
「Lasker's Manual of Chess」
Emanuel Lasker 著



1894年から1921年まで世界チャンピオンを
保持したラスカーによる青少年向けに書か
れた優れた名著で、現在でもその評価が
下がることはない。ラスカーの明解な分析
は序盤からポジショナル、終盤それぞれに
発揮されており、完璧なチェス手引書として
現在でも君臨している。

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「チェス戦略大全T 駒の活用法」ルディック・パッハマン著より引用
れた。それが抜きんでた第2代世界チャンピオン、他ならぬエマニエル・ラスカーである。 おそらく彼は、史上最も深くまでチェスを掘り下げた人物だろう。ラスカーはシュタイニッツ の原則を推し進めて、正確無比なものにした。シュタイニッツやタラッシュとは反対に、ラ スカーは絶対的な正着を追究することにこだわることはなかった。それというのも、チェス は良い特質も悪い特質も備わった2つの個性の間の闘争であると、彼は考えたからであ る。チェス固有の複雑で時間のかかる問題に直面したときには、最強のプレーヤーでさ え手を誤ることがあるので、チェスを純粋な科学として見ることには無理があると主張し たのである。ラスカーは最も偉大な、そしておそらく現存した唯一のチェス心理学者であ る。彼の展開した理念に関しては「チェスの考え方」の章で詳しく述べることにしよう。人 には合理的な性質が備わっていて、最小限の努力で最大限の結果を得ようと努めるが、 チェス・プレーヤーもその例に洩れない。だからタラッシュの思想が19〜20世紀の狭間で マスターに多大な影響を及ぼしたのに対して、ラスカーの深く思案された理論は賛同され なかったのである。
名は並びなき栄光に包まれ、チェス史上の最高の地位を独占しています。彼は10才のと き兄のベルトールド・ラスカーからチェスを覚えました。ベルリン大学数学部に入学できた 若いラスカーは、そこで得られる機会を貪欲に利用。彼は1889年ブレスローで最初の公 式競技会に出場し、マスター・タイトルを獲得し、直後プロに転じました。その成功は広く興 味をもって迎えられつ、ラスカーはイギリスに移住しました。イギリスでの試合の数々は・・ すべての相手を打ち破り・・彼の名を世界中に知らしめました。1892年彼はドイツの最強 の一人タラッシュに挑戦。しかしタラッシュは気位高く拒否しました。皮肉なことにこの試合 は後にタラッシュの方から逆に求め1908年になってやっと実現しました。
1893年ラスカーは一年間アメリカに渡り、試合という試合、競技会という競技会にすべて 優勝、チャンピオン挑戦者の第一候補に上げられるに至りました。スタイニツに挑戦する 世界タイトル・マッチの実現にはいろいろな困難がありました。1894年のこの大試合は、 年齢と生活難のハンディキャップを負う58才のスタイニツには重荷でしたか。ラスカーは チャンピオンとなりました。ラスカーとスタイニツがチャンピオンを手中にするために同じ コースを取ったのは興味深いことです。ベルリン・・ロンドン・・アメリカ・・、しかしスタイニツ がそのために生涯の半分を費やしたことと較べて、ラスカーは5年。そのあと27年間彼は 特記すべき勝利の数々をそえて威厳高くチャンピオンの座を守りました。多くのプレーヤー 達がラスカーの王位を狙いました。1921年迄6回の試合を行い、彼のタイトル保持者として の地位は疑問の余地はありませんでした。しかし、永遠の勝者は現世にはあり得ません。 1921年ラスカーはカパブランカにまったく予期せぬ敗北をとり王座を失いました。心身とも に疲労し切った彼は試合中止を申し入れ、哲学的な冷静さでチャンピオンを明け渡しまし た。重苦しいキューバの気候と、53才の年令が彼に敗北を与えた主因であることは軽々 しくは言えないでしょう。しかし、チェス界が新らしい、そして貴宝とすべきチャンピオンを カパブランカに求めていたことは疑いありません。
後年のラスカーの成績は、その年令のハンデをものともせず、世界最高の一人たるにふさ わしいものでした。1923年モスクワ・オストロワ・トーナメントにおいてレチ、エイベ、タルタコワ、 ボゴリューボフ、タラッシュ、シュピールマン等々錚々たる精強を押え優勝、その翌年ニューヨ ークGMトーナメントでは全20局中16点という素晴らしい成績でこれも優勝。因みに、最高レ ベルのトーナメントで2位を1点以上離すのはとても大変なことですが、カパブランカ、アリョー ヒン、マーシャル、レチ、マロツイ、ボゴリューボフ、タルタコワ等々といった世界のエリート連 中の中で2位を1.5点も引きはなし、断然たる強みを見せました。1925年から1934年までの9 年間ラスカーは競技に現われませんでした。1934年から1939年再び大競技会に参加した彼 は敬服すべき老令にめげず立派な成績を続けました。1935年のモスクワ・トーナメントでは 67才のラスカーは一局も敗けることなく、わずかに0.5点差で同率優勝したボトビニクとフロ ールに続いて3位になりその健在を示しました。・・カパブランカ、シュピールマンほか若く有能 な新星を打ち破って・・。
その後ラスカーは政治的な理由でドイツを追われ、始めソ連に移住し学術院数学部に籍を 置きました。1938年アメリカに移り、1941年1月13日、ラスカーはニューヨークで還らぬ人と なりました。ラスカーの成功は彼に棋風のうちに秘められています。量り知れない変化と、 錯綜と創意とそして闘争精神を持った冷利な巧妙なプレーヤーでした。率直すぎるほど率直 防ぎで相手の最強に打ち勝ちました。また彼は相手に対し徹底的な対人作戦を立て次から 次に難問を解くことを強要しました。ラスカーにとってチェスは単なる調和のとれた手順と手筋 の和音というだけではなく、更に、他に類のない、人間感情と、激情と思考と意思の闘争でし した。ラスカーは史上で最も知性あるれたチェスプレーヤーの一人といえましょう。彼は、人 間活動のいろいろな分野に興味を示し深い造けいを持ちました。数学および哲学博士とし て、チェス活動のあい間にこの二つの分野にも重要な足跡を残しています。人類知識のこう いう分野における彼の研究やその他の業績はとても大きな価値がある。かの代数学者アイ ンシュタインはその自伝の中で「この常人はずれた男が科学だけに専念しなかったこと」を 大いに口惜しがっている一節があります。
その一方で、ラスカーはチェス・ライターとしてまたジャーナリストとして名著を数多く著しました。 ドイツ、イギリス、アメリカ、ソ連等々各地で彼はチェス雑誌を発行し、多量の文章を載せていま す。1895年英国で発行した処女作“チェスの常識”で彼は自身の独創的で精妙なとらえ方にふれ ました。この本と、同じく彼の“チェス・ハンドブック”は世界中のいろいろな言語に翻訳され、チェ ス理論の発展に大きな役割を果たしました。ラスカーは世界のチェスに、その科学に対する拒む べからざる後見を貢献を通し、輝かしいしるしを残しました。彼は、このゲームで成功するために は無視することのできない心理的手法の基礎を作ったのです。
タイトル獲得はヴィルヘルム・シュタイニッツを破ってのことだったが、当時のチェス界は 若きドイツ人の力量に半信半疑だった。シュタイニッツはすでに60歳に近く、明らかに全盛 期を過ぎていたためだ。つづく5年間、ラスカーは参加したあらゆる大会を圧倒的な強さで 制覇し、その実力に対する疑念を払拭した。ラスカーは数学でも偉大な才能を発揮してお り、その分野における数々の貢献はいまも色あせない。哲学と社会学にも強い関心をもっ ていた。ラスカーの(死後出版された)伝記に慈愛に満ちた序文を寄せたのは、ラスカーを よく知るアルバート・アインシュタインだった。「人間の抱えるあらゆる大問題に熱心な関心 をいだく一方で、ここまで独自の個性を守った人物はまずいない」。特筆すべきは相対性 理論に関するラスカーの論文への反論も含まれていることだった。ラスカーにとって、チェス とは第一にふたりの人間の意思がぶつかり合う心理戦だった。よくいわれるように、彼は チェス盤ではなく人間を相手にプレーしたのだ。ミスは不可避であり、勝利は最大の圧力を かけた者、その圧力に最善の抵抗を見せた棋士に訪れるのだと認識していた。対戦相手 からは、敵が混乱するのを承知で故意に悪手を選んでいると非難もされた。それは言いす ぎというものだが、ラスカーの棋譜を見れば、敵がいちばん動揺するスタイルに切り換える 達人だったのはうかがわれる。恵まれたチェスの才能に加えて人間の心理に対する深い 理解があったためか、ラスカーは60代になってもきわめて高いレベルでプレーすることが できた。1921年にキューバの天才ホセ・ラウル・カパブランカにタイトルを奪われはしたが、 1924年にニューヨークで開催された史上最大級のトーナメントでは、チャンピオンのカパブ ランカとのちのチャンピオン、アレクサンドル・アリョーヒンを抑えて優勝している。 |
![]() 1910年 カール・シュレヒターとの世界選手権の試合はこちら |
ラスカーの名局集 Why Lasker Matters by Andrew Soltis Compiled by keypusher |
19世紀(1800〜1900)に指された名局集 |
