奄美大島・古仁屋のカトリック幼稚園運動会にて

「悲しみのマリア」の島 ある昭和の受難 小坂井澄・著を参照されたし。



この競技は父と子が参加するもので、子どもには大きな袋をかぶせ、親にわからないようにしている。

中間点でこの袋をかぶった子どもを並べ、父親たちが自分の子を正確に見つけゴールするというもの。

私はこの競技の前に父から「手を後ろで組んでいろ」と言われました。そうすることによって他の子供と

間違うことがないためです。子供ながらに頭がいい父だと感心したことをはっきりと覚えています。先頭

を走っているのが父で、私は当然抱かれた袋の中です。


私の父は2004年10月29日午前9時1分に老衰のため永眠しました。

「神を待ちのぞむ」に書いてあるように、父はとても厳格でしたが、子供想いの父でもありました。

享年79歳でした。正月に会ったとき父の手をじっと握っていたのですが、その後、その握ったとこ

ろを父は片方の手でしっかり握っていたことを忘れることは出来ません。


ところで、このホームページは私の遺書だと思って書いています。私自身いつ死んでしまうかわか

りません。それは明日かもしれませんし、何十年も先のことかも知れません。ただ自分が大事にし

てきたこと、美しいと思ったものをこのホームページに綴っていくことが自分が生きてきた証だと思っ

ています。私が死んでしまえばこのホームページも自然に消滅してしまいますが、もしほんの少しで

も皆さんの心に残ったのなら、そして皆さんの一つの踏み台になれればそれだけで満足です。皆さ

んにとって多くの実りある出会いが沢山恵まれますよう、祈っています。

2009年10月6日


 
 


2008.6.26    


今日親父の夢を見た。九州から関東に出てきた親父は、ふいに私の部屋に入ってきて一言二言言った後、

私のベッドにもぐりこんでしまった。何か心配事があったのかなと思い、また部屋に入る時の親父の目を

思い出すと、何かとても疲れたように落ち込んでいたのが気にかかった。そんな何か妙に現実感のある夢

だった。



私は思春期の頃から親父のスパルタ教育を受けて育ってきた。毎日のように私が勉強している背後に

親父は立ち、間違えると殴らる日々が続いた。



そんな記憶は振り返りたくないのは今でも同じかもしれない。間違えたらどうしようという怖れで勉強しな

ければならなかった私は、いつのまにかどもりになってしまった。人と話すとき言葉がうまく出ないのだ。
             


思春期を過ぎてもこのどもりは治らず、今も引きずっている。時々、あんな教育さえ受けていなかったらと

思うことがある。親父のあのような教育さえなければ、もっと違う人生を歩いていたんじゃないかと今でも

時々思うことがある。人と思いっきり自由に思っていることを話すことができる人生を想像してみたりもする。



親父はまた私の母に時々暴力を振るっていた。私が小学生低学年の頃、親父に殴られた母が風呂場で

泣いているとき、わたしは母に近づいてその背中をさすり、母は泣きながらうなずいていた。この記憶だけ

は今でも私の脳裏に焼きついて離れない。親父への憎しみが生まれたのはこの時だった。



そんな親父が亡くなって4年が過ぎてしまった。

勿論、小さい頃はキャッチボールの相手をしてくれた親父であったし、海上保安庁という仕事柄、遭難船

があれば嵐の中、救助に向かう海の男だった。尊敬と憎しみ、この二つの親父に対する気持ちを抱えな

がら生きてきた。私が成人した後、一緒に居酒屋で酒を飲んでいたとき、急に親父が年をとったように

見えたことがある。その時に、憎しみは少しずつなくなってきたように感じる。



夢に出てきた親父は、きっと私のことが心配で来たんだなと思う。
天国があるかどうか私にはわからないが、もしあるとしたら親父は天国にいると思う。家庭内では問題が

あったが、親父たち巡視船の海の男に助けられた人は数多いだろう。もし自分が嵐の中、沈没しそうに

なった時、遠くに救助に来た巡視船の船の灯りが見えたらどんなに歓喜し感謝することだろう。



今、公務員叩きがはやりになっているけれど、このように自分の命をかけて仕事をしている公務員がいる

ことだけは忘れて欲しくない。勿論、甘い汁を吸っている人間もいるとは思うけど、全てがそうではないと

強く言いたい気持ちに駆られる。





2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。



 

2016年4月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


アイスランド南部にあるセリャラントスフォス(滝)とオーロラ
(写真1枚目はNASAより、それ以外は他のサイトより引用)



1枚目の写真、幻想絵画かなと思いましたが、滝の水しぶきで何度もレンズを拭きながら撮られた写真です。



オーロラのやや右側に明るく輝く星が織姫星(ベガ)、左側に輝く星が彦星(アルタイル)です。



ですから天の川が位置するところにオーロラが出現したんですね。



北欧では死者と生者の世界を結びつけているのがオーロラであり、イヌイットの伝説ではこの世で善い行いを

した人はオーロラの世界へ行けると言われているようです。



死後の世界を意識することによって、初めて生の意味が問われてきたのかも知れません。



それはギリシャ哲学(ソクラテスプラトンなど)よりも遥か太古の世界、ひょっとしたら私たち現生人類よりも

前の人類にも芽生えた問いかけのように感じています。



オーロラなど天球に映し出される様々な現象(太陽、月、天の川、星、彗星など)を通して、人類は異なる次元の

世界を意識し死後の世界とのつながりを感じてきた。



ただ、精神世界の本に良く見られる「光の国(星)からのメッセージ」的な言葉に違和感を感じているのも事実です。



自分自身の足元の大地にしっかりと根をはらずに、ただ空中を漂っている、或いは彷徨っているような感じしか

受けないからです。



アインシュタインの相対性理論、まだ理解は出来ていませんが、それぞれの立場によって時間や空間が変わる、

それは他者の立場(社会的・文化的・経済的)を想像することと同じ意味を持っているのではと感じます。



もし、相対性理論なしでカーナビを設定すると現在地よりも11キロずれたところを指してしまいますが、それが

人間同士や他の生命間のなかで実際に起こっている。



自分自身の根をはらずに、他者のことを想像することなど出来ないのではないか、その意味で私も大地に根を

はっていないのでしょう。



一度でいいからオーロラを見てみたいです。






Hama Hiro | あなたの書道名(ローマ字をいれてください)







公開されていないバチカン宮殿奥の芸術

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

美に共鳴しあう生命

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天空の果実