パドレ・ピオ神父

1887年5月25日イタリアのピエトレルチナにて出生。16歳でカプチン・

フランシスコ修道会に入会。1918年8月5日夕方、目の前に現れたイエス

より聖痕を受ける。その後の全生涯を奉仕に捧げるとともに、数多くの奇跡

を行なう。1968年9月23日亡くなる。享年81歳。2002年6月16日、ヴァ

チカンのヨハネ・パウロ2世は、世界中から集まった50万人の信者の前で、

福者ピオ神父を462番目の聖人に列聖することを宣言した。









 
 


「ピオ神父の生涯」

ジョン・A・シュグ著

甲斐睦興訳 聖母の騎士社

ピオ神父が現代社会にとって最も必要とされる理由は、ピオ神父が我々を生き地獄から

救い、死者を煉獄の苦痛から救出して下さるからである。神父の外面を列記すると−奇蹟、

聖痕(両手、両足と脇には十字架刑による五つの傷)、二箇所同時存在、外国語の賜物(勉

強しなかった外国語を話せた)、読心術(見知らぬ人々の生活歴がピオ神父に判っていた)、

一日たりとも休まないで五十年間働き通した。−この事は、心の堅い罪人を近寄せ、疑り深

い、批判的無神論者を改心させるために、天の漁夫(神)が与えた餌である。」

「ピオ神父の生涯」より引用


 


目次

まえがき

感謝のことば

献詞

第一章 闘士

第二章 ピオ修道士

第三章 ピオ神父

第四章 聖痕への序曲

第五章 聖痕

第六章 目撃者の報告

第七章 噂と暴動

第八章 ミサ聖祭に於いて

第九章 サン・ジョバンニ・ロトンドに於ける司牧

第十章 霊的子供達

第十一章 現象

第十二章 二ヶ所同時存在

第十三章 神授の芳香

第十四章 ピオ神父の社会事業

第十五章 脚光、死と埋葬

第十六章 死を通過した生命

第十七章 あとがき

訳者あとがき







「ピオ神父と守護の天使」

アレッシオ・パレンテ著 甲斐睦興訳 フリープレス刊


 
 


ジェラルディン・ノラン女史の献辞

「世の中で最もよく最も美しい物は見ることができず、触れることさえできない。それらの

物は心で触れなければならない」 ヘレン・ケラー

私たちの愛すべきピオ神父に、熱心に心服している者の一人として、私はこの偉大な人物

に関する本のほとんど全部を読み尽くしました。ピオ神父と暮らす幸運を実際につかんだ

アレッシオ神父が、ピオ神父と天使たちについて本を書くことを知り、言うまでもなく私は喜

んでいます。


過去二、三年間、本書の著者は守護の天使たちとの(数多くの)御自身の体験を教えてく

れ、私はすっかり魅了されました! 天使が笑う、天使が泣く、天使が歌う、天使が自動車

を運転する、自動車を修理する天使、何でも屋の天使、多国語を話す天使・・・・について

記された本を読むことは、日常茶飯事とはいきません。私の心からの驚きは、本書が形成

されていくのを毎日注目しながら、もっと知りたいいう執着心に変わりました。


前述したように、著者はピオ神父のそばで長い年月を費やしたので、本書に取り入れられた

情報は、「確実な筋から」得られたものです。アレッシオ神父の仕事の重荷のため、または、

たぶん「悪魔の邪魔」により、はじめは痙攣したように著作は進みませんでしたが、神父も最

終的には腰を落ち着けて進めることができました。読者は本書のできばえにただ驚かれるこ

とと私は信じます。もちろん、本書に打ち明けられた多くの物語を信じないことは叱責されるべ

きではありません。しかし、これらの物語は空気の中(何もないところ)から引っ張り出された

ものではありません。逆に大多数の物語は、健全な人格の人物により記録され、アレッシオ

神父に対して証言されたか、打ち明けられています。


これらの天使の出来事は、長年、注意深く蒐集されました。著者のユーモアあふれる書き方

は、出来事の真実性を決して損なっていません。「ユーモアを使って説教できる」という、有名

なローマの作家ホレイショの言葉はここで立証されたように思われます。本書の目的は何が

何でも天使たちについて書くことではなく、私たち全員の前に、天の同伴者が私たち自身の

そばにいるという「古めかしい考え」を再び持ち出すことです。ピオ神父がおっしゃったように、

天の同伴者は、「私たちが神に愛想を尽かさせるときでさえ、私たちを見捨てません」。教会の

天使に関する教義はすでにこれを教えていますが、これらの本当の天使たちとピオ神父や神

父の霊的子供たちが実際に体験したことを取り上げ、これがいかに真実であるかを本書は教

えます。確かなメッセージが読者に快く伝えられ、まったくの沈黙のうちに私たち一人ひとりに

対して義務を遂行する、しばしば忘れられている同伴者のことを、他の人たちにも考えさせる

よう、私は希望します。一言で要約するならば、ピオ神父と天使に関する本書が、信仰してい

る人々の信仰を強め、信仰していない人々には信仰について少しでも興味を呼び起こすこと

を、私は確信しています。

ジェラルディン・M・B・ノラン


 


目次

ジェラルディン・ノラン女史の献辞

はしがき

ピオ神父の略歴

「私の幼少時の同伴者」

「天使が笑う!」

多国語を話す天使

悪魔の妨害

良き叱責

時間厳守の天使

しつこい天使

何でも屋の天使

地球を踏破する天使

収容所の中で

天国の郵便屋

天使の行列

天使のパン(パニス・アンジェリクス)

あなたの天使をミサ聖祭に送りなさい

天使は家に留まる

自動車を運転する天使

目覚めている天使

見えない同伴者

守護の天使に対する敬虔な祈り

天使は歌った

忙しい天使たち

24番と25番

アメリカ婦人メアリ

自動車修理工の天使

目に見える同伴者

空にいる天使たち

病者のための天使

微笑

天使たちの元后

聖母を讃えて

神の完全を映す鏡

読者に宛てて

文献

訳者あとがき











(大きな画像)


 
 


2008年4月24日

イタリア南部プーリア州サンジョヴァンニ・ロトンドのサンタ・マリア・デル・グラシエ教会。

ピオ神父の遺体が24日、死後40年にして掘り起こされ初めて公開された。上の写真は

その時のものである。尚、顔面は腐敗していたため生前の顔を模したシリコン製のマスク

をしている。一部の信者から「聖人は腐敗しない」との理由で、「聖人認定を取り消し」の

宗教裁判が起こされたようだが、アッシジの聖フランシスコ(遺体は腐敗している)と同じ

く、人々のために一日も休むことなく生きた清貧の人であり、腐敗あるなしが聖なる魂を

判断し、おとしめるものであっては決してならないと強く思う。


(K.K)


 





 



 


2012年1月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



アイヌの「お産ばあちゃん」

写真は、アイヌの青木愛子さん(1914年〜1995年)の左手です。青木さんは、古代から継承

されてきた産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そしてウエインカラ(何で

も見える千里眼)を通してシャーマン的な役割を担ってきた方です。愛子さんのウエインカラ

は、初対面の人と対座した時だけでなく、電話の相手でもその人の過去と未来がわかる特

殊な力を持っていました。



同じく沖縄・奄美には現在でもシャーマンがいます。沖縄では「ユタ」(殆ど女性です)と呼ば

れていますが、例外なく全ての「ユタ」が出来るならユタにはなりたくなかった、と話されてい

ることは共通しています。それはユタが犠牲と奉仕に貫かれた生活を送ることを小さい頃か

ら見て知っていたからです。「ユタ」として神から召し出される人(自分の意思や世襲ではなく、

文字通り神のお告げを受け入れた人)にも、人には見えないものが見える千里眼を持つよ

うになります。



キリスト教ではアッシジの聖フランシスコが有名ですが、聖痕(イエス・キリストが磔刑となっ

た際についたとされる両手両足、脇腹の傷)を受けた人であり、千里眼を持つ人としても知

られたピオ神父(1887年〜1968年)がいます。ピオ神父は見ず知らずの人の過去や未来を

的確に言い当てただけでなく、二箇所同時に存在することや学んでいない外国語を話すこと

が出来、ヨハネ・パウロ二世から462番目の聖人に列聖されたのは死後34年経った2002年

のことでした。



このように宗教を問わず、千里眼の能力を授かった方は世界には沢山いることでしょう。私

もこんな能力があったらどんなにいいかなと内心思ったことはあります。一つの優越感みた

いなものをそこに感じたからでしょうね。でも冷静に考えると、この能力を持つことには大い

なる責任と義務も併せもたなければならないことを意味しているのではないかと思います。

そう考えると私にはとても耐えられそうにもないので「普通の人間で良かった」と感じますし、

一人一人違った形の「召し出し」があるのかも知れません。



一方、千里眼など不思議な能力、神からの授かりもの(そうでない場合もあります)としての

この能力を、自らの訓練によって自らの力によって勝ち取ろうと思う人も出てくるかも知れま

せん。多くの新興宗教の教祖がその部類に入るのではと思います。



この態度の本質を、ダライラマ14世も高く評価している、アレクサンドラ女史による「チベット

魔法の書」の中に紹介された一つの逸話が的確に言い当てているので紹介します。



「あるとき、釈迦が弟子たちを連れて旅をしていたとき、森の奥に佇む小屋の中に、一人の

疲れ果てた顔のヨギをみた。釈迦は立ち止まり、行をやって何年になるのかと尋ねた。『二

十五年になります』『そんなに長いこと苦行をして何を得たのか ? 』行者は得意気に答えた。

『水の上を歩いて川を歩いて渡れるようになりました』『哀れな人だ』と釈迦は同情の声をか

けた。『そのようなつまらないことに幾歳月も費やしてきたのか。小銭一枚出せば、船頭がす

ぐさま向こう岸まで運んでくれるだろうに』」



アイヌの青木愛子さん、沖縄・奄美のシャーマン、ピオ神父に共通していること。それは犠牲

と奉仕、そして「謙遜」ではないかと感じています。どんな超能力や奇跡(前にも申しましたよ

うに全て神からの授かりものとは限らないと思います)を行うことが出来ても、謙遜がないと

ころには、全てその意味を失ってしまうどころか、誤った道へと誘う主体者へと変貌していく

のではと思います。使徒パウロは別の表現でこう言っています。「たとい私が、人間と天使の

ことばを話しても、愛がなければ、鳴る青銅と響きわたるどらにひとしい。たとい私が、預言

の賜物をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛が

なければ、無にひとしい。たとい私が、すべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、

愛がなければ、益するところがない。」



うーん、こんな偉そうなことを書いても運転中にゆっくり前を走る車がいると、独り言で「わが、

なんばしょっとか、トロトロ走りやがって、いてもうたろうか」と九州弁と関西弁が喧嘩し合い

完全に自分を見失っている、いや本来の僕が出てきますしね。「はぁー、なんとか穏やかに

せんとといけんばってん、むずかしかでごわす」であります。まあ僕の日常が全てこんな調子

ですので、僕がどんなに美辞麗句を並べても、ほどほど聞き流すのが無難なところかと思い

ます。



アイヌのお産おばあちゃん、青木愛子さんの言葉を聞きとった方が本の中で次のように記し

ていますが、最後にこの言葉を紹介して終わりにしたいと思います。



「一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人

が多い。何も見えないほど暗い人もある。明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に

対して尽くしている様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、

無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有しているか

どうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。」



皆様にとって、そして世界の人にとって、2012年が平和と調和の道を歩むことが出来ますよ

うに願っています。



(K.K)


 







エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実