2011年5月30日撮影(七沢森林公園・ふじだな公園にて)





 私の紹介 2002.12.4 

1957年12月長崎県佐世保市に生まれる

3歳までしかいなかったので想い出はほとんど残っていませんが、独身時代に長崎各

地の天主堂を旅したことがあります。その中で一番心に刻まれた天主堂が、佐世保か

ら船で渡ったところにある黒島教会でした。独身の僕はこの時、将来の伴侶と出会っ

たら必ず彼女を連れてもう一度来ようと固く心に誓いましたが、数年後、彼女(現在の

妻)と出会いこの島に降り立っていました。神が二人の結婚を祝福していると感じたの

はこの時で、「見果てぬ夢」という散文詩にこの時のことを綴っています。彼女と旅行

に行った、バチカン、アッシジについては「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」を見

ていただけたらと思います。


 
 


奄美大島で過ごした幼稚園時代の想い出

青い海と蘇鉄の赤い実そしてさとうきび畑。当時はおやつなんてない時代だったから

子どもたちは近くのさとうきび畑に行き、自分で刈って食べた。美味しかった。でも他

の人の畑だからといって、怒られたこともないし、悪いことをしているという自覚もな

 かった。奄美で怖かったのは毒蛇の「ハブ」で、一人で勝手に山に入ってはいけない

とよく言われた。森を大事にする文化やインディアンの社会では、脱皮を繰り返す蛇

は再生のシンボルとして神聖な生き物として扱われていたけど、奄美の人たちも蛇

が森を守っていると考えていたんだ。


当時の僕は古仁屋のカトリック幼稚園に通っていたけれど、よくお漏らしをして先生

だったシスター達に怒られたっけ。僕にとってシスターたちは少し怖い存在だったけ

ど、ロジャース神父さんは楽しく英語を教えてくれた。その当時の僕は先生に絵が

上手とよく褒められたけど、いつも書く絵がゼロ戦だったような気がする。何でゼロ戦

なのか今では想いだすことは出来ないけれど、戦いに憧れていた時期だったのか

も知れない。

このカトリック幼稚園の卒業記念に聖母マリアの像を頂いたが、子どもながらにそ

の暖かな眼差しと微笑みに見とれてしまった。この想いは今でもはっきりと僕の中

に生きている。ところで、それから十数年後、マルコス政権下のフィリピンを旅行し

た際に同行していた二人のシスターが奄美の教会にいたことがあり、あのロジャー

ス神父さんは元気であることを教えてくれた。思いがけない知らせが嬉しかった。

この幼稚園の卒業でもらった聖母マリアの像はその後壊れてしまったけど、今僕

の部屋に置いてあるのは、フィリピンの刑務所にいる人が作った聖母マリア像だ。

文明的なものはあまり持たない土地だったけれど、奄美の自然が友達だったし、幼

稚園時代をこの奄美で過ごしたことは大きな幸せだった。ありがとう奄美、いつか

里帰りしたい。


 


鹿児島・宇宿で過ごした小学校時代

宇宿小学校のホームページより引用


宇宿小学校の校庭に大きな木があったけれど、まだあるのかな。木造校舎が壊さ

れるまえに僕は入学した。とにかくよく友達と遊んだ。当時の僕の親友は立園君で

楽しかったな。小・中・高校を通して一番楽しかったかもしれない。僕の家の近くに

は洞窟が沢山あってよく友達とか一人で探検に行ったものだ。また家の周りの畑

は収穫が終わると一面れんげ草が咲き乱れており、それは美しかった。僕がま

だ1年生だった頃かな、母が父に殴られ一人風呂場で泣いていた。その時僕は母

親の背中をさすることしか出来なかった。この時感じた悲しみはずっと僕の中で消

えることのないものとして残ってきたように思う。


学校でも楽しく遊ぶ仲間と別に奇妙な友達が出来た。名前はS君といったかはっ

きり覚えていない。小学生だというのに白髪が目立ち、身なりも汚い服ばかりで口数

も少なく一人ぼっちだった。ある雨の日傘を持たない彼を家まで送っていったが、彼の

家は4畳くらいの掘っ立て小屋だった。僕の家も貧しいものだったけれど、彼の家は

とても家と言えるものでなくて驚いてしまった。家から出てきたのはちょっと怖そうな

父親だった。父親と二人暮らしだったんだろう。何か可哀想になり僕は彼を家に呼ん

だり、家にあった綺麗な挿絵のついた本を一緒に読んで過ごした。今ごろどうしてい

るんだろうな。4年生の時僕は転校してしまったけれど、彼と一緒の友達だったこと

も僕にとって大切な思い出だ。ところで4年生の担任は南東先生といって、名前が

が変わっていた。「みなみあずま」と言うんだけど、いい先生だった。転校する時に、

吉野小学校に行っても恥ずかしくないようにラジオ体操を徹底的に叩き込まれた。


母親に関してだけど、最近自由な時間が持てて、国内外の高い山に登っている。

もう70台半ばというのに、その行動力は凄い。僕なんかとても母の足元にも及ば

ない。 母がもっと若い内に山に興味を持っていたら一流の登山家になっていたに

違いない。ところで僕には4歳離れた兄がいたけれど、この頃良く喧嘩をした。力

ではかなわない僕は兄の金玉を蹴り上げて逃げたっけ。しばらくくもがいていた兄

が隠れていたトイレの戸を叩き始めた。この時は本当に殺されると思った。そんな

兄貴も九州の小学校で教師をしている。金八先生みたいな教師だ。この宇宿の家

を二十数年ぶりに訪れたことがある。周りにあった畑は住宅地に変わり、レンゲ草

も見ることはないだろう。驚いたことに僕たちが住んでいた家はまだ残されてい

た。周りが新しい家ばかりだから廃屋に間違えられそうな感じだった。とても懐か

しかった。ここで僕は楽しい時代を生きたんだ。その時、知らないおばさんが話しか

けてきた。きっと僕がこの家の周りをうろちょろし、写真を撮っていたから尋ねたの

だろう。僕は子どもの頃にこの家に住んでいたことを話すと、このおばさんは僕のこ

とを覚えてくれていた。僕の方は全く覚えていなかったのに、おばさんは涙を流して

喜んでくれた。このおばさんの名前は平田さんと言った。平田のおばさん、今でも

元気ですか。いい想い出を作ってくださり本当にありがとうございます。


吉野小学校では奄美で一緒だった栄多敦君がいた。実は父親同士が海上保安

庁に勤めていたからこの再会も不思議なものではなかった。彼のお父さんは人間

魚雷として敵の艦船に突っ込む特攻だったが、出撃の数日前に終戦になったと

父から聞かされたことがある。そして当然のようにこの栄多敦君が僕の親友だっ

た。秀才でハンサムの君は皆から人気があった。でも僕は彼の飾らない性格

が好きだった。ある時彼と近くの沼地で遊んでいた時、栄太君が沼に足を取られ、

だんだん引きずり込まれていったんだ。僕はどうしていいのかわからなかった。そ

のうち大人の人が来て助けてくれた。次の朝、一緒に学校に行くために彼の家ま

で行ったけれど、お母さんの顔をまともに見ることが出来なかった。吉野小学校

を卒業して吉野中学校に入った。その頃かな、父親のスパルタ教育が始まった

のは。詳しいことは散文詩に書いたけれど勉強を間違うたびに殴られた。海軍

兵学校の試験を通り、最後の家族調査で落とされたんだから頭は優秀な父親

だった。当時の海軍兵学校は東大よりも難関だったと聞いている。そんな父親

から見て僕は相当甘く感じたんだろうね。父は農家育ちで学校から帰ると手伝

いをさせられ勉強するのは夜遅くからでしか出来なかった。そんな父親から見て

僕は歯がゆかったんだろうな。でも僕はどもりになってしまった。これから僕は同

じ鹿児島市内の紫原中学、そして宮崎の油津中学と転校を繰り返した。本当に

苦しかった中学時代。楽しい思い出はあまり想い出すことは出来ない時代だけ

ど、紫原中学の翁長君と過ごした時、そしていつも雄大な噴煙を上げていた桜

島に魅入っていた時など大切な想い出も僕の心に刻まれている。


 


宮崎・日南で過ごした高校時代

一人の女性に恋した時代。名前を海老原さんといった。とてもふっくらした女性

だった。男の子は母親と同じような女性を結婚相手に選ぶとよく言われるけれど、

確かに気丈で、それでいながら心やさしい女性だった。日南高校は丘の中腹に

あるんだけれど、毎日自転車で10キロの道を通った。でも雨の日はバスで通っ

たけれど、時々彼女も乗ってきた。彼女は2年の時同級生だったけれど、一度も

親しく話しかけたことはなかった。僕は奥手だったんだね。ラブレターを出そうと

思ってポストまで行ったんだけど、やめてしまった。確か2年生の時かな。同級生

の女の子が不純異性行為(今は悲しいことに多くの人がやっているみたいだけ

ど)が発覚したことがあった。Oさんというんだけど処分が決定するまでは学校に

来ていたんだ。僕はそんな間違いを犯したとしても特別な眼で見たくはなかった。

でもそれを自然に実行していたのが海老原さんだった。お昼の弁当の時間には

いつも仲間やOさんと一緒に食べ、それまで以上に親しく語りかけていた。そんな

彼女に僕は恋していたと思う。結局Oさんは退学処分になってしまったけれど、こ

の高校で立ち直って欲しかった。今ごろ海老原さんはどうしているだろう。きっと

素晴らしいお母さんになっていると思う。一方的な片想いだったけれど、本当に

心の澄んだ女性だった。


高校時代、今でも私の宝物になっている一冊の本と出会った。それは小林有方

神父さんが書いた「生きるに値するいのち」で、今でも私の大事な宝物になって

いる。またこの時、15歳の少女が骨肉腫になり死ぬまで書き綴った手記が新聞

一面に掲載され、その切り取った新聞は今でも僕の思い出箱に保存されている。


高校時代の親友は坂元君だった。お父さんは漁師だったかな。この時も僕はどもっ

ていたけれど、彼は自然に僕と付き合ってくれていた。きっと彼がいなければつまら

ない高校生活だったと思う。高校時代僕は物理のクラブに属していたんだけれど、

その時の顧問が碓井先生だった。口数は少なかったけれど、生徒の視点で見てく

れるいい先生だった。その先生からアマチュア無線を進められ、僕は電話・電信級

の免許をを取った。学校にある無線機を利用してハワイとかインド洋上の日本商船

と会話できたのは嬉しかった。そのうち坂元君が遊びに来て、一緒にやった。とは

言っても彼は免許をもっていなかったから、僕が違法行為に誘ったんだけれどね。

こんなことをばらしちゃ坂元君に迷惑だったかな。でも既に時効だからばらしても

いいかな。坂元君、いつか君に会いたいな。高校時代本当にありがとう。これで

僕の紹介を終わりますが、その後の人生に関しては散文詩を参考にしてくだされ

ばと思います。


 




好きな食べ物・・・・麺類かな。独身時代は節約のためいつもスパゲッティを作っていた。

尊敬する人・・・・母親、それからこのページに紹介している人たち

好きなこと・・・・いっぱいありすぎて困ってしまう。

嫌いなこと・・・・ゴルフかな。環境破壊の典型的なもの。ゴルフに夢中になっていながら

自然環境を大事にしたいと発言する人がいるけれど、こんな矛盾した発言をする人には体

が拒否感を示してしまう(例えば細木数子 さだまさしなど)。でも大なり小なり私自身も普通

に生活する上で何らかの環境破壊に加担してしまっているのもまた事実なんだけどね。


幸せに感じたこと・・・・恐らく死ぬ間際に本当に幸せだった時代のことを想い出すと思う。

好きな漫画など・・・・「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」この二つは僕の宝物。

特にダンディにひかれた。「アルプスの少女ハイジ」は高校時代見たけれど、何故

か周りの都合で転々とするハイジに自分の人生を重ね魅入ってしまった。手塚治虫

の作品が大好きです。


好きな映画はこちらで紹介していきます。

Habbo(ハボ)では、「探検君」という名で出ていました。ここで出会った皆さん、

本当にいい思い出ありがとう。



mixi でも同じ「探検君」という名で登録していますが、書き込みなどしておりません。

プロフィール写真はヘレン・ケラーがチェスをしている写真を載せていますが、この

サイトのことは伏せてあります。何か mixi は閉鎖的な印象が強く自分には合わない

と思っているのかも知れません。非常時の連絡用に登録しているだけのことです。

Facebookでは本名「古賀一典」で出ています。このサイトは一方通行ですが、Face

bookは相互に情報を交流できる点が素晴らしいと思います。少しユーモアを交え

ながら、写真と共に投稿していますので、気楽に声をかけてください。

http://www.facebook.com/aritearu








七沢森林公園 順礼峠のお地蔵さん

ホピの預言(予言)

神を待ちのぞむ

天空の果実