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1993.7
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私の手は何を拭うことが出来るのか 憂いに沈む瞳に 私は何を語りかければいいのか 震えた冷たい指先に 私は何を持たせればいいのか 私が花巻を旅したのは もう紅葉がすでに始まろうとしているときだった 夜行バスでほとんど眠れぬ夜を過ごし 花巻に降り立つと眠気も醒める冷たく心地よい風が 私をぐるりと取り巻いていた いつしか私は賢治が歩いた道に佇んでいた もう何年前になるのだろう 天空に灯る星ぼしに 私の心を導いてくれたこの物語を見開いたのは 賢治 あなたは街灯もない暗い道を この「銀河鉄道」を書くために歩き続けた ひんやりとした大地に身を横たえ 天地に流れる星ぼしにあなたはその夢を託した 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」 あなたが流れる銀河に見入ったのと同じように私の心にも その銀河が滔々と流れているのです 賢治 あなたは他の人の悲しみに無関心でいられなかった しかしそれ故 彗星のごとくその命を短く燃え尽きさせてしまった 賢治 あなたは銀河鉄道に今も乗っているのだろうか あなたが残した作品は、今多くの人に読み継がれ その足跡を追ってこの地を訪れる人は後を絶たない しかしあなたは今 どのような目でこの私達の星を見つめているのだろうか 私は軽便鉄道の線路添いに足を進めていた。七十年前賢治が踏み しめた道を往くと、意識が急に遠ざかり私は線路の近くを流れる 川のせせらぎの音色に身を浸らせていた。すると何処からか 汽笛が鳴ったかと思うと「サウザンクロス サウザンクロス」 と突然車掌の声が鳴り響いた。「次の停車場はプレシオスの鎖」 赤いランプをかざした男が青い制服を着て私の横に立ち、じっと 私の瞳を見つめた。燃え盛る白い炎のように彼の目は爛々と輝き 渡り、その帽子には七つの宝石がちりばめられて車内を虹色に染め ていた。「何処までおいでですか」 気が付くと私以外誰もいず、 もう汽車は物音を立てず走り出していた。ふとにぎやかな声が 私の耳を奪い、車窓から見える光景に見惚れていた。 「ああ、あれは今さっき生命を受けた星の子が喜び踊っているので すよ。」 黄金色に輝く稲の穂のなかを疾風のごとく童子が駆けて いる。しかし急に外が真っ暗になり男の持つ赤ランプが私の目に 飛び込んできていた。男は私の前の席にいつしか腰掛けており、 その瞳は涙で潤んでいるかに見えた。「どうかしたのですか。」 汽車はプレアデスを通り過ぎ、おおいぬ座の向こうに地球が位置 する銀河系が見え隠れしていた。「あなたは銀河ステーションの あるあの緑の星に行かれるのでしょう。実はあなたに渡したいも のがあるのです。」 男はポケットの中をまさぐり、取り出したその 白いひ弱な手には振り子が揺れていた。「この振り子は重力により いつまでも揺れ動いています。この銀河鉄道だってそうです。 ただこの鉄道は重力ではなく、ある力によって動いているのです。 それは朽ち果てることのない力が源なのです。振り子は空気の抵抗 によりいつかは揺れることをやめるでしょう。私はあの地球を見て いると、だんだんその振幅を小さくしてゆくのが気掛かりなのです。 空気の抵抗と同じように何らかの力がそうさせているの です。」 男は深い溜め息をつきその目は遥かかなたに輝く赤いまたたきを 見つめた。すると不思議なことに、男の持っているランプは ますます輝きを増し赤いセロハンを通して外界を見るように、 すべてのものの影が周囲にゆっくりと沈んでいった。 「あれはさそり座のアンタレスという星ですね。」 私は何か胸が 熱くなるのを感じ男に話し掛けた。 汽車は次第におおいぬ座に 近づき、いつしかシリウスの青白い炎が車内を隈なく照らしだして いた。男はふっと我にかえり慌ててランプをその白い息で吹き消す と、その姿は水晶のように周りに溶け込み私の目から消えていった。 「銀河ステー ーション 銀河ステーション。」と何処からか声が 響き、私は再び川のほとりに佇んでいるのに気づき急いでポケッ トに手を突っ込んだ。 しかしその手には何も、何も握られては いなかった。 私は三日間の旅を終え帰路に着いた ある夜 私はそっと家を抜け出し 街灯の光が届かない暗闇のなかに寝ころび天を見上げた 流す涙に 憂いに沈む瞳に 震えた冷たい指先に この私は一体何が出来るというのだろう 遥かなる銀河が私の瞳に飛び込み あるがままの私を包み込んでゆく その時何かの鳴る音が耳に響いた それはゆっくり ゆっくりと心の中で揺れていた
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