1971年の写真 「A PICTURE HISTORY OF CHESS」 by Fred Wilson より

MIKHAIL TAL(リガ 1936−1992)

チェス盤の魔術師 ミハイル・タリ (8人目の世界チャンピオン)

「CHESS IS CHESS」Chess Informant CD-ROMより引用



ミハイル・タリは1936年11月9日リガに生まれました。医者である父の手ほどきで7才の

ときには既にチェスの基礎を知っていましたが、特に興味をもったというほどではありません

でした。しかし小学校入学、そして少年宮での生活はチェス・マスターのコプレンツが教育上

の見地から見抜いたように、タリのチェス上達を速度を少しずつ増加させました。タリは小児

の時代をなにげなく過ごしましたが一方小学生にして、ある時には奔放な奇想をチェス・ゲー

ムの中に燃やしました。勝ったと思えば次なる敗けの口惜しさに小さいミハイルは興奮して

間断のない研究に追いやられました。1954年サイギンに勝ってマスター位を得ました。

1957年、誰も予想しなかったことが始まります。第24回ソ連選手権で、高名な8人のGM

(グランドマスター)たち --- ボトビニク、ケレス、ペトロシアン、トルシュらを前にして、しかも

そのうち5人を直接打ちのめしてタリは華々しく優勝をさらいました。この飛躍によりタリは

世界的な声望とGMのタイトルを得ました。次の年、再びペトロシアン、ブロンシュタイン、

アベルバハゲラー等の強豪を相手に全ソ連選手権で優勝、二期連続です。そしてポルト

ロジュで開かれた世界選手権インターゾーナルにも優勝し挑戦者決定戦に進出しました。

傍若無人ともいえる野心と意志により、タリは次の年も“奇跡”を続け天与の才を開花させ

ます。26回ソ連選手権では2−3位そしてチューリヒのインターゾーナルでは堂々と優勝。

宿願のチャンピオンへの道への前途に横たわる大障害、最終関門の挑戦者決定戦の日が

くるのをタリは辛抱強く待ちのぞみました。ユーゴスラビアでブレド、ザークレブ、ベオグラード

と転戦しつつ、タリは精強ケレス、ペトロシアン、グリゴリチ等を寄せつけません。ライバルた

ちすべてを打破したタリの前に立ちはだかるのはただ一人ボトビニク。そしてただ一つの世界

タイトル。1960年の春、チェスの歴史に一つの出来事、チェス盤を前にして片や重厚にタイ

トルを保持する49才のボトビニク。片や23才の神童タリ。試合は終始鮮やかな技を連発し

のびのび戦うタリのものとなりました。チェス史上、こんな若さで最高位を極めたのは類があ

りません。18才でマスター、21才でGM、23才で世界チャンピオン! 1961年のリターン

マッチに破れ、努力が水泡に帰したことはタリの自信をぐらつかせました。次の世界選手権

シリーズは試合による勝ち抜きです。タリの出だしは有望でした。ボルティシュ、ラースンを

連破し、しかし最終戦スパスキイに敗れ、1968年には準決勝でコルチノイに斬られました。

タリにとっては忌むべきは1973年夏。レニングラドのインターゾーナル・トーナメントはむしろ

望むところであったのに、この“リガの魔術師”は予期せぬ残敗を喫しました。しかしチェスの

大選手にとって斯界制覇に障害があるわけはありません。タリはチェス界の中に彗星のごと

き輝きで現れました。単なるマスターがアッというまの4年間に世界の王座に至りました。チェ

ス界に飛び込んできたその迅速さを人はモーフィのそれにたとえ、また彼を催眠術のように

思いました。タリが世界を驚胆させた美しいコンビネーションの数々はアリョーヒンの類希な

技法を思い返させました。20才の若さで最高学府の教育を身に付け、教育の深さを誇った

タリは科学と音楽でも一流の識者です。チェス誌の編集をしたり、しかし結局彼は天才プレー

ヤーといわれるのが一番ふさわしいでしょう。どんな難局にあってもひるまずに気品高く、闘争

力、ダイナミックさの棋風をくずさなかったのがタリです。彼の成績には波がありました。彼自

身次のように言っています。“チェス・プレーヤーはみんな自分のトーナメントの運を鍛冶場で

たたき出しているようなものだ”

「激闘譜 シュタイニッツからフィッシャーまで 歴代チェスチャンピオンからの珠玉集」

マックス・エイベ著 松本康司訳 日本チェス出版社より引用






 


ミハイル・タリは酒とタバコとチェスを愛していましたが、持病の腎臓病に悩まされ

世界チャンピオンにカムバックできませんでした。前世界チャンピオンのマックス・

エイベ博士はタリについて次のように言っています。「タリのやることは往々、見る

人の目を疑わせます。駒をバタバタ捨てての攻撃は一見まったく何の代償も取れ

ないように見えます。タリは二つも三つも駒損しておいて、理屈では割り切れない

局面を作り勝ったり引き分けたりしています。タリは恐らく古今を通じて最も奇抜な

プレーヤーでしょう」。またタリが一年かけて作った86試合という最長不敗記録

(47勝39分)は今でも破られていません。「チェスはまずなによりも芸術である」タリ



1個の新星が、この輝ける星団から出現した。1957年のソ連邦選手権は、リガ大学

歴史哲学部の二十歳の学生であるミハイル・タリにさらわれた。三年後には、モスクワ

の魅惑的な対局(六勝二敗十三分)で、タリはボトビーンニクのもつ世界選手権を奪取

した。タリはおどろくばかりの創意と才気あふれる棋士であり、チェスの偉大な天生の

名人のひとりである。1961年にはボトビーンニクが三度復位したが、タリ時代の到来

はすべてに予想されていた。しかしタリの健康は、マッチ・プレイの猛烈な肉体的・心理

的圧迫のもとでは最高の状態を維持できないことがわかった。かれはそれでもひらめ

きにみちた作品を生みつづけたが、国際競技会のほとんどを欠場しなければならなかっ

た。このタリの不在が、フィッシャーの上昇につながる。はやくも1950年代のおわりに、

すぐれた観察者は、はかり知れぬ才能に恵まれたこの若い名人同士の世界タイトル争

奪戦を期待し、予言していた。かれらが対戦するときの結果は、つねに興奮させた。黒

番で<シシリア>を指したタリは、1959年のユーゴスラビアの挑戦者決定トーナメント

において、フィッシャーをとことんたたいた。その二年後には、ブレドでフィッシャーは雪辱

をはたした。試合はいずれも「最高のチェスでは、じぶんの得物を容赦なく急所に打ちこ

まなければならない」というフィッシャーの自戒を地でいくものの、あるいは地でいくからこ

そ、よろこびである。ふたりがあらそった最後の機会は、1962年6月5日のキュラソー

だが、もっとも古典的な、あいゆずらぬ立派な試合(序盤定跡は<ルイ・ロペス>)のの

ち、フィッシャーとタリは引きわけた。たぶん、フィッシャーにたいするタリの戦闘能力は、

近代チェスの悲しむべき未知数としてのこるのだろう。

「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著 諸岡敏行訳 晶文社 より引用



 



1960年 チェスオリンピック 世界チャンピオン タリ と対戦する17歳のフィッシャー
 


タリの名局集(129局)

Mikhail Tal: Selected Games
Compiled by wanabe2000


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