未来をまもる子どもたちへ



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聖フランシスコによせて

1992年11月に書く。





「ASSISI」 Elio Ciol 写真



「賛歌」




眼下に広がるウンブリア平原

視線を妨げるものは何もなく

見渡す限りの田園と荒れ地

それは何千年も変わらぬ風光だった

疲れていた男はある樹の根元に体を休める

何百年もの風雪に耐え抜いた樹に触れると

霊気に包まれ男はまぶたを閉じていった

男は夢のなかで七百年前の世界に降り立ち

フランシスコと呼ばれるひとりの浮浪者の姿を見た



フランシスコは身にボロ布をまとい

草花の中にその日の寝床を捜し

小鳥と戯れる

雨が降れば洞窟に身を隠し

岩の上に体を横たえる

フランシスコはこの世の富をすべて投げ捨てた

だが彼の顔は喜びに満ち満ちていた

街の人々は彼を見ると変人呼ばわりし石を投げつける

しかしそんな時にもフランシスコは笑みを絶やさなかった

ウンブリアの園は彼の声を聞き静かに震えた

フランシスコの唄う歌に小鳥たちはさえずり踊り

フランシスコの祈りの声に花たちはその顔を天上に向けた

しかし樹の根元に崩れ落ちたフランシスコは

目と手を天に上げ叫んでいた

「私はこの世で最も罪深いものです」

この言葉が幾度繰り返されたことだろう



ウンブリアの園は朝日を浴び金色に輝き

男は七百年前の夢の世界から目を覚ました

街の家々の煙突からうっすらと白い灰が棚引いている

生きることに疲れていた男の心は闇に閉じこめられていた

この世に太陽があり

この世に海がある

幼き頃 男はこのものの暖かさを

心行くまで感じていた

しかしいつしか時は忘れさせ

光も灯らない闇へと男は引きずり込まれた

太陽の灼熱の光は人々を飢えさせ

海は幾人もの人々をその腹の中に呑み込んだであろう

救いは何処にあるのか

希望は何処にあるのか

幼き頃花々たちと星々たちと

心行くまで語り合ったのは

あれはつまらぬただの幻想だったのか

男は空ろな眼を樹の根元に落とした

何百年も生き抜いてきた樹の根っこに触れると

樹が男に語りかけてきた



「かつて光りとともにあり

そして光の輪の中で踊った者よ

何故今も光から身を隠しつづけようとするのか

全ての兄弟から離れて

遥か昔 遠く風に乗ってこの地に来た私は一人だった

天水がわが身を濡らすとき

私の涙も共に大地へ吸い込まれていく

私がフランシスコと出会ったのはそんなときだった

フランシスコが祈り 涙した瞳に

その瞳と涙の雫に

あるがままの私が眩しく映し出されていた

その時初めて私に与えられた命

その命の重さに気づいたのだ

私はフランシスコと共に歌い

フランシスコと共に生きた時代をまるで昨日のように想い出す

フランシスコが追い続けた夢

それは私自身の夢ともなった

長い時を生きたこの体が朽ち果てるとき

いまでも風に乗って聞こえてくる彼の歌に合わせて

私も最後の一瞬まで歌い続けていたい」

樹はそう言うと風を起こし一つの歌を唄い始めた



男は後ろ髪を引かれる思いでこの地を後にした

遠くに離れていくアッシジの街

その視界が車窓から完全に消えても

男の眼からあの木の姿が消えることはなく

その耳には生命への賛歌の調べがこだましていた



そのとき男は叫んだ

我が魂よ 力を奮い起こせ

何故

何故このような時に

この目を暗く閉ざしていったのか

光を憎み

宿命という洞穴に身を隠したのか

父なる太陽よ 心に真の勇気を与えたまえ

母なる海よ 顔面に心からの微笑みを湛えさせよ

   生命あるすべてのものは貴方たちの光の輪の中から生まれ   

その慈愛により育まれてきた者なるが故に



ウンブリアの園を見下ろすアッシジの丘

ここに生きるすべてものを愛したフランシスコ

彼は七百年前姉妹なる肉体の死を迎え入れ

あの樹はすでに大地に身を横たえただろう

しかし男は感じずにはいられなかった

彼が死してもその芳香は甘美な世界へと人々を導き

丘で出会った樹の兄弟たちは

今でも太陽の賛歌を歌い続けているだろうことを




祈りの散文詩集



「ASSISI」 Elio Ciol 写真




私が聖フランシスコにひかれたのは、キリストと同じく貧しく生きることに徹した

ということと同時に、限りなく人間以外の他の生命に対して慈愛を持ち、その

存在自体が、彼にとって大きな歓喜であり、感謝の気持ちを起こさずにはいら

れないものであったということによる。全てのものを放棄したが故に、逆にあら

ゆる存在が神の栄光を現わしていると気づかされたのかも知れない。彼が話

し始めると、鳥たちが彼の周りに集まり、じっとその話を聴いていたということ

は、他の生命との間に垣根を作ってしまった現代に生きる多くの人にとって信

じられないことかも知れない。しかし、そんな彼を通して私はカトリックにひか

れていった。これは私の勝手な憶測だが、聖フランシスコは存在そのものの

背後にあるものを感じたのではないだろうか。聖書というフィルターを通してで

はなく、存在そのものの重みに耐える人であったからこそ、鳥たちは何の恐

れもなく、彼の許に近寄ることができたのではないか。自分の存在を何らの

偏見・フィルターを使わずに、あるがままに見てくれる、認めてくれる人であっ

たが故に。そしてそこに創造主への歓喜と感謝があったが故に。・・・・・



彼の眼は真に澄みきった鏡を持ち、何の曇りもなく、あらゆるものを映し出すこ

とができた奇跡の人と言えるかもしれない。しかし、キリスト教は分裂と破壊を

この地上にもたらすことになる。傲慢な人間優位が支配し、他の生命は人間の

奴隷と化してしまう。現代に生きる我々は多くの殺戮・破壊を目にしている。地球

は傷つけられ、未来への子孫に対する責任・義務を放棄しているとしか思えな

いし、また多くの先住民族への迫害は目を覆うものがあったのではないだろう

か。確かに現在のキリスト教(カトリック)は第二バチカン公会議以降、積極的に

に異文化を認め、その中に宿っている霊性を神からのものとして受け止めようと

している。だが、これほどまでにあるべき道から遠く離れてしまったのは何故な

のだろう。人間と他の生命の間に横たわる底が見えない崖は誰が掘ったのか。

イエス・キリストが十字架上で身に受けた五つの傷、そしてその同じ傷を聖フラン

シスコもアルヴェルナ山で受ける。彼の悲痛な祈りに対して、十字架にかけられ

たキリストが現れ、フランシスコは神から目に見える聖なる印(聖痕)を受けた

のである。神はフランシスコを愛し、フランシスコのように、見なさいと言っている

のではないだろうか。それが私たち人間のあるべき姿であると。私にはそう感じ

られてならないのだ。自分の眼に決してフィルターを使わない生き方を神は望ん

でおられるのかも知れない。たとえそれが聖書というフィルターであっても、それ

が存在そのものの姿を覆い隠すものであるなら、それは神から遠く離れている

のではないかと思う。私が教会から離れてアメリカ・インディアンやアイヌなど

世界の先住民族にひきつけられたのは、このような目を聖人だけではなく、多く

くの先住民が共有していた事実に神の息吹を感じていることによるのかも知れ

ない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1997.5.4


 
 

2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)



 

2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。



 

2016年4月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


アイスランド南部にあるセリャラントスフォス(滝)とオーロラ
(写真1枚目はNASAより、それ以外は他のサイトより引用)



1枚目の写真、幻想絵画かなと思いましたが、滝の水しぶきで何度もレンズを拭きながら撮られた写真です。



オーロラのやや右側に明るく輝く星が織姫星(ベガ)、左側に輝く星が彦星(アルタイル)です。



ですから天の川が位置するところにオーロラが出現したんですね。



北欧では死者と生者の世界を結びつけているのがオーロラであり、イヌイットの伝説ではこの世で善い行いを

した人はオーロラの世界へ行けると言われているようです。



死後の世界を意識することによって、初めて生の意味が問われてきたのかも知れません。



それはギリシャ哲学(ソクラテスプラトンなど)よりも遥か太古の世界、ひょっとしたら私たち現生人類よりも

前の人類にも芽生えた問いかけのように感じています。



オーロラなど天球に映し出される様々な現象(太陽、月、天の川、星、彗星など)を通して、人類は異なる次元の

世界を意識し死後の世界とのつながりを感じてきた。



ただ、精神世界の本に良く見られる「光の国(星)からのメッセージ」的な言葉に違和感を感じているのも事実です。



自分自身の足元の大地にしっかりと根をはらずに、ただ空中を漂っている、或いは彷徨っているような感じしか

受けないからです。



アインシュタインの相対性理論、まだ理解は出来ていませんが、それぞれの立場によって時間や空間が変わる、

それは他者の立場(社会的・文化的・経済的)を想像することと同じ意味を持っているのではと感じます。



もし、相対性理論なしでカーナビを設定すると現在地よりも11キロずれたところを指してしまいますが、それが

人間同士や他の生命間のなかで実際に起こっている。



自分自身の根をはらずに、他者のことを想像することなど出来ないのではないか、その意味で私も大地に根を

はっていないのでしょう。



一度でいいからオーロラを見てみたいです。




 

2014年1月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。





「もし私が何か良いことをしたのなら、それらは全て神に帰するように」



この言葉は確か童話作家のアンデルセンの言葉だったと記憶しているが、今の私に欠けているもの、

それを全て現しているといっても過言ではない。



私に限らず人は、自身の名誉や成功に対する称賛の風を、自分の中にしまい込みがちである。



しかしそれでは風はさえぎられ、新たな風を産み出すことはできない。



アッシジの聖フランシスコが好んで唱えた「平和を願う祈り」、この祈りには、自身を「平和の道具」と

して使われることへの揺るぎない自覚が横たわっている。



私に向かって吹いてくる風は、良いものも悪いものもある。



しかしそれらの風が私をすり抜けるとき、また違う風を産み出すことが出来ればと思う。



宗教を問わず、神を信じているか否かを問わず、新たな浄化された風を世界に送り出すことができる

人は、聖なる人なのかも知れない。



現代社会を見ていると、いい風ばかり吹いているとは決して思わないが、一人ひとりが新たな風を

産み出しつづけるなら、きっと世界は変わっていくのだろう。



☆☆☆ 写真は、2012年8月25日の夜明けの光景ですが、まるで不死鳥のようですね。☆☆☆



 


2012年4月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



映画「ブラザーサン・シスタームーン」



アッシジの聖フランシスコは神が創造した全てのものに神の息吹きを感じた、と表現してもいいかも

知れない。しかしサイトでも書いたように、私はその気づきとは違う次元、世界がありのままの姿で

映し出されている次元にフランシスコが立っていたのではないだろうかと感じてならなかった。



純度の高い鏡を持つ者においては、世界に存在するすべてのものが、その存在の重みそのものを

映し出している。



純度の高い鏡、それはアニミズムにも共通している。岩田慶治氏は「木が人になり、人が木になる」

の中で、アニミズムを次のように語り、この鏡の模範を鎌倉時代の禅僧・道元に見いだしている。



☆☆☆☆



「自分が鏡になってそこに天と地を映すといっても、鏡になるための・・・そのために精進努力する

・・・手がかりはない。



しかし、それにもかかわらず、自分のまえに、自分にたいして、天と地ではなくてそれが一体となった

全宇宙が訪れるということは、そのとき、自分がすでに鏡になっていたということである。



いわゆるアニミズム、あるいは本来のアニミズム経験というのは、木の葉のさやぎ、川の流れの音、

あるい草葉の露に全宇宙の規則をみることであって、その経験の時・処において、宇宙との対話が

成立しているのである。



つまり、自分が鏡になって、そこに天地を〈同時〉に映しているということである。」引用終わり。



☆☆☆☆



しかし、この鏡を持つということは別の姿を映し出すことになる。フランスの哲学者でレジスタンスでも

あったシモーヌ・ヴェイユは逆にこの鏡のために、人々の不幸がそのままの重さで映し出され彼女を

苦しめた。しかしそれでも彼女は力強く言う。「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」と。



聖フランシスコにとって心の故郷であった10坪にも満たないポルチウンクラの教会、そこでヴェイユは

生まれて初めて何かの力に逆らえずひざまずく。



自分に何が出来るか、それは決して大げさなことでないかも知れない。公園でガラスの破片が子供た

ちを傷つけないよう拾っている人もまた偉大な聖人だと私は思う。世間から大きな賞賛を受けなくとも、

どれだけそこに心を込めているか。



映画「ブラザーサン・シスタームーン」は私にとって、「ラ・マンチャの男」と並んで生涯大事にし続ける

映画かも知れない。



☆☆☆☆



「太陽の歌」アッシジの聖フランシスコ



神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。

わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。

太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。

わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。

月と星はあなたのけだかさを受けています。

わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。

風はいのちのあるものを支えます。

わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。

水はわたしたちを清め、力づけます。

わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。

火はわたしたちを暖め、よろこばせます。



わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。

大地は草や木を育て、みのらせます。

神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、

病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。

終わりまで安らかに耐え抜く者は、あなたから永遠の冠を受けます。



わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。

この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。

大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。

神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。

第二の死は、かれを損なうことはありません。

神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、    

感謝します。



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年3月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「ひょっこりひょうたん島」

幼児期や思春期に受けたトラウマ(心的外傷)は、まるで自分の影のように張り付いて、死ぬまで

決して離れることはないでしょう。



この不安感や恐怖を背負いながら、そして自分を責め続ける自己嫌悪に陥りながらも、人は生き

ていかなければなりません。



ただ美しい魂や世界が、思い出すことさえ拒否してしまった心の扉を少しずつ開けてくれるのか

も知れません。



私の場合、それは母の眼差しであり、「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」でした。美しいもの

に触れられたから、今の私があるように思います。



そしてこの美を探しつづける旅の道中で、アッシジの聖フランシスコインディアン世界の先住民

そしてシモーヌ・ヴェイユと出会ってきました。



この美を探し続ける旅に終着点はないのかも知れません。



何か湿っぽい話になりましたが、最後に私の好きな言葉を紹介します。リジュの聖テレーズ(幼き

イエズスの聖テレジア1873〜1897)は「薔薇の聖女」と呼ばれ、その生き方は薔薇の香りその

ものでした。



☆☆☆☆



困難なことにあったら、それをくぐりぬけなさい。



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年3月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

奄美にいたときの私。

長崎・佐世保で生まれ、3歳の時に私たち家族は奄美に移り住んだ。



佐世保の近くに黒島という隠れキリシタンが住んだ島がある。成人してからこの島と黒島天主堂

訪れたときの衝撃とそこで与えられた意味は私の大切な自己基盤の一部になっている。



そして奄美大島、そこはシャーマニズム・アニミズムの世界観が残る地であった。幼少の頃はそん

なことなどわかるはずもなく、青く澄んだ海、赤い蘇鉄の実、さとうきび、そして怖い毒蛇ハブが住む

森を身近に感じていた。



「一人で森に入ってはいけない」と何度も言われた。それ程ハブが棲む森は子供にとって恐ろしい

場であった。逆に言うとハブがいたからこそ、昔の奄美の森は人間によって荒らされずに生き残っ

てきたのかも知れない。



ホピ族の有名な踊りに「蛇踊り」がある。砂漠に住む猛毒をもつガラガラヘビなどを多く集め、儀式

するのだが、その儀式の前に長老達は一つの部屋にこれらの蛇を置いて数日間共に過ごすので

ある。そして儀式が済むと蛇たちは丁重に元の砂漠に帰される。



確かに日本でも蛇信仰はあったと思う。母の実家・久留米の家では白蛇がおり家の人たちは大切に

その蛇を扱っていた。私は白蛇を見たことはないのだが何度もその話を聞いて育った。



創世記で蛇がイブを誘惑したことから生じてきたずる賢い悪魔の存在としての意味、そして蛇信仰が

残る地や奄美、両者には決定的な自然観・世界観の違いが横たわっていると感じていた。



前者からは人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然に対しての畏敬を失い森を切り開い

た姿が、後者からは脱皮を繰り返す蛇に、森の再生のシンボルとしての意味を見い出せるかも知

れない。



良くキリスト教は一神教と言われるが、私はそうは思わない。父・子・聖霊の3つの姿が互いに与え

尽くしている姿、三位一体はそのことを指し示しているのではないかと思う。



言葉では偉そうに「与え尽くす」と簡単に言うことは出来るが、それを肌で知り、示すことは私には

出来ない。インディアンの「ポトラッチ」縄文時代での社会的緊張を緩和するために呪術的儀礼や

祭を通して平和で安定した平等主義、「与え尽くし」の社会。



ある意味でキリスト教の真実の姿を体現しているのが先住民族たちなのかも知れないと思うことが

ある。



まだまだ多くの疑問が私の中に横たわっているのだが、長崎・奄美から旅立った私の魂は、ブーメ

ランのように再びこれらの地に戻ろうとしているのかも知れない。



☆☆☆☆



「ガラガラ蛇からサイドワインダー、ヤマカガシまであらゆる種類の蛇がおった。

六〇匹はいたじゃろう。あちこちに動き回って、囲んでいる男たちの顔を見上げ

ていた。男たちは動かず、優しい顔つきで歌っているだけじゃ。すると、大きな

ガラガラ蛇が一人の老人の方に向かい、足をはい登り、そこで眠り始めた。

それから次々と蛇がこの老人に集まり、優しそうな顔をのぞき込んでは眠り始

めたのじゃ。蛇はこうやって心の清い人間を見分けるのじゃよ。」



コアウィマ(太陽を反射する毛皮)の言葉

「ホピ・宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年4月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



モーリス・ズンデル神父(1897-1975)



昨年の12月21日に簡単にモーリス・ズンデル神父の言葉を紹介しましたが、神父はそのユニーク

な思想のため教区を追われ、各地を転々とさせられます。私は神父の生涯を振り返ると映画「ラ・

マンチャの男」を思い出さずにはいられません。



「ラ・マンチャの男」は「ブラザー・サン シスター・ムーン」と共に私の宝物ですが、「ラ・マンチャの

男」の主人公セルバンテスは公衆の面前で教会批判の演劇をし、従者サンチョと共に投獄され、

宗教裁判にかけられます。



獄中で裁判を待つ間、他の囚人がセルバンテスが大事にしていた脚本を燃やそうとしたとき、

セルバンテスは弁明を求めます。



この弁明が「ドン・キホーテ」で、この物語の登場人物の役を囚人一人一人に与え、演劇を通して

自身の潔白を訴えていく物語です。



映画の主題歌「見果てぬ夢」も素晴らしく、いつまでも心に響いてやまない作品です。



話を元に戻しますが、もしズンデル神父が中世に生きていたら、間違いなくセルバンテスと同じ

ように異端として宗教裁判にかけられていたことでしょう。



しかし彼の視点はどこから産まれたのか、それはもしあると仮定するならば、あらゆる宗教の下

に共通の地層(泉)、そこにまで彼自身の根っこが伸びていたのではないかと感じてなりません。



ズンデル神父に限らず他の宗教の偉大な魂はこの根源的な地層(泉)まで自身の根っこを伸ば

しており、その宗教をより洗練されたものへ深めていった。



ズンデル神父で言えば、聖書の言葉に新たな生命を吹き込んだとでも言えるのかも知れません

が、それは聖書の言葉を文字通りに受け取るのではなく、その背後にある真意を汲み取ること

ができたとでも言っていいかも知れません。



勿論、この共通の地層(泉)が本当にあるかどうか私にはわかりません。



ただ、これからも既存の宗教や世界の先住民たちの偉大な魂は、この地層(泉)に触れ、私たち

に新たな生命を吹き込んでいくように感じてなりません。



最後にモーリス・ズンデル神父の言葉を紹介しますが、ズンデル神父がヴァチカンの黙想指導に

招かれたのは死の3年前のことでした。



☆☆☆☆



聴くこと! 何よりも貴い、何よりも稀な、しかし、何よりも必要な行為。いのちの深淵をあかしし

てくれるのは、ただ沈黙だけである。



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年4月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



鳥越俊太郎さんの視点、ジャーナリストの中では数少ない平衡感覚を持った方だと以前から

思っていました。



ふとしたことで、鳥越さんのフェイスブック「ニュースの職人」の質問欄に投稿したところ、その

質問がネットのラジオで放送され、鳥越さんが解説してくださいました。



私の質問の意図は「ジャーナリストに必要な資質とは何だろう」で、それをある事件を例(高尚

なものではありません)として書き込みましたが、この放送の中で鳥越さんが話されたことを以

下に要約してみました。



☆☆☆☆



「事実と真実は違う。ニュースの画面で流れるのは事実だが、それは真実ではない。



真実はいろいろな角度から初めて見えてくるものだが、テレビや新聞のニュースではそれを

伝えきれていない。



私は長い間ジャーナリストをやってきたが、一度も真実を報道したことはないと思っている。



報道は一部の事実しか伝えていない欠陥商品で、私の基本的な姿勢は「報道は疑え」という

ことだ。



それはメディアは締め切りなど時間的な制約があり、事実だけを伝えることが多い。また取材

・編集・報道にそれぞれ違う人間が関わっており、それぞれの場にいる人間の主観によって

伝え方が変わってくる。



その意味でテレビなどの映像は事実だが、真実は伝え切れていないし、新聞も同じである。



真実、それは自分がどんなに真実に迫っていると思っていても、真実は神様しか知らない世界

にある。



それでも私が今までジャーナリストとして目指していたものは、今日は真実を伝えられなかった

が、明日は一歩でも二歩でも奥深い真実に迫ろうとする努力。



これがジャーナリズムの使命だと僕は思う。」



引用終わり



☆☆☆☆



この姿勢はジャーナリストに限らず、自分が信じていること(価値観や宗教も含めて)にも求め

られているのではと思います。



「真実を映し出す鏡」を心に持とうとしても持てるものではありませんし、たとえ手に入れたとし

ても直ぐ曇ってしまうものかも知れません。



しかしそれへと向かう、その方向性を持ち続けることにこそ大きな意味があるのだと感じて

なりませんでした。



(K.K)



鳥越俊太郎「ニュースの職人」チャンネル



 

 

2012年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





40億年後の地球



250万光年も離れているアンドロメダ座大銀河は時速40万kmで、天の川銀河に近づいてきています。



そして40億年後に天の川銀河に衝突します。



そのシュミレーションがこの画像ですが、40億年後の人類、いや人類も進化の過程の通過点だとすれば、

どのような生物がこの光景を目にすることが出来るでしょうか。



私たちとは全く異なる体つきをしているのか、またその心は何を感じているのか。



進化論が正しいにせよ誤りにせよ、何らかの方向性を生物は与えられているように感じるときがあります。



私は古代の人より現代人が科学の面で進化しているものの、自然と人、人と人の絆は逆に退化している

ように思います。



与えられた方向性とは違う軌道を科学がとるとき、生物の取り囲む環境は物質的にも精神的にも混沌の

中に彷徨うことになるのかも知れません。



40億年後の生物、その生物は現在の混沌をさらに深めているのか、それともこのアンドロメダ座大銀河と

天の川銀河の衝突のように再び一つの身体になっているのか。



それを決めていくのは、現在の私たち一人一人なのかも知れません。




(K.K)



 

2012年10月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



(大きな画像)


アッシジの聖フランシスコが亡くなった場所です(1985年アッシジにて撮影)。



本日10月3日(1226年)はアッシジの聖フランシスコが亡くなった日で、現在ではこの場所を

包むように大きな教会が建てられています。



初めてアッシジの駅に降り立ち、そこから眺めたアッシジの丘は神々しく輝き、この丘から

眼下に見えるウンブリア平原はまるで海のように広がっていました。



話は変わりますが、私の高校時代にアニメ「アルプスの少女」が放映されていました。その

中でヤギ飼いのペーターのおばあさんがいつも詩篇のような歌を口ずさんでいましたが、

これが聖フランシスコの「太陽の歌」だと知ったのは随分後のことでした。



私自身幼少の頃から引越しを繰り返していたので、同じような境遇のハイジに共感してい

たのだと思います。



このアニメで使われた「太陽の歌」を下に紹介しますが、大正13年に書かれただけに文語

体で書かれています。ただ私は文語体の響きは好きですし、日本語の美しさが現われて

いると思います。



☆☆☆☆



いとも高く、萬能にして、恵みふかき主よ。

賛美、栄光、ほまれ、すべての恵は主のものなれ

いと高き主よ、こはみな主のものにして、

人はその御名をよぶにも足らず。



讃むべき哉、主よ、主のつくりませる物みなと、

ことに昼を与へわれらを照り輝かす

はらから太陽と。

日は美しく眩しきまでに照り渡る、

かれこそは主の御姿、ああ高きにます主よ。

讃むべき哉、わが主よ、わがはらから月は星は、
  
主はこれをみ空に造りたまひ、すみて貴く美はし。



讃むべき哉、わが主よ、風は、

大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和は

これによりて主はその造りまししものを育みたまふ。



讃むべき哉、わが主よ、やさしきはらから水は

いとやく立ちて、低につき貴く清らかなり。



讃むべき哉、わが主よ、はらから火は

夜のくらきを照らし、

美はし、たのし、たけく、つよし。



讃むべき哉、わが主よ、はらから母なる大地は

われらを育み われらを治め、

木の実を結び、花を装ひ、草を育む。



讃むべき哉、主よ、主の愛によりて人を許し

病にたへて憂き艱を忍ぶものは、

恵あれ主によって静かに耐ふる者に、

いと高き主よ、主の冠はかれにあらん。



ああほむべき哉、わが主よ、はらから死は、

誰か死をのがれん、いけるもの皆は、

いたはしきかな罪の死に亡ぶる者は。

されど讃むべきかな主の聖意にすむ者は、

第二の死も害ふことはあらじ。

主を頌めたたへ、主に感謝せよ。

いとへりくだりて主に仕へよ。



「聖フランチェスコ 完全の鑑 聖貧禮讃」黒田正利訳 より引用



☆☆☆☆



 


2013年6月10日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


「死者のための祈り」(長崎・平和祈念像 写真は1998年1月6日に撮ったものです。)



もう10数年前のNHKの番組で、病院に入院している一人のおばあさんが紹介されていた。



おばあさんの一人娘(小学生)は原爆で亡くなり、それ以降おばあさんは一人で生きてきたが、

当時のことを語ろうとせず、1枚残った女の子の写真を大切にされていた。



時が止っている、そう感じてならなかった。



平和祈念像は神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に

伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めて

作られた。



祈りの想いや手が、自分の外へと向くことができたらと思う。



「主よ、みもとに召された人々に、永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。」

詩篇130



 

 

2013年10月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。





本日10月3日の夜明け(4時46分〜6時38分)の光景です。


本日10月3日は、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」でも有名なアッシジの聖フランシスコ

(フランチェスコ)が亡くなった日ですが、彼がよく唱えていた「平和を願う祈り」を掲載させてい

ただきます。私は頭では素晴らしい「祈り」と感じていても、実際に行動にうつすことができませ

ん。しかし、この祈りを体現できている方は、たとえ世に知られていなくとも、聖フランシスコと同

じようにひとりの聖人であることは確かなことだと思います。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

    憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。


神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。


自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。



☆☆☆☆




 

2014年3月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




(大きな画像)


35年間使い続けているキーホルダー(聖クリストフォロス『旅行者の守護聖人』)



聖クリストフォロス・・・大きくて深い河の渡し人として働いていた巨人の彼は、ある子どもを背負って渡り始めます。しかし

この子どもは河を進むごとにどんどん重くなり、やっとの思いで対岸にたどり着きますが、この子どもこそイエス・キリストで、

彼が感じた重みはイエス・キリストが背負っていた世界の重みそのものでした。



35年前、東京で一人暮らしをしていましたが、このキーホルダーは銀座の教文館に立ち寄り購入したものです。当時の私

にとって3000円位した高価な買い物でしたが、何故か惹きつけられていました。



あれから5回ほど家を移り、その家々の鍵はいつもこのキーホルダーにつながれていましたが、家を出るときは今でも

ズボンのポケットに入っています。



しかしこの35年間、このキーホルダーに描かれた聖像画をじっくり見ることはあまりなかったように思います。中世ヨーロッパ

では旅人たちに信奉されただけではなく、洪水や疾病、そして嵐などから人びとを守護する聖者としても広く祈りの対象となり、

この聖像画を見た者はその日のうちには死ぬことはないという信心もありましたが、それを思い起こすことなど殆どありませ

んでした。



35年間、意識されることなくいつも傍にいたキーホルダー、1週間前から何故かこの聖像画が気になり見つめてしまいます。



3月11日のこともあるのでしょうが、新たな旅立ちを促しているのかも知れません。



話は変わりますが、旅の守護としてインディアン(アメリカ先住民)が大切に使っているものはターコイズ(トルコ石)という

青緑色の石ですが、世界各地にはそれぞれの風土を象徴するお守りがあるのでしょう。



 

2014年8月25日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。


APOD: 2014 August 23 - The Spectre of Veszprem

(大きな画像)


今月8月11日、ハンガリーの都市ウェスプレームにて撮影されたブロッケン現象(写真はNASAより引用)



20階のビルから撮影した人影が写っています。外国ではブロッケンの妖怪(または怪物)とも言われていますが、

日本では御来迎(ごらいごう)や御光と呼ばれています。



この現象は、低い位置の太陽の光が人物などの影を前方の霧などに投影されるとき起こる現象で、山頂で見ら

れることが多いのが特徴です。



話は変わりますが、今から約100年前の1916年〜1917年に、ポルトガルの小さな町ファチマに起こった奇跡を

思い起こしてしまいます。



1917年10月13日、この時の太陽は虹の光を発しながら、火の車輪のように回転したり急降下しましたが、この

現象はファチマとその数十キロの範囲で観測され、新聞でも大々的に報じられました。



ただ、世界的には太陽の奇異な現象は確認されておらず、ファチマやその近郊でしか見られなかった現象

だったようです。



現在ファチマはカトリックの聖地として有名ですが、それ以上のことは詳しく知りません。



 

2015年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。





根拠のない妄想体操にいれこむ私。



20数年前から夜明けの時間に一つの運動をしている。

それはフィギュアスケートのスピンのように、時計回りに21回くるくる回転するのだ。

実は、これは前の大戦で戦闘機パイロットを選抜するための重要な適性試験だった。

くるくる10回くらい回って直ぐに、真っ直ぐ歩くことが出来れば合格、できなければその時点で不合格となる。

勿論、私はその試験にに合格するためにくるくる回っているのではないし、

恒星のまわりを公転・自転する星の境地に立ちたいと願ったりもするが、全く掴めきれないでもいる。



ただ、思考が右や左に流されようとする時に、中心に戻してくれる働きを、この回転運動がもたらしてくれて

いるのではと最近感じることがある。軸がしっかりしている人ほど、右や左の意見に耳を傾けることができる

(私にその力があるかどうか甚だ疑問だが)。

別な言い方をすれば、大地に根をはっていなければ、浮遊病のように空中を漂い、何か強い力に拠り所を

求めざるを得ない。

ヒトラーは、ドイツ全体を覆っていたユダヤ人への反感と浮遊病を巧みに利用したに過ぎない。



私が好きな絵本の一つに「ねっこぼっこ」がある。

著者オルファースは20台半ばで修道院に入るが、第一次世界大戦のさなか34才で亡くなった。

大地の奥深くに視線を落とすことができた彼女の感性、その世界を一人ひとりが宿していたら、

彼女の死からもう直ぐ100年の現代は今と異なった世界だったのかも知れない。


 

厚木市から見た「夜明け」の写真です。




2016年4月6日の夜明け(4時53分〜5時37分)の光景ですが、5日ぶりの朝陽です。

31年前の今日、カトリック山手教会で洗礼を受け、今では疎遠になってしまった教会。

いつか三位一体の互いを与え尽くさずにはいられない意味を感じられたらと思います。

☆☆☆




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