「BOBBY FISCHER Profile of a Prodigy」

Frank Brady 著







フィッシャーの伝記と厳選した90局の棋譜の解説。尚、同じ著者による

フィッシャーの完結編とも言える伝記が「Endgame: Bobby Fischer's Remarkable
Rise and Fall - from America's Brightest Prodigy to the Edge of Madness」
である。



またこの完結編が2013年2月15日、日本語版として出版されました。

「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 
佐藤耕士・訳 羽生善治・解説 文藝春秋





2015年10月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





2001年9月11日、同時多発テロの日。



「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ!



ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。



やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。



ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。



今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、



この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! 



おまえたちの終りは近いぞ」



2013年2月17日、亡き伝説のチェス王者・フィッシャーのこの言葉をフェイスブックで紹介したが、フィッシャーの母はユダヤ人

であり、生涯その関係は血のつながりを感じさせる温かいものであった。



なのに何故?



何が彼をそこまで追いつめたのか?



以前、郵便チェスでアメリカ人と対局したことがあるが、彼は「フィッシャーは不幸にして病んでいる」と応えていたが、アメリカ人

の多くがそう思っていることだろう。



1972年のアイスランドでの東西冷戦を象徴する盤上決戦と勝利、マスコミは大々的に報じ、フィッシャーを西側の英雄・時代の

寵児として持ち上げた。



それから43年後の2015年。



フィッシャーの半生を映画化した「完全なるチェックメイト」(原題はPawn Sacrifice)が日本でも12月25日から全国で上映される。



主演はスパイダーマンで有名なトビー・マグワイアだが、このスパイダーマンの映画の中で心に残っている台詞は、



「これから何が起ころうと僕はベン叔父さんの言葉を忘れない。『優れた能力には重大な責任が伴う』 この能力は僕の喜び

でもあり悲しみでもある。だって僕はスパイダーマンだから。」



フィッシャーとスパイダーマン、一時的にはフィッシャーは英雄となったが、彼にとって「重大な責任」とはチェスの真髄を追い

つづけることだったのかも知れない。



東西決戦の後にフィッシャーがとった奇怪な言動は、妥協を決して許さない態度が周囲との摩擦を深めていく中で、奇異な

ものとなっていったのだろう。



フィッシャーの素顔。



アメリカから訴追され、日本に居たフィッシャーをアイスランドへ出国させる為に尽力した渡井美代子さんは、フィッシャーと

スパスキーとの再戦時(1992年)に招待された時のことを次のように書いている。



「フィッシャーは誠実の人です。約束は必ず守ります。だから、会うたび違うことをいう人を(どんな些細な食い違いであった

としても)絶対に信用しません。フィッシャーは、私が希望をいえば誠実に応えてくれる最高の友です。試合のない日は私と

食事するという約束は何があっも一度も違えませんでした。どんな偉い人がきても袖にしました。」



有名な写真家Harry Bensonは、フィッシャーが亡くなった後に、「Bobby Fischer against the World」という自らが撮った

フィッシャーの写真集を出版した。



そこには、花や馬と戯れるフィッシャーがいた。



アイスランド。



盤上決戦の地であり、フィッシャーが64歳で亡くなった地。



私がチェスに関心をもつ前に、ある写真集に惹かれ、それから写真・写真集に関心を持つようになったのだが、そのきっかけ

となったのがアイスランドの写真集だったのも何かの因縁かも知れない。




 

2013年2月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「完全なる天才 天才ボビー・フィッシャーの生涯」文芸春秋 を読み終えて

(写真はフィッシャーの写真集より引用したもので世界選手権の休息日に撮られたものです。)



2001年9月11日、同時多発テロの日。



「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ!

ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。

やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。

ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。

今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、

この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! 

おまえたちの終りは近いぞ」



これはイスラム過激派の言葉ではない。この言葉は1972年という東西冷戦時のソ連にたった一人で

立ち向かい、チェスで勝利した男・ボビーフィッシャー(ユダヤ人の血をひくアメリカ人)が発したもの

である。



チェスを超えて自由主義圏の英雄ともてはやされた男が何故ここまで堕ちたのか、いや正確には追い

つめられたと言ったほうがいいのだろう。



妥協することを許さない天才。彼の言葉は物事の真実を暴こうとするが周囲からは理解されず、彼の

名声やお金に与ろうする人間によって傷つけられ、人間不信と妄想そして貧困が彼を蝕んでいく。



母子家庭で育ったフィッシャー、その乾いた心を慰めてくれたものがチェスだった。その天性の才能は

花開き、数々のドラマを生みながら目標としていた世界選手権に挑む。



相手はソ連の世界チャンピオン・スパスキーだった。スパスキーは、その天性・性格・容姿から「チェス

の貴公子」と呼ばれていたが、1968年ソ連がチェコスロバキアに軍事介入した時、スパスキーは黒の

腕章を巻いて大会に現われ、チェコの選手一人一人に握手した。ソ連政府に対して暗黙の抗議を行っ

たスパスキーは1975年フランスに亡命することになる。



一匹狼のフィッシャーと貴公子のスパスキー、この似ても似つかない二人が、1972年世界チャンピオン

の座をかけて戦い、そして20年後の1992年にも国連制裁を受けていたユーゴスラビアで再び戦う。



チェスは白と黒の全く異なる駒が戦う競技だが、それは相手がいればこそ成立する。最初は国の威信

をかけての敵同士だったが、アイスランドでの選手権の戦いを通して彼らはまるでチェスの白と黒の駒

のように惹きつけ合い、互いになくてはならない存在になっていることに気づく。



フィッシャーがアメリカ政府から起訴され、日本で無効なパスポートをもって入国したとして入管法違反

で拘留させられたときも、スパスキーは6歳年下のフィッシャーを、まるで本当の弟のように心配し、

「何故、フィッシャーだけ捕らえるんだ。私も同じ留置所に入れてくれ」と弁護している。



「フィッシャーはその天性の完全さでいつも私に特別な感銘を与えた。チェス、

そして人生の両面においてだ。妥協は一切なかった」 スパスキー



本書はフィッシャーと長年親交があった人が書いたフィッシャーの評伝であるが、単に壊れていく悲劇

の軌跡を追うだけに留まらず、稀にみる一人の天才が対局場で産み出したチェスの名局と共に、チェス

盤と同じ64マスの生涯を終えたフィッシャーの人生そのものがチェス盤そのものに映し出されたような

錯覚に陥ってならなかった。



2013年2月17日 K.K



 
 

2013年2月5日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



ヴェラ・メンチク(1906-1944)・写真は他のサイトより引用



現在でも光り輝く星・ヴェラ・メンチク、彼女はチェスの世界チャンピオンを倒したこともある実力を持ちながら、

第二次世界大戦のドイツの空爆により、38歳で亡くなる。



上の写真はメンチク(前の女性)がクラブの23人のメンバーと同時対局(18勝1敗4分け)した時の写真である

が、彼女の偉業を称えて、チェス・オリンピックでは優勝した女性チームに「ヴェラ・メンチク・カップ」が現在に

至るまで贈られている。



彼女のような輝く女性の星が再び現われるには、ユディット・ポルガー(1976年生まれ)まで70年もの年月が

必要だった。チェスの歴史上、数多くの神童や天才が出現したが、その中でもひときわ輝いていた(人によっ

て評価は異なるが・・・)のがモーフィー(1837年生まれ)、カパブランカ(1893年生まれ)、フィッシャー(1943年

生まれ)である。



他の分野ではわからないが、このように見ると輝く星が誕生するのは50年から70年に1回でしかない。



20世紀の美術に最も影響を与えた芸術家、マルセル・デュシャン(1887年〜1968年)もピカソと同じく芸術家

では天才の一人かも知れない。1929年、メンチクとデュシャンは対局(引き分け)しているが、デュシャンは

チェス・オリンピックのフランス代表の一員として4回出場したほどの実力を持っていた。



「芸術作品は作る者と見る者という二本の電極からなっていて、ちょうどこの両極間の作用によって火花が

起こるように、何ものかを生み出す」・デュシャン、この言葉はやはり前衛芸術の天才、岡本太郎をも思い出

さずにはいられない。世界的にも稀有な縄文土器の「美」を発見したのは岡本太郎その人だった。



「チェスは芸術だ」、これは多くの世界チャンピオンや名人達が口にしてきた言葉だ。この言葉の真意は、私

のような棋力の低い人間には到底わからないが、それでもそこに「美」を感じる心は許されている。



メンチクの光、芸術の光、それは多様性という空間があって初めて輝きをもち、天才もその空間がなければ

光り輝くことはない。



多様性、それは虹を見て心が震えるように、「美」そのものの姿かも知れない。




 

2012年9月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



Tobey Maguire dans la peau de Bobby Fischer
 より引用

伝説のチェス世界チャンピオンの映画(フィンチャー監督) 



写真は他のサイトより引用しましたが、元チェス世界チャンピオン・フィッシャーをトビー・マグワイアが

演じています。



今から40年前の1972年、ボビー・フィッシャーの名前はチェスファンだけに留まらず、世界の多くの人の

記憶に刻まれました。世界チェンピオンであった旧ソ連のスパスキーと挑戦するアメリカのフィッシャー

ユダヤ人の母をもつ)、この24番勝負は米ソの東西冷戦の象徴として、世界中の注目を集めたのです。



このフィッシャーの伝記映画が来年公開されます。監督は「ソーシャル・ネットワーク」「ドラゴン・タトゥー

の女」などで知られるデヴィッド・フィンチャー。映画の主人公フィッシャーを演じるのはスパイダーマン役

で知られるトビー・マグワイアです。



マグワイアがどんなフィッシャーを演じるのか今まで全く情報がなかったのですが、上の写真を見るとま

るでフィッシャーが乗り移ったのではないかと思うほど姿や雰囲気が似ています。



奇人と知られるフィッシャーは個人的に好きですが、相手のスパスキーも私は尊敬しています。1968年

のソ連がチェコスロバキアに侵攻したチェコ動乱(プラハの春)の直後に行われた国際トーナメントで、

ソ連のスパスキーは黒の腕章をつけチェコスロバキアの選手一人一人に握手しました。



それはソ連がチェコに対して行ったことへの抗議であり、一人の人間としての謝罪でした。



私自身、正直言いまして共産主義国家には抵抗があります。旧ソ連のスターリンなどによる粛清、中国

・毛沢東のチベット侵略や粛清。



何故、共産主義は人間をこうも憎悪の虜にしてしまうのか、その答えははっきり出ませんが、チェ・ゲバラ

が「世界の何処かで、誰かが被っている不正を、心から悲しむ事が出来る人間になりなさい。それこそ、

最も美しい革命家の資質なのだから。」と言うのに対し、旧ソ連・中国の共産主義は逆にあるものへの憎

しみに囚われていたと感じてなりません。



これは哲学者の梅原猛さんも指摘していることですが、憎悪は増幅して更に多くの憎悪を産むのかも知

れませんし、共産主義だけにあてはまるものでもありません。。



チェスとは関係ない話になってしまいましたが、映画ではアメリカ的な善玉悪玉の構図でスパスキーを

描いて欲しくないと願っています。



最後に、フィッシャーは2008年スパスキーとの世界選手権が行なわれたアイスランドで、チェス盤のマス

の数と同じ64歳の生涯を終えました。



(K.K)




追記(2012年11月30日)


監督はフィンチャー監督が降板し、「ラスト・サムライ」のエドワード・ズウィックになっています。

 

2016年3月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


不死鳥のオーロラ(写真はNASAより引用)


アイスランドにて昨年9月に撮影されたものですが、オーロラを見に集まっていた人々が帰った午前3時30分、

光が弱くなっていたオーロラが突然空を明るく照らします。



場所はアイスランドの首都レイキャビクから北30kmにある所で、流れている川はKaldaと呼ばれています。



画像中央やや上にはプレアデス星団(すばる)が輝き、山と接するところにはオリオン座が見えます。不死鳥の

頭の部分はペルセウス座と呼ばれるところです。



☆☆☆



この不死鳥のくちばしの近く、やや右下に明るく輝く星・アルゴルが見えます。



アラビア人は「最も不幸で危険な星」と呼んでいましたが、それはこの星が明るさを変える星だったからです。



イギリスの若者グッドリックは、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体(子供の時の猩紅熱が原因)でした

が1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を追いつづけ、この星が明るさを変えるのは暗い星がアルゴルの

前を通過することによって起こる現象ではないかと仮説を立てます。



1786年、その功績によりロンドンの王立協会会員に選出されますが、その4日後にグッドリックは肺炎により

22歳の若さで他界してしまいます。



グッドリックの仮説が認められたのは100年後(1889年)の分光観測によってでした。



今から230年前の話です。



不死鳥のオーロラ、多くの魂が光の中で飛翔していますように。










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