修道院長時代、若い神学生のチェス

を見ているところです。コルベ神父にとって、チェス

は唯一の趣味だったそうです。


詳しくは「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」



ウェストミンスター教会に掲げられている聖コルベ像(左端)







アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

「夜と霧」 フランクル

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