「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」

テオドール・イリオン著

林陽訳 徳間書店












下に紹介する言葉でもわかるように、イリオンが体験したシャンバラ(裏宇宙)の存在に関して、

1999年1月アメリカのナショナル・ジオグラフィックの探検隊がイリオンの入ったサンポ渓谷に

入りついにシャングリラを発見したという記事がシカゴ・トリビューンに掲載されました。上の地図

の「Tsangpo」と書いてあるところがそうです。また1998年にイリオンが入ったと思われるこの

地下都市に3年間過ごしたという人物による本が出版されています。そしてそこで得た哲学、

歴史、霊的な教えや修行法が紹介されているようですが、イリオンの言葉抜きにはその文献の

正しい評価は出来ないと感じています。この情報は「チベット永遠の書」を翻訳された林陽さん

から頂きました。



わたしは、彼らの目に見入った。目はきれいだが、陰気な光を放っている。知性、力など

すべてのものが認められたが、ただ一つ「魂」だけが欠けていた! この瞬間、わたしの内

部の何もかもが恐るべき苦悶の叫び声をあげた。わたしはその場に蹲り、手に顔をうずめ

た。“魂の救世主”たちの真の性質を悟ったのだ! 彼らはみな、堕ちた天使だったのだ。

神のようにならんと欲し、そのために自らの栄光を失ったあの天使たちだったのだ! 戻る

見込みなき奈落の底に自らをまっさかさまに投げ落とした彼らは、今や他の者たちをも仲間

に引き入れ、奈落の底に陥れようとしていたのである。「光の王子」とは、実は光を装った「闇

の王子」だった。これを知ってから、わたしは二、三分の間、生涯でもっとも恐るべき瞬間を

体験した。わたしの存在のすべてが霊的苦悩の叫びを上げた。外側では平静さを装っては

いたが、自分の存在の基盤そのものを揺るがす霊的な嵐が、激しく心の中に吹き荒れた。

このときの気持ちはとても言葉では表現することができない。霊的なことを垣間見た人間の

みが、「魂の強烈な苦しみ」の何たるかを理解できるのだ。何百回となき生の経験、全生涯

の苦しみが、このたった二、三分の霊的苦しみの中に集約された思いだった。この苦痛は

あまりに強烈だったため、秘伝者の都を包み覆う心霊的空気全体をかき乱したに違いな

い。この新たに得た霊的認識を打ち消そうと、あらゆる方向から強い磁気的な流れがわた

しに向かって押し寄せてくるのを、はっきり感じた。そのとき、扉が開き、王子と秘書二人が

館内に入ってきた。誰もが立った。王子はわたしの方に近づいてきた。「決意は固まりました

か」と彼はあの空ろで金属的な声で話しかけてきた。「固まりました」わたしは決然と答えた。

彼はわたしの顔に強く息を吹きかけてきた。「妖術師め。ついに本性を現したな」とわたしは

心の中で呟いた。「創造主の名において命じる! 下がれ!」とわたしは大声で叫んだ。これ

ほど力強く、魂の力に満ちた自分の声をきくのは初めてだった。まるで、わたしの全存在が

一つの崩れざる結晶に固化し、全身がこの声と一つになったかのようである。支配者はひる

み、踵を返してその場から立ち去った。わたしは突然、このような人間の正体を知ったことへ

の報復が、死であることを悟った。生きているうちにわたしの魂を奪えなかった彼は、秘術に

よってわたしを殺し、他界で魂を奪い取ろうとするに違いないのだ。(本書より)







チベットのある賢人の言葉




みなさい。世界は人間の無明によって、おぞましい喜劇と受難の場と化している。

誰もが自分本位に生きている。それは、利己主義が自分の幸福にとって必要だ、

と誤って考えているためだ。他人の苦しみを犠牲にして幸福を追い求めることが、

この世のすべての苦しみをつくり出しているのだ。この瞬間にも世界のあちこちか

ら響いてくる苦悩の叫びをすべてきくことができれば、あなたは決してそれに耐え

ることはできまい。それほど悲痛な叫びなのだ。友よ、あなたがこのようなことを

知っていれば、何もせずにいられるだろうか? 症状を和らげるのではなく、原因に

直接向かうことだ。あなたの心を変えることだ。心が変われば、あなたは自分の

教えに生き、その生きた実例によって世界に影響を与えることだろう。・・・





「あなたは幸せですか?」とわたしはたずねた。これに答えている間、涙が彼の頬を

伝い落ちた。「いや、幸せではない。純人間的な観点からすれば、わたしのような

人間は胸が張り裂けるほど孤独になることが多いものだ。わたしは人々を愛してい

るが、それでも彼らにしてあげられることがいかに小さいかがわかるのだ。深い悲

しみがここにある。全世界が幸せになるまでわたしは幸せにはなれないのだ。そ

の目標に達するまでには長い苦難が、限りなく長い苦難が前途に横たわっている

のだよ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





人生は素晴らしい。人生は輝かしいものだ。

目まいを起こすほどの高みとおぞましい奈落の底との間を人は常に選べる。

何事も相対的であり、確定したものは何もない。

これを悟るなら、あなたは少年のような心で生きることができるだろう。

子どものような心を持って生きるときのみ、人は生きるに値するものとなるのだ。

そうすれば、多くの事柄を知っても優越感を感じなくなる。

わたしは、自分が例外的な人間だとは思ってはいないのだよ。

人類にただ仕えているにすぎないのだ。

わたしは生き、愛している。





自分自身を理解することだ。自分を理解することと較べれば、人を理解することの方が

はるかにたやすい。君は、自分の子供を理解するより他人の子を理解することの方が

楽だと考えたことはないか? あることに対して偏見を強め利己的な関心を増せば増す

ほど、それを理解するのがますます難しくなるのだ。自分ほど客観的に判断すること

の難しいものはない。自分自身に完全に目覚めるよう人々に語ることだ。自分自身の

動機を絶えず調べ、自分自身に率直になるよう人々に語ることだ。それが自分に欠け

ているものを知るための第一の条件であり、理解に向けての第一歩といえるだろう。

結局、とても簡単なことなのだよ。愛することだ。深く、深く愛することだ。そして、愛が

自己中心性という毒から自由になっていれば、それだけ深く理解することになるから、

あなたは人に対して優越感をもったりしなくなる。真の愛が理解を呼べば、この理解

が、「霊的傲慢」という恐るべき落とし穴から人を救うのだ。・・・・・・・・・・





全世界が新しい生命観を必要としているのだ。西洋は霊性を放棄し、東洋は物質を放棄

している。宗教的になろうと努めている僅かな数の西洋人は、東洋の一般庶民と同じよ

うなものだ。彼らも物質を放棄している。そして、いわゆる「宗教」から離れようと努めて

いる僅かな数の東洋人は、ほとんどの西洋人と同じく物質主義者になっている。われわ

れが新しい生命観を生み出さない限り、東洋と西洋のいずれもが滅亡の危機にさらさ

れことになるだろう。物質と霊性の両方をもつ新しいタイプの人間性が必要なのだ。そ

のような人間のみが、真に人と呼ぶに値するものではないかね。物質を捨て去る人間

も、霊性を放棄する人間も、決して人たりえないのだ」・・・・・・・・・・・・・





実在、真理、生命、神、永遠、すべてを包み覆う愛---これらはみな、同じ一つのもの

なのだ。真理をみつけることは君にはできまい。なぜなら、私的真理を掴んだ瞬間に、

それはすでに真理ではなくなっているからだ。われわれは、生きている限り探究し続け

なくてはならないのだ。人生が決まりきったものであれば、そこに何の意味があろうか

? 人は人生に揺すぶられれば揺すぶられるほどよいのだ。決して満足に陥ってはなら

ない。特に、自分自身に対して」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「行く手に落とし穴はないのでしょうか?」とわたしは息を切らせながらたずねた。

「一つある。それはあらゆる罪の中で最たるもの、つまり霊的傲慢だ。愛によって

心が深い霊的理解に開かれても、そこで得た光を慢心によって誤用すれば、

真の自分に対する最大の罪を犯すことになるのだ」・・・・・・・・・・・・







テオドール・イリオン


ドイツ人探検家。チベット領内に外国人がいることは違法とされていた1930年代初頭、この

“神秘なる地”に初めて足を踏み入れた数少ない西洋人の一人として、広くその名を知られる。

32年、チベット踏査計画に着手し、34年、チベット人行脚僧を装い単身入国。そして36年、

生死を賭けた幾多の困難を乗り越えて、奇跡的生還を果たした。その衝撃的な体験記録は

各国のラジオ・新聞等で大々的に報じられ、また同年、本書の原典となる「Ratfelhaftes Tibet」

が、ドイツのウラヲス社より出版(さらに各国語で翻訳出版)されるに至って、その反響の大き

さは極に達した、と伝えられている。チベット仏教の深遠なる宇宙観(輪廻天性など)に留まら

ず、チベットを覆う闇の霊性(死者蘇生の秘術、地底世界の実在など)を克明に綴ったことで、

当時、ドイツで政権を掌握していたアドルフ・ヒットラーにも多大な影響を及ぼしたといわれる。

その後、大戦の動乱で版が絶え、闇に葬り去られていたが、50年ぶりに大英博物館より掘り

起こされ、遂に日の目を見ることになった。本書は、その完訳である。(本書より)



目次

第一部 チベット神秘宇宙への巡礼

序文

第1章 光明に導かれて

第2章 祝福の聖地へ

第3章 霊と迷信に生きる人々

第4章 誤った転生信仰

第5章 真の瞑想、偽の瞑想

第6章 奇跡をおこす聖人たち

第7章 不老不死の秘法


第2部

チベットを覆う暗黒世界

序文

第8章 神、魂、死についての対話

第9章 悪魔の降霊術

第10章 チベットを動かす影の密教宗団

第11章 秘伝者の地下都市

第12章 死者蘇生の秘術



本書「誤った転生信仰」より引用

チベット人がうには、人は聖なる存在になればなるほど、それだけ前世の細かな

ことを思い出せるようになる。前世の記憶がかりに次の生で失われるとしても、

高く進歩した魂であれば7歳までに、ある程度の記憶は呼び起こせる、と彼らは

語る。


ほとんどのラマ僧は、この信仰を利用して、自分は前世の記憶を思い出せると公言

してはばからない。一方、わたしは、寺院の外部で生活することが多いチベットの

賢人たちが自分の過去世の話をするのをきいたためしがない。彼らは死っていな

がら、なかなかそれに触れようとはしないのである。聖なる者とはこのような人々

のことである。彼らは聖人のようにみせかけたり、前世の話で自分の聖性を誇示

したりする必要がないのだ。


東洋でこれほどまでに一般化しているこの転生信仰の本当の基盤はどこにあるの

だろう。これは論理的に正当化できるものなのだろうか。チベットの賢人の一人は、

この件について次のように説明してくれた。

「生命は生命なきものから生まれることができるだろうか」とわたしにたずねた。

「いいえ」わたしは答えた。

「人の魂が無から創造されるのであれば、それは無に帰することになる」

「われわれが未来永劫に生きるとすれば、過去にも常に生きていたことになる」

と別の賢人がいった。


転生は、生命が一つであることの高度な象徴である。開かれた心と精神をもっ

て転生という概念に接するとき、「自我」と「非我」とを分離して考えるという幻想

は消えるのである。「自我」も「非我」も、実は同じものにすぎない。「自我」を扱

うのとは違う方法で「我ならぬもの」を扱うことは、右手と左手の扱い方を差別

するのと同じく愚かしいことである。


だが、自我意識の幻想は拭い去ろうとしても、なかなか拭い去れないものである。

「自我」は自己中心性を増すためならば、たとえ藁の一本でも?もうと必死になる。

転生についての偏った考えは偽の自我意識を強め、「自我」と「非我」との分離を

いっそう拡大する傾向がある。転生の概念が開かれた心と精神をもって扱われな

いならば、また、死後の魂の存続という約束に固執することによって自我の慰め

にそれが使われるようであれば、「自我」と「非我」とを隔てる溝はいっそう広がる

のである。「得る」とか「得する」とかいう考えを捨て去り、転生が「自我」のための

安全ベルトとしてではなく気高い象徴として位置づけられるときのみ、生命につい

ての誤った自己中心的な概念は瓦解するのだ。







アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」に戻る