![]() |
![]()
聖フランシスコによせて
1992.11
|
視線を妨げるものは何もなく 見渡す限りの田園と荒れ地 それは何千年も変わらぬ風光だった 疲れていた男はある樹の根元に体を休める 何百年もの風雪に耐え抜いた樹に触れると 霊気に包まれ男はまぶたを閉じていった 男は夢のなかで七百年前の世界に降り立ち フランシスコと呼ばれるひとりの浮浪者の姿を見た フランシスコは身にボロ布をまとい 草花の中にその日の寝床を捜し 小鳥と戯れる 雨が降れば洞窟に身を隠し 岩の上に体を横たえる フランシスコはこの世の富をすべて投げ捨てた だが彼の顔は喜びに満ち満ちていた 街の人々は彼を見ると変人呼ばわりし石を投げつける しかしそんな時にもフランシスコは笑みを絶やさなかった ウンブリアの園は彼の声を聞き静かに震えた フランシスコの唄う歌に小鳥たちはさえずり踊り フランシスコの祈りの声に花たちはその顔を天上に向けた しかし樹の根元に崩れ落ちたフランシスコは 目と手を天に上げ叫んでいた 「私はこの世で最も罪深いものです」 この言葉が幾度繰り返されたことだろう ウンブリアの園は朝日を浴び金色に輝き 男は七百年前の夢の世界から目を覚ました 街の家々の煙突からうっすらと白い灰が棚引いている 生きることに疲れていた男の心は闇に閉じこめられていた この世に太陽があり この世に海がある 幼き頃 男はこのものの暖かさを 心行くまで感じていた しかしいつしか時は忘れさせ 光も灯らない闇へと男は引きずり込まれた 太陽の灼熱の光は人々を飢えさせ 海は幾人もの人々をその腹の中に呑み込んだであろう 救いは何処にあるのか 希望は何処にあるのか 幼き頃花々たちと星々たちと 心行くまで語り合ったのは あれはつまらぬただの幻想だったのか 男は空ろな眼を樹の根元に落とした 何百年も生き抜いてきた樹の根っこに触れると 樹が男に語りかけてきた 「かつて光りとともにあり そして光の輪の中で踊った者よ 何故今も光から身を隠しつづけようとするのか 全ての兄弟から離れて 遥か昔 遠く風に乗ってこの地に来た私は一人だった 天水がわが身を濡らすとき 私の涙も共に大地へ吸い込まれていく 私がフランシスコと出会ったのはそんなときだった フランシスコが祈り 涙した瞳に その瞳と涙の雫に あるがままの私が眩しく映し出されていた その時初めて私に与えられた命 その命の重さに気づいたのだ 私はフランシスコと共に歌い フランシスコと共に生きた時代をまるで昨日のように想い出す フランシスコが追い続けた夢 それは私自身の夢ともなった 長い時を生きたこの体が朽ち果てるとき いまでも風に乗って聞こえてくる彼の歌に合わせて 私も最後の一瞬まで歌い続けていたい」 樹はそう言うと風を起こし一つの歌を唄い始めた 男は後ろ髪を引かれる思いでこの地を後にした 遠くに離れていくアッシジの街 その視界が車窓から完全に消えても 男の眼からあの木の姿が消えることはなく その耳には生命への賛歌の調べがこだましていた そのとき男は叫んだ 我が魂よ 力を奮い起こせ 何故 何故このような時に この目を暗く閉ざしていったのか 光を憎み 宿命という洞穴に身を隠したのか 父なる太陽よ 心に真の勇気を与えたまえ 母なる海よ 顔面に心からの微笑みを湛えさせよ 生命あるすべてのものは貴方たちの光の輪の中から生まれ その慈愛により育まれてきた者なるが故に ウンブリアの園を見下ろすアッシジの丘 ここに生きるすべてものを愛したフランシスコ 彼は七百年前姉妹なる肉体の死を迎え入れ あの樹はすでに大地に身を横たえただろう しかし男は感じずにはいられなかった 彼が死してもその芳香は甘美な世界へと人々を導き 丘で出会った樹の兄弟たちは 今でも太陽の賛歌を歌い続けているだろうことを
|